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【20】鴎の群れと一羽の鶴

 今日は8月30日。

 もうすぐ夏休みも終わりだ。

 俺、大町篤は午後からのバスケ部の練習が終わると、そのまま帰宅した。

 翌日の8月31日は慣例により部活の練習も文化祭の準備もしないことになっている。

 久しぶりの休日である。


 自分の部屋に荷物を置いてからシャワーを浴びて食事を取る。

 実は、8月の下旬に入ってから両親と姉貴の間で今後の進路を巡って議論、そして、軽い衝突があって、ここ数日は姉貴は家族と一緒に食事をしていない。

 母が2階にある姉貴の部屋のドアの前まで食事を持っていき、姉貴が食べ終わったらドアの前に食器を置いておいて母が下膳する、という引きこもりのお子さんのいる家庭のような状況になっている。

 議論の場に居合わせた俺は姉貴の考えに賛同する意見を述べて両親から叱られたが、おかげで姉貴は家族内で孤立せずにいる。


 それが現状なので家族団欒には程遠いが、俺はいつも通り両親と一緒に夕食を取る。


 食後に、自室でメールをチェックする。

 学校から帰ってきた時にも確認したのだが、まだ遥香さんからのメールは来ていない。

 普段は大抵、この時間までにはメールが来ているはずなのだが、明日で夏休みも終わりであり、俺より1年先輩の遥香さんは2年生だから夜は勉強で忙しいのかも知れない。

 じっと待っていても仕方ないので、俺はiPhoneを充電しながら、新学期の予習を始める。


 うちの高校は夏休みはもちろん冬休みにも春休みにも宿題はない。

 バスケと演劇の練習で忙しい俺は、正直なところ、夏休みの間は全く勉強をしていない。

 強いて挙げれば、姉貴から読まされた「はじめてでもわかりやすいキリスト教入門」というムックが思想史・宗教史の復習になったくらいだ。


 英語の教科書を広げて、夏休み前に終えた次のページから勉強を始めた。

 うん、見事に忘れている。

 これはかなりまずい。

 数学や理科の教科書を開くのがかなり怖い。

 理系クラスに進んだ姉貴に余裕があれば数学や理科を教わることもできるのかもしれないが、あいにくと俺は姉貴から勉強を習ったことはない。

 俺は姉貴から教わりたくないし、姉貴は人に勉強を教えるのが嫌いなのだ。

 先日も父から「大学で資格を取れ」と言われた際に、その一例として「教員免許は取っておきなさい」と勧められたのだが、「教員だけは絶対に嫌!私、人に物を教えるのが苦手だもん」と押し問答になっていた。

 

 そもそも俺には自分で頑張らないといけない理由がある。

 姉貴と同じ玲成高校に進学しろ、と両親から勧められたのに自分の意思で選んで暁月(あかつき)高校に入ったのだから自己責任で勉強の方は頑張らないといけないのだ。

 尤も、玲成高校は、中府(なかくら)市内の優秀な生徒が一番集まる名門校、というだけで、生徒に勉強を強要するような学校ではなく、校風自体は暁月高校と同様に自由だそうだ。



 さて、勉強に戻ろう。

 英文を読みながら分からない単語があれば「オクスフォード現代英英辞典」を引く。

 なぜ英英辞典なのかというと、伊那川(いなかわ)中学から玲成高校に進学した姉貴の同級生でとても英語の成績の高い子がいて、勉強の秘訣を尋ねたら、中学時代から英英辞典を使っていること、そして、いちいち英文を日本語に訳さないで英語のまま理解するのが大切、というようなアドバイスをくれたそうな。


 そのため、俺の高校入学祝いとして姉貴が両親に指定して贈られたのがこの英英辞典なのである。


 無論、英英辞典で引いてもわからなければ英和辞典も併用するが、逐語訳を求めなければこれで意外となんとかなるものである。

 暁月高校の英語の先生は逐語訳など求めない上、優秀な生徒は英語の問題(例えば要約問題)に英語で答えたりするらしい。


 なんとか調子を取り戻して予習していると、突然、俺のiPhoneが鳴った。

 鳴った、と言ってもマナーモードで、姉貴に迷惑をかけないように下にクッションを敷いてあるが、それでも着信があることはわかる。


 電話してくる奴なんてどうせ川上か上田だろうと思いつつ、振動音が続かないように慌ててiPhoneを手にして表示を見ると、「諏訪遥香先輩」となっている。

「もしもし、大町です」

と話すと、すると、慌てた口調で

「あ、あ、あの、大町篤くん?」

と遥香さんの声がする。

 珍しいことにとても慌てている。


「はい、大町篤です。

 遥香さん、何かトラブルとかですか?

 今からでもそっちに行きますけど」

と俺は咄嗟に答えるが、嫌な予感がして心拍数が上がる。


 よく考えたら俺の自宅がある伊那川町から遥香さんが今いるであろう中府市内までは随分と距離があるので、すぐに駆け付けることなど出来ないのだが、迷わずそう伝えた。


 それを受けて遥香さんは

「あ、ごめんね。そういうのじゃないの」

と謝った後、少し間を開けてから

「今って電話してても大丈夫?」

とやや小声で尋ねる。

 遥香さんの身に良くないことが起こっている訳ではないと分かったので俺は安堵する。


 もちろん、遥香さんからの電話なら365日、24時間、いつ如何なる時だって大歓迎である。

 ただし、俺の部屋に姉貴がいない時に限るが。


 一応、部屋の中を見回して姉貴がいないのを確認してから

「もちろんいいですよ」

と了承し、改めて

「慌てているみたいですが、何か急用ですか?」

と尋ねる。 

 我ながら間抜けな質問である。

 急用でもない限り、遥香さんが俺に電話をかけるはずがない。

 お互いに電話で連絡を取り合うのは都合が悪いから、メールやチャットをしているのだ。


「別に困っているわけじゃないから、まず安心してね。

 でも、急用といえば急用なの。

 だから、いきなり電話してごめんね」

と遥香さんは謝る。

 謝る必要などないのに。


 続けてこう尋ねる。

「篤くん、明日って予定空いてる?

 急で悪いんだけど」


「もちろん空いてます」

と俺は答える。

 先ほど感じた不安とは別の方向に話が向かって行きそうだが、またしても鼓動が速まるのを感じる。


「実はね、明日の14時に開場で14時30分から開演の演劇なんだけど、会場は中府市文化会館の小ホール。

 場所はわかる?」


「えーっと、地下鉄の光駅に隣接している大きなホールですよね」

と俺は答える。


「そう。あそこの地下1階に小さなホールがあるのよ。

 そこで、関西の『劇団:真珠星』っていう人気のある劇団が、チェーホフの『かもめ』の公演をするの」

「『かもめ』はタイトルだけなら知ってます。面白そうですね」

と俺はこの時点で絶対その舞台を観たくてたまらなくなった。

 理由は単純だ。

 遥香さんと一緒なら、遥香さんが勧める劇団の舞台なら絶対に楽しいはずだからだ。


「だけどね、私、部活で忙しくてチケット買えてないの。

 それで、もう諦めてたんだけど、さっきSNSで確認したら、明日、若干の当日券が出るのよ」

 そこまで聞いて俺は意思を伝えた。

「じゃあ、明日行きましょう。早めに並んでいれば入れますよ、きっと」



 その言葉の後で、しばらく無言が続く。

 不安になったので

「遥香さん?もしもし?」

と通話が切れていないか確認すると

「あっ、ごめん。ちょっと待ってね」

と返答があったので、待つことにする。


 1分ほどした後で遥香さんが話を続ける。

「明日の当日券は確実に取れるわけではないの。

 でも、もし良かったら一緒に並んでくれる?」

と反応がある。

 気のせいか、遥香さんは急に鼻声になっている。

 夏でも花粉症ってあるのだろうか?


「もちろん、OKですよ」

 俺は了解した。断る理由などない。


「それじゃあ、当日券発売が、開場1時間前の13時からだからその1時間前くらい、12時頃から並ぼうか?」

「分かりました。俺その場所なら多分ひとりで行けると思います。

 現地集合でいいですか?」

「そうだね、先に現地に到着した方から当日券売り場に並ぶってことにしましょう」

「分かりました。会場とか『劇団:真珠星』の『かもめ』公演とかちゃんと予習しておきます」

「よろしくね。

 当日、都合が悪くなったとか、何か問題があったら電話してね」

「わかりました。お休みなさい」

「おやすみ、篤くん」


 そして、電話は切れた。



 早速、俺は中府市文化会館のホームページでアクセスや館内の構造をチェックした。

 明日の13時から小ホールの入り口付近で「劇団:真珠星」の公演の当日券を発売する旨の告知も出ていた。

 前売り券は完売とある。

 きっと人気がありすぎて、追加席を設けたに違いない。

 ということは、明日も激戦になるかもしれない。


 俺は覚悟を決めて、家から中府駅まで出るのに使う私鉄の府島線の休日ダイヤを確認した。


 そして最後に、「劇団:真珠星」のホームページをチェックした。


 関西を拠点にしている劇団で、海外公演も成功させている。

 チェーホフ、イプセン、シェイクスピアなどの古典演劇のほか、比較的新しい作品や現代の劇作家による舞台も上演している。

 たくさんの観客を収容する大きな劇場ではなく、小さな会場でいつも公演を行っているようだ。

 劇団を主宰する演出家の三木健太郎氏は新進気鋭の演出家として演劇界で有望視されているようで、色々なメディアで紹介されている。

 インタビュー記事へリンクが貼られている。


 俺が全く知らない劇団と演出家だった。



 今回のプロダクトである「かもめ」についてはこう説明されている。


「かもめ、ロシア語では『チャイカ』(Чайка)、はチェーホフ四大劇の一つで、女優志望の娘ニーナと若手劇作家のトレープレフ、トレープレフの母アルカージナの愛人である旅行作家のトルゴーリンらを中心に、純粋な心や芸術が、世の凡庸なものによって歪められて潰されていく様を描く。

 今回の公演は神西清訳でお届けします」


 そんな話なのか。

 「かもめ」という鳥の名前を題名にしているのだから、もっと牧歌的な話なのかと思ってた。俺は誤解していたようだ。

 明日、早めに出かけて原作の戯曲を買って待ちながら読むことにしよう。


 海外文学は翻訳によって随分と印象が違うことは分かっているから、どうせなら同じ翻訳者による本が良いだろう。

 どうか文庫であってくれ、そう願いながら ネット書店で「かもめ 神西清」で検索すると1点ヒットがあった。

 良かった。俺の好きなスピンのついた文庫が神西清訳だった。

 ついでにそのサイトで、提携を結んでいる正清堂書店の光駅店に在庫がないか確認したら「在庫あり」だったので、そこで「店舗取り置き」をしてもらった。

 これで明日はお取り置きした本をカウンターで受け取って買うだけだ。探さなくていい。



 俺はそこまで準備を終えると、翌日に備えて早めに寝ることにした。


 


 8月31日。

 俺は無地の黒いTシャツにデニムとスニーカーという出で立ちで、ボディーバッグを肩に掛けて出かけた。

 舞台上では役者さんたちが全身全霊で演じているはずだ。故に、演劇の会場は冷房が効いて寒いくらいだろうから、ネイビーのジャケット持って行った。



 昨夜のシミュレーション通り、伊那川駅から府島線に乗って中府駅へ行き、そこから地下鉄に乗り換え、光駅で降りる。

 光駅の近くにある正清堂書店の光駅店へ開店と同時に入店し、取り置きしてもらっていたチェーホフの「かもめ・ワーニャ伯父さん」の文庫本を購入した。

 その後、書店の近くのカフェでコーヒーとホットドッグをテイクアウトで買って、地下鉄の光駅を挟んで反対側にある、中府市文化会館を目指した。



 文化会館は地下街から通路が繋がっているので涼しい。

 エスカレーターで地下1階へ行き、案内に従って小ホールへ到着。

 やはり誰も並んでいない。

 それ以前に、まだ当日券売り場がない。おそらく臨時のブースなのだろう。

 まだ当日券売り場が設営されていないということは狙い通りだということだ。


 ちょうど通りかかった劇場のスタッフの方に

「すみません、今日の『劇団:真珠星』さんの『かもめ』の当日券が欲しいのですが、

 どこに並べばよろしいでしょうか?」

と尋ねてみる。

 いささか呆れ顔のスタッフさんが

「時間になりましたらこの辺りにブースを設置します。

 申し訳ございませんが、今回は整理券を配る予定がないものですから、お時間が来るまではそこの壁際で並んでいていただけますか」


「丁寧にありがとうございます。

 それでは、待たせていただきます」

と俺はスタッフの方にお礼を言った。

 こんな高校生が相手でもちゃんと敬語で対応してくれる。

 お仕事とはいえ、なかなか出来るものではない。



 指定された場所に移動する。

 これで当日券の列の先頭に並べたから一安心だ。

 万が一、寝落ちしてしまっても誰かが起こしてくれるだろう。


 最優先すべき任務を完了したので、温かいうちにカフェで買ったホットドッグを食べる。

 こんな場所で立ったまま飲食するのが行儀の悪い行為だとは重々理解している。だが、小ホールのロビーよりさらに外だし、周りに誰ひとりいないのだ、許してもらおう。

 まだ、10時過ぎなのでいまいち空腹ではないが、周りに人が集まってきて目立つ時間帯に冷めたホットドッグを食べるよりはマシである。

 

 ホットドッグを食べ終わった後、俺はコーヒーをちびちびと飲みながら「かもめ」を読んだ。

 ふむふむ。

 ふむふむ。


 気づいたら11時を過ぎていた。

 ふむふむ。


「あの、すみません」

と突然、声をかけられた。


 声のする方を見ると、俺よりも年上っぽい2人組の女性がいる。

 俺は文庫本の読みかけのページにスピンを挟んで閉じてから

「はい、なんでしょう」

と対応する。ひとりの女性が

「『劇団:真珠星』さんの『かもめ』の当日券を買うための列はこちらでしょうか?」

と尋ねる。

 この方たちも言葉遣いが丁寧だ。


 それで、俺が先ほどスタッフさんから受けた説明をそのまま伝えると

「ご親切にどうもありがとうございます。

 それでは、私たちも後ろに並ばせていただきます」

と俺の後ろに並んだ。

 時々2人の会話が聞こえて来るが、どうも熱心な演劇ファンらしく、遥香さんと同様に前売りチケットを買えなかったみたいだ。

 当日券が何枚販売されるか分からないが、少なくとも4枚くらいはあるだろう。

 後ろのおふたりもきっと舞台を観ることができると思う。

 良かった。


 その後も、俺は「かもめ」を読み進めた。

 ロシア文学は名前の呼び換えが多いが、慣れると引っかからない。

 最初は「いきなり出て来た『コースチャ』って誰だ?叙述トリックなのか?」と軽くパニックになっていたのだが、次第に慣れた。


 

 11時30分頃になると、人が集まりだした。

 初めのうちは俺にこれが当日券の列かどうかを訊く人もいたが、だんだんと列が伸びていくと、皆さんが最後尾の方に確認して列に並ぶようになった。


 そして、スタッフさんが演台を奥から持ち出して、当日券売り場という紙を貼っていた。

 もうすぐ遥香さんが来る時間だな?と思いつつ時計を見ると、11時45分。

 振り返ると学校の1クラスくらいの人数の列が随分後ろの方まで出来ていた。



 遥香さんはまだかな?、と周囲を見渡して俺は見つけた。

 既に長蛇の列が出来ているのを見て慌てて列の最後尾に並ぼうとしているスタイルの良い女性がいる。間違いない。遥香さんだ!

 黒と白のボーダーの長袖Tシャツとキャメルのジャケットを羽織り、デニムに黒のパンプスという出で立ちだ。

 これだけたくさんの人がいても、やはり遥香さんは目立つ。

 何を着ても似合うなあ、と思わずにやけてしまったが、今はそんな場合じゃない。


 公共の場だから大声を出していい場所じゃないので、俺は大きく手を振った。

 幸い俺は体がでかいから目立つ。


 遥香さんは並んでいる人に会釈を繰り返しながら俺の方にやって来ると、俺の後ろの女性ふたりに

「すみません、私の連れなのですが、よろしいでしょうか?」

と尋ねる。


 すると、先ほど俺に声をかけてくれた方が

「もちろんいいですよ」

と遥香さんが列に入るのを快く受け入れてくれた。

 

 遥香さんがふたりにお礼を伝えて俺の隣に並んだ。

 そのタイミングで、後ろに並んでいたもうひとりの女性が笑顔で

「彼氏さん、11時から並んでいらっしゃったんですよ」

と遥香さんへ小声で伝えた。

 その「彼氏さん」の一言に俺は顔が真っ赤になった。


 それを聞いた遥香さんは

「そっか、そんなに早くから並んでくれてたなんて。

 私ももっと早くこればよかった」

と申し訳なさそうな表情になる。

 だが、機嫌は良さそうだ。

 

 それから、「彼氏さん」というワードをスルーしてくれて俺は助かった。

 肯定されても否定されても俺は平常心を保てなかったと思う。




 そうして合流した遥香さんから追加情報を伝えられた。

 中府市文化会館小ホールは座席数が200席なのだが、前売りチケットは販売と同時に即完売だったそうで急遽、40席を追加したとのこと。

 劇団のポリシーで立ち見は出さない。

 追加された客席は通常の客席の両脇とか後方とかあまり良くない席になるけれど、小さなホールなのでどこでも見られるから大丈夫、とのことだ。


 当日券の枚数に関する情報もSNSで発信されていたらしく、当日券を求める客の列の長さから計算して、「無理だな」と帰っていくお客さんもいた。


 

 ようやく13時になり、当日券販売が始まった。


「席は遥香さんが決めてください」

と俺は一任した。


 しばらく迷った後、通常の客席の後方に椅子を置いた席ではあるが、舞台正面にある2席に決めた。

 予定より早くロビーへ入れてくれたので、ようやくふたりで椅子に座って落ち着いた。

 遥香さんと俺は「劇団:真珠星」と「かもめ」の話をした。

 俺が約束より早く並んでいた話をしても仕方がないから、楽しい話をしたまでだ。

 遥香さんは前売りのチケットを購入できなかったが、ああいうのは運だから仕方がないと思う。

 根性だけで俺が当日券を確保できて本当に良かった。

 俺はこの時点でもう燃え尽きていたかもしれない。


「でも、疲れて寝ちゃうとかダメだからね」

とやっぱり釘を刺された。

 うとうとしてたらつねられるらしい。

 それなら寝なくて済む。ありがたい。


 

 その後も終始笑顔のままの遥香さんと楽しく話をした。




 14時に開場され、場内に入る。


 最後列に設置された俺たちの席からでもちゃんと舞台は見える。

 古い体育館みたいな木造の劇場で、舞台上にお屋敷のセットがある。

 調度品もロシアっぽい。


 小劇場演劇と聞いていたので、「劇団:津川塾」のような簡素化というか抽象化された舞台装置をイメージしていたが、「劇団:真珠星」は違うらしい。

 どんな公演が観られるか楽しみだ。


 14時30分になると舞台「かもめ」の幕が上がる。

 場内は暗転し、遥香さんは俺の手を握る。




 それから数時間後、俺と遥香さんはSparrows Cafeにいた。

 俺はまたカフェラテ、遥香さんはハワイ・コナを飲んでいる。

 店員さんは覚えててくれて、今回は間違えなかった。


 劇場からカフェに移動する途中、ふたりとも感動冷めやらぬ状態で、今日の「かもめ」の舞台の話をした。

 前衛的な演出でもない、さりとて、古典をそのまま上演しているわけでもない、そのふたつの方向性とは別のベクトルで演出が行われている、そうとしか言いようがなかった。

 原作戯曲を途中までは読んでいて、一通りの話の流れを知っておいて良かった。

 


 役者さんたちは熱演してくれた。

 やっぱり芝居は生に限る。そう実感した。


 それと同時に俺のやっている「芝居もどき」が如何に程度の低いものかがよく理解できた。

 些か落ち込んだ。


 そんな入り混じった感情でいた俺の考えを見て取った遥香さんは

「篤くんは今日の舞台を観てちょっとショックを受けてない?」

と図星の指摘をする。


 俺は少し間を置いて

「はい。ご明察の通りで」

と答える。


 遥香さんはやや険しい表情になり

「それはね、傲慢よ。

 篤くん、自分がレブラムみたいにプレーできないのを悲しいと思う?」

と嗜める。

 バスケに喩えてくれたので理解し易い。


「いいえ、全く思いません。

 キングと俺なんてとても比較できません」

 俺は即答する。


 その答えを聞いて遥香さんは表情が穏やかに戻り

「でしょ?

 だから、演劇でも一緒よ。

 人生を演劇に捧げて日々研鑽を積んでいるプロの役者さんとたかが文化祭で舞台に上がるだけの高校生では比較の対象になりません。

 だから、篤くんは篤くんの演技をすればいいんです」

と俺を励ます。

 確かにその通りだ。


 俺は完全に納得したので

「はい、わかりました」

とだけ答える。


 すると、遥香さんは小さく頷いてから

「頼むわよ。私は楽しみにしてるんだから。

 ところで、稽古の方はどう?」

 遥香さんは俺の芝居にも期待しているのか。

 レベルの違う芝居を見てショックを受けてる場合じゃないな。


「はい、結構、いい感じに仕上がって来たと思います。

 セリフやアクションの多い上田や小海さんは本当に頑張ってます。

 俺も『芝居の間』ってのがつかめるようになって来ました」

と俺は進捗状態を伝える。


「偉い、偉い。よく頑張ったね」

と遥香さんが茶化すので、俺は

「遥香さん、俺をからかってませんか?まあ、それは別にいいですが」

と言い返すのだが、遥香さんは無言のまま笑顔で応える。

 

 せっかく褒めてもらったのに、俺の演技にはまだまだ完成には程遠い箇所があるので正直に話す。

「どうしても最後の長台詞が、、、」


 すると、遥香さんが俺の口を人差し指で抑える

 

 遥香さんの思わぬ行動に驚いて

「な、なんですか?急に」

と俺が尋ねると

「私はね、NBLファイナルが第7戦までもつれる、というタイプのネタバレは大丈夫なの。

 でもね、最終的にどっちが勝つか、みたいなネタバレは嫌なの。

 だから、『最後の長台詞』って、あ~それも聞きたくなかった!

 それ以上はお願いだから話さないで」

との反応。

 確かに遥香さんの言う通りだ。

 自分の出演する舞台を観に来て欲しい、でも前もってネタバレはしておきます、ってのは礼儀としておかしい。


「すいません。俺、頑張ります」

とそれだけを伝えて、うちのクラスの演劇についての話は終わりにした。



 そのあとも、今日の舞台のこと、今好きな劇団のこと、オススメの戯曲、などを話してくれた。


 


 さて、そろそろ遥香さんをおうちへ帰さないとダメだなと思い

「じゃあ、そろそろ行きましょうか?」

と俺が促すが、遥香さんは驚いた表情で

「え?どこに行くの?」

と尋ねる。


 俺は頭が真っ白になる。

 それでも何とか

「そろそろ帰りますよね、遥香さん。

 おうちにご飯もあるでしょうし」

とさらに確認をすると

「あのね、今日は篤くんと一緒に夕御飯を食べたいなあって思っているんだけど、駄目?」

とウィンクしてくる。

 可愛すぎて直視できない。

 だが、せっかくのお誘いなので俺は

「もちろん、大丈夫です。嬉しいです」

と快諾する。


 しかしながら、俺はデートで行く店なんて知らない。

 どうしよう?

 

 そんな風に考えていると

「篤くん、どこか良いお店知ってる?

 もし良かったら、私のオススメのお店があるんだけど行かない?」

 その仕草も可愛かった。


 綺麗か可愛いかどっちかにしてもらわないと、俺の心臓がもたない。


 なんとか平静を装って

「じゃあ、遥香さんの行きたいお店でお願いします」

と俺が答えると、遥香さんは満足げに

「素直でよろしい」

と答えた。



 Sparrows Cafeを出ると、そのカフェのあるビル街を2ブロックほど移動したところにあるカジュアルなイタリアン・レストランへ到着した。

 店の名前は「Gatto」という。

 ほどほどに席は埋まっていたが、俺たちがお店に着いたタイミングでちょうど空いた席があったので、すぐに案内された。

 

 テーブルに着くと、遥香さんは

「ここはちょっと高めだからそんなに頻回は来られないけど、美味しいのよ」

と教えてくれた。


 メニューを見ると確かに高校生が来る店にしては若干高い。

 伊那川町だったら、イタリアン風洋食店のランチコースが食べられる額である。 

 メインのパスタにサラダとスープと食後のコーヒーか紅茶をつけるコースが遥香さんのオススメだそうだ。

 もちろん、肉料理や魚料理も含めたコースを選ぶこともできるが、高校生ではそんな贅沢は出来ない。


 早速、パスタを選ぶことになったが、正直言って俺にはメニューに書かれてあるお洒落な名前の料理の内容がよく分からない。

 スパゲティーはミートソースとケチャップ味とたらこと和風とカルボナーラとインディアンくらいしか知らない。

 多分、そのほとんどは日本料理だ。


 確かボロネーゼというのはミートソースだったはずだ、と思い出したのでそれに決めた。ドリンクはアイスコーヒーにしよう。

 

 遥香さんも注文する料理と飲み物が決まったようなので、店員さんを呼んで俺がオーダーした。

 遥香さんは「私はこれね」と指差しで教えてくれたので、恥をかかずに済んだ。

 遥香さんが選んだのは、生ハムとルッコラのパスタとアイスミルクティーだった。 



 こうして俺はずっと笑顔のままの遥香さんを眺めながら、生まれて初めて好きな女の子とふたりっきりで食事をした。

 遥香さんの笑顔はきっと一生忘れない。

 自分が食べたボロネーゼの味は全く覚えてない。味がついていたのかすら不明である。 



 

 お会計を済ませてGattoを出て、遥香さんと一緒に駅まで歩く。

 いくらまだ夏の8月31日とはいえ、時間はもう遅い。

 さすがに暗くなったので心配だからそのまま家の近くまで送らせてもらうことのなった。


 遥香さんは

「ありがとう」

と一言だけ礼を言った。


 一緒に地下鉄に乗り、目的の駅で一緒に降りる。

 地下鉄の駅から15分ほど歩いたところにある遥香さんの家はある。

 高層マンションだった。

 セキュリティーのしっかりしているマンションのようなので入り口で別れた。

 御両親が厳しい、とは以前言っていた。

 さすがの俺も玄関までついて行く気はさらさらない。




 俺はその1時間くらい後に帰宅した。

 別れ際にマンションの入り口で俺に向かって手を振っていた遥香さんの笑顔が目蓋に焼き付いていたのでひとりで帰る途中も寂しくはなかった。


 当初の予定よりも遅い帰宅だったが、前もって「帰りは遅くなる」と伝えておいたので両親は特に心配していなかった。

 ただ、両親ともとても疲れているようだった。

 居間のテーブルの上には、おそらく今後の進路のことで姉貴を説得するための資料みたいなものが積んであった。

 両親は主張を譲る気はないようだ。

 俺くらいは姉貴の味方でいようと思う。



 2階に上がると、姉貴の部屋の灯りはもう消えている。

 もう寝てしまっているのか?

 


 自室に入って早速メールをチェックする。


 遥香さんから「今日はありがとう。お休みなさい」とだけ短いメールが入っていた。

 俺も「こちらこそありがとう。お休みなさい」とだけ返した。


 


 シャワーを浴びて明日の準備をする。

 読みかけの「かもめ・ワーニャ伯父さん」も通学鞄に入れる。

 今日で夏休みが終わり、明日からまた学校が始まるとはいえ、始業式があるだけだから、特に大事な用件はない。

 そもそも暁月高校は前期・後期の2期制なので、実は新学期ですらない。


 そんな風に自室で準備をしているのだが、姉貴が部屋に入って来る様子はない。

 


 姉貴はかなり根を詰めて勉強し、一方で自分の進路を巡って両親と争っている。

 このままだと疲労とストレスのせいで姉貴は倒れてしまうんじゃないかと心配だ。


 ともかく今夜くらいは静かに休んでくれることを願ってやまない。



 ベッドに入るとやはり瞼に浮かぶのは遥香さんの笑顔。

 あの笑顔のために3時間以上ずっと並んでいて良かったと思う。

 



(続く)

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