誇り高き皇女
皇女ヘンリエッテとその侍女のエマは、厳しい訓練を終え宮殿の自室へと戻るとヘンリエッテはベッドに、エマはそのまま床へと倒れ込んだ。
二人の脚全体が熱を帯び、棒のようにこわばり立ち上がるのも困難な状態であった。
その様子を見た他の侍女が、すぐさま治癒士を呼んできて治療にあたらせる。
治癒魔法を掛けられたヘンリエッテとエマは、どうにか立ち上がることが出来るようになったが、動きがどうもぎこちない。
それもそのはず、筋肉というのは破壊され再生することで大きくなる。その再生の部分を魔法で早送りしたので、体の感覚が追いついていないのであった。
それと同時に、二人の腹が部屋中に響き渡る程大きな音量で鳴り響く。
二人は顔を見合わせると顔を真っ赤にして俯き、それを見た侍女たちは口に手を当てて笑いを堪える仕草をするが、その隙間から抑えられない笑い声が漏れてしまう。
ヘンリエッテが散々叩かれ腫れ上がった尻にも治癒魔法を掛けて貰うと、侍女たちはもう我慢ならず腹を抱えて床を転げまわった。
屈辱に顔を真っ赤に染めたヘンリエッテが、その侍女たちを睨み付けるが、うつ伏せで尻を丸出しにしている状態では滑稽なだけである。
ヘンリエッテは表面的には天真爛漫、部下の失態も咎める事も無く、身分にかかわらず誰にでも気安く声を掛け、侍女や使用人たちにとっては距離が近く親しみやすく仕えやすい主であった。
最初は笑い転げていた侍女たちもエマから話を聞き、ヘンリエッテの尻の腫れは、剣のひらで何度も叩かれたことによるものだと知ると憤慨した。
「姫様! そのような野蛮な男、早速陛下に直訴して処分して頂きましょう!」
ヘンリエッテは激しく憤る侍女たちを尻目に、三日前のことを思い出していた。
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その日ヘンリエッテは珍しく兄である皇帝ヴィルヘルム七世に、皇族が暮らす宮中の居館ではなく宮殿の執務室に呼び出されていた。
ヘンリエッテが執務室に入ると侍女にお茶の用意をさせ、それが終わると部屋の中にいる全ての者たちを追い出し人払いをした。
「すまぬな……ヘンリよ……」
開口一番、謝罪し頭を下げる兄にヘンリエッテは戸惑う。そして戸惑いながらも、兄に勝るとも劣らない聡明さを持っているヘンリエッテは、その謝罪が何を意味しているのかを悟っていた。
「わたくしは……わたくしも帝国の皇族です。国のためならどんなことにも耐えて見せますわ」
その誇り高い言葉を受けて、皇帝はますます頭を深く下げる。
昨今世継ぎを産んだ皇后マルガレーテとその一族は増長し、密かに皇帝を廃し国政を壟断せんとの野心を抱いていた。
皇帝を廃する前に、他の帝位継承権を持つ者たちをどうにかして廃さんとし、その魔の手が皇女ヘンリエッテにまで及び始めていたのだ。
皇后マルガレーテはブレス侯爵家の長女で、ヴィルヘルム七世とは幼少の頃より婚約者とされて育って来た。外の事など何も知らずに、蝶よ花よと大切に育てられた彼女にとって、世界とは宮中と社交界が全てであった。
世継ぎを産んで国母として安泰の地位に就いたそんな彼女に、新しい世界があることを教えたのは彼女の父親であるブレス侯爵であった。
贅沢に慣れているマルガレーテは、倹約家の夫であるヴィルヘルム七世と度々角を突合せていた。
それでも夫婦仲はそれほど悪くは無かったが、世継ぎであるアルベルト皇子を産むとその性格は一変してしまう。
夫である皇帝ヴィルヘルム七世を退位させ、アルベルト皇子を玉座に据えれば、母親である自分がこの帝国の全ての富を独占できると、父親であるブレス侯爵に吹き込まれて、すっかりその気になってしまう。
また、ブレス侯爵も幼少のアルベルト皇子が玉座に就けば、自分は摂政として今以上の権力を手中にすることが出来ると、胸中に俄かに起こった野心に火を点けてしまう。
まずは邪魔者の排除からと、自分の一族や息の掛かった者たちを要職に就けるよう働きかけ、それと同時に皇位継承権を持っている中でも有力なヘンリエッテを排除するよう動き始めたのだ。
ブレス侯爵の野心に皇帝は勿論気が付いていた。妻と離縁してでも当然排除するべきではあるが、時期が悪かった。
近いうちに起きるであろう聖戦の前に、下手をすると大規模な内戦に突入するかもしれない危険を今犯すわけにはいかない。それにその内戦が聖戦の呼び水や引き金になってしまう恐れもあったのだ。
またしても起ころうとしている身内の造反に、皇帝の心の温度は氷点下まで冷め切った。
最早妻を見ても、胸の内に湧き上がるは愛情では無く憎悪。だが、半分は自分の血を継いでいる皇子アルベルトの事を思うと不憫に思えて仕方がない。
一方、ヘンリエッテの方は実の姉妹のようだとまで言われていた義姉の態度の豹変に、心を痛めていた。
幼いころより叔父のゲルデルン公爵に命を狙われたりと苦労してきたヘンリエッテは、ちやほやと甘やかされてきた皇后マルガレーテよりは、世界も現実も知っている。
やんわりと棘の無いように細心の注意を払いながら諫言するが、マルガレーテは聞く耳持たず、返ってヘンリエッテに辛く当たるようになる。皇太后が間に入るも、まるで収まる様子は無く、返って告げ口をしたと火に油を注ぐ結果となってしまった。
このままでは妹の命が危ないと思った皇帝は、ヘンリエッテの帝位継承権を放棄させ、誠に不本意ながらも愛する妹に虚仮を演じて貰う事にした。
日中もなるべく顔を合わせ無いようにと配慮し、護衛を付けて演劇鑑賞や遠乗りに行かせたりさせていたのだった。だが、演劇や遠乗りを毎日続けるのも厳しい。こちらの警戒心が丸見えであるし、それでは虚仮を演じている意味が無い。
これと言った打開策が思いつかない皇帝は、シンに相談といった形で手紙を出した。
勿論、戦地にあるシンに無用の心配を抱かせぬように配慮して、真相は隠したままであったが……
シンの返信には近衛騎士養成学校に通わせてはどうか書いてあったのを見て、皇帝は閃く。これは良い口実になると……
早速ヘンリエッテを呼び出し、この事を話すとヘンリエッテは一も二も無く頷き、近衛騎士養成学校に通う事を了承した。
「兄上、お気になさらずに……わたくしは、兄上の足手纏いになりたくはありません。それに、剣を習えば自分で自分の身を守れましょう」
すまぬと重ね重ね詫びる兄に、ヘンリエッテは優しげな瞳を向ける。
本当は誰よりも優しい兄を、血の繋がった家族以外は誰も知らない……いや、誰も知ろうともしない事に深い悲しみを抱かずにはいられない。
今までの非情な決断の裏でどれほど心を痛めているか、それを知るのは自分と母だけ……
そう考えていたヘンリエッテは、一人のある人物を思い出す。
シン……兄と親しいあの人はどうなのだろう?
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「無用です。わたくしは明日も近衛騎士養成学校へ行きます。わたくしは、一度やり始めたことを途中で投げ出すような真似はしたくはありませんから」
裏に誰にも言えぬ事情があるが、口に出したこともまた真実であった。
物事を途中で投げ出すのを良しとしないヘンリエッテも性格を、侍女たちは良く心得ていた。
侍女たちはその心意気に感激し、自分もお供をすると言い出す中で、エマだけが絶望の表情を浮かべ口から魂が脱け出てしまっていた。
翌日もヘンリエッテは近衛騎士養成学校へと向かう。この事は早速社交界での噂話になり、皇族の子女でありながら野蛮な剣を嗜むとは、狂を発したかと嘲笑の的となった。
だが、この近衛騎士養成学校に通ったという事実が、ヘンリエッテの後の人生の岐路となるのだった。
更新滞り申し訳ない限りです。
変な時間に寝て、これまた変な時間に起きてしまった。




