皇女殿下の初めての野宿
使節団は順調に歩を進めて行く。帝都の周りは人口の密度が高いだけのことはあって、街や村が無数にあり、あらかじめ手配されている宿に泊まることが出来たが、西に進めば進むほど街や村の数は減り、またその間隔も大きくなってくる。
そうなると、どうしても野宿をせざるを得ない状況に陥ってしまう。
「ちょっと、これ何ですの?」
ぼんぼんと手荒に放り投げられた毛布を、両手で抱えたガラント帝国の皇女であるヘンリエッテは、その意図がわからず首を傾げる。
「今日は野宿だ。実に冒険者らしくて嬉しいだろう?」
ヘンリエッテがどう答えるのか、それを楽しむかのようにシンはニヤリと笑いながら、野宿の準備をする。
「野宿って……どうやって外で寝ますの? この毛布で、どうやってベッドや天蓋を作るのでしょう?」
シンはずっこけそうになるのを堪えながら、地面と空を指差した。
「大地が寝床で空が屋根、それが冒険者ってもんだ。その厚手の毛布を地面に敷いて、薄い方に包まって寝っ転がれ。ヘンリは運がいいぞ、平らな地面の上で満点の星空を眺めながら眠れるなんてな」
シンはヘンリエッテを弟子としてから、ヘンリエッテの兄である皇帝ヴィルヘルム七世が呼ぶように、ヘンリと呼んでいた。
そのヘンリは、自分が想像していた冒険者像と現実の差に、口を大きく開けてただただ茫然とするばかりであった。
野宿をするとは聞いてはいたが、それは戦陣で張るような天幕の中で眠るものだと思い込んでいた。
実際には冬や雨であったり、数日その場で過ごすような場合でもなければ、わざわざ天幕を張ったりなどはしないものである。
毛布一枚包まって外で夜を明かすと聞いた侍女の中には、生活の変化と未知の恐怖に心を折られ、その場にへなへなと座りこんでしまう者もいた。
「虫よけの香を焚くか、虫よけ玉を抱いて寝るかしろよ。じゃないと、蟲に集られて寝るどころの騒ぎじゃなくなるぞ」
虫よけの香とは、わかりやすく言えば蚊取り線香のようなものであり、虫よけ玉も虫たちが忌避するような匂いを発する薬剤を練って作られた物である。
中央大陸のどの国でも貧富の差を問わず普及している代物で、旅は勿論の事、一般家庭に於いても必需品である。材料さえあれば簡単に作れるものであり、値段も安価である。
「明日は早いから、飯を食ったら直ぐに体を休めておけ。他に何かわからないことがあれば、そこに居るエリーにでも聞いてくれ。それじゃあ、飯を持って来てやるから……」
そう言ってシンは、レオナとロラを呼び夕飯の用意をさせる。
「今日の飯は何だ? おっ、デザート付きとは豪勢だな」
「はい、先日お世話になったマンシャ―ル男爵が、干し葡萄をたくさんくださったので……」
先日、街道沿いのマンシャ―ル男爵領を通過する際に、男爵自ら使節団の泊まる宿へと姿を現し、食料や必要品などの便宜を図ってくれたのをシンは思い出した。
「ああ、そうだったそうだった。保存の効く乾物とはいえ、フルーツが食えるのはありがたいな。ビタミン類の補給は大事だ」
ビタミンが何だかわからないロラは首を傾げたが、シンは中央大陸の外から来た人間だと聞かされていたため、ビタミンというのが何を意味するのかはわからないが、シンの国の言葉のなにかであろうと思って深く追求しなかった。
「ほら、ヘンリ。パンとスープとチーズ、それにデザートの干し葡萄だ」
硬い黒パンを受け取ったヘンリの顔が見る見るうちに曇っていく。
今まで柔らかい白パンしか食べた事の無かったヘンリエッテは、この旅で初めて庶民が口にする黒パンを食べたのであった。
その時の事を思い出して、シンは笑う。ヘンリエッテは、いつも食べている白パンのつもりで黒パンに齧りついたが、硬い黒パンに文字通り歯が立たず、パンと偽って石を食べさしたと、顔を真っ赤にして怒り出したのであった。
人の悪いシンは、そのリアクションが壺に入ったらしく、腹を抱えて笑い転げた。
それを見てヘンリエッテの怒りは、益々ヒートアップするが、パーティの母親役でもあるエリーが、意地の悪いシンに拳骨を下した後、黒パンの食べ方を教えた。
スープに浸して柔らかくして食すも、完全には取れぬ硬さと、いつも食べている白パンの豊潤さとは程遠いぼそぼそとした味に、ヘンリエッテと侍女たちは食が進まず残そうとする。
すると、いつもニコニコ顔のエリーが、まるで火山が噴火したかのように怒り出し、残さず食べるようにと叱った。
そのあまりの剣幕と豹変ぶりに、ヘンリエッテと侍女たちは驚き、涙目になりながら平らげ、以降も出された食事はエリーの監視のもとで、一欠けらも残すことを許されず食べさせられていたのだった。
「そんな顔すんな。その不味い黒パン欲しさに、盗みを働き人を傷つける者もいるのだ。食えるだけマシだし、この限られた状況で食事を用意した者たちに感謝しないとな。それと、食事はきちんと取れよ。でないと、身体がばてちまうぞ」
渋々といった感じで黒パンを、これまた冒険者用に味付けされた塩っ辛いスープに浸して食べる。
ヘンリエッテや侍女たちが、まるでお通夜のような顔をする中で、野営地のあちらこちらでは、豪華な食事に対しての喜びの声が上がっている。
「……不味いわ……」
ポツリとヘンリエッテが呟く。
そんなヘンリエッテに、シンは諭すように優しく話しかける。
「ヘンリよ……お前らは、その未熟さから斥候役も野営の時の見張りも免除されている、はっきり言えば半人前のお荷物だ。その半人前のお荷物が、出された食事の味をどうこう言うのは、百年早いとは思わんか? 特にお前は、冒険者であっても皇族である。その皇族が、飯の味にケチを付けて暗く沈んでいるのを見たら、周りの者たちはどう思うか考えろ。たとえどんなに不味くても、笑顔で美味いと言って明るく気丈に振る舞え。いいか……見栄ってのはな、こういう時にこそ張るもんなんだぞ」
ヘンリエッテは周囲を見回したあとで、己の未熟さを改めて思い知らされて赤面して俯いた。
唇を噛みしめ、込み上げてくる嗚咽を必死に堪える。誰に命令されたのでもない、これは自分自身が望んだ事。それなのに、いつの間にかその事すら忘れてしまうなんて……しかも、エマを始め自分に付き従う者たちを巻き込んでいるのに……
その日より、ヘンリエッテは食事に文句を言う事は無くなった。それどころか進んで食事の用意や片づけを手伝い、また旅の間、もろもろについて一切の不満を口にすることは無かった。
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「チッ、こちらはハズレか……直ぐに早馬を出せ。離宮に皇女は居らずと伝えよ。我々も直ちにこの場を離れ、皇女がいると思われる使節団の追跡に入るぞ」
「はっ、直ちに」
皇女が乗っていると思われた一際豪華な馬車の中は、まったくの空であった。
帝都より発した離宮へと向かう行列を強襲した謎の騎兵たちは、瞬時にしてこれが囮だったと知ると、現れた時と同じように、たちまちの内に走り去って行った。
この日、離宮へと向かう一行が、謎の騎士団に襲われて壊滅的打撃を受けた。
その報を受けた皇帝は、帝都より直ちにその不埒者たちを討伐すべく軍を出したが、時すでに遅く、現場は元よりその周辺に不埒者たちの影は無く、網を広げ捜索するも、それらしき者たちの痕跡すら掴むことが出来ずにいた。
「直ちにシンに知らせよ、それと同時に使節団を守るべく兵を出せ! 西の街道周辺の貴族たちにも触れを出して、狼藉者どもを探し出せ、急げ!」
皇帝の飛ばす下知には、多分に怒りと焦りが込められていた。まさか、これ程までにあからさまで直接的な蛮行に及ぶとは思いもよらぬ事であったのだ。
皇帝もシンも、直接的な攻撃よりも毒殺などの暗殺に注意を払っていたのだった。
皇帝は、犯人を皇后一派の手の者であると推測していた。だが後日調べたところ、実はこの件に皇后一派は、直接的には一切関わってはいなかった事が判明する。
ならば、この怪しげな襲撃者たちは一体何者であろうか?
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昨日は凄い雷雨だった。一時停電もしたし、雷が収まるまでPCを含め、電化製品の電源コード全て抜いてました。




