【24】百部の道も一冊から
始業式の次の日、9月2日に実力試験があった。
私、井沢景は、中府市内の進学校の試験というものの洗礼を受けた。
国語はそれなりにできたが、難問だらけの数学と膨大な量の英文からなる英語にはとても太刀打ちできなかった。
その次の日には、もう高校は学祭モードに入り、午後から体育祭の各種目に出場するメンバー決めが行われ、その後、2年生と3年生のD組の生徒との「縦割り」チームの顔合わせと縦割り対抗種目の打ち合わせがあった。
男子はアームレスリングの代表決めと騎馬戦の出場選手を決めただけだったそうだが、女子は応援合戦の練習があった。
初日は音楽に合わせて女子生徒全員で動きを合わせるための第一段階として、全員が動きを覚えるまで練習させられた。
私は団体行動が苦手なので、本当に嫌な気分だった。
ただ、運動神経のいい小海さんや遠見さんはともかくとして、ひかりちゃんも高岡さんもすぐに動きを覚えていたのには驚いた。
高岡さんは今は主治医の先生から激しい運動を禁じられているけれども、病気になるまでは運動が得意だったそうな。
みんな勉強だけじゃなくて運動もできるなんて、ずるいな。
初日の練習が終わって教室の戻ると、もう男子の姿はなかった。
男子だけアームレスリングとか騎馬戦とか当日だけ頑張ればいい種目だなんて不公平だな?と思った。
翌日、登校すると、クラスの雰囲気がおかしい。
大町くんとその愉快な仲間たち、川上くんと上田くんまで神妙な顔をしている。
「どうしたのかな?」
と情報通のひかりちゃんに尋ねると、意外な答えが返ってきた。
「大町くんが3年生の先輩を病院送りにした、って聞いたよ」
え?どうしたの大町くん?
とても他人に暴力を振るうようには思えない大町くんの身に何があったんだろう?
停学とかになっちゃうのかな?
大町くんは心なしか元気がない。
今はそっとしておくのがいいのだろう。
定刻になると沢野先生がやってきて、朝のホームルームをする。
学祭まで1週間ほどになったので、今日からは文化祭の準備を優先し、文化祭で発表のある部活以外は活動が停止される、との通達が行われた。
例年なら、生徒会と部長連からの通達だけで、隠れて部活の練習をしている運動部も散見されたらしいのだが、今年からは自治会もそれに賛同したので、定期的に校内を見回ることになり、もしも活動しているのが見つかれば厳しい罰則が与えられるということになった、と付け加えられた。
今年は、セミナー合宿といい、生徒会・部長連・自治会の連携が密で学校行事への取り組みが徹底している印象がある。
なんでだろうな?
うちの学校ってもっと、なんというか、自由を通り越してカオスなイメージがあったんだけどね。
朝のホームルームが終わり、1限は数学ではないので、沢野先生が教室から出て行こうとする際に
「大町くん、ちょっといいかな?」
と廊下に呼び出した。
おそらく、昨日の「病院送り事件」のことだろう。
しばらく話して帰ってきた大町くんの表情は、先ほどよりは明るかった。
きっと停学処分とか他の厳しい処罰は下りなかったのだろう?
いったい何があったのだろうか?
後でこっそり川上くんにでも訊いてみよう。
その日の昼休み、右手に包帯を巻いたD組縦割りチームの団長・汐路先輩が教室を訪れた。
大町くんは既にどこかに行っていて不在だったので、川上くんが対応していた。
教室を去る際に、汐路先輩は
「昨日はお騒がせをしました。
どうもすみません。
体育祭には普通に出られますので応援よろしくお願いします。」
と深々と頭を下げてお詫びをし、無事も伝えていた。
私にはどうも状況がよく飲み込めない。
大町くんが教室にいないので、別の生徒たちと歓談している川上くんに、昨日いったい何があったのかを尋ねた。
川上くんがかいつまんで説明してくれた。
「大町が、体育祭のアームレスリング大会Strong Armsの予選会に引っ張り出されて、汐路先輩に勝って代表に選ばれたんだけど、勢い余って汐路先輩を怪我させちゃったんだ。
幸い骨折とか手首を痛めたとかそういうのはなかったみたいだけど、受験生の利き手を怪我させたことをあいつずーっと悔やんでいてな。
あと、自分の両親にもこってりとしかられたらしいぞ。
で、今は進路指導室で沢野先生と話をしている」
なんだ、喧嘩じゃなかったのか。
よかった。
それにしても、あんなにたくましい汐路先輩に怪我をさせるくらい圧倒的に勝っちゃうって、大町くん、パワフルすぎるよ。
じゃあ、もしかして、さっき先輩が来たのは「お礼参り」なの?
いや、さっきの挨拶から察するに逆だ。
お詫びに来たのだ。
汐路団長は仕返しをするような小さな人間ではない、そう思う。
昨日の団長挨拶の内容はもっと人間として優しく器の大きさを感じさせるものだった。
きっと、「気にするな」くらいのことを大町くんに伝えに来ただけだろう。
そんなことを考えていると、文芸部の部長の中野先輩が教室にやってきた。
「井沢さん、ちょっといい?」
と呼ばれたので、私は廊下へすぐに向かう。
「ようやく1年生部員を見つけた。
筑間さんは次が体育だから移動済み、須坂くんは不在で井沢さんだけがようやく捕まったの」
「何かご用ですか?」
と率直に尋ねる。
中野先輩がそういう人だからだ。
「本題に入るね。
印刷をお願いしてあった『文芸・東雲』ができあがって印刷会社から職員室に届いているの。
最終チェック、といっても誤字は手書きで直すしかないのだけれど、確認をするために部室に運びたいのだけれど、結構段ボール箱が重いのよ。
うちの部活は女子が多いし、松本先輩も引退した身だから頼めない、須坂くんも見るからに非力だから当てにならない。
クラスで力のありそうな男子生徒にお願いしてくれないかな?
ジュースくらいはおごるからさ」
と、できあがった部誌の部室への運搬依頼であった。
文化祭の当日は、小分けにして運べばいいけど、それまでは段ボールのまま運びたいところだ。
しかしながら同じ教員棟の中とはいえ、職員室のある1階から文芸部部室のある3階へ運ぶには階段しかない。
中途半端に古い校舎だからエレベーターがないので台車で運べないのだ。
部誌が何十冊も入った段ボールを運ぶのは女子や非力な男子には難しいだろう。
「じゃあ、クラスの男子に頼んでみます」
と私は請け負った。
こういう時は潔く請け負うしかない。
「放課後からクラスの文化祭の準備が始まりますが、その前でよろしいですが?」
と確認すると、
「それでお願い」
という答えが返ってきたので、
「それでは、力のありそうな男子にお願いしてみます。
お礼はジュースですね」
と確認し、中野部長が頷いたので、この会話が終わった。
放課後になった。
なんとなく元気がない大町くんに頼むのは気が引けたので、その次に頼みやすい川上くんに部誌の運搬を頼んでみた。
「川上くん、文化祭の演劇の練習前に、文芸部の荷物運びを手伝ってくれないかな?
先輩に頼まれたの。
うちの部は女子が多くて力仕事が苦手でね。
お礼はジュースくらいなんだけどお願いできるかな?」
すると、川上くんは、
「いいよ。
で、男子が何人いればいい?
俺が探すよ」
とあっさり引き受けてくれた。
「文化祭で販売する部誌を運ぶんだけど、段ボール箱がかなり重いかも知れない。
全部で4人くらいいれば、もしも一人で持てなくてもふたりで運べるから丁度いいかな?
じゃあ、4人でお願いします」
私も部誌の入った箱の実物を見たことがないから、予想外に重いことを考えて多めにお願いした。
中野部長の想定以上の人数を頼んでしまったのであれば、私がジュース代を払えばいいだけだ。
川上くんは、早速
「大町、上田、あと、深間、ちょっと集まってくれ」
と人選を始めた。
えーっと、大町くんはあえて避けたんだけどね。
まあいっか。
しばらく離れたところで男子4人で話し合った結果、川上くんから
「じゃあ、この4人で行こう。
ちなみに、この仕事を頼んでくれた先輩ってのは、部長の飯山先輩かい?」
と部誌を運搬するメンバーが決定したという嬉しいお知らせと一緒によく意味がわからない質問が飛んできた。
私は答えた。
「夏休み明けから文芸部の部長は2年の中野先輩で、今回の部誌運びを頼まれたのも中野先輩からだよ」
すると、上田くんが
「よっしゃ!
文芸部2年の中野先輩キターー!」
とガッツポーズしている。
川上くんもガッツポーズしている。
なんのこっちゃ。
「不詳・上田清志、中野先輩のために粉骨砕身、働かせていただきます。
ジュースなどいりませぬ。
そのご尊顔を拝謁できるだけで光栄であります」
「右に同じ」
上田くんも川上くんもなぜか私に向かって敬礼している。
中野先輩は下級生にもファンがいたんだね。
中野先輩って彼氏とかいるのかな?
そういえば、中野先輩のプライベートを何も知らないな。
大町くんと深間くんはそんなふたりを生温かい目で眺めている。
大町くん、無理言ってごめんね。
私は心の中でそうお詫びした。
こうして決まった4人の運搬係と一緒に私は教員棟の1階の職員室へ行き、台車を借りてそこへ部誌の入ったずしりと重い段ボール箱を乗せると、階段の下まで運んだ。
ここから先は人海戦術で階段を登って運ぶのである。
やはり段ボール箱は結構重かったので、無理せずふたり一組になって運ぶことになった。
川上くんと上田くんのコンビと、大町くんと深間くんのコンビで何回かに分けて3階まで運び上げた。
最後に空の台車を川上くんが3階まで運んで、段ボール箱を乗せて、文芸部部室まで運んだ。
私が、ノックして
「失礼します」
と部室に入ろうとすると、鍵がかかっていた。
鍵を開けて中に入ると誰もおらず、千円札と恐らくモレスキンと思われる方眼ノートをちぎったメモが残されていた。
「井沢さんへ
今日もちょっと部活に顔を出せそうにないの。
これで、みなさんにジュースを買ってください。
おつりは部の”おやつ代”の箱に入れておいてください。
みなさんに、くれぐれもお礼を伝えていただければ幸いです。
段ボールは部室の奥に積んで置いておいてください。
中野律」
中野部長は部室にいなかった。
2年生の演劇は大変なんだな、いつもながら思う。
川上くんは、
「え、中野先輩いないの?
なんで?
俺たち頑張ったのに、ご褒美は?」
と心の底から悔しがっている。
上田くんも悔しがっているかというとそうでもない表情だ。
「あのツンデレさんが、俺たちにおねだりしておいて、あえての不在。
まだデレないおあずけっぷりとは!
むしろご褒美だ」
上田くん、そんな趣味なの?
正直言って、若干引いた。
指示通りに部室の奥にダンボールを積んでもらう。
4人とも汗だくだ。
みんなには空調の効いた部室で涼んでいてもらっている間に、私がお礼のジュースを買いに行くため
「じゃあ、私が下まで行ってジュースを買ってくるから、何がいいかを教えて」
と声をかけると、川上くんはスポーツドリンク、上田くんはミネラルウォーター、深間くんは緑茶を所望した。
大町くんはなかなか答えないので
「大町くんは何がいい?」
と尋ねると、
「俺はお礼はいらない。
代わりに今年の文集を取り置きしておいて欲しい。
去年のを読んで面白かったから」
と意外なお願いをされた。
思わず反射的に
「去年の『文芸:東雲』を読んだの?」
と私が尋ねると、大町くんは首肯して
「ああ、姉貴に渡されてね。
どれも面白かったが、特に『輝く夕焼けを』というタイトルの戯曲は素晴らしかった。
俺、感動したぞ」
との返事があった。
あまりの返答に私もテンションが上がってしまい
「大町くんも読んでたの!
あれ、よかったでしょ?私も感動したよ!」
と声を上げてしまった。
大町くんはいたって冷静に
「あれを書いた部員の人ってまだ在籍しているのか?」
と尋ねた。つまり佐倉真莉耶の作品「輝く夕焼けを眺める日」に魅せられた者が行き着く問題に大町くんも至ったわけだ。
残念ながら、私は完全な答えを持ち合わせていない。
だが、部分的には答えられる。絶望しか与えられないけれど。
「ごめんね。
みんなペンネームで書いていて、どの部員がどのペンネームなのかを話してはいけないのよ。
一目でわかるペンネームの人もいるから察して欲しいのだけれど。
でも、これくらいは言っていいと思うけど、その『輝く夕焼けを眺める日』を書いた部員の方は今は在籍していません」
私はこの事実を知った時に結構落ち込んだのだが、大町くんはさすが、というかこんな気が滅入っているであろうタイミングでも心が折れない。
「それでも構わないよ。
他の作品も面白かったから。
1部、俺の分を予約しておいてくれないかな?」
と前向きな態度であった。
大丈夫、佐倉真莉耶さんがいなくても、飯山先輩を筆頭に、私以外の豪華執筆陣が今年も健在です。
「予約に関しては確認してないけれど、多分、大丈夫だと思う。
先輩に申し送るべき項目だから日誌に書いておくね。
1D大町くん1部予約、と。
文化祭前には渡せないし、今はお金のやりとりができないから、文化祭の販売期間内にブースに来てもらえるかな?」
と私は話を進める。
こんな重労働をしてくれた生徒の小さな願いを袖に振るほど中野部長は了見の狭い人間ではない。
「わかった。万が一、クラスの演劇で抜けられない場合には井沢さん、俺の分をキープしておいてね」
と大町くんは念を押す。
よほど「文芸・東雲」が楽しみなのね。
こんな地味な部誌を楽しみにしてくれている生徒がいるなんて嬉しいな。
しかもそれが読書家の大町くんならなおさらだ。
「うん、いいよ。
なんだったら私が購入して立て替えておいてあげる」
私は嬉しくて、任せて、と請け負う。
すると、そのやりとりをそばで聞いていた川上くんは
「大町、自分だけずるいぞ!
俺だって、クールビューティーの飯山先輩やツンデレっぽい中野先輩とお話がしたい!
井沢さん、俺にも1部予約をお願いします。
あと、店番予定表が決まったら教えてね」
飯山先輩と中野部長はそんな風に男子から人気なんだ。
ちなみに中野部長のデレたところは見たことない。
でも、あの人は根本的に優しいからなあ、そこは見抜いているのかも知れない。
となると、上田くんも負けてない。
「あ、大町も川上も抜け目ねえな。
井沢さん俺にも1部予約を。
あと、俺にも店番予定表情報をください」
とすかさず予約を希望する。
「わかった。
大町くん、川上くん、上田くんが予約希望ね。
文化祭前に3部も売れた。幸先いいなあ」
それにしても、うちの部誌はアイドルの握手券付きCDじゃないのよ。
川上くんも上田くんもちゃんと部誌を読んでくれる人だからいいのだけれど。
「じゃあ、私はジュースを買ってくるね」
と部室から外に出ようとすると、向かい側の席に座っていた深間くんも控えめに手を挙げている。
「俺も、1部予約します」
とのこと。
了解しました。
川上くん曰く、
「深間、お前も意外とむっつりだな」
「・・・」
深間くんは肯定も否定もしなかった。
これで4部も予約が入った。嬉しいな。
「でも、ジュースはちゃんと受け取ってね。でないと、後で私が叱られるから」
と私はエコバッグを持って自販機まで行って、中野部長の準備したお金で4人のジュースを買って、私も自分でジュースを買って部室に戻り、みんなで休憩した。
労働の後のジュースは美味しい。
その後、教室に戻ると、演劇の練習を開始した。
この忙しい時に舞台監督と主演俳優と助演俳優と演出助手が一度に抜けたのはいささかまずかったかな、と反省した。
文化祭まで後わずか。
そろそろ仕上げに入らないとね。
さてさて、ちょっと元気が戻ってきた大町くんの長台詞はちゃんと決まるかしら?
練習後、部室に行くと、須坂くんと副部長の岡谷先輩がいる。
他の先輩方と稜子ちゃんはもう原稿チェックを終えて帰ったそうだ。
須坂くんは刷り上がった原稿のチェックをしているが、2作品あるから大変そうだ。
岡谷先輩はスマホで音楽を聴きながら、数学の問題を解いている。
なんで部室で勉強しているのだろう?
声をかけるが返事がない。
集中しているからかな?
仕方がない、と私も一冊「文芸・東雲」を取り出して手に取る。
今年の表紙は、茜色だ。
飯山朱音先輩を慮ってのことかも知れないが、いい色だ。
早速、ページをめくり、目次を見る。
・サカスコータ「Five and Tongues」
・佐藤美禰子「傲慢な知性と千里眼」
・信濃涼子「残心」
・サカスコータ「我が桎梏」
・左京小紅「鴨川荘の六変人」
・三田真咲「内戦と迫害~シリアのキリスト教徒たち~」
・忠野潮「謝恩会の収斂~医学生・忠野潮の事件簿・最終回」
・高田茜「慰藉」
・あとがき:文芸部部長・飯山朱音
並んじゃうと高田茜先生が飯山朱音さんだとわかっちゃうね。
飯山先輩の作風なら正体がバレても問題ないか。
佐藤美禰子先生の正体は未来永劫、秘密にしておかないといけないけどね。
ところで「慰藉」ってどういう意味の言葉だろう?
電子辞書で調べると「慰めいたわること」だそうだ。
そして、わかっていても寂しいこのタイトル。
 
「謝恩会の収斂~医学生・忠野潮の事件簿・最終回」
松本先輩は、探偵の名前とペンネームを一緒にするエラリー・クイーンのようなスタイルなのだが、「最終回」というのを見ると、松本先輩が卒業していなくなるという事実が突きつけられているようで胸が苦しくなる。
あんなにやつれるまで勉強している先輩が身を削って書いた作品なので、大切に読もうと思う。
そして、見事にどこかの大学の医学部に入学した暁には、そこで新シリーズ「研修医・忠野潮の事件簿」を書いて欲しいな。
そんなことを考えたらちょっとうるっと来た。
今は泣いている場合じゃない。まだ早い。
とりあえず、私は自分の原稿のチェックに勤しむ。
こんなにまじまじと穿つかのように自分の原稿を読むのは初めてだ。
誤字脱字があってはいけない。
読者さんに対して失礼だ。
數十分後、私は原稿チェックを無事に終了した。
ふう、よかった。
誤字脱字はなかった。
先輩方に校正をしてもらったから当然だが、これでひと安心である。
視線を上げると、まだ岡谷先輩は数学と格闘している。
すごい集中力だ。
って、さっきと問題集のページが違う!ノートも違うページで数式がびっしりだ。
私がそれに驚いているのに気づいた須坂くんは
「僕が来てから、岡谷先輩は自分の原稿をチェックして、その後はずーっとあんな感じだよ」
と解説をしてくれた。
「へ~、数学をあんなスピードで解いている人初めて見た」
と素直な感想を伝えると、
「しかもあれは高校3年生で習うはずの数学IIIの問題集だよ。
さっきちらっと見えたんだけどね」
と須坂くんから更に驚きの情報が。
「え?あれって宿題じゃないの?」
って声に出してしまったが、そもそもうちの高校は宿題が出るような学校ではない。
自主的にあんなに集中できる人なら確かに医学部を受験する松本先輩から「京都の有名な国立大学を目指している秀才」と評されるのもよくわかる。
秀才じゃないよ、天才だよ、あの集中力とスピードはすごい。
そういえば中学時代に母が御近所さんから「鯉美中学には私の一学年上に凄い天才がいる」と聞いたことがあったそうだけど、それって岡谷先輩のことだったのね。
今更ながらに気づく。
私は凡人だ。
私と須坂くん、2人から見つめられて、その上、会話も聞こえたのもあって、さすがの岡谷先輩も気づいたのか手を止め視線を上げる。
イヤホンを外すと岡谷先輩は意外そうに私に尋ねる。
「あれ?井沢さん、いつからいたの?」
私は認識すらされていなかったのね。
「はい、40分くらい前からいました。」
と正直に申告する。
岡谷先輩は、顔の前で手を合わせると
「ああ、ごめんごめん。
メタル聴きながら数学の問題を解いてたから気づかなかった」
と謝る。
そこまで集中できるって凄いな、と感動すら覚えた。
須坂くんは目を爛々と輝かせて
「岡谷先輩はヘヴィーメタルを聴くんですか?」
と尋ねた。
私も初耳だ。
そういえば須坂くんってどんな音楽を聴くんだろう?
岡谷先輩はうーんと一回伸びをしてから答える。
「うん、聴くよ。
今は一番好きなSlaterのアルバム『Bloody Empire』を聴き終わったところ。
捨て曲なしの名盤なんだよね」
別に私たちに気づいて手を止めたわけではなかった。
それにしても『Bloody Empire』とはすごいタイトルだ。
須坂くんは続けて
「音楽を聴きながら勉強すると捗りますか?」
と尋ねる。
さすがは数学が苦手な須坂くん!
私にとってもぜひ訊きたい質問だった。
岡谷先輩はインスタントコーヒーを入れながら答える。
「私は理数系の勉強をするときは大抵メタルを聴くかな。
英語の勉強には英語の曲は向かないね。
歌詞の英語が耳から入って来ちゃうから邪魔になる。
そういうときはインストゥルメンタルの音楽にしてる。
国語も同じかな?
私は日本語の曲を聴かないから邦楽については全くわかんない。
社会の勉強の時は歌詞ありでも歌詞なしでもどっちでもいいよ」
洋楽を聴いて、歌詞を聴き取ってる人を初めて見た。
もしかしたら高岡さんもそうかも知れないけれど。
好奇心が増したのか須坂くんは
「そのSlaterってバンドの曲を聴かせてもらってもいいですか?」
と頼んでいる。
岡谷先輩は
「いいよ」
と快諾したので、須坂くんは自分のイヤホンを取り出すと先輩のスマホに差し込んでもらって、視聴していた。
「確かにこれなら計算系の科目の勉強中に聴くにはいいかも知れませんね」
と須坂くんは感想を述べた。
須坂くんって、意外だな。
木兎珈琲館のような静かな喫茶店を好む人なのに、ヘヴィーメタルも聴けるんだ。
岡谷先輩は
「井沢さんも聴いてみる?」
と私にも尋ねてくれるが
「やめておきます。私にはまだ早い気がしますので」
と私には無理そうなのでやんわり断る。
岡谷先輩は
「クラシックやジャズじゃないんだから、早いも何もないよ」
と笑って答える。
私はそもそもあまり音楽を聴かないのだ。
須坂くんは俄然、興味が湧いたと見えて
「先輩、今度オススメのCDを貸して下さい」
とお願いする。
岡谷先輩は若干嬉しそうに
「いいよ、適当に見繕っておいてあげる。
文化祭の後でもいいかな?」
と応じる。
「はい、もちろん」
と須坂くんは答える。
超理系と超文系、意外とこの2人も合うのかも知れない。
よく考えると、こうやって「松本先輩と岡谷先輩」「岡谷先輩と須坂くん」と色んな組み合わせを考えているあたり、実は私にはそっちの素養があるのかも知れない。
私は佐藤美禰子先生の今後の作風の変遷が不安でたまらなくなってきた。
佐藤美禰子が私だとバレたら私に対する評価はどう変わるのだろう?
書いている作品と本人の性質が全く別、ということは往々にしてある。
私もそのタイプだ。
困るのは、世の中には書かれたものを読んでその人となりを同一視する輩が多いことだ。
みんなはその辺の問題をどう考えているのだろう?
一度、部員が集まった時に訊いてみたい。
中でも本名とペンネームがあまり変わらない飯山先輩のスタンスが気になっていた。
特に今号の、目次の並びから自分が高田茜とバレるのを覚悟して書く小説はどんなものなんだろう。
自分がこれを書いたことが世間に知れた時のリスクをどう折り合いをつけているのだろう?
本当は今日してはいけないのだけれど、そのヒントになるかと思って飯山先輩=高田茜先生の「慰藉」をちらっと見てみることに。
第1行目で主人公が自尽したいほど絶望しているという、衝撃的な内容だった。
よく考えたら、昨年の飯山先輩の作品も1人の女子高生が自殺をしようと逡巡する小説「遅疑」だったので予想されるはずの鬱展開ではあったが、今回は予想以上だった。
結論として、飯山先輩はそんな小さなことに煩わされていないんだとわかった。
パラパラめくって飛ばし読みしただけでもかなり暗い話だとわかった。
それでもきちんと読んでみたら、昨年の「遅疑」のように引き込まれるのだろうな?と感じたので、やっぱり正式な発売日の前にこれ以上読むのをやめた。
しばらく黙ってコーヒーを飲んでいた岡谷先輩が口を開く。
おそらく私の所業もお見通しだろう。お目こぼしに感謝したい。
「で、井沢さんも須坂くんも、原稿大丈夫だった?
その確認を律に頼まれてるんだけど」
それで、ひとりだけ部室に残って数学の勉強をしながら待っていてくれたのね。
中野部長も岡谷先輩も本当に優しい。
文芸部に入って本当に良かった。
「大丈夫でした。
校了前に校正してくれた先輩方のおかげです」
と私は感謝の意を示した。
岡谷先輩も静かに微笑む。
須坂くんも
「僕も大丈夫です」
と答える。
原稿チェックは終わってたのね。
岡谷先輩は
「じゃあ、よかった。
他に何かある?
なければ、今日は遅いし解散にしよう」
私は、部誌の搬送の時に頼まれた予約の件を思い出して、岡谷先輩に伝えた。
「先輩、うちのクラスの生徒から「文芸・東雲」に4部の予約が入りました。
まだお金は受け取ってませんが、予約を受け付けてもいいですか?
事後承諾ですみませんが、部誌をここまで運んでくれた男子たちなので断りたくなくて」
岡谷先輩は合点がいったという表情で
「そうだったの?
なんでこんな時期に予約が入ったのかなあ?と日誌を見た律も3年の先輩たちも首をひねってたんだけどね。
予約自体はいいと思うよ。律もそう言ってた。
他にも予約を希望する生徒がいたら、受け付けようか?
須坂くんのことを知ってる生徒もいるかも知れないから。
ただ、SNSには書かないでね。
部員の知り合いに内々に、ってことにしておこうよ」
と提案した。
岡谷先輩はクリップボードとルーズリーフを用意し、「20XY年度『文芸・東雲』予約者名簿」と上部に書くと、部の承認印を押した。
これで、これが部の正式書類となる。
岡谷先輩も実務能力では中野部長に負けてないのね。
手っ取り早さでは優っているかも。
そして一行目に、「日付 クラス 名前 予約受付部員名」と書き記した。
岡谷先輩は
「じゃあ、これに記入して」
と、その即席の予約者リストを私に渡す。
私は、「今日の日付 1D 大町 井沢」と書き、川上くん、上田くん、深間くんについても同様に記した。
リストを岡谷先輩に渡すと
「うん、これでいいね。
じゃあ、須坂くん、あっちの空き箱をこっちに持ってきてよ」
と用意させると、また使い終わった連絡プリントの裏に「御予約分」とマジックで書いて貼り、4部をその箱に入れた。
うん。実に仕事が速い。
これならば、大町くんの言っていた「取り置き」になるね。
明日、クラスのみんなに伝えよう。
私はちょっと残り部数が減ったのが嬉しくて
「これで、残りは96部ですね」
とついこぼすと、岡谷先輩は
「いいや、違うよ。
各部員が原稿チェックのために手にした部誌はそのまま買取ね。
やっぱりお客さんにはまっさらの新品を売りたいでしょ?
で、映画研究部もすでに約束どおり10部を買い取って行った。ここだけは会計済み。
文芸部用に1部は抜いてあるし、中川先生へもお届けしてある。
だから、残りは77部だよ」
私のいない間に色々と進んでいたのね。
須坂くんは予約リストを求めて岡谷先輩から受け取ると
「予約って、学内だけですか?」
と尋ねる。
岡谷先輩は
「一応そのつもりだけど」
と答える。この場では副部長である岡谷先輩の意見が部の方針なのだ。
須坂くんは続ける。
「同じ中学の友達で、違う高校なんですが、その高校の学祭の時期がうちと被っててうちの文化祭に来られないそうなんです。
それで、代わりに僕が買って後で渡すってことにしているんですけど、それを予約扱いにできないでしょうか?」
岡谷先輩は少し考えて答える。
「そんなめんどくさいことしなくても、公式通販で買えばいいんじゃない?
送料かかるけど」
須坂くんは答える
「その友人はうちのすぐ近所に住んでるんで面倒じゃないんです。
それに通販で扱うのはたった20部ですよね。おそらく即完売ですよ」
須坂くんのその自信がどこからくるものかはなんとなくわかるが、時折それは杞憂なのではないかと思ったりもする。
岡谷先輩は即答した。
「まあ、そうだね。
ネット民が買いに来るとリアルで知り合いの友達が買えなくなる恐れがあるわね。
うん、いいんじゃない。
じゃあ、須坂くんが買う形で予約しなよ。
実は私も従姉妹や近所の友達から頼まれててさ、どうしようか迷ってたから、私の名前で予約するよ」
須坂くんは4部、岡谷先輩は3部を予約した。
岡谷先輩は私の方を向いて確認する。
「井沢さんはもういいの?」
少し思案した後で、私は答える。
「実は、私はさっきの4人以外にもクラスの友達から『文集を買いたい』と頼まれてて、確約したわけではないですが、もしいらないって言われたら私が買い取りますから、予約してもいいですか?」
岡谷先輩はあっさり許可する。
「いいよ。別に商売でやってるわけじゃないから、いらないっていうなら文化祭までに取り消してくれればいいよ」
「じゃあ、私も2部追加でお願いします」
私は、ひかりちゃんと高岡さんの分を予約した。
これで、残りは68部。
公式通販で20部を引き取ってくれるから、実質的には48部。
クラスのみんなのおかげで少しずつ予約が入って在庫がどんどん減っていく。
私の小説が拡散していく一抹の不安はあるけれど、在庫の山に囲まれて生活する惨状から一歩一歩遠ざかっているのは嬉しいことだ。
須坂くんは複雑な表情で
「これなら確実に初日で完売ですね。
やっぱり200部、いや300部にすればよかったんじゃないですか?」
と今まで再三にわたって披露した強気増刷説を持ち出した。
幾ら何でも300部は無理でしょ?
岡谷先輩は
「いや、現実問題はかなりシビアだよ。
少なくとも150部にしてたら売れ残って泣きを見ていたかも知れないよ。
商売じゃないんだから昨年くらいの売り切れ方がちょうどいいんじゃないかな?
まだ許可が下りてないけど、最悪の場合はダウンロード販売もあるしね。
うちの文化祭で文芸部の文集がどれくらい売れないものかは、1回店番をしてみればわかるよ」
と厳しい意見を告げた。
確かに私が行った去年の文化祭でも文芸部のブースは閑古鳥が鳴いていた。
熱狂の渦に巻き込まれた校内であそこだけが静かだった、という不思議な空間だった。
あそこに1人で座っていたことのある岡谷先輩だから、須坂くんに釘をさせるのだろう。
須坂くんは印刷部数が足りないと言うし、岡谷先輩は丁度いい量なのではないかと予想するが、私には残った48部が売り切れる光景を想像できない。
部員はみんなで今のうちに友達に予約してもらう必要があるんじゃないかな?
のんびり構えている文芸部のみんなを急かしたくなる気持ちでいっぱいだった。
(続く)




