スードニア戦役 其の十二
一方その頃、帝国軍本陣ではルーアルト王国本陣から上がった煙と、打ち倒された国王旗を視認して皇帝、諸将共に歓声を上げていた。
「シンがやりおったわ! 全軍に鬨の声を上げさせよ、反撃開始し敵軍を全てエームス川に追い落として魚の餌にしてやれ!」
皇帝の命令に従い全軍が鬨の声を上げる。
スードニアの丘全体が震えたかと思うほどの声量に、ルーアルト王国軍は攻撃の手を一瞬止めてしまう。
帝国軍将兵が指差す方向をつられて見た幾人かが驚きの声を上げだす。
「お頭、本陣が落ちやがった! この戦は負けだ、退こう」
「おいおい、国王の奴、おっ死んじまったんじゃねぇだろうな?」
「拙いな、こりゃ」
国王が撤退したのか死んだのかは定かではないが、自分たちの武功を認める存在を失ったのだ。
これでは勝とうが何をしようが意味をなさない、タダ働きも同然であり傭兵たちはこの戦での戦う意義を失った。
この時点でルーアルト王国軍、その実情はハーベイ連合が寄越した大小の傭兵団の集まりは一つの軍としての機能を停止することになる。
後方や側面など逃げやすい場所にいる者達が傭兵団単位で逃げ出していく。
その姿を見た前線や中央の傭兵たちは恐慌状態に陥り、武器を捨て我先にと逃げ出していく。
この好機を帝国軍は指をくわえて見ている訳にはいかない、今までのお返しと言わんばかりに猛然とルーアルト王国軍に襲い掛かった。
踏みとどまって戦おうとする者も中にはいたが、逃げて来る仲間の波に飲み込まれるか踏み殺されてしまう。
帝国軍は逃げ惑う敵を狩りでもするかのように容易く背中から刺し、斬りつけ、馬蹄に掛けて踏み殺した。
一方的な殺戮が繰り広げられ、それを眼下で目の当たりにした皇帝は今までの興奮が嘘のように引いて行き、鼻白んだ。
――――これが……これが戦に負けると言う事か……罷り間違えば我らがこうなっていたのか……
血に飢えた狼の群れに追い立てられる野兎と化した傭兵たちは、エームス川の岸にたどり着くも渡し船どころか小舟一艘もないことを知り愕然とする。
軽装の者は素早く鎧を脱ぎ捨て川に飛び込むが、重装の者たちはそうはいかない。
川岸には追い立てられた傭兵たちであふれかえり、後から逃げて来る仲間に押されて川に次々と落とされていく。
靴を履き、服を着ていているだけでも泳ぐことは困難を極めるのに、鎧兜を身に着けていては泳ぐどころか浮かび上がることすら出来ない。
正規軍で然るべき将がいれば、追撃する帝国軍の数の薄い所を一点突破して血路を開くことが出来たのかも知れないが、個人主義傾向の強い傭兵はまとまりに欠け、そのような行動を取ることは出来なかった。
背後から土煙と、斬り捨てた仲間の血しぶきを上げながら迫り来る帝国軍の姿に、恐慌をきたした傭兵たちはまともに考える力を失って、遂には鎧姿のまま次々と川に飛び込んで行った。
当然ながらどんな水練達者であろうとも泳げるはずも無く、次々と溺死していく。
追撃する帝国軍は敗走する王国軍に一切の情け容赦を掛けなかった。
地に這いつくばり許しを乞う者、武器を捨て降伏を声高に叫ぶ者も許さず斬り捨てていく。
とりわけ虐殺に熱狂的だったのは、元ルーアルト王国西方辺境、現ガラント帝国東方領に属する将兵であった。
彼らは自分達の故郷を焼き討ちだけはなかったものの、酷い略奪をした傭兵たちを許すことは出来ない。
生かして捕えれば戦奴として幾ばくかの金になるのだが、彼らは金では無く復讐を選んだ。
かと言って他の諸将の軍は違うのかと言えばそうでもなく、傭兵が逃げ散れば賊と化す恐れがある上に、帝国に内乱を起こさせその隙を突いて攻めて来たルーアルト王国とハーベイ連合を許すことは出来なかった。
先述の兵達との違いは血を求めての殺戮ではなく、淡々とまるで畑に生えた雑草を引き抜くような、言うなれば機械的に敵兵を処理しているよう見えた。
かくして大地は血に染まり、川は死骸で流れが堰き止められルーアルト王国の完敗という形で決着がついた。
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集合地点に次々とはぐれ散ったヤタガラスの面々が集まってくる。
その姿は血と埃に塗れ耐え難い臭気を放っているが、皆の顔にはやり遂げた充足感が見て取れる。
追撃隊を率いていたフェリスが合流し怪我の応急処置などを施した後、遅れて来るかも知れない仲間の回収のために無傷の兵三百をアロイスに預け、その場を任せると戦場を迂回して帝国本陣へと帰還した。
「ヨハン、損害はどのくらい出た?」
「はっ、凡そではありますが合流地点未帰還も合せますと三割程かと……」
「……そうか……三割もか……」
そう言ってシンは龍馬に揺られながら目を瞑り天を仰いだ。
「お気になさらずに、元々全員が決死の覚悟で馳せ参じたのです。敵国王は取り逃がしましたが、敵本陣を潰し国王の義兄である近衛騎士団長ショージ・ブラハムを討ち取り、妻妾や高官も生け捕りにしたのです。これだけの戦果をあげたのならば散って行った仲間たちも、あの世で満足しているに違いありません」
ヨハンは兜のバイザーを持ち上げながら、シンを励ます。
「そうそう、お味方は俺たちのおかげで大勝! 今夜は美味い酒が飲めそうだ」
そう言って笑うのは追撃隊を率いて妻妾と高官たちを捕虜にしたフェリスであった。
「そうだな、それにまだ戦いは終わったわけじゃないしな……」
シンが見つめる先にはルーアルトの丘、その頂上にはためく皇帝旗を見て誰にともなく呟いた。
「次は、反乱軍討伐ですね。何でもフュルステン城に籠っているとか……あそこは堀が深くて壁が高く厚い。こりゃキツイ戦いになりそうだ」
ヨハンはフェルステン城に一度だけ行った事があると言う。
「いや、恐らくまともな攻城戦にはならないだろうな。反乱軍はもう何処からも援軍が望めないまま籠城することになる。日に日に士気は低下していくだろうから、時期を見て城の中の一人に助命を持ちかけ中から門を開けさせればいいだけのことさ」
「そう上手く行きますかね?」
「最初から他人を当てにしているような奴等だぞ?」
「それもそうですな、ではもう傭兵団ヤタガラスの活躍する場はありませんか……残念ですな」
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「軍務卿が御帰還なさいました」
取次ぎ役が皇帝にそう告げると、おお、と天幕の中にいる諸将が声を漏らす。
皇帝は椅子から立ち上がり、この戦の最大の功臣を天幕の入口まで行って迎え入れようとしたが、それよりも早くシンが天幕に入ってくる。
「おお、シン! 卿のおかげで帝国は救われ……シン、シン、お主その顔、負傷したのか!」
皇帝はシンの顔を見て一瞬の内に顔面蒼白となる。
つづいて見た諸将もその酷い傷に誰もが息を飲み顔を顰めた。
シンの顔面右側に縦にはしった裂傷は大きさは十センチ程だが頬骨に達しており、傷口だけでなく右の顔が突けば爆ぜるのではないかと思わんばかりに腫れ上がっていた。
首や上半身には乾いた黒い血がこびり付いており、相当の出血があったことを物語っている。
さらに傷による発熱で額には脂汗が浮いており、呼吸も荒い。
「誰か、医者を呼べ! 治療師もだ、後方に待機している教団にも応援を頼め。急げ!」
皇帝の剣幕に弾き出されるようにして近侍の者たちが駈け出して行く。
シンが跪こうとするのを慌てて肩に手を添え止めると、皇帝は自分の椅子に座らせた。
シンの後ろに控えていた副官のヨハンが、傭兵団ヤタガラスの戦果と損害を述べる。
「…………………になっており、損害は三割程かと……敵国王は逃しましたが、その義兄であるルーアルト王国軍近衛騎士団長ジョージ・ブラハムをサータケ団長が一騎打ちにて討ち取りました。更に国王の妻妾と思われるもの数名及び高官をこれまた幾人か捕虜に致しております」
ジョージ・ブラハムを討ち取ったと聞いた諸将は誰もが感歎の声をあげ、天幕の中はどよめきに包まれた。
「……申し訳ございません、敵国王を逃してしまいました……」
これだけの功を立てながらも頭を下げて詫びるシンの手を皇帝は取り、目に涙を浮かべながら頭を振る。
熱に浮かされながらそう言うシンの右目は腫れ上がった患部に押されて、開いているのかどうかもわからない。
本陣に戻り緊張の糸が切れたのであろう……シンがグラリと椅子から転げ落ちそうになるのを見て、慌てて幾人かの者が左右から支える。
やがて近侍の者たちに引き摺られるようにして医者と治療師が連れて来られ、恭しく跪こうとするのを苛立たしげに制すると、直ちにシンの治療に当たらせた。