【37】暁の黄金(4)
文化祭初日、1年D組のクラス演劇「Round Bound Wound」の第一回公演はなんとか無事に終わった。
俺、大町篤が終盤で担う見せ場の長台詞は、プロンプター役の井沢さんの助けを借りて乗り切ることが出来た。
終演後には客席の生徒たちからたくさんの拍手と歓声を受けて嬉しかった。
場内に照明がつくと客席に涙を流している女子生徒もいるのが見えた。この芝居は喜劇なのに何故だ?
舞台写真係の高岡さんはそんな会場の様子を写真に撮りながら、自らも目を真っ赤にしていた。
教室の後方で舞台を観ていた川上は、終演後も無言のまま観客の生徒たちに向かってお辞儀を繰り返し、感謝の意を示していた。
観客が教室から全員出て行くと次の公演に向けてのミーティングが始まった。
俺は母が朝食代わりに持たせてくれたおにぎりを食べながら、川上の指示を聞いた。
川上の大まかな指示は、細かいミスは気にしなくていいから、もう少しテンポを上げて行こう、というものだった。
このまま前だけを向いて突き進め、という方向性を俺たち演者に示してくれた。
俺には一点だけ強調された修正があった。
「大町は『静』と『動』にもっとメリハリをもっとつけろ。
ゆっくり動くときは能楽師みたいに動け。
終盤に台詞回しと動作の速度を上げた時にはもっと速くしてくれ」
とのことだった。
即座に「俺は能楽なんて観たことねえよ!」と突っ込みたかったが、目指すべき所作のイメージがきちんと伝わっていたので川上のディレクションは実に端的で的確であった。
短いミーティングが終わり、数分後に迫った第二回公演の開場に備えて演者は休む。
上田は疲れも見せず笑顔で浮かれている。
「なあ、大町。さっきの公演で最前列の席にA組の下条さんがいたよな。
あの子、女子バレー部なんだよね。ってことは、もしかして普段隣のコートで練習している俺のことがお目当てなのかな?モテる男は辛いぜ!」
ひとりで勝手に盛り上がって照れている。
俺はこいつの常にポジティブな姿勢を尊敬している。
上田が人の悪口を言ったことなど一度もないし、人を褒める時には全力で褒める。笑いを取る時にも他の人を笑い物にするのではなく必ず自分のことを笑ってもらえるように狙っている。ある意味、聖人君子と呼べる人格者なので、普段からくだらない言動ばかりしていても周りの人間の全てが上田のことを慕うのも納得できる。
本当に良い友達を持ったものだ。嬉しく思う。
常にたくさんの気になる女子生徒の挙動を追いかけて楽しそうにして、いつも「ついに俺の時代が来た」と張り切っている。
上田がセミナー合宿へ向かうバスの中で隣の席に座る俺に向かって延々と聞かせ続けた「上田モテない物語」はなんだったんだ。
これだけ面白くて優しくて明るい奴のことを好きだと思ってくれる女の子が今までひとりもいなかったはずがないだろうに。
きっと、上田のことだ、そういう自分のことをそっと見守り続けてくれている心優しい女の子のことをうっかり全力でスルーしているのだろう。多分、そうに違いない。
やがて、第二回公演の開場時間の10時50分となった。
廊下に向けて会場係の生徒の声が響く。
「1年D組のクラス演劇『Round Bound Wound』、間も無く、本日の第二回公演が始まります!よろしくお願いします!」
俺たち4人の演者は下手側の部最袖に身を潜め、上手側の舞台袖には第二回公演でも引き続きプロンプターを務めてくれる井沢さんが控えていた。
開場すると次々に生徒たちが教室内に入って来た。
早速、初回公演の評判が口コミやDINEで広まったのだと思う。
やはり前の方の席から先に埋まって行く。前3列に座っているのは女子生徒ばかりだ。
最前列の中央には1年F組の飯島さんが座っていた。
昨日の体育祭の借り物競走で御指名を受けて俺は連れて行かれ、審査委員の前でお姫様抱っこをさせられて恥ずかしい思いをした。
俺はそれを思い出して赤面してしまい顔を逸らそうとしたが、飯島さんには下手側の舞台袖に控えている演者の姿が見えたようで、こちらへ向かって笑顔で手を振っている。
それを見た上田はのんきにもデレデレした締まりのない顔で飯島さんに向かって手を振り返す。
「ヤベえぞ、大町!俺にもついにモテモテの黄金期が到来したんじゃね?」
とひとりではしゃいでいる。
そんな上田の姿を見兼ねた小海さんは上田の頭を軽く小突いて
「きっとあんたが目当てじゃないよ」
と釘を刺す。
上田の時代がやって来たかどうかは知らんし小海さんの言葉の真意もよく分からんが、それほど親しい訳ではない女子生徒がこちらに手を振っているとしても俺には全く関係ない話だ。
もうひとりのキャストである安住さんはいつもの笑顔のまま
「今回もお客さんがいっぱい入りそうだね」
と嬉しそうである。
舞台袖でそんな会話をしながら開演を待っていると、今回も教室後方の出入り口の方が騒がしい。
客席の様子を覗き見る。
教室内に赤い腕章をつけた自治委員の男子生徒がひとりで入って来た。
短髪で逞しい体格をしており、太い眉毛の下の鋭い眼光は只者ならぬオーラを放っている。
教室の後方、下手側の壁にもたれかかって立っていた川上を見つけると
「自治会長の小諸だ。
クラス発表の巡回に来た。
部長連から1年D組のクラス演劇が一番混み合ってるはずだから気をつけるようにと申し送りを受けたんでな。
なるほど、評判通りの盛況だな。
くれぐれもお客さんを詰め込みすぎてトラブルを起こさないように。
明日からの一般公開が始まれば混雑はこんなものではないからくれぐれも心しておくように。
このクラスは自治委員の者に定期的に巡回しておくように伝えておく。
困ったことがあればいつでも自治会に相談してくれ」
と要件を伝えた。
川上は姿勢を正して背筋を伸ばすと
「どうもお気遣いありがとうございます。
気をつけて公演を続けて行きますが、もしも何かありましたらご相談させていただきます」
と答えて頭を下げた。
川上のその姿を見た小諸先輩は首肯すると、客席の生徒たちに向けて
「それでは、みんな、文化祭を楽しもう」
という言葉を残し、この場から立ち去った。
小諸先輩の迫力に驚いたと思われる上田は
「やっぱ、いつ会っても小諸先輩は怖いよな。
あの横手が廊下ですれ違うたびに毎回、さっきの川上みたいに直立不動になるもんな。当然だよ」
と正直な感想を述べる。
小諸先輩は自治会長だ。
生徒会長・部長連代表と並び、校内で最も偉い3人の学生のうちのひとりである。
俺は小諸先輩のことをよく覚えている。
俺が部活説明会の日に人知れず開催されていた「監禁ドラフト」の対象者として体育倉庫に拘束されていた時に先陣を切って助けに来てくれたからだ。
その場にはラグビー部部長の汐路先輩を筆頭にいかつい体育会系の部長たちが揃っていて、予期せぬ乱入者に対して邪魔だからここから立ち去るよう口々に文句を言っていたが、その集団を相手に
「自治会長の小諸だ。
お前ら、今年の『監禁ドラフト』はもうここまでで終わりだぞ。
この1年生の身柄は自治会が預からせてもらう。
今後の処分については生徒会と部長連とも相談して決めるから、相応のペナルティーを覚悟しておけ」
と啖呵を切って黙らせた。俺に向かっては
「君、大丈夫か?
助けに来るのが遅くなってすまない。
『監禁ドラフト』が開かれるのは毎年のことだから自治会も気をつけていたのだが、今年は校舎の一室にダミーのドラフト会場が用意されていてすっかり騙された。
完全に俺の判断ミスだ。すまない。
あいつらから暴力とか振るわれてないか?」
と気遣い、詫びる気持ちを示すために頭まで下げてくれた。
「先輩、助けてくれて本当にありがとうございます。
お願いですから頭を上げてください。
暴力は一切振るわれてませんし、俺は大丈夫ですから」
と俺の方も頭を下げてお礼を言った。
小諸先輩はその現場に残って事後処理をしなければならないため、俺の身柄は別の自治委員の生徒たちに引き渡されて無事に川上と上田の待っている1年D組の教室に戻ることが出来たのだ。
あれだけの錚々たる顔ぶれと対峙しても一歩も引かなかった小諸先輩は本当にカッコよかった。
後に小室先輩が剣道部の副部長だと知った。
剣道部の横手の話によると剣道部では一番強い選手で団体戦では大将を務めているそうだ。
ちなみに練習中は一番厳しく怖い先輩だが、普段はとても後輩思いで人望のある先輩なのだそうだ。
通常なら武道系の部活では一番強い生徒が部長を務めることが多いのだが、小諸先輩は「俺は人に厳しすぎるところがあるから」と辞退し、別の生徒に部長の座を譲って自分は副部長になったという話だ。
それ以後も小諸先輩は校内で俺を見かけるといつも
「よう、大町、元気か?
また『あいつら』に絡まれたりしてねえか?
その時はいつでも俺に言えよ。
きっちり締めてやるからな」
と声をかけてくれていた。
ある時、俺と汐路さんがふたりで話しているところを見かけて
「お前ら、仲良くなったのか!それは良かった」
とさも自分のことであるかのように喜んでいた。
話している様子から察するに小諸先輩は汐路さんともプライベートでは仲が良さそうだ。
闘う男同士、相通じるところがあるのかも知れない。
初回公演の時の部長連の巡回は俺たちと親しい汐路さんが呼び込んだことだが、今度は続けて自治会にまでマークされてしまった。
うちのクラス演劇の混雑ぶりはそんなに問題視されているのか?
1年生の他のクラスの様子が全く分からないので、他と比較してどれくらい観客を集めているのかという点について俺は判断できなかった。
小諸先輩が去った後も、観客が次々と入ってくる。
ひとりの黒髪の長い女子生徒が入場してくると上手側の舞台袖に控えていたプロンプターの井沢さんが顔を出してその生徒に向けて手を振っている。
井沢さんの友達なのか?
俺が疑問に思っていると上田がいとも簡単そうに解説した。
「あの子はA組の筑間さんだよ。部活は文芸部。
昨日の体育祭で初めて見かけてさあ、一眼見ただけでファンになったよ。清楚なお嬢様って感じで良いよな。
それでいながらリレーで見せたあの見事なスプリント。すごいよね。
今まで俺や川上の情報網からノーマークだったのが不思議だったぜ」
上田と川上の情報網の広さは知っていたが、そこから漏れていた女子生徒にすぐさま飛びついた上田に対して
「お前は英語部の3年生の先輩と文芸部の2年生の先輩のファンだったんじゃないのか?」
と尋ねると、上田はポンっと胸を叩いて
「俺の大きな愛は全ての女子に対して向けられているんだ。だから大丈夫。
しっかし、マジでいいよなあ、文芸部。
飯山先輩、中野先輩、そして筑間さんと綺麗どころが揃ってて。
俺、バレー部と文芸部を兼部できないか後で沢野先生に相談してくるわ」
何が大丈夫なのかはよく分からんが
「あのなあ、うちの高校では兼部は認められてないぞ」
と俺は嗜めるが、上田はまるで聞いていない。
しばらくすると、一人のメガネをかけたポニーテールの女子生徒が入場してくる。
その筑間さんという生徒が手を振って
「先輩、こちらです」
と呼んでいる。
先輩、と呼ばれたその女子生徒がその筑間さんの隣の席に座る。
きっと文芸部の先輩なのだろう。
もしかしてあの人が上田が好きな文芸部の先輩なのか?と思って上田に話を振ろうとしたら上田の様子がおかしい。
「あ!どうしよう、ヤバい、ヤバい」
と不穏な言動が続く。思わず
「どうした?急にお腹でも痛くなったか?」
と尋ねる。今、上田に抜けられると非常にマズいからだ。
「どうしよう、本当に中野先輩が来ちゃった。
えっ、まじで緊張してきた」
と上田はその場で足踏みをしたり深呼吸したりしている。実にしょうもない理由で珍しく上田が緊張しているのを見て、困っている本人には申し訳ないが笑いがこみ上げてきた。
上手側の舞台袖にいる井沢さんの方を見ると笑顔でサムズアップしている。
中野先輩という方が俺たち1年D組の舞台を観るために来場されたのはおそらく井沢さんの差配だな。
「あっれ~?
上田く~ん、カッコいいところ見せるんじゃなかったの?
私も楽しみだなあ、カッコいい上田くんを見られるのが」
と小海さんがからかう。
安住さんも笑顔でそんな上田と小海さんのやり取りを見守っている。
大方、席が埋まってきたので下手側の舞台袖から俺と小海さんは劇中で舞台上に登場する書き割りのドアの裏側に移る。
ドア越しの最初の台詞のシーンが来るまではここで待機だ。
ドアの裏側はプロンプターの声が届かないので、俺と小海さんのドア越しの台詞についてはそれぞれ該当する台本のページが貼ってある。舞台の照明が差し込めばなんとか読めるので助かる。
するとまた、客席から
「え?まじで?”あの先輩”が来てるよ」
「これまた大物の登場だな」
などとざわついている声が聞こえる。
部長連、自治会の次だから今度は生徒会役員でも巡回に来たんだろう。
うちのクラスはそんなに目立っているのか?
まだ初回公演をしただけだし、別に何も問題を起こしていないぞ。
客席で何が起こっているのか書き割りの後ろ側にいる俺からは窺い知ることは出来ないので、とりあえずは舞台に集中だ。
隣にいた小海さんとちょうど目があったのでグータッチをして互いの健闘を称えあった。
客席が静かになるとようやく
「それじゃあ、第二回公演を始めよう」
という川上の号令がかかり、開幕する。
暗転し、教室が真っ暗になる。
程なくしてオープニングの音楽が流れ、舞台が明るくなる。
書き割りの後方にも光が漏れて来る。
俺たちの舞台「Round Bound Wound」の始まりだ。
だが、上田が演じる探偵事務所所長の井上の最初の台詞が一向に出てこない。
「所長!どうしたんですか?
朝からボーッとして」
安住さんが演じる秘書の和久井がアドリブで声をかけて上田の芝居が止まっていることをプロンプターの井沢さんへ伝える。
井沢さんの声に助けられて、井上の一言目
「きゅ、きゅう、求人、ざっ、雑誌で探偵助手の募集をしてもう1年、いや、え~っと、1週間だよ、そうだろ?安住、じゃなかった、和久井くん。
この、あの~、金と名誉のため、じゃなかった、世のため人のために働きたいと志す者はふたりも来ちゃうのかなあ」
ダメだ、上田は完全に舞い上がっていて声が裏返ってしまってるし、ポーズフィラーが多い。終いには「ひとりもいないのかなあ」という台詞を間違えてこの先の展開まで喋ってしまっている。
あいつはここぞという時に弱いな。
そういえば球技大会のバレーボールの決勝戦の前に、「中学3年生の時の最後のバレーボールの大会でも1回戦の途中まで記憶がなくて気づいたら1セット取られてた」と言っていたのを思い出した。
すると、すかさず和久井が
「焦っても仕方ありませんよ、所長。
この不景気ですから、なんでもやります!って気合いの入った人がきっと来てくれますよ。
ひとりくらいはね」
と被せてフォローを試みた。
この行為は台詞の改変になってしまっているが、主演の役者が非常事態なのだ、自作を大切にされる劇作家の津川マモル先生もきっと苦笑いしつつ許して下さるだろう。
その後も井上役の上田の危なっかしい台詞回しが続き、その都度プロンプターの井沢さんが助け舟を出し、和久井役の安住さんの巧みなフォローによって芝居がなんとか進んでいく。
客席の様子は俺には見えないが、きっと別の意味でみんなハラハラドキドキしていることだろう。
今回のうちの舞台を観に来てくれた観客の皆様、本当に申し訳ない。
なんとかたどたどしく井上と和久井が会話を進めて行き、少しずつ芝居が落ち着いてきた。
そして俺の登場シーンとなった。
舞台上に、ピンポーンと呼び鈴が鳴る。
ここから俺の出番だ。
隣に控える小海さんが拳で俺の背中を軽く叩く。
「行ってこい」
という無言のエールだ。
和久井が
「はい、井上探偵事務所です」
と声をかけてくれたので、貼ってある台本をチラッと一瞥して確認してから
「あのー、求人広告を見て面接に参りました。
生憎、携帯電話が故障してしまいまして今は修理に出しており、前もってご連絡することができず、突然の訪問となりまして大変申し訳ございません。
もしもご都合が悪いようでしたら、また出直しますので、ご都合のよろしいお時間を教えていただければ幸いです」
と俺の演じる江神の最初の台詞が上手く出た。
よし行ける!
和久井から
「はい。採用の面接にいらっしゃった方ですね。
どうぞお入り下さい。
今開けますね」
と返事がありドアの鍵が開けられる。
ガチャっという効果音がしたのでドアの鍵が開いたことを確認できた。
俺は川上の指示通りできる限りゆっくりドアを開けて舞台上に出て行く。頭の中ではテレビで少しだけ見たことのある能楽師の動きをイメージしていた。静かで滑らかでゆったりとした動きだ。
「今日は、突然お邪魔いたしまして、申し訳ございません。
探偵助手として雇っていただきたく面談に参りました。江神と申します。
よろしくお願いします」
と舞台上での最初の台詞も初回公演よりももう少しゆっくりと話した。
舞台上には引きつった笑顔の井上と額の汗をしきりにハンカチで拭っている和久井がいる。
和久井はようやく俺が舞台に登場したので少しだけ安堵の表情を浮かべている。
今までひとりで舞台を支えてくれてありがとう。
これからはふたりで力を合わせて頑張っていこう。
そう心に決めた。
このふたりのいる上手の方に体を向けた時に客席に違和感を覚えた。
廊下側にも暗幕カーテンがあって遮光しているのだが、隙間からほのかな光が漏れていた。
その光に映し出されていたのは、壁際で立ち見していた背の高いひとりの女子生徒の姿だ。
アッシュの髪色で特徴的な大きな瞳。
一瞬だったが見間違えようはない。
あれは、俺の彼女の諏訪遥香さんだ。
2年F組の先輩で女子バスケットボール部のキャプテンである。
色々と理由があって周りには隠して付き合っているから、まさか堂々と1年D組のクラス演劇を観に来るとは全く予想していなかったので不意打ちを喰らった。
なるほど、遥香さんの姿が見えたから上田も壊れたのか。
憧れの文芸部の中野先輩、新発見した同じく文芸部の筑間さん、それに加えて、川上と上田のチャットの「学内の美人ランキング」の上位に入っていた遥香さんまで客席に現れたとなっては上田があの体たらくなのも仕方あるまい。
そんな上田が演じる井上は俺の両肩を叩きながら
「君はでかい体をしているね。
何かバスケでもやってたの?」
と相変わらず引きつった笑顔のままで尋ねる。
「いい体」を「でかい体」と、「何かスポーツでも」を「何かバスケでも」と間違えている。
俺の演じる江神は元ライフセイバーという設定なのに、なぜか元バスケットボール選手みたいになってる。
俺が体のでかいバスケ部員だから現実に引っ張られて仕方ないとは言え、酷い演技だ。
津川マモル先生、どうか今回の舞台は観なかったことにして下さい。
客席から失笑が漏れる。
上田はこの公演が終わったら間違いなく川上からお説教だな。
かくいう俺の方も予期せぬ遥香さんの登場で心此処にあらず、である。
とても上田を助けている余裕はない。
今の俺はちょうどタイミング良く要求された通りのさぞかし緊張した表情をしているだろう、と想像できた。
一瞬、次の台詞が完全に抜けたが井沢さんの声に助けられて
「スポーツと言いますか、実は以前、」
とゆっくり話し始めた。川上の指示通り初回公演よりもさらにゆっくり話した。
まさにその時、ピンポーンと呼び鈴が鳴る。
「江神さん、少しお待ち下さい。
珍しいね、来客が続くなんて」
と和久井がインターホンに向かう。
舞台上で精神状態が普段通りなのは和久井役の安住さんだけなのだ。しかし、彼女ももう限界に達しようとしている。
小海さん、頼んだぞ。
何とかしてこのグダグダな舞台を救ってくれ!
「はい。井上探偵事務所です」
と和久井が答えると
「井上探偵事務所さんで雇っていただきたく参りました。
倉田と申します。
お電話では自分の熱い情熱をお伝えしきれないと判断し、直接お邪魔しました。
まだ探偵助手の募集には間に合っておりますでしょうか?
よろしくお願いします」
と小海さんが演じる倉田がハキハキと答える声がする。
和久井はやや困った顔で井上の方を見る。
井上は相当参っているようで、和久井とも目を合わさない。
そして、ひたすら俺の肩や腕を触って体格の良さを確かめている。
これでは井上がただの筋肉マニアにしか見えない。
呆れ顔の和久井が
「所長!どうしますか?
採用希望者がもうひとりいらっしゃってますけど!」
と声を上げる。
迫真の演技だ。
それもそうのはず、和久井を演じる安住さんは舞台上で不甲斐ない主演のサポートを続けていて本当に困っているのだ。
井上は首をひねりながらも
「そうだなあ」
そこで台詞が止まる。
すかさず井沢さんの声が届く。
「この江神くんのマッスルは文句なしに魅力的だが、まだ何も話が聞けてない。
それに、わざわざ面接に来てくれた空手の達人を邪険に扱うのも同じ空手家として私のポリシーに反する。
和久井くん、その方にも入ってもらっちゃっていいよ」
と右手でサムズアップして答える。
無理矢理作っていた笑顔もついには消え去り、井上は必死の形相で台詞を繋ぐ。
だが全然ダメだ。
「フィジカルは文句なしに合格点だが」という台詞を「マッスルは文句なしに魅力的だが」と間違えている。井上がますます「ただのマッチョ好き」になってしまっている。
それと、またネタバレしてるぞ。
まだ舞台上に現れてさえいない倉田のことを「空手の達人」と紹介してしまっているし、井上自身も空手を嗜んでいることを明かしてしまっている。
こいつはもうダメだ。このままでは確実に芝居が崩壊する。
「では開けますね」
と和久井がオートロックを解除すると、ドアがパーンと開け放たれて小海さんが演じる倉田が登場する。
場内にテンポののいい軽快な音楽が流れる。
俺たちは勝手にこの曲を「倉田登場のテーマ」と呼んでいる。
音響担当の遠見さんによると、この楽曲は倉田が着ているTシャツの「学園都市の電撃使い」のアニメにおいて主人公が活躍するシーンで実際に流れる劇伴音楽なのだそうだ。
倉田はライトブルーのTシャツとグレーの短いスカートとクリーム色の短パン、ブラウンのスニーカーという出で立ちで颯爽と登場する。
体育祭では男装した女子生徒たちが競い合うミスター暁月コンテストにクラス代表として出場していた小海さんが、文化祭の演劇では男装ではなくミニスカートで登場したので場内に歓声が湧く。
そんな大いに盛り上がる観客の中の誰よりも俺はヒーロー登場を心から喜んだ。
お願いだ、助けてくれ、電撃使いさん!
倉田は事務所内に入ると、俺には目もくれず、一直線に井上に向かっていきその手をしっかり握ると
「自分は『倉田』と言います。
なんでもやります!
是非とも、井上先生のもとで働かせて下さい!
お願いします」
としきりに頭を下げる。
「倉田」という自分の役名にアクセントをつけて自己紹介している。
うまい。
これは舞台だ、と暗に井上に伝えている。
しかもいつも以上に強く井上の手を握り、大きく振り回している。
落ち着け、と井上に伝えている。
井上は倉田からの激しいファースト・コンタクト驚くが、嬉しそうに見えなくもない微妙な表情で
「井上先生かあ、、、いい響きだ」
とこぼす。
いいぞ、少し落ち着きが戻って来た。
和久井は井上と倉田の間に割って入ると全員で舞台中央よりやや下手側にあるソファーへ座らせようとする。
すると、ようやく俺の存在に気がついた倉田が
「この方も探偵の先生ですか。
初めまして。自分は倉田と申します。
なんでもやりますので、よろしくお願いします」
と俺のことを探偵事務所の先輩だと早合点して一所懸命に挨拶をし始める。
そして、俺にしか聞こえない小声でボソッと
「蹴るよ」
と宣言した。
なんとなく察しが付いたので、俺は自分の台詞を続ける。
「いえいえ、僕は、、、」
と言いかけるが、それを遮って倉田は
「先輩のためならたとえ火の中水の中、自分、体張りますんでよろしくお願いします」
と笑顔でVサインをしている。
この弾ける笑顔でのVサイン。
倉田は、絶対に「やる気」だ!
来客用の上座のふたりがけソファーに腰を下ろす俺と倉田。
そのふたりと向かい合わせに下座に座る井上と和久井。
この席の配置を不思議そうにしている倉田だが、それに構わず井上はぎこちなく
「江神さん、倉田さん、我が井上探偵事務所の求人、いや、募集に応じてくださってありがとうございます」
と来客ふたりに挨拶をする。
いや、そこはいちいち言い直さなくてもいいぞ。そのまま流せ。
そして井上はまたもや引きつった表情に戻って、どちらかひとりしか雇えないという事実を伝える。
すると倉田は
「え?この人は探偵の先輩じゃないんですか?
探偵助手の候補者なんですか?
じゃあもう決まりじゃないですか!
自分にしましょう、井上先生。
さっきから何も喋らないこんな『ウドの大木』なんかよりも自分の方がずっとお役に立ちますよ。
こう見えて、自分は空手三段なんです。
荒事だってこなして見せます!オッス!
よろしくお願いします」
と身を乗り出して井上に迫る。
続けて
「それでは、やはり『物は試し』です。
井上先生に、自分の空手の腕前を観ていただきます。
すみません、先生、一度お立ちいただけますか?」
と元の脚本にはない台詞を喋り出した。
「ええっ、立つの?」
と予想外の展開に井上は驚くが、倉田は
「はい。是非ともよろしくお願いします。オッス」
と押し切って井上を立たせる。
「そこの『ウドの大木』、井上先生が吹っ飛ばないように後ろから支えてくれよ」
と俺に向かってぞんざいに命令する。
俺は当然ながら黙って指示に従う。
井上は当然嫌がって暴れるがここで離したら舞台がこのまま壊れ続けることに直結するので俺は井上をガッチリと羽交い締めにして逃さなかった。
うちの体育祭で随一のパワー系競技Strong Armsで準決勝に進出した俺の腕力で抑え込まれたらもはや逃げられない、と井上は観念したようだ。すっかり大人しくなった。その割に
「これって、むしろおいしくないか?」
などと小声で軽口を叩いている。
俺の捕まえ方が気に入ったようで
「なかなか分かってんじゃないッスか。
それじゃ、自分の必殺技・中段回し蹴りを御披露いたします。
オッス」
と素早く空手の構えをして気合を入れた倉田は目線で俺に指示し、井上の体の向きを少しだけ変えて、体の正面を45度ほど左に向けて修正させる。
利き足の右脚を少し引いて構えると
「よし!
それでは行きます!
セイヤッ!」
と掛け声とともに倉田は井上の腹部に右脚で中段回し蹴りをお見舞いした。「ボフッ!」という鈍い音が教室内に響いた。
倉田の右脚が鞭のようにしなり高速の蹴りが井上の腹部にヒットするとすぐさま脚を引いて元の構えに戻った。まるで空手の「型」の選手の演技のように実に美しく決まった。
ミニスカートの下に短パンを履いているので遠慮せず蹴り込んだようだ。
観客の女子生徒たちが一斉に上げる声が教室内に轟く。
「きゃ~」
かっこいい小海さんを観て喜んだ歓声と、蹴られた上田を気遣う悲鳴が混ざっている。
中段回し蹴りはキックの高さとしては、サッカー用語で言うところのミドルボレーシュートにあたる、と思う。
だが、小海さんは決してサッカーのボレーシュートをするフォームで蹴った訳ではない。
この空手家の倉田という役作りをするために、空手部がうちの高校にないということで、小海さんは夏休みを利用して中府市内の有名な空手道場に体験入門していた。
初心者向けに行われている空手の体験コースであったが、運動神経のいい小海さんは「筋がいいから君なら今から始めても世界を狙える」と熱心にスカウトを受けたそうだが、「自分にはサッカーしかないので」と丁重にお断りしたそうな。
暁月高校女子サッカー部の点取り屋であり、昨日の体育祭の短距離走の三冠女王である小海さんが演じる倉田の強靭な足腰によって放たれた強烈な中段回し蹴りを喰らった井上は、一瞬置いてから
「ゔあ~~~~!」
と言葉にならない叫び声を上げる。
羽交い締めにしていたので井上の体を通じて俺の腹部にも衝撃が伝わった。
もう蹴りも決まったので羽交い締めを解く。
井上は跪き、無言で腹部を抑えて苦しんでいる。
これは決して演技ではない。
涙目になって肩を震わせている。
井上がお腹を抑えたままで黙り込んでしまい台詞が出ないのを見た和久井が
「倉田さんは空手の有段者なのね!
へえ~、人は見た目で判断できないですね。
実はね、うちの所長もこう見えて空手を嗜んでいるんですよ」
と代わりに井上の台詞を喋って芝居を続ける。
素晴らしいアドリブだ。
それに応えて今度は泣きべそをかきながらお腹を抑えた井上がなんとか声を絞り出して
「わ、私が、、、習ってるのは通信制空手じゃないですか。
本物の有段者のく、倉田さんを私と一緒にしちゃ、、し、失礼ですよ」
と今度は和久井の台詞を喋って芝居を続ける。
すごいぞ、このふたりの対応力は!
そして井上はなんとか立ち上がると、衣装のTシャツをめくって自分のお腹を見せる。
蹴られた跡が明らかに赤く腫れ上がっている。
これはかなりキツいはずだ。
よくぞ立ち上がった。俺は心の中でその根性を褒め称えた。
その腹を抑えながら井上は
「いてててて。血が出ちゃった。
和久井くん、絆創膏をちょうだい」
と苦悶の表情で和久井に頼む。
和久井は自分の机に行き、絆創膏を取って来て、井上の腹部に貼ると、痛めた井上のお腹の前で両手の人差し指をくるくるっと回しながら
「痛いの痛いの、飛んでけ~」
と言うと、回していた両手の人差し指を同時に天に向けておまじないをかける。
そして、もう一度
「さあ、皆さんも是非ご一緒に!」
と客席に声をかけると、客席の生徒たちと声を合わせて、両手の人差し指をくるくる回して
「痛いの痛いの、飛んでけ~」
とおまじないをかけて井上を励ます。
それに応えて井上は
「和久井くん、腹はめっちゃ痛いんだけど、お客さんの前では、って言うか、お客さんと一緒にとか、流石に、やめてくれないか。
恥ずかしいよ」
とトーンを落としながら愚痴る。
「お客さんと一緒にとか」とうまくアドリブを加えて返した。
客席から爆笑が起こる。
すると倉田は
「井上先生、通信制でも空手家は空手家です。
空手家同士、一緒に頑張っていきましょう!
これからは自分も一緒に『痛いの痛いの、飛んでけ~』を和久井さんと一緒にしますから鬼に金棒です。
自分の中段回し蹴りを受けたってへっちゃらですよ」
とアドリブで最後の一文を加えて返す。
またしても客席から爆笑が起こる。
その後も、芝居は続くのだが、倉田の強烈な中段回し蹴りが相当効いたのか、ショック療法で井上はいつもの調子を取り戻した。
倉田の猛烈なアピールが続き、俺の演じる江神は何も話させてもらえない。
俺はほとんど喋らないがなんとか芝居が続いている。
頑張れ、井上!
舞台上の4人とプロンプターの井沢さんが力を合わせて、さらには観客の皆様の力まで借りてなんとか中盤の見せ場である江神と倉田の三番勝負も無事に演じ切った。
復調した井上と快心の蹴りを一発決めてスッキリした倉田が舞台上で所狭しと暴れ回ったのを観て客席が沸いた。
そして舞台は終盤を迎えた。
倉田は俺との三番勝負には敗れたもののがむしゃらな猛アピールが実り探偵助手として雇用されることが決まり、俺には自分が雇われないことを伝えられた。
それを聞いた俺は静かに
「そうですか。
仕方ありませんね。
どうもありがとうございました」
と深々とお辞儀をして事務所を後にしようとする。
和久井は自分の机から各種書類を持ってきて倉田に渡し、ソファに腰掛けたままの井上と倉田は実際の勤務に関して話し合いを始めた。
和久井は井上から指示を受けて交通費を包んだ封筒を俺に渡そうとするが、俺は断じて受け取らない。
俺と和久井が揉めている途中で一本の電話が入る。
ちょうど固定電話の置かれた和久井の机の近くに立っていた俺がゆっくりと電話へ向かって歩いて行き迷わず受話器を取る。
そこから俺が演じる江神の見せ場である怒涛の長台詞が始まる。
小道具の受話器を取ったが、当然そこからは何も聞こえない。
横目でチラリと上手側の舞台袖を見ると心配そうな顔をした井沢さんが台本を手に俺の動向を見守っている。
今回も頼むぞ、井沢さん。
俺は長台詞に挑む覚悟を決めた。
受話器を手にしたまま舞台から客席の方を向いた瞬間に、客席にいる遥香さんと目があった。
俺のことを信頼している。心配はしていない。
そんな自分の思いを込めたような熱い眼差しだと感じた。
夏休みの終わりにふたりで「劇団:真珠星」さんの舞台「かもめ」を観に行った後で、初めて一緒に外食をした。
その時にうっかり
「最後の長台詞が」
と漏らしてしまい、遥香さんに
「そのネタバレは聞きたくなかった」
と釘を刺された。
劇の終盤に俺の長台詞があることを遥香さんは知っている。
俺がそのシーンを演じる自信がないことも遥香さんは知ってしまっている。
だが、この時の遥香さんの瞳は「篤くんならやれる」と強く訴えていた。
ならばやってやろうじゃないか!
あなたが好きになってくれたこの大町篤という男がどういう人間なのか、遥香さんに見せてあげなければならない。
大丈夫だ、安心して見ていてくれ。俺は絶対に自分自身に負けない。
「はい、井上探偵事務所です。
え?
はい?」
と長台詞が始まる。
俺の視界から舞台のセット、他の演者、客席の生徒たち、余計なものが全てが消えた。
遥香さんが真っ直ぐ俺のことを見つめている眼差しだけしか感知できなくなった。
その視線の主に俺の全てを届けることだけを考えて俺は喋り続けた。
気付いたら、俺は探偵事務所の出口のドアノブに手をかけていた。
井上が俺にしがみついて引き止めている。それも両腕で必死に全力を出して俺の腕を引っ張っている。
「ちょっと、ホント、マジで、待って!、くださいって、もう、江神く、、、さん。
鈴木一郎って、、、それ、絶対に、、偽名だし、
謝れとか金払えとか、、詐欺だし、
相手、絶対、、マジで怖い人だし。
そんなの撃退しちゃうとか、、、俺よりすげえし!
はい、わかりました。
あなたも採用です!
いや、お願いします。
ぜひここで働いてください!」
井上は涙目になっていた。
井上はなんとかパワー負けせず俺を引き止められたのを確認できてホッとした表情になると姿勢を正してから深々とお辞儀をする。
俺はそのまま無言でそんな井上を見つめる。
どんな表情をしていたのかは定かでない。
そのまま暗転し、終幕となる。
また”アレ”だ。
芝居がうまく行ったのかどうかは俺には分からない。
真っ暗な舞台上に立ったままでいたので上田と小海さんに背中を押された。とりあえず一緒に下手側の舞台袖に下がる。
真っ暗な教室の中に静寂が訪れる。
しかし、それもつかの間、何かが弾けたかのように教室内に溢れんばかりの拍手が鳴り響いた。
「良かったよ~!」
「大町く~ん!」
「小海さ~ん!」
「安住さ~ん!」
「大白かったぞ~!」
「上田~、生きてるか~?」
演者の名前を呼んだり舞台の出来栄えを称賛したり上田の身を案じたりする声も聞こえて来た。
舞台に灯りが灯った。
カーテンコールだ。
まずは女性から。安住さん、次に小海さんが舞台に上がる。
小海さんは舞台上で空手の構えをして「オッス」と気合いを入れる。
客席から女子生徒たちの黄色い声援が上がる。
次は俺か、と行こうとすると上田が俺の腕を引っ張る。
「大町、俺はもうダメだ。
腹が痛すぎて動けん」
と弱音を吐いている。
暗がりなので顔色は窺い知れないが苦しそうだ。
小海さんのあの蹴りはそんなに効いていたのか!
舞台の序盤でこれほどのダメージを負いながらお前はその後も1時間近くも演技を続けたのか?
大した役者根性だ。
舞台上では安住さんと小海さんが俺たちに向かって手招きしている。
「お前が小海さんの蹴りを受けて辛いのは分かった。
だが、主役のお前が出ていかないとこの舞台は終わらない。
俺が支えるから一緒に行くぞ」
そう伝えると俺は上田に肩を貸し、セミナー合宿の行きのバス移動でのトイレ休憩の時のように上田の体を支えて運び舞台の上へ連れ出した。
客席からは爆笑が起きた。
続けて
「上田! 上田! 上田! 上田!」
と謎の上田コールも場内に湧き上がってきた。
すると、上田は俺を振り払って
「上田は皆様の声援のおかげで見事に復活しました!」
と両腕でガッツポーズを見せた。
また爆笑が起きた。
すると、小海さんが
「大町くん、ちょっとお願いできる?」
とウィンクして俺に声をかけてきたので、すかさず上田の後ろに回り込んでそのまま羽交い締めにした。
先ほどと同じ体勢になると小海さんが構えた。
「小海! 小海! 小海! 小海! 小海!小海!」
と会場全体から先ほどの上田コールよりもさらに大きな小海コールが沸き起こった。
上田は今度こそ逃れようとして全身を使ってもがくが
「今回はお前、とことんおいしいなあ」
と声をかけて俺は全力で抑え込む。
小海さんは
「それでは行きます!中段突きです。セイヤッ」
と今度は腹部に右中段突き、ではなくお腹に優しくグータッチをした。
場内に安堵の声が漏れ、続けて爆笑が起こった。
そして、今度は安住さんが
「さあ、皆さんも一緒に~。
痛いの痛いの、飛んでけ~」
と声をかけて観客の生徒たちと一緒におまじないをかけた。
俺が手を離すと上田はすかさず腹部を触って確認して
「あれ?全然痛くなくなった。
みんなありがとね~」
と客席に向かって手を振りながら笑顔で下手側の舞台袖に下がっていった。
そして客席からは死角になっている奥に入るとそのまま腹を抑えてしゃがみ込んでいた。
舞台上に残された3人はそれを横目で見ながら、互いに顔を見合わせてアイコンタクトで上田のその姿を見てないフリをしつつ笑顔で下手にはけることにした。
途中で小海さんが
「それでは灯りをつけて下さい。オッス」
と声をかけたので、そのまま教室が明るくなった。
今回はアンコールは無理だ。上田はもう立ち上がれない。
この舞台は喜劇なのだ。とてもお客さんたちに上田のこの惨めな姿はお見せ出来ない。
客席からは拍手が続き、俺たち演者の代わりに井沢さんが上手袖から舞台上に上がり、客席に向けてお辞儀をしてお礼をしていた。
さすがは井沢さん。良い対応だ。
それでもまだ客席の生徒たちがなかなか席を立たないため、会場係から
「第二回公演はこれにて終了です。
どうもありがとうございました。
第三回公演の開演はお昼休みの後、13時10分からです。
入場開始時間は13時からとなります。
次の公演もよろしくお願いします。
もしも気に入ってくれた方は、テアトル大賞の投票の方もよろしくお願いします」
というご案内が入った。
これも良い判断だ。
おそらく川上の指示だろう。
拍手の音が徐々に収まり、お客さんが帰っていく声がする。
口々に
「面白かったね」
「また観に来ようよ」
「上田、大丈夫かなあ?」
「小海さん、容赦ねえなあ」
とそれぞれに感想を語り合っていた。
安住さんは心配そうに上田の背中をさすっており、小海さんは
「ごめん、やりすぎちゃった」
としきりに上田に謝っている。
俺が舞台袖から客席を覗き見ると既に遥香さんの姿はなかった。
ほとんどの観客が教室から出ていく中、ひとりの黒髪の長い女子生徒が舞台上の井沢さんに駆け寄ると何やら熱心に話しかけていた。とても真剣な表情で井沢さんへ何かを訴えて続けており、井沢さんは笑顔でそれをなだめ続けていた。
ポニーテールの女子生徒もそれに付き添っていた。
しばらくすると、井沢さんがその長髪の女子生徒から何か白い紙袋のようなものを受け取っているのが見えた。その後、その生徒は井沢さんに丁寧に何度もお辞儀をして舞台の前から去って行った。
井沢さんも下手側の舞台袖に駆け寄って来た。
「上田くん、大丈夫?」
井沢さんは一言目に上田のことを心配した。
しゃがみ込んだままお腹を抑えた上田は、その体勢のままでサムズアップをしていた。
全然大丈夫じゃなさそうだ。
すると、井沢さんは先ほどの終演後の舞台上での顛末を伝えた。
「文芸部の筑間さんからお薬を預かってきました。
筑間さんのおうちは開業医で学校祭で軽い怪我をした生徒のためにとお父さんからお薬を渡されているそうです。
湿布と痛み止めね。
湿布は肌に合わないとかぶれるし、痛み止めの飲み薬は体に合わない人に飲ませると副作用とかアレルギーが出る可能性があるから、上田くんに合わない薬とか薬のアレルギーがないかどうか確認したい、可能なら電話でご両親に御同意を取りたいと言って聞かなかったんだけど、苦しがってる上田くんの姿を見せる訳にはいかなかったから、その点は必ず私が確認する、と約束してとりあえず私が薬を預かって来たの。
上田くん、合わない薬とか薬のアレルギーとかない?」
そう事情を説明した。
すると、上田は急に声に力が蘇り
「あの清楚系お嬢様の筑間さんが俺のために薬を差し入れしてくれたのか!
はい、大丈夫です。
このアイアンボディー上田は薬なんかには負けません。
全部飲みます。全部貼ります」
と薬の袋を受け取った。
小海さんの中段回し蹴り一発でフラフラなのに何が「アイアンボディー上田」だよ。
だが、上田が息を吹き返したのは事実だ。
「あ~、この湿布とこの痛み止めの錠剤ね。
前にバレーで怪我した時に整形外科を受診して出されたことあるよ。どっちも使ったことあるから大丈夫だよ。その時に問題なかったし。
でも、うちの親に確認を取らないと筑間さんに迷惑がかかるんだよね。
わかった。
誰か俺の鞄を持って来てくれ、ロッカーの鍵は開いてるから。ちゃんと母ちゃんに電話するわ」
上田は理性を取り戻し、意外にもテキパキと受け答えをした。
俺は無用心にも鍵が開けっぱなしの上田のロッカーから鞄を取って来て上田に渡す。
上田はスマホを取り出すとすぐに家に電話をした。
大きく深呼吸してから上田は話し出す。必死に痛みを隠しているのが分かる、
母親らしき相手に自分が軽い怪我をしたこと、他の生徒から薬を渡されたことを伝え、渡された薬の名前を挙げてそれを使っても良いか確認を取った。
しばらくすると
「うん、わかった。お薬手帳にも記録が残っていて、大丈夫だったんだね。
母ちゃん、悪いけど、同じ説明を友達にもしてくれないかな?
そうしないと薬をくれた子が心配するから」
と話してスマホを井沢さんに渡した。
いきなりスマホを渡された井沢さんは驚きつつも
「初めまして、上田くんのクラスメイトの井沢と申します。
はい。はい。この飲み薬と湿布は上田くんに使っても大丈夫なんですね。
分かりました。どうもありがとうございます。
上田くんに代わりますね」
とスマホを上田に返した。
上田は
「母ちゃんありがとう。
じゃあ切るよ」
と電話を切った。
上田はまたお腹を痛そうに抑えながら
「ってことで早速痛み止めを飲むし、湿布を貼るよ。
井沢さん、悪いけど筑間さんにこのことを伝えといて」
そう伝えると、薬の入った袋を手にする。
井沢さんは早速スマホを取り出して電話をしている。相手は筑間さんだろう。
「袋には痛み止めは1回1錠で、飲む間は8時間以上あけてください、って書いてあるね。分かったよ。
誰かお水か何か持って来てくれない?」
今度は安住さんが前もって用意してあったはずの演者用のミネラルウォーターを取りに行ってくれた。
それを待っている間に、電話し終えた井沢さんから
「稜子ちゃんにはちゃんと伝えたよ。お母さんにちゃんと確認したのことを聞いて安心してたから大丈夫。それと『お大事になさってください』って。
それから、中野先輩が電話を代わってくれて『とても面白かった』って言ってたよ。
あの人が他人を褒めるのは珍しいから素直に喜んで良いよ。
中野先輩も『お大事に』とくれぐれもよろしく伝えて欲しいって言ってたよ」
と文芸部のおふたりとのやり取りが伝えられた。
上田は
「うっしゃー!」
と雄叫びを上げると、案の定
「いてててて」
とお腹を抑えた。
痛み止めを飲んだ後、せめてものお詫びに、と小海さんが上田の腹に湿布を貼っていると、川上が合流した。
先に、音響係、照明係、会場係と打ち合わせをして来た、とのことだった。
川上は今まで見たことのないほどの険しい表情で
「次の上演は13時10分からだ。
上田、行けるな」
と確認した。
その厳しい眼差しが問答無用で「行け!」と命じていた。
二つ返事で
「もちろん、行けるぜ」
と上田は答えた。
「次に舞台監督としてのコメントだけど、まず上田。
言わなくても分かっているよな」
と川上はさらに確認した。
「ああ、分かってる。
もしまたあんな風にふざけた芝居をしてたら、小海さん、大町、また頼むわ」
と即答した。
上田は本当に根性がある。
「安住さん、序盤のピンチをアドリブで切り抜けてくれてありがとう。
安住さんが舞台上にいてくれて本当に助かった」
と川上は頭を下げる。
「そんなそんな」
と安住さんは恐縮する。
「小海さん、大町。
阿吽の呼吸で芝居を引き締めてくれてありがとう。
ここまでひどい状態の舞台を立ち直らせる方法を俺は思いつかなかった。
今後も助けてもらうことになると思う。
舞台上で俺の想定の範囲を超える事態が起こった時にはまた力を貸してくれ」
そう言って川上は俺と小海さんにも頭を下げた。
俺も小海さんも無言で頷く。
「さて、反省会はここまでな。時間がもったいないから。
次の舞台へ向けての修正点だが、、、」
と川上はひどい有様だった序盤の演技ではなく、流れが良くなった中盤以降の演技について修正を加え始めた。
舞台では予期せぬトラブルが起こる可能性がある。
その対応については俺たち演者に任せることにし、川上は舞台監督として演出プランの改善に専念することに決めたようだ。
川上との打ち合わせは10分ほどで終わり、昼食となった。
上田は珍しく井沢さんと安住さんと高岡さんと一緒に弁当を食べている。時々お腹が痛いのか顔をしかめるがそれにも関わらず弁当をもりもり食べているから大丈夫だろう。
「筑間さん、マジ天使」
とか言ってるのが聞こえてくるから恐らくもう大丈夫なのだろう。
それにしても飲み薬の鎮痛剤ってこんなに早くしかも強力に効くんだっけ?
恐らくは「プラセボ効果」って奴だろう。何にせよ文芸部のふたりの部員のおかげで上田は復活して今後も舞台に上がれそうだ。心から感謝したい。
川上は台本を片手にひとりで弁当を食べているのでまだ演出プランで迷っているところがあるのだろう。そっとしておこう。
質問が来たら意見を言えば良いし、指示が出たらそれに従えば良い。
俺は鞄の中から、チェーホフの「かもめ」の文庫本を取り出してしばし遥香さんとの観劇の思い出に浸った。
あっ、だめだ。こんなことしてる場合じゃない。
第二回公演での俺の長台詞の出来栄えがどうだったかを川上に確認しなくては。
俺は「かもめ」を鞄に入れると川上のところへ行き、先ほどの自分の演技についての意見を求めた。
俺からの詰問が意外だったのか、驚いた顔をした川上は、ただ一言
「完璧だったよ」
とだけ口にし、また台本に意識を戻した。
ホッとした俺はひとりで弁当を食べながら、この文化祭の期間中に果たしてこの先あるかどうかすら分からない自由時間に観て回る出し物をチェックするために文化祭のパンフレットを鞄の中から取り出して眺めた。
なんとなく違和感がある。
しかも既に付箋が貼ってあるページがある。
自分で文化祭の出し物のチェックなんてしたかなあ?と疑問を持ちながらそのページを開いた。
そのページに印刷されていたのはこの演目。
○2年C組
演劇:「輝く夕焼けを眺める日」<作:佐倉真莉耶>
<スタッフ>
・脚本:佐倉真莉耶
・舞台監督・演出:長和章一
・衣装:相木真奈美
・舞台美術の責任者:尾方剛志
<キャスト>
・エヴァリスト(大学生):大槻新一
・アルベール(小説家) :北森和夫
・ノエミ(映画監督) :富沢直子
・シャルル(俳優) :白根友和
・エマ(歌手) :敷島浩子
<あらすじ>
:一軒家を借りて、共同生活をしている男女4名。
小説家、映画監督、俳優、歌手それぞれの夢を追って生きている。
ある年の春に一人の大学生が入居する。
それによって揺れ動く若者たちの友情や恋愛感情。
青春の日々の先にあるものは、、、。
(文:長和章一)
・
あれ?この演目紹介には見覚えがあるぞ?
もう一度表紙を見直すと、「20XX年」と表記されている。
今年は20XY年だからこれは去年のパンフレットではないか!
表紙の色も違う。第一回公演の前に井沢さんに見せてもらった今年のパンフレットは若草色だったが、これは水色である。
それに加えて毛筆で書かれた「暁月祭」の文字の筆跡が違う気がする。先ほど井沢さんのパンフレットは太い筆を使ったと思われる力強い文字だったが、こちらは細い筆を使って柔らかな草書体で書かれている。
この「暁月祭」という文字は決められたロゴではなくて毎年新しく書き直しているのか?
表紙に描かれた線画も今年のパンフレットは、確か「馬に乗った人たちが草原を駆けていく姿」だったと記憶しているが、このパンフレットの表紙は「麦わら帽子を被った少女が海辺に佇む後ろ姿」が描かれている。絵のタッチも異なる。今年は若草色だからモチーフが草原で、昨年は水色だから描かれたのが海辺の光景なのかな?
淡い色合いの表紙、毛筆で書かれた題字、表紙を飾る線画という全体の基本コンセプトは一致しているが、このパンフレットは井沢さんに借りたものとは全くの別物であった。
以前、姉貴にもらった去年の文化祭のパンフレットを間違えて鞄に入れてしまったようだ。
何せ、今朝は大いに寝坊をしてしまい慌てて家を出たから仕方あるまい。
今朝寝坊した原因は前の晩に遥香さんとのメールのやり取りをしていてうっかり夜更かししてしまったからだ。
俺は遥香さんが絡むとついつい惚けてしまいボーっとしてしまう。
でも、今回の舞台はうまく演じ切れたので良かったと安堵している。
文化祭中は一度も会えないのだろうと諦めていた遥香さんに会えた喜びと遥香さんの熱い眼差しを思い出し、俺の体に熱い血潮が漲ってきた。
火照った顔を誤魔化すために顔を洗おうと俺は洗面台を目指して廊下へ飛び出した。
(続く)




