長く短い夜
コツン、コツン、車内に微かな揺れと硬い物をぶつけ合ったような音が響く。
おそらく外の怪鳥がバスをつつく音だろう。
この音がし始めてから車内に上がっていた悲鳴は嘘のように消え、不気味な沈黙だけが狭い空間を支配する。
段々とつつく音が激しさを増し、それに伴い衝撃がどんどんと大きくなってくる。
音と衝撃の度に小さい悲鳴が上がりはじめた、暗闇の中で正体不明の動物に囲まれている……この事実に車内の誰もが恐怖に震える。
真一も先程から、全身から冷たい汗が噴き出て止まらない。
ふと視線を感じ窓を見ると目線が同じ高さで怪鳥と目が合ってしまった。
光源は夜空に浮かぶ月光のみだが、段々と闇に慣れてきた真一の目に巨大な嘴と真っ赤に光る両の眼がはっきりと見えた。
一瞬で全身から血の気が引いいていき、呼吸どころか瞬きすら出来ずに石像のように硬直する。
心臓の鼓動だけが大きく身体に響き、音で気づかれてしまうのではないかと気が気では無い。
――――もし今少しでも動けばやられるのではないか?
ほんの僅かな時間が永遠に感じられ、時が止まったような錯覚に陥る。
先に動いたのは怪鳥の方だった。
真一は金縛りにあったように動けなかったのだ、初めて感じる未知の脅威、命の危険信号。
晩年になっても時折この時の事を夢に見て魘されることがあり、そのたびに当時の自分の弱さと不甲斐なさに腹を立てるのであった。
バスを凝視していた怪鳥が何かに気を取られるかのように、バスの前方に向かい歩き始め真一はやっと大きく息を吐いた。
ねっとりとした冷たい汗がこめかみから頬に流れる。
――――血の匂いに惹かれてるのか、それとも死臭に惹かれたのか……それで遺体の集まっている前の方に行ったのか……何にせよ助かった。
もう一度安堵の吐息を吐こうとした瞬間、通路を挟んで反対側の座席から恐ろしい悲鳴が上がる。
「え? うわっ、うわっ、うぎゃあああああああああああああああああああああ」
びしゃりと音を立てて、真一の顔に何か温かい液体のようなものが降りかる。
生臭さと鉄錆の合わさったような臭い、今日一日で嗅ぎ慣れてしまった臭い、それは血。
「腕が、俺の腕が、腕が、ああああああああ痛えよ、俺の腕ぇええええ」
真一は何が起きたか瞬間的に理解し、行動に移しながら叫ぶ。
「窓を閉めろぉおおおおおおお!」
この声に反応して動けたのは僅か数人、車内のあちこちで悲鳴が上がる。
立ち上がり開いてる窓を片っ端から閉めて歩く。
二つ後ろに座っていた奥平の所の窓を閉めたときにぐにゃりとした感触があった。
しまった、奥平の指でも挟んでしまったか? と思い目を凝らして見ると、奥平の腹から窓の外に向かって腸が紐のように伸びていた。
怪鳥に腹を食い破られ腸を引きずり出されたのであろう奥平は、血を吐きつつ一言だけ呟き、白目をむいたあとピクリとも動かなくなった。
「ダチョウ超つえーわ」
これが奥平の最後の言葉である。
駄洒落のつもりかよ笑えねーんだよ、どう見てもダチョウじゃねーだろ! とっさに怒りと突っ込みがこみ上げ、腸が垂れ下がっているのも構わず窓を閉め鍵を掛ける。
やがてバスの前方に集めた遺体が車外に引きずり出され、そちらに怪鳥たちは群がり始めた。
どれぐらい時間が経ったのだろう? 外で獲物の奪いあいをし、けたたましい鳴き声を上げていた怪鳥達が突然静かになる。
一羽が一際大きく甲高い鳴き声を上げると一斉に赤茶けた岩山の方へ駈け出し去っていった。
先ほどまでの喧騒がまるで嘘のような静寂が訪れ、朝日が草原を照らし出す。
朝露が煌めく中、赤い血が草原の所々を彩っているのを見た真一の目じりから一粒の雫が流れ落ちたが、それが涙か汗かそれとも血なのかはわからなかった。