スードニア戦役 其の二
皇帝ヴィルヘルム七世は真っ直ぐにシンに向かい合うと、重い口を開く。
「シン、この戦は負けだ。お前は直ちに帝都を去」
「おっとその先は言わなくていい、俺は俺の好きにさせてもらう。第一まだ負けたと決まった訳じゃない、聞くところによると敵の親玉は油断しているんだろ? つけ入る隙があるかもしれない。それに俺の国の言葉に死中に活を求めるというのがあってな……だから最後まで諦めるんじゃねぇよ」
皇帝の言葉を遮る。
本来なら罪に問われるが、この部屋には皇帝とシンしか居ない。
シンは帝都を立ち去る気も無ければ、あっさりと死ぬ気も無かった。
運命に抗い、戦って戦って戦い抜いてそれでも駄目ならその時死を受け入れよう。
だから、まだ戦えるうちはどんなに僅かな希望でも諦める気は無い。
「……………………すまぬ」
皇帝の目から謝罪と感謝の交わった一滴の涙が頬を伝わり床に零れ落ちる。
皇帝というのは絶対的権力者であると同時に孤独である。
親族や血を分けた肉親ですら敵になる恐れがある。
叔父のゲルデルン公爵は弟を毒殺し、自分を害そうとした。
ゆえに皇帝は誰にも弱音を吐くことは出来ない。
弱みを見せれば帝位を失うどころか、命さえ失う危険を伴うからだ。
圧倒的な孤独感を伴いながら、何処の誰がいつ牙を剥いて来るやもしれない恐怖と日夜戦い続けなければならない。
しかし目の前の男、シンは違った。
皇帝が唯一心をさらけ出すことの出来る男、この世の常識に縛られない存在、神の寵愛を受けるただ一人の男……危険かどうかと言われればその存在は危険極まりない。
だが、皇帝は確信していたのだ……何故だかはわからないが、この男だけは自分を裏切らないと……
そんな男が一緒に死んでくれると言うのだ、まるで心の靄が晴れて行くように感じた皇帝は覚悟を決めた。
「さぁエル、不可能を可能にしてやろうぜ! 俺たち二人でな」
そう豪語するもののシンに具体的な策があるわけでもない。
――――考えろ、考えるんだ佐竹真一、軍才なんか俺には無いが地球の知識に何か役に立つものがあるはずだ、あれだけ好きでのめり込んだ歴史や軍記に、何か応用出来そうなものはないのか……
「午後から軍議がある。シンは特別剣術指南兼相談役として参加して欲しい、よいか? だがこれに加わり正式に碌を食めばもう帝国から逃れる事は出来ぬぞ、その覚悟はあるか?」
生唾を飲み込み目を閉じる。
シンとしては宮仕えになるのは不本意である、だがこの戦に負ければ帝国は敵に踏み荒らされるであろう。
今まで世話になった人々の顔が次々と思い出され、以前に見た侵略を受けた村の光景が思い起こされると覚悟を決めた。
静寂が支配する部屋の中、二人の息遣いの音だけが響き渡る。
僅かな時間が流れ再び開かれた目には強い意志が感じられた。
「愚問だぜ、言ったじゃねぇか不可能を可能にしてやるってよ」
「よし、お前が言うと嘘には聞こえんな。では参ろうか、行先は生か死か、天国か地獄か……だがお主とならば少なくとも退屈だけはしなそうだ」
乾いた笑いを浮かべながら、豪奢なマントを翻し皇帝は力強く歩き出す。
皇帝という重責を背負い、その為か大きく感じられた後ろ姿を見たシンは、必勝を心に誓った。
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「はっはっは、シンお主も年貢の納め時じゃな、遂に帝国に仕えることになったか。この未曾有の危機に際して臆することなく帝国に組するあたり、実にお主らしいのぅ」
そう言って笑うのはヴァルター・フォン・ハーゼ伯爵、かつて城塞都市カーン防衛戦でシンと共に戦い、シンの異才に気付いた老将である。
他にも宰相エドアルド、侍従長ヘンドルフ、侍従武官長でありハーゼ伯爵の長男であるウルリヒらの側近を始め近衛騎士団長、各大臣、そして帝都にいる反乱に加担せず、皇帝の信用のおける貴族達多数が作戦会議室を兼ねる議事堂へ集められた。
そこで皇帝はまず、シンを特別剣術指南兼相談役として登用したことを告げた。
場は騒然となり、宰相が声を張り上げてやっと鎮まる。
「竜殺しのシンか、これは陛下も思い切った人事をなさる。」
「聞くところによると遠国の貴族の子弟だとか、それに変わった剣術を使うと聞いているぞ」
「ふん、所詮は傭兵上がりのゴロツキに過ぎん、使い物になるものか。陛下も何をお考えなのか」
好意と興味、シンの能力に対する懐疑的な眼差し……だがそこに嫉妬の色は無かった。
何故ならやはりシンは貴族たちの目から見ても異質なのだ、成り変わりたいとは思えないため、嫉妬という人間の持つ一番惨めで暗い感情を向けられる事は無かった。
長大なテーブルの上に精巧な地図が広げられると、集まった皆から感歎の声が漏れる。
この地図は秘中の秘、通常ならば武官でもお目にかかれない代物である。
地図の上に金や象牙で拵えた駒を配置し、指揮棒で指示しながら現状の報告を宰相が述べる。
「まず反乱軍だが、想定される人数は多くて三万、これがフュルステン城に一度集結しわが軍の出方を見てから動く腹積もりらしいことがわかっている」
帝国有数の要衝を抑えられて、諸将から溜息が漏れる。
「次にルーアルト王国軍だが、数は十五万、国王ラーハルト二世が直接率いて先日王都を発ったと細作から報告があった」
これまた諸将から、先程よりも大きく長い溜息が吐き出される。
「それに対しわが方は、北部の治安維持に六万程送り込んでいて帝都にはかき集めても七、八万がやっと。
北部には急ぎ帰還せよと伝えてはあるが、戻ってくるのにどんなに急いでも三ヵ月程は掛かるだろう。そこでまず決めねばならない、出撃か、帝都に籠城かを」
再び場は騒然となる。
幾人かが劣勢の中、城塞都市防衛を見事に果たしたハーゼ伯爵を見るが、伯爵は顎髭を扱きながら目を瞑り沈黙していた。
そんな中で皇帝が各大臣たちに問う。
「籠城するとして物資や食料は足りるのか? 軍の備蓄があるにせよ帝都の民すべての分は無かろう?」
「はっ、仰る通り備蓄を全て軍に廻せば数ヶ月はもちましょうが、民草に廻せば一月か二月しか……」
「ならば、籠城など無理だな。飢えた民が反旗を翻すであろう。帝都から民を追い出しても同じだ、その様な酷い仕打ちをする皇帝や貴族に再び従う者はおるまい」
大臣たちは汗を拭きながら力なく席に腰を降ろす。
「出撃となりますと軍を二つにわけることになりますぞ、ただでさえ少ないわが軍がより不利になります。御再考を」
立ち上がってそう言うのは近衛騎士団長のマッケンゼン、皇帝は考える振りをしながら冷たい目でマッケンゼンを見る。
皇帝が出陣すると言ったならば黙って着いて来るのが近衛であろうが、そんなに命が惜しいのかこいつは……近衛は元からあてには出来ない、こいつらはどうにかして編成から外すか? だが、少ない兵力を更に減らすのは拙いな……
視線を動かすと一言も発せずに地図を見つめているシンが映る。
「相談役、早速仕事をしてもらおうか。何か良い案はあるか?」
シンは視線を地図から動かさずに答える。
その行為を無礼と幾人かは感じたが、戦時ではあるし皇帝も咎める気がないのがわかっていたので沈黙を貫く。
「まず、陛下の申し上げる通り籠城は駄目です。理由は先述の通り、それに付け加え帝都まで敵の侵略を許せば勝ったとしても帝国はボロボロになる。地図を見れば東部は穀倉地帯が多い、これを失うのは大きな痛手になり、下手をすればミレイユ王国のように大量の難民を出しかねない。やはりここは討って出るべきでしょう、問題は何処でぶつかるかだがそれがわかれば……」
「わが軍が直ちに動くとすれば、会敵するまでにこの地点までは進むことが出来るでしょう」
そう言って宰相が指揮棒で差し示すのはエームス川と書かれた場所であった。
シンが更に情報を求め、それに宰相や大臣たちが皇帝に促されて答えていく。
「川へ追い落とすのか?」
皇帝の呟きにシンは頭を振って否定する。
「それは無理です。兵力が少ない……それに敵も馬鹿では無いでしょう、渡河の警戒と準備は十分に整えているはずです」
諸将は怪訝な顔をする。
一体この男はなにを考えているのか、言葉少なく再び考えだしたシンに苛立ちを隠せない。
それは皇帝も同じで、少しの沈黙の後焦れて再びシンに問う。
「シン、卿は何を考えている? 余にも皆にもわかるように話せ」
「敵の油断……如何にして敵の油断を誘うか……」
シンは視線を地図から逸らさずに答える。
「な、なに? 益々わからぬわ!」
シンの脳裏には戦国時代の桶狭間の合戦が思い起こされていた。
織田信長は敵を油断させ、隙を突いて今川義元の首を獲って勝った。
封建社会の戦で少数が多数に勝には、敵の親玉の首を上げるのが確実である。
「陛下、一つお願いが御座います。東部の領主や地主たちに敵軍が来たら持て成すように伝えて頂けませんか?」
諸将の目がシンに集まる。
それに臆することなく淡々とシンは自分の考えを述べた。