戦い終わりて……
配給された食事に全く手を付けていないヘンリエッテと侍女たちに、シンは無理にでも食べろと命令した。
彼女たちの顔には、誰も彼も涙の痕がくっきりと残っており目は充血して腫れている。
シンはその姿を見て哀れに思うも、今後に起こるかもしれない不測の事態を考え、心を鬼にして再び食事を取るように命じた。
だがそれでも彼女たちの手は動かない。先程まで凄惨な戦いがあった現場で、今でも血と汗の臭いが立ち込める中では僅かに芽生えた食欲も、たちまちのうちにかき消されてしまう。
「まだ戦いは終わっていないぞ。安心するのはまだ早い、逃げ散った敵が再び襲い掛かって来る可能性もある。また、血の匂いを嗅いだ魔物の襲来もあるかもしれん。そんな時に空腹では、戦う事はおろか逃げる事もままならなくなるぞ。固形物は無理でも、スープだけは飲んでおけ。汗を掻いているから、身体が塩を欲しているはずだからな。それに用意された食事に全く手を付けないなんて、お前たちは食事を用意してくれた者たちに対する礼儀を知らんのか? さぁ、さっさと喰え」
今日の夕食は、戦闘後ということもあり塩分やミネラルの補充も考え、いつもの焼き固めた黒パンの他に、普段よりも塩っ辛いジャガイモのスープとデザートに干し葡萄などのドライフルーツが用意されていた。
また僅かではあるが飲酒も許可し、一人当たりジョッキ二杯までワインを飲むことが許されている。
食事に手を付けていないのはヘンリエッテたちだけであり、他は皆はめいめいにして食事と飲酒を楽しんでいた。
戦死者が多数出て、暗い雰囲気を吹き飛ばすかのように兵たちは口々に冗談を飛ばしあい、碧き焔でもムードメーカー役のハーベイが、周囲を巻き込んで士気を盛り上げていた。
「……人を……殺してしまいました……」
これだけ言われてもまだ、食事に手を伸ばさないヘンリエッテがポツリと呟いた。
「…………そうか…………」
「…………未だ手からその感触が消えません」
「それは…………おそらくは一生消える事は無いだろう。俺は今でも鮮明に初めて人を斬った時の事を覚えているし、その感触も残り続けている」
ヘンリエッテはその言葉を聞いて、俯いていた顔を上げてシンの顔を見た。
シンは竜を倒し、迷宮を制覇し、戦場で敵将を討ち、その他数々の武勲を立てている生きた伝説とも言える存在である。
そのシンですら、そうなのかとヘンリエッテは信じられぬと言った面持ちでその顔を見続けた。
「いいか、ヘンリよ。今はまだそれを考える時では無い。さっきも言ったが、まだ戦いは終わっていないのだ。余計な事を考えていると、せっかく助かった自分の命も、お前に付き従う者の命も失ってしまうやも知れないのだ。ヘンリよ……今は行動の時である。そういった事を考える時間は、後から十分に取れるのだから、今は今しか出来ない事をしなければならない。差し当たっては、無理にでも食事を腹に詰め込んで鋭気を養うことだな」
ヘンリエッテは震える手をスープの入った器へと伸ばす。持ち上げた器が小刻みに揺れ、中のスープもまた波を打つ。
催す吐き気を堪えながら口に含んで嚥下すると、戦場特有の塩っ辛さだけしか取り得の無いスープは、喉を通った後は不思議と体に溶け込んでいった。
主であるヘンリエッテが食事に口を付けたことで、傍に控えている侍女たちも同じようにスープに口を付ける。
だがやはり不快感を堪えきれずに吐き出してしまったり、あまりの塩っ辛さに咽てしまったりと、侍女たちのほとんどの者たちがまともに喉を通らずに苦しんでいた。
その有様を見かねたシンは、咽せたりえずいている者たちの背を摩り、それが収まると岩塩の小さな欠片とワインを手渡し、それだけでも飲んでおくように命じた。
そんな中でヘンリエッテは、押し寄せる不快感に顔色を青くしながらも、黙々と食事を取り続けている。
その姿を見てシンは、やはり血の繋がった兄妹だけのことはあるなと感じていた。
兄である皇帝ヴィルヘルム七世も、困難に直面したときには泣き言を言い、顔を青くしながらも決してその困難から逃げはしなかった。
その姿が被って見え、遠い帝都の友の愛する妹を、このような危険な目に会わせてしまった失態を、シンは心で詫びるのであった。
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軽傷とはいえ、体中に無数の切り傷を受けて血を流し過ぎてしまったヴァイツゼッカー子爵は、傷口を治癒魔法で塞いだ後も極度の貧血により、立ち上がることが出来ずに寝かされていた。
シンはそのヴァイツゼッカーの見舞いに、陣の中央に張られた負傷者が収容されている天幕を訪れた。
苦痛に喘ぐ兵たち一人一人を労い、励ましていく。直ぐにでも治癒魔法で治してやりたいが、エリーももう一人の治癒士もマナが枯渇していて、当分は治癒魔法を使う事は出来ない状態になっていた。
「ヴァイツゼッカー殿、どうだ?」
シンが横に座ったのに気が付いたヴァイツゼッカーが、慌てて身体を起こそうとするのを優しくその手で止める。
「も、申し訳御座いませぬ。守りを破られたばかりか、皇女殿下の身に危険を及ぼしてしまうとは、全くを以って面目の次第も御座いませぬ」
青白い顔を歪めながら詫びるヴァイツゼッカーに、シンは逆に詫びる。
「卿のせいではない。これは俺の杜撰な計画が招いた失態である。むしろ卿はよくやってくれた。数的に圧倒的な劣勢の中での奮戦、まこと驚嘆に値する働きであると思っている」
自身の失態を罵倒されるのも覚悟していたヴァイツゼッカーは、逆にその働きを認められ褒められるなどとは露ほども思っておらず、感極まってその双眸に涙を溜めつつ、再びこの身の不甲斐なさを詫びた。
「兎に角だ。今はゆっくりと体を休め、しっかりと体を治してくれ。俺は貴族の作法や諸事に弱いから、卿が居て色々と教えてくれないと、困ってしまう」
シンは天幕を後にすると、もう一人の副使であるラングカイトの元を訪れた。
ラングカイトは、戦闘が終了してからも休むことなく兵を指揮し続けて、警戒に当たっていた。
「ご苦労。すまんな、遅くなった。指揮を変わろう。食事を取って休んでくれ」
「まだ油断はなりませぬぞ……敵もそうですが、周囲の掃除漏れの死体が蘇るやもしれませぬ。くれぐれもご用心あれ」
流石は古強者である。シンが言わずとも、その警備に万事ぬかりはない。
シンは兵を入れ替え、指揮権を交代する。
「して、この後どういたしますか?」
「どうもこうもない。このまま守りを固めて援軍を待つ」
「そうでは御座いませぬ。シュライッヒャー奴の事で御座います」
ラングカイトは復路の心配をしていたのであった。戦の直後だというのに、先々の事にまで気を配ることの出来るラングカイトを、シンは実に頼もしく思った。
「そうだなぁ……交通の要所である表街道を、陛下より任されるという栄誉を賜っているにも関わらず、その信頼を損なうような真似をしたのは事実ではあるが……どうも、よくわからん。敵と本当に通じていたのかどうか……したがって現時点では保留。無駄に藪をつついて蛇を出すこともあるまい。復路の事を心配しているのならば、もし何らかの妨害なり危害を加えて来る素振りを見せたならば、数にものをいわせて押しとおるまでのことさ。帝都からの援軍と先々の貴族家の兵を合わせて、最終的には使節団の兵力は千を超える見通しとなっている」
「それを聞いて安心致しました。差し出口を挟みましたること、ご容赦願いたく……」
「いやいや、卿の忠告には常々感謝している。これからも至らぬ点があれば、容赦なく頼む」
シンが下がって休むように言うと、ではとラングカイトは頭を下げてから、すっかりと夜の帷が降りた陣奥へとその姿を消したのであった。
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