【34】暁の黄金(2)
今日は体育祭だった。
暁月高校の学校祭である暁月祭は5日間あるが、その初日である。
俺、大町篤はD組ブロックを代表してアームレスリング大会Strong Armsに出場し、1年D組の代表としてクラス対抗リレーに出場した。
出番はそれだけだと思っていたが、借り物競走で2回も御指名を受けて恥ずかしい思いをした。
だが、俺の彼女である諏訪遥香さんの晴れ姿も見られたし、柔道部の平島先輩やラグビー部の漆木先輩とも知り合うことが出来たので総じて見れば良い1日であったと思っている。
Strong Armsに関しては、学祭前に両親や姉貴にとても心配をかけてしまったので、夕食の時間にその一部始終を報告した。
俺の戦績のことよりも、体育祭のStrong Arms本戦では誰も怪我をしていないことを知り、両親はホッとしていた。
普段は食事中にあまり口を開かない姉貴であったが、ただ
「あっそ。盛り上がってよかったね」
とだけこぼしていた。
表情から察するに「私も観に行きたかった」と言いたげであった。
俺は「アームレスリングという男と男の真剣勝負などというものを姉貴が観ても楽しくなかろうに」とは思ったが、とても疲れていたので、余計なことを言って姉貴に絡まれないように黙っていた。
そんな感じで家族への説明義務も果たしたので、俺は夕食後にシャワーを浴びたらさっさと寝ることにした。
翌日から文化祭があり、俺は舞台で芝居をしないといけないのだ。
疲れを次の日に残さないために早めに寝ようとしていたのだが、寝る前に「念のため」にとメールチェックをしていたら、遥香さんから短いメールが来ていた。
「お疲れ様」という言葉とともに「かっこよかったよ」と褒めてもらえた。
俺も「遥香さんこそ、応援団長にミスター暁月コンテスト二連覇、格好良かったです」と伝える短いメールを送った。
ほんの短いやりとりのはずであるが、俺はどうも遥香さんと関わると呆けてしまうようで、メールを送信し終えた時にはすでに深夜0時を過ぎていた。
翌朝、目が覚めると、いつもバスケ部の朝練のために起きる時間より1時間以上も寝坊していた。
目覚まし時計をセットし忘れていたらしい。
うちの親は子供の自律をモットーにしているので、俺がもし寝坊していても決して起こしには来ない。
当然、姉貴も見て見ぬ振りである。
慌てて制服に着替えて部屋を出ようとしたが、ふと机の上にチェーホフの「かもめ」の文庫本が置いてあるのに気づいたので、鞄に入れた。神西清訳のスピンのついた文庫本だ。
夏休みに遥香さんと一緒に「劇団:真珠星」の舞台「かもめ」を観に行った際に、劇場へ向かう前に立ち寄った書店で購入し、当日券を買うために並びながら途中まで読んでいた読みかけの本だった。
学校祭の間はなかなか遥香さんと会うことができないので、その代わりに、と思い出の品を鞄に入れておくことにしたのだ。
やはり好きな人と会えないのは寂しいのだな、と自覚した。
「遅刻するからもう行くわ」
と母に声をかけて、家を出ようとすると、玄関で母が
「お弁当はちゃんと持って行きなさい。それから、お腹が減ってたらお芝居なんてできないでしょ?」
といつも通りの弁当箱と一緒におにぎり3つが入ったプラスチック容器を渡してくれた。
弁当とおにぎりを受け取って鞄に入れると
「ありがとう」
とお礼もそこそこに慌てて家を出た。
玄関に靴がなかったから、姉貴はすでに登校したのだろう。
姉貴の通う玲成高校の学祭は数週間後なので今日は通常授業のはずだ。
全速力で走って私鉄の府島線・伊那川駅へ到着すると、ちょうど中府駅行きの急行がホームに入ってきているところだった。
満員電車であったが、なんとか俺一人が入るくらいのスペースがあったので「すみません」と周りにお詫びをしながら乗り込むことができた。
これならギリギリ遅刻せずに済みそうだ。
中府駅で降りると、また周りに迷惑をかけない程度に走って地下鉄に乗り、高校の最寄り駅で降りるとまた全力疾走。
学校まで続く坂道がなかなかキツいが、俺はバスケ部員なのでこれくらいの負荷には慣れている。
遅刻覚悟でのんびりと坂を登っていく生徒たちから
「あれ、D組の大町じゃねえか?」
「大町、今日も爆走しているなあ」
などと囃されたりしたが、昨日あれだけ目立ったので仕方あるまい。
構っている暇がないから、俺は全速力でひたすら教室へ向かった。
幸いなことに朝のホームルーム開始の5分前には教室に到着できた。
やはりクラスのみんなはすでに教室に集まっていた。
舞台に上がる者以外は、全員が文化祭用にクラスで作ったお揃いのTシャツを着ていた。
色はD組ブロックのチームカラーであるワインレッドで、左胸に黄色で「1-D」と印刷され、背中には三段に分けて「Round」「Bound」「Wound」と「劇団:津川塾」さんのポスターに使われていた白いロゴが入っている。
ワインレッドは俺の好きなクリーブランドのチームカラーなので、みんなの姿を見ているだけで燃えて来た。
遅刻の常習犯である川上もこの日ばかりはすでに教室にいて、
「大町、遅かったな。
じゃあ演者のミーティングを始めるか」
と舞台の打ち合わせを仕切り始めた。
ちなみに川上は衣装係の羽村さんが演者の衣装と一緒に選んでくれたアニメ「ブルー・サブマリン」のターコイズブルーのTシャツを着ていた。胸の部分に自分のサッカー部での背番号「02」が入っているからお気に入りなんだろう。
俺は部室に着替えにいく時間がないので、一応は客席側から死角になっているはずの舞台袖で汗を拭き、衣装に着替えさせてもらった。
母が作ってくれた朝食用のおにぎりは第一回の上演後に食べよう。
上田、安住さん、小海さん、俺、というキャスト陣と舞台監督の川上が集まってミーティングを始めようとしたところへ、井沢さんが現れた。
井沢さんは羽村さんに選んでもらった、川上と同じくアニメ「ブルー・サブマリン」に登場した胸に「万年補欠」「代役」と書かれたTシャツを着ていた。
若干照れ臭そうだったが、せっかく羽村さんが選んでくれたTシャツだから、と文化祭の当日にも着ているのだろう。
いかにも井沢さんらしい心遣いだ。
井沢さんは
「ごめん。文芸部の準備を手伝いに行っていたから」
と謝っていたが、
「いや、こっちは今集まったばかりだから大丈夫だよ」
と川上は答えた。
俺の遅刻や井沢さんの行き違いをいちいち責めたりしないところがあいつの優しいところだ。
家から学校までの強行軍のせいで台詞が抜けていないか?と心配だったので、井沢さんに
「井沢さん、マジで頼むよ、プロンプター。
井沢さんだけが頼りだから」
と片手で拝んでお願いした。
舞台で役者が台詞を忘れた時には、舞台袖にいるプロンプターが助けてくれることになっている。
上演中は必ず教室にいることを自ら志願した川上と演出助手の井沢さんがその役目を担ってくれる。
「最初の舞台は客席側から見たい」という川上の尤もな意向もあり、第一回目の舞台のプロンプターは井沢さんが務める。
舞台で台詞を喋ったことのない「木の役に定評のある大町」にとっては救いの女神である。
よろしく頼みます、神様、仏様、女神様、井沢様。
俺たちがそんな打ち合わせをしている様子も我がクラスの舞台写真係である高岡さんがしっかりとカメラに収めていた。
昨日は体育祭で疲れただろうに、普段は主治医から激しい運動を禁じられている高岡さんが今日も元気そうで何よりだ。
川上から簡単な確認事項が伝えられたところで担任の沢野先生が教室にいらっしゃった。
今日は随分とラフな服装だ。
教室の前方3分の1は舞台に、それ以外の後ろの部分はほぼ全て客席に改造してしまった教室の中にクラス全員がなんとか無理やり入ってホームルームを始める。
「これでは出欠の確認もできないですね」ということで簡潔に連絡事項を伝えると、「皆さんには準備がありますよね。では」と早めに教室を後にされた。
この先生の生徒に対する信頼と生徒に与える安心感を俺は心から尊敬している。
俺たちは舞台上に上がって川上を中心に集まり、舞台の最終チェックをしていたが、他の生徒も各々が担当部署に分かれて準備をしていた。
プラカードを持って校内で宣伝をして回る広報係、教室内でお客さんを誘導する会場係、BGMを流す音響係、演出プランに合わせて教室の電灯を調整したりスポットライトを当てたりする照明係(ちなみに上演中は窓にカーテン暗幕を張って教室内を劇場のように暗く出来る)、などなど色々な裏方の仕事がある。
クラスのみんなが積極的に協力してくれるのが嬉しい。
中には午前中はクラスの当番から外れる生徒もおり、文化祭のパンフレットを見ながら「どこを回ろうか?」と他の生徒と相談している姿も散見される。
そういえば、俺は配布された時に1年D組の演劇の紹介ページを確認した以外はパンフレットを全く読んでなかった。鞄にはずっと入っているはずなのだが。
舞台の稽古で忙しかったし、学祭前には汐路さんの件で色々と大変だったから、仕方あるまい。
ちょうど井沢さんが付箋だらけの「Round Bound Wound」の台本と一緒に文化祭のパンフレットを持っていたので
「井沢さん、ちょっとパンフレット見せてもらっていい?」
と頼むと
「いいよ」
と快諾して貸してくれた。
井沢さんは安住さんと上田に呼ばれて行ったので、そのまま一人でパンフレットを眺める。
若草色の表紙には「暁月祭 20XY年」と大きく力強い筆致で書かれている。おそらくは毛筆による題字であろう。
その下方には馬に乗った人たちが草原を駆けていく姿がなかなか上手い線画で描かれている。
姉貴がよく俺に読ませるファッション誌なんかだと、表紙のモデルが誰なのか、写真を撮ったカメラマンが誰なのか、レイアウトをしたデザイナーが誰なのか、など細かい情報が目次のページかどこかに書かれてあるのだが、このパンフレットの目次を見ると、ただ単に「表紙:暁月祭有志一同」とだけ書かれている。
概ね、書道部や美術部の部員が大役を買って出てくれたのだろう。
表紙の下の方には「200円」と値段が書かれている。
一般の来客者に販売するパンフレットも学内生徒向けと同じなのであろう。だから学内生徒に配布されるパンフレットにも値段が印刷されていると思われる。わざわざ学内用と学外用を分ける手間が省けるから当然か。
そういえば、去年姉貴が入手した文化祭のパンフレットも似たようなデザインだった記憶がある。
あれは、夏風邪で寝込んでいる俺のために買って来てくれたのか?否、渡されたのは俺が暁月高校に入学した後だからきっと姉貴は自分のために買って、持っているのを後で思い出したから俺にくれたのだろう。
井沢さんのパンフレットにはいくつか角に折り目のついたページがいくつかある。
あまり人のプライバシーを侵害してはいけないが、井沢さんがどの出し物に注目しているかは気になる。
何せ、俺には文化祭に関する事前情報が全くないので、「目利き」として信頼できる井沢さんの選択は俺が自由時間に見て回る際の参考になると思うからだ。
ということで、井沢さんがチェックしたページを見せてもらう。
ふむふむ。
チェックしてあるのは、文芸部、クイズ研究部、茶道部、落語研究部、新聞部、吹奏楽部、合唱部、演劇部。
演劇部のページには二重丸が付けられている。
演劇部が披露する演目は悲劇「彼の者は汝ら全てを憎む」という作品なのか。
当然だが、その題名は初めて目にした。
紹介文を読むと、オリジナルの作品でなかなか面白そうだ。
部長の桑村直美さんという方が脚本も演出も主演も担当しているのか。
そういえば、「演劇部の桑村先輩」という名前は川上と上田が主催していた「校内の美人を語ろう」だったか「誰とバーニング・ナイトで踊りたいか」だったか、どちらかのチャットで名前を見かけたような記憶がある。
俺には遥香さんという心に決めた人がいるので、もちろんやましい気持ちは全くないが、学内にオリジナルの脚本を書いて、舞台を演出し、自ら主演までする力量のある生徒がいるというのは実に気になる。劇の内容も重厚で面白そうだ。
井沢さんが二重丸をつけるのも納得だ。
演劇部の舞台は、文化祭の3日目の体育館で2年生のクラス演劇の上演の後に舞台演劇の大トリとして上演されるのか。
うちのクラスの舞台のスケジュールに都合がつけば観に行ってみよう。
どうせ川上や上田は美人の桑村先輩目当てで観に行くに違いない。きっと俺も連れて行かれるだろう。
おっと、忘れてはいけないのが文芸部。
部誌を井沢さんに取り置きしてもらっているので、忘れないように買い取りに行かないといけない。
姉貴がくれた去年の文集は面白かったから、今年の文集も楽しみだ。
学祭中は忙しいだろうから、落ち着いてからゆっくり読ませてもらおう。
クイズ研究部。
そういえば井沢さんも文芸部のチームで出場するらしいなあ。
頑張ってくれ。
時間があれば応援に行こう。
茶道部・落語研究部・吹奏楽部・合唱部。
こういう文化部の発表は、俺には関係なさそうだ。
新聞部。
昨日の体育祭の借り物競走で、1年F組の飯島さんに指名されて、公衆の面前でお姫様抱っこをさせられた時、その後、2年D組の先輩をおんぶして運んだ時、2回とも新聞部のカメラマンに写真を撮られた。
高岡さんは借り物競走に参加していたから撮ったのは別の生徒だったはずだが、その時にはとても恥ずかしかったのであまり記憶にない。
どうか学校新聞にはあの時の写真は掲載しないで欲しい。
さもないと俺は色々と終わる。文化祭の間も学校内で晒し者になることは避けたい。
新聞にどの写真を掲載するかは新聞部の編集担当者が決めることだから、俺はただただ自分の恥ずかしい写真が掲載されないことを祈るのみである。
そんなことを考えながらボーッとしていたら、川上から
「みんな、最終チェックするぞ!」
と号令が掛かったので、そちらへ向かう。
上田は珍しく緊張した面持ちで
「小牧先輩が見に来たらどうしよう。
中野先輩が見に来たらどうしよう」
などとよく意味の分からない不安をあらわにしている。
切羽詰まっている上田には悪いが、自分の大好きな先輩が1年D組の教室に現れたらあいつが舞台上で一体どんなリアクションをするのか観てみたい気がする。
安住さんはいつもの笑顔で平常心のようだ。
夏休みにテレビ放送された高校生のクイズ大会の県予選の様子は俺も録画して見ていたので、安住さんがメンタルの強い人だということは知っている。だから心配はしていない。
小海さんは声を上げて笑いながら
「英語部の先輩と文芸部の先輩だっけ?
英語部の友達と井沢さんにこっそり頼んで舞台を見に来てもらうよう頼んであるよ。
頑張ってかっこいいところを見せてあげてね」
と上田をからかって楽しんでいる。
さては、小海さん、あの実にアホらしいチャットを覗いていたな。
いかにも茶目っ気のある彼女らしい。
その隣でいささかボーッとしている井沢さんに
「パンフレット、ありがとな」
とパンフレットを返す。
心なしか、井沢さんの顔が紅潮している。
熱でもあるのだろうか?
文化祭は長丁場だ。
しかも、井沢さんは俺の望みの綱であり救いの女神なのだ、どうか倒れたりしないでくれ。
かくいう俺自身は、なんというか、「今更焦っても仕方がない」という明鏡止水の境地に入ったようなので、もう色々と考えるのをやめた。
教室の時計が9時に近くなると、秒針を見ながら、クラスにいた全員が、
「10、9、8、7、6、5、4、3、2、1、ゼロ!」
とカウントダウンをし、9時になった瞬間に校内放送で派手派手しいファンファーレが流れた。
10秒ほどするとファンファーレのボリュームが下がり、おそらく放送委員の有志であろう生徒の張りのある声で
「定刻になりました。
それでは、20XY年の暁月祭、文化祭の第1日目を開催します!」
というアナウンスが入った。
それを合図に、演者や舞台スタッフは所定の位置につき、広報係はプラカードを持って散開して行った。
部活の出し物のある生徒も同じく四散していった。
その後、今から自由時間の与えられた生徒たちも三々五々、目指す出し物を目指して教室を後にした。
いったん静まりかえった教室の中に会場係の生徒の声が響く。
「1年D組のクラス演劇『Round Bound Wound』、間も無く、本日の第一回公演が始まります!
よろしくお願いします!」
俺は胸が波打つのを感じながら、舞台袖で自分の最初の台詞を何度も何度も繰り返して確認し続けた。
(続く)




