最初で最後の我儘
翌日からシンは近衛騎士養成学校へと通い、弟子のクラウスよりヘンリエッテたちの訓練を引き継いだ。
「ご苦労だったな。もう自分の訓練に戻っていいぞ。それでどうなんだ? 皇女殿下は」
校庭を御付の侍女たちと共に、延々と走り続けているヘンリエッテを見てシンはクラウスに聞いて見た。
クラウスもまた、走り続けるヘンリエッテたちから目を離さずに、その問いに答える。
「師匠、あいつらは筋はいいよ。何より意志が強い。このまま続ければものになるかも」
「そうか……だが、時間があまり無いんだ。だからクラウス、皇女殿下たちが何か困ったりしていたならば、手を貸してやってくれ」
クラウスは元よりその積りであったので素直に頷く。
「それでどうだった? 人を育てるというのは」
「師匠、難しいよ……やってみて初めて師匠の気持ちがわかった気がする」
「そうだな、人を育てることほど難しい事はない。これから先、お前は部下を持ち、育てて行くことになるだろう。短い間しか経験させてやることが出来なかったが、この経験を次に活かせよ」
クラウスはシンに向かい黙って頭を下げる。師匠は何時だって自分を気にかけてくれる。
クラウスにとってシンは親であり、兄であり、共に戦った戦友であり……シンもまた、親の愛に恵まれていなかったであろうクラウスに、かつての自分の姿を重ね合せ、弟子として、また子や弟として愛情を惜し気も無く注ぎ込んだ。
クラウスはそのシンの愛を胸に、ひしと感じ取っていた。
訓練の引き継ぎをしたシンは、走り終えたヘンリエッテたちに直ちに水分の補給をするように命じる。
慣れて来たとはいえ、息も絶え絶えのヘンリエッテたちはよろよろと井戸に向かい、水を掬い上げると餓鬼の如く貪り飲んだ。
水を飲み終わると今度は水をそのまま頭から被り、火照った体を強引に冷やしていく。
その頃になると、やっと年頃の少女たち特有の小鳥の囀りのような喋り声が聞こえ始める。
シンは近づき、程良いところで手を叩いて止めさせると、次の訓練へと移行する。
「よし、次は剣を構えろ。そしてそのまま、じっとして動くな」
ヘンリエッテたちは言われた通りに、実剣と同じ重さとなるようにと、中に砂を入れ調整してある木剣を手に取り構える。
構えてから一分、二分、三分と時間だけが過ぎて行く。
すでに剣先はプルプルと震え、ヘンリエッテを始めどの娘も、頭から水を被り汗を洗い流したばかりだというのに、再び顔中から汗が吹き出している。
「そこ! 剣を下げるな!」
叱られたエマは、体をビクリと震わせた後、文字通り歯を食いしばって腕に力を込める。
それを五分続けて五分休むを何度も繰り返して、本日の訓練は終了した。
終わり際にシンはこの訓練の意義を、ヘンリエッテたちにもわかるように自分の体験を踏まえて教える。
「剣をまともに持つことが出来ない者が剣を振っても、その重さに引き摺られてしまうだけだ。それに、戦いに於いては、しばしば睨み合いになることがある。そうなったら大抵の場合は、先に隙を見せた方が負ける。それと最後は体力、そして気力だ。技量未熟ならばなおのこと、体力と気力だけは相手より勝らねばならない」
カイルやクラウスたちに教えたときもそうだが、シンは必ずその訓練がどうして必要か、また何の役に立つのかを教えた。
いくら厳しい修行や訓練をしても、一朝一夕で劇的に変わるわけではない。
何も説明せずに、ただ闇雲にやらせるだけでは、訓練自体に懐疑的になったりだらけてしまう事も多くなる。
それを身体だけでなく、頭にも教え込むことで各々が訓練の意義を知り、自発的に励むようになるのだとシンは自身の経験から感じていた。
この方法は弟子や生徒たちからは好評で、教官たちもこの手法を積極的に取り入れる事で、生徒たちのやる気を引き出していた。
それにしても……と、シンは思う。この世界の勤勉さ、必死さは元の世界の日本には無いものであった。
やはり日常的に危機に晒されている者と、そうで無い者の差が大きいのだろう。
手を抜けば即ちそれは自分の死。それとともに死が身近で、いつ自分が死ぬともわからないからこそ、今この瞬間を大事に、大事に生きるのだろう。
特にこの近衛騎士養成学校の生徒で今残っている者たちは、やる気に満ち溢れており、教える側としては水を吸うスポンジの如く技術や知識を蓄えていく生徒たちに、やり甲斐を感じていた。
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それから瞬く間に数日が過ぎた頃、ヘンリエッテは兄である皇帝に呼び出しを受けた。
宮殿の奥、皇帝の現在唯一のプライベート空間と化している第二応接室で、兄妹は久しぶりに余人を交えずに談笑をする。
「ヘンリよ、今から余が申す事についてもし嫌であったら、拒否しても良い」
談笑によって綻んでいた口許を引き締めなおした兄を見て、ヘンリエッテも居住まいを正す。
「改まって何ですの? まぁ兎に角わかりました。兄上、お話をどうぞ……」
そう言われた皇帝は、何度か紡ぎだそうとした言葉を飲み込んだ後、意を決したように口を開いた。
「ヘンリよ、お前の婚姻の話だ」
やはり、とヘンリエッテは思った。自身が結婚適齢期である以上、この話からは逃れられない。
でも……とヘンリエッテは、頭の中で首を傾げる。いま現在の状況で、自分を欲する貴族家なんて居るのかしらと。
「ヘンリ、お前にはエックハルト王国に嫁いで貰う。相手は、パットル王子。現国王の一人息子であり、世継ぎが決まっている王太子だ。話によれば、性格は穏やか、人当たりも良く家臣や国民の人気も高い好人物だそうだ」
臣下に降嫁するのではなく、他国に嫁ぐと聞かされて驚きはしたが、かえってその方が良いとヘンリエッテは思った。
ヘンリエッテは、皇帝ヴィルヘルム七世が一時とはいえ後継者に指名したほどに、聡い娘であった。
この話を聞いて、自分の帝国内での価値が失われつつあるのを瞬時に悟るとともに、この先の展開を読んでもいたのだった。
おそらく十中八九、兄上と義姉上は破局を迎えるだろう。それも、限りなく不幸な形で……その時に、自分がこの帝国に居てはもしかすると、兄上の邪魔になりかねないのではないかと。
ヘンリエッテは立ち上がり大きく息を吸い込むと、手をピンと伸ばして訓練でいつもやっているラジオ体操の深呼吸をする。
「わかりました兄上、わたくしはエックハルト王国のパットル王子とやらに嫁ぐと致しましょう。ですが……ですが、一つだけわたくしの我儘をお聞き入れくださいまし、帝国を去るこのヘンリエッテ、最初で最後の我儘で御座います」
膝を付き首を垂れてそう述べるヘンリエッテを見る皇帝の目は、限りない慈愛に包まれていた。
「申せ、可能な限り善処しよう」
「では、お言葉に甘えまして……一度で良いので、冒険がしとう御座います」
皇帝は絶句した。頭の中でヘンリエッテが言った言葉がぐるぐるとまわり続ける。
一体何を言っている? 冒険? 冒険だと!
「な、なななな、ならぬ! 何を申すかと思えば、とんでもないことを言い出しおってからに!」
「可能な限り善処すると言いました!」
先程までの殊勝なしおらしさは何処へやら……立ち上がり頬を膨らまして、睨み付けてくる妹に兄はたじろぐ。
「お願いです、兄上。一度で、一度だけで良いのです。何も竜を倒しに行くとは言いませんわ、ただ、ただ憧れていた外の世界をこの目で見てみたいのです」
必死に懇願する妹に根負けした皇帝は、善処するので考える時間を貰うと力なく呟くのが精一杯であった。
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