クラウスの受難
「おーい、クラウス! 教官殿がお前を呼んでいるぞ!」
帝都シャルロッテン・ヴァルデンベルクにある近衛騎士養成学校の校庭で、小一時間ほど前から無心になって剣の素振りをしていたクラウスは、級友の声に意識を現実へと引き戻された。
手を振りながら歩み寄って来る級友が、クラウスにそれっと、タオルを放り投げた。
クラウスは宙をひらひらと舞うタオルを、礼を言いながら手を伸ばしてキャッチすると、顔中から溢れ出している汗を素早く拭う。
「教官殿が? 俺に何の用だろうか?」
「それは知らん。俺はただクラウスを呼んで来いと言われただけだからな……お前、この前の座学の試験、あんまり良くなかっただろう? 大方その事じゃないか?」
周りで練習していた者たちも、何だ何だとわいわいがやがやと集まって来る。
級友の指摘通り、この前の帝国の歴史の試験でクラウスは落第点ギリギリの点数しか得ることが出来なかった。
これは何もクラウスだけでは無く、平民出身の多くが苦手とする科目であった。
貴族であれば、どの家にも帝国や自家の歴史を記した書物の一つや二つは所有しており、一度は必ず紐を解いて読むことを義務付けられてもいようが、平民の家にそのような物は無い。
そもそも平民の家には、本や書物に類する物すら無いであろう。製紙の技術は確立してはいるものの、紙を一枚作るのにも膨大な時間と費用が掛かるため、この帝国……いや、中央大陸 では本や書物というものは、物凄い高価な物であった。
この学校に来て初めて本に触った者も多く、小難しく古めかしい表現で記されている事の多いそれらを、平民出の者たちは大の苦手としていたのだった。
「拙いなぁ……こんな所で躓きでもしたら、師匠に顔向けが出来ねぇや……」
普段気の強いクラウスが弱音を吐くのを初めて見た級友たちは、咄嗟に慰めや励ましの言葉も出ずにただただ茫然と校舎の方へと歩き去るクラウスの背を見つめるばかりであった。
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訓練用の装備を返却し職員室へと向かうと、クラウスを呼び出した教官は成績の事などには一切触れずに、直ぐに校長室へと向かうようにと言う。
座学の成績の事についてのお叱りを受けるとばかり思っていたクラウスは、ホッと胸を撫で下ろすと言われた通りに校長室へと向かった。
近衛騎士養成学校の校長を務めるのは、ヴァルター・フォン・ハーゼ伯爵である。
すでに隠居の身で、伯爵号自体は跡取り息子のウルリヒ・フォン。ハーゼに譲り渡しているが、その伯爵然とした容貌と親しみを込めて、周りからはハーゼ伯爵、または老ハーゼ伯と呼ばれている。
学校では、単に校長あるいはハーゼ校長と呼ばれ、歴戦の強者でありながらも好々爺でもあるハーゼ伯爵は、生徒達から絶大なる信頼を得ていた。
「騎士見習いのクラウス、仰せにより罷り越しました」
校長室の分厚い扉を力強くノックしクラウスが名乗ると、中から長い戦場働きにより若干枯れたハーゼ伯爵の声で、入室を許可する旨が伝えられる。
クラウスは授業で習った礼儀作法に則り、と言ってもクラウスはこの手の手習いは苦手としており、どうにか及第点と言った所ではあったが扉を開けて一礼する。
「よく来た、騎士候補生クラウス」
「はっ、校長……御用件は何でしょうか?」
クラウスはシンを通じてハーゼ伯爵とも何度か、学校が出来る前にも会ってはいる。
だが、直接長々言葉を交わしたことも無い。更には帝国有数の叩き上げの武門の家柄で、伯爵号を有していた大貴族であり、戦場での武勲も年齢に比例するかのように巨大なものがあった。
そのような人物を前に、緊張するなと言う方が酷と言うものである。
現にクラウスは、緊張に背筋が痛いほどに張り、額には薄く汗が浮き出ている。
「そう急くでない。クラウス候補生には、一つ頼まれて欲しい事があって呼んだのだが……」
ハーゼ伯爵がちらりと部屋の片隅に視線を送る。
それに釣られてクラウスも見ると、そこには二人の女性がソファに座って、優雅にお茶を楽しんでいた。
より正確に言えば、大人っぽいクラウスより一つか二つ年上であろう女性と、クラウスより若干下であろう生意気そうな小娘の二人であった。
ハーゼ伯爵は、言い辛そうに眉を顰めながら言葉を続ける。
「そちらにおわすお方は、皇帝陛下の妹君の……皇女ヘンリエッテ様、そしてその傍らに控えるのは皇女殿下御付の侍女のエマ嬢……」
クラウスは当然驚いたが、その内容は多くの者が思っているのとは違った。
――――なんだ? こんな生意気そうなちんちくりんが皇女殿下だって? 嘘だろ、おい! 誰か嘘だと言ってくれ……皇女殿下ってぇのは、もっとこう……お淑やかそうで、それでいて優しそうで儚げで……目の前に居るのはまるでそれとまったくの正反対じゃないか!
思っていることが素直に顔に出てしまうのが、クラウスという少年である。社交界などでの駆け引きを、それなりにはこなしている皇女ヘンリエッテは、驚きの表情の中にそれらの感情を読み取った。
この者も自分を小馬鹿にするのかと、ヘンリエッテは口許をきつく結びなおしキッとクラウスを睨み付ける。
だがその程度では、クラウスはたじろぎもしない。本物の鋭い眼光を宿す二人の女性とパーティを組んでいたクラウスにとっては、ヘンリエッテの睨み付けなど児戯に等しい。
「おほん……クラウス候補生、ここにそなたの師からの手紙がある。今ここで読み、決断してほしい」
ハーゼ伯爵が差し出す手紙を受け取ったクラウスは、早速言われた通りに封を切り手紙に目を通す。
シンからの手紙を読むクラウスの表情は、まるで宝物を目にした少年のようにキラキラと輝いて見えた。
一瞬、その美しさに目を奪われそうになったヘンリエッテは、慌てて視線を外すと冷めかけているお茶に口を付ける振りをし、冷静を保とうとする。
久しぶりに見る師の力強い文字の数々。同じ帝国語でも、多くの者は流動的に軽やかに書き示すのに対し、シンの書く文字は力強くはねたり、止まったりして独特の趣がある。
それは単に、シンが日本語を書くときの癖が抜けきっていないためであったが、クラウスは流動的で繊細な書き方よりも、シンの野太くダイナミックな書き方を好み、自身もその真似をした。
最初こそ目を輝かせて食い入る様に手紙を読んでいたクラウスだが、その表情が段々と曇りを帯びてくる。
手紙を要約すると、騎士となれば部下に教育を施すこともあるだろう。その練習として皇女ヘンリエッテを、一端に鍛え上げて見ろと書かれていた。
更に騎士になれば、やんごとなき身分の者たちと接する機会も多くなることだし、これはこれでいい機会であると。
そして最後には、自分がクラウスにやったように絶対に手を抜くなと締めくくられていた。
「校長、こ、これ…………」
クラウスの言葉をハーゼは手を上げて遮って言った。そこに記されている全てを許可すると。
「う、嘘……本当に?……」
信じられないと言った表情でハーゼの顔を覗き込むも、ハーゼは顎髭を手で扱きながら穏やかな笑みを浮かべるばかりである。
「殿下、エマ嬢ともに今より一候補生として扱わせて頂きますが、異論はございませんな?」
覚悟のほどを問われたヘンリエッテは、手に持ったカップを音も立てずにテーブルへ置くとにわかに立ち上がった。
「勿論の事。この学び舎の門を潜った時よりとうに覚悟は出来ています」
侍女のエマもヘンリエッテに僅かに遅れながら立ち上がり、ハーゼに対して深々と首を垂れた。
「よろしい。では、クラウス候補生。そう言う事なので、後はよろしく頼んだぞ。この二人には座学は免除となっている。実技と軍事に関わるもの以外は教えずとも良い。わかったのなら、早速訓練を開始せよ」
クラウスはほとほとに困った顔をしながら天上を仰ぎ、ここには居ない師に心の中で救いを求めた。
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