皇女の尻を叩いた男
校長の命により、皇女とその侍女の二人の面倒をみることになったクラウスは、戸惑いながらも二人を連れて校庭へ出る。
そんな三人を、校庭で訓練を続けていた級友たちは遠巻きにしてざわめく。
「おい、あれ……ヘンリエッテ様じゃないか?」
「まさか! いや……本当だ、ヘンリエッテ様だ!」
「いったいどうして皇女殿下がこのような所に……そうか、視察か! ここは我らの修行の成果を御見せせねばなるまい」
わいわいガヤガヤとざわめく級友たちを無視して、クラウスは二人を連れてトラックの方へと向かって行く。
それに気が付いた級友の一人であるエーミールが、クラウスを慌てて追いかけて行った。
「おい、クラウス! お前何をする気だ? 皇女殿下は視察に来られたのだろう? ならば、我々の訓練を是非に見て貰うべきではないか?」
勘違いをしているエーミールにこれまでの経緯を話すと、飛び上がらんばかりに驚き、即刻中止してもう一度校長に掛け合うべきだと主張し出した。
「やれって言われて引き受けたからにはやるまでさ。皇女殿下……ヘンリエッテもやる気みたいだしな」
皇女殿下を呼び捨てにするなど畏れ多いと、エーミールが激昂するのを無視して、クラウスは準備運動の必要性を二人に説き、自分の真似をするように命じた。
「なるほど。まず最初に体を温めて筋肉を解し、体を動きやすくするのね……わかったわ!」
この近衛騎士用背学校では準備運動の一部に、シンが教えたラジオ体操が取り入れられている。
大股を開くような、乙女としては恥じらうような体操もヘンリエッテは平気な顔をしてこなす。
侍女であるエマの方が、恥ずかしがっていやいやをするというあべこべさ加減に、思わずクラウスとエーミールは互いの顔を見合わせた。
クラウスはエーミールに、興味津々の様子でこちらを窺っている級友たちに事情の説明に行かせると、今度は柔軟運動を教える。
「今度は身体を柔らかくする運動ね。こんな事、今まで誰も教えてくれはしなかったわ。面白いじゃない!」
その余裕がいつまで続くのかと、この先の事を予見したクラウスは吹き出しそうになるのを必死に堪える。
案の定、直ぐに踏み潰された猫のような叫び声を上げながら、背中を押すクラウスにあらん限りの罵詈雑言をぶつけ出した。
こうなってしまっては皇女の威厳もへったくれもない。それまで鼻の下を伸ばして、遠巻きに成り行きを見つめていた男たちは互いに顔を見合わせ、百年の恋が冷めたような顔をしながら元の訓練へと戻って行った。
ヘンリエッテの次はエマである。エマは初めて感じる痛みに涙を流し、人前も憚らずにわんわんと泣き叫ぶ。
それを見たクラウスは先が思いやられると、天を仰ぎながら心の中で、こんな命令を下したわが師に対する愚痴をこぼすのであった。
俺がお前にやったように、一切手を抜くな。そう手紙には書かれていた。
――――本当に大丈夫かなぁ……まぁ言われたからにはやるしかないか……まぁ、今日一日で根を上げるだろうし、今日だけの辛抱だなこりゃ。
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何とか柔軟運動をこなした二人は、既に息絶え絶えである。そんな二人を目にしながらも、クラウスは一切の手抜きや情けを掛ける事は無かった。
「はぁ? 走れですって? 剣を教えるのではなくて?」
やっと剣を教えて貰えると思っていたヘンリエッテは、クラウスが出し惜しみや自分を女だと侮っているのではないかと、憤懣を感じずにはいられなかった。
不服そうに頬を膨らますヘンリエッテに、クラウスは理を以って説き伏せる。
これをもし師であるシンが見ていたのならば、弟子の精神的な成長を喜んだであろう。
「体力も無いのに剣を振り回すのは危険極まりない。いくら訓練用の刃挽きした剣とて、怪我もするし最悪死に至ることもある。まずはしっかりと、剣を振れるだけの体力を付けるのが先決。ここの生徒は誰もが皆そうやってきたんだ。あんたもこの学校に入ったからには、皆と同じメニューをこなして貰う」
ヘンリエッテは頬を膨らませたまま、渋々校庭を走り出す。エマも、やはり渋々といった様子でヘンリエッテの後に続いた。
大きく校庭を一周。軽く息を切らせながらクラウスの元へと戻って来たヘンリエッテは、言われた通り走ったわよ、さぁさっさと剣を教えなさいとのたまった。
それまで色々と抑えていたクラウスの顔に朱が差し、口から爆発するように怒声が飛び出した。
「阿保か! 誰が止まっていいと言ったか! さっさと走れ、俺がいいと言うまで走り続けろ!」
ヘンリエッテは怒声を浴びて一瞬硬直するが、直ぐに気を取りなおしてクラウスに食って掛かった。
クラウスは反論もせずに素早くヘンリエッテの後ろにまわると、手に持っていた訓練用の剣の腹で尻を力いっぱいぶっ叩いた。
ばちーんという大きな音、それに僅かに遅れて響き渡る大きな悲鳴。クラウスは、ヘンリエッテが走り出すまで馬に鞭をくれるように何度も何度も尻を叩いた。
「とっとと走れ! エマ、お前もだ!」
尻を抑えながら必死の形相で駆けて行くヘンリエッテの後を、エマは涙を浮かべながらこれまた必死に追いかける。
とんでもない所に来てしまった。御付の侍女としてどこまでも着いて行こうと思っていた決意が、今まさに砕け散ろうとしていた。
それからも足を止める度に怒鳴られ、皆の前で尻を叩かれながら二十キロ程走らされた二人は、人目も憚らずに地面に大の字になって寝ころび、荒々しい呼吸を繰り返していた。
そんな二人に、ざばっと上から冷水が掛けられる。
「ゴホッ、ゴホッ、何を!」
口や鼻に水が入ったのだろう、咽ながら弱々しく抗議するヘンリエッテと、同じく咽ながら大粒の涙を零すエマ。
クラウスは多少の憐れみを感じながらも、口からは非情の言葉を紡ぎだす。
「この程度でへばっているようじゃ、ここでは剣は学べない。どうやら精も根も尽き果てているようだな、今日はこれまで……とっとと帰れ!」
そう言ってクラウスはさっと踵を返すと、二人を残して何処かへと去って行った。
校庭で訓練しながら成り行きを見守っていた者たちは、教官から三人の邪魔をするなと厳命されていたので、誰も手を差し伸べる事が出来なかった。
よろよろと立ち上がり、ずぶ濡れのまま重苦しい足取りで校舎へと歩いて行く二人を、皆は憐れみを感じながらも見て見ぬふりをする他なかった。
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「クラウス! やり過ぎだぞ!」
級友たちの抗議に、クラウスはどこ吹く風。自分たちの抗議を軽く流されたのに腹を立てて、抗議は糾弾へと変わり始める。
「相手は皇女殿下だぞ! 我々と同じメニューをこなすのは無理だ。明日からは、もっと優しくだなぁ……」
「馬鹿も休み休み言え。優しく教えてモノになるかよ! それにあの二人、泣き喚きながらも最後まで……ぶっ倒れるまで走ったぜ。もしかすると、もしかするかもな……」
そういえばと、級友たちも顔を見合した。
「まぁ、今日で懲りて明日はもう来ないかも知れないけどな」
「そうだなぁ……それにしても皇族だっていうのに、クラウスのあの容赦のなさと言ったら……」
エーミールまでもがクラウスのやり方に対して軽く非難をする。
「生兵法は大怪我の基。俺は師匠にそう教わった。それに師匠と校長、そのどちらも手を抜くなと言うんだからしょうがない。俺は、この学校のやり方であの二人を遇するまでのことさ」
校長の許可が出ていると聞いてしまっては、誰もが口を閉ざすしかない。
更にはこの学校の発案者であり、元特別剣術指南役で国家的英雄のシンまでもがそう言うのならば、弟子のクラウスでなくともそれに従う他はないだろう。
「よ~し、それじゃ明日あの二人が来るかどうか賭けをしないか? どうだ?」
お調子者が賭けを提案すると、その場に居るほとんどの者がその賭けに飛びついた。
大方の予想は、今日の事で心折れた皇女殿下は明日は姿を現さないという方に賭けたが、クラウスは逆に明日も来る方へと賭けたのだった。
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後日、クラウスがヘンリエッテの尻を叩きながら校庭を走らせたという話を聞いた皇帝は、その場に崩れ落ち人目も憚らず笑い転げたという。
シンもそれを聞いて、膝を叩いて大笑い。クラウスは皇女の尻を叩いた男として一躍有名になるのだが、尻叩きのクラウスと何とも締まらぬ二つ名を付けられた当の本人は、あまりのショックにがっくりと肩を落として落胆し嘆いたという。
すんません、投稿遅れました。マジで夏バテっす。




