帝国の剣
「急げ! 敵はもうすぐ後ろまで迫って来ているぞ!」
シンは大声を張り上げ味方を急かす。
既に兵の大半は坂を上り切り、今峡谷の底に居るのはごく一部の兵のみである。
シンは兵たちを急かしながら、自身も油の入った樽を担ぎ、蓋を開けると地面へと撒いていく。
撒かれた大量の油は、瞬く間に地面へと吸い込まれていくが、お構いなしに次々とその上からどんどんと注がれ続け、次第に大地が吸いきれなくなった油が水たまりを作るようになった頃、追撃して来た敵の先頭が喚声を上げ、剣を掲げ、槍を扱きながら突っ込んで来た。
「クソ! 思ったより早い……これまでだ、引き揚げろ!」
下知を飛ばしながら自身も油だまりから離れ、全員が退いたのを見届けてから、火炎放射の魔法で地面に溜まった油に火を点けた。
ぼわっと一瞬で炎が膨らみ爆ぜ、黒煙をぶすぶす高々と上げたのを見て、敵は慌ててその足を止める。
敵の動きが炎の壁を前にして完全に止まった隙を、崖の上の帝国軍は見逃しはしなかった。
「射て!」
指揮官の号令の元、敵に向けて無数の矢が放たれる。それとともに力自慢たちが、岩を投げ、落とした。
炎の壁に遮られ呆然としていたところを、頭上からの攻撃に晒された敵軍は、前に進む事かなわず後ろへ後ろへと逃げようとする。
だが狭い一本道で、後から後からと前進して来る兵に遮られて、後退もままならず押し合いになり全体の動きが止まってしまう。
そこへ更に後方から追い立てられた兵たちが加わったため、混乱に拍車が掛かってしまう。
揉み合い押し合いが続き、上からは矢と岩の雨、味方の兵は潰れ、踏み殺される地獄絵図。
総指揮官であるシラー将軍は既に戦死、その他の本陣付き将校たちも同じように戦死、残っている指揮官たちも最早指揮どころでは無く、自分の身を守るので精一杯の有様である。
勇敢なごく少数の兵たちが、このまま矢と岩によって倒れるのならばと、立ち上る炎の中へと身を躍らせて突破を図るが、彼らの多くは炎と煙に巻かれて死に、体中に無数の火傷を負いながらも突破した兵たちも、その大半が待ち受けていたシンたちによって討ち取られていった。
それでも数十程の兵が、シンたちの囲みを突破し峡谷の奥へと逃げ去った。
指揮官たちはすぐさま追撃をシンに進言するが、シンはただ一言無用と言ったのみでその場を動こうとはしなかった。
圧倒的な勝ち戦、勝利の余韻に酔ってしまった将兵が、なおも追撃の許可を求めるのを、シンは理を以って諭した。
「もう一度言うが、追撃は無用。逃げ去った敵には此度の戦を敵国全土に吹聴してもらわねばならない。我々は表向きは賊であり、こちらから勝利宣言を堂々とすることは出来ないのだからな」
勝った勝ったと、街や村に早馬を飛ばして勝利の報告をする賊などこの世には存在しない。
もしそんな事をすれば、要らぬ疑惑を持たれてシンたちの正体が露見してしまうかも知れない。
ただ、影や諜報の手を使って噂話としては広めて行くつもりではあった。
戦いに、それも類稀なる大勝利に浮かれていた帝国軍将兵たちは、シンの言になるほどと頷き、勝利に浮かれる事無く普段と同じく冷静沈着なシンに敬服した。
それどころか、シンが帝国に姿を現してからの度重なる勝利に、戦の現人神ではないかとの声も出始め、シンを影で神として奉る者たちも出始めていた。
魔法がある分、科学の発達に若干の遅れが生じている世界である。更には、厳しい自然環境と魔物の脅威に、日々晒されているこの世界の人々は迷信深い。
それは地球も似たようなものではある。祟りを恐れ神として祀ったり、生前の徳行を讃えてのものであったりと様々だが、その時代に活躍した人々が神として祀られた例は多い。
日本の例にすると、菅原道真公などが特に有名である。道真公は時の朝廷より祟りを恐れられて祀られ、人々からは学問の神として崇められている。
戦いは終わった。もっとも、それは戦と言うよりも一方的な虐殺に近いものであったが……
シンは、あえて戦場掃除をせずにヴェルドーン峡谷を後にした。
「帝国へ帰還する。帝国に入り次第、戦死者を荼毘に付しその霊を慰める事とする」
戦死者たちは、アンデッド化しないように首を切り落とされ、担架に乗せられたままラ・ロシュエル国境を越える事となった。
それぞれの遺髪を切り取り、遺品とともに革袋に収め、それはやがて遺族の元へと送られるであろう。
此度の戦での帝国軍の戦死者は四十一名。負傷は軽傷重症を合わせて二十四名。
それに対し、ラ・ロシュエル王国軍の戦死者は二千人を超える。行方不明も数知れず、帝都へと帰還出来たのは僅かに数十名。文字通りの全滅である。
勝利の報は、直ぐに早馬でレーベンハルト伯爵の元へと届けられ、伯爵から皇帝へと報じられた。
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「見たか、聞いたか! シンがまたやりおったぞ!」
執務室で宰相エドアルドより、此度の勝利の報を受けた皇帝ヴィルヘルム七世は、正に飛び上がらんばかりに喜び、その場で大笑した。
普段あまり喜怒哀楽を示さぬ皇帝のはしゃぎように、宰相も近侍の者たちも驚き、途惑う。
「……陛下、それについて諜報総監のブナーゲルより続報が入っております」
「ほぅ、その顔を見ると吉報だな。申せ」
宰相エドアルドは、皇帝にも増して喜怒哀楽を表に出さない。
今も顔の表情は微塵も崩れず、普段通りであるのに皇帝にはその違いが判るのを、近侍の者たちは顔を見合わせて驚いた。
「はっ、ラ・ロシュエル王国の北部の貴族たちのほぼ全ての軍が、自領へと引き上げを開始したとの報で御座います」
これにはさしもの皇帝も驚き、それは真かと二度も尋ね返した。
「ふふっ、ふはははは、これで半年どころか一年以上……いや、もっと時間が稼げたな。シンは……シンは、正に神が遣わされた帝国を覆わんとする闇を斬り裂く帝国の剣よな……余は、余は彼者にどう報いたらよいのであろうか……」
帝国の剣……帝国史にその言葉が刻まれるのはもう少し後のことになるが、近侍の侍従武官長であるウルリヒ・フォン・ハーゼの日記に、この日の皇帝の発した言葉が記されている。
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「ぜ、全滅……全滅と申すか……余の聞き間違いか? 敵が、であろう?」
青ざめ震える顔は、次第に紫色へと変わり始めている。
「いえ、申し上げにくいことなれど……お味方の兵が、で御座います……」
「……シラーめはどうした?」
「極僅かに生き延びた兵によりますれば、御討ち死になされたとの由……」
それを聞いたラ・ロシュエル王国の国王ロベール二世は、紫色の顔色を瞬時に真っ赤に染め上げ激昂した。
誰にも聞き取れぬ奇声を発しながら、手当たり次第に手に掴んだものを床に叩きつける。
はぁはぁと荒い息をつきながら、ぎろりと敗戦の報を伝える武官を睨む。
武官は咄嗟に目を伏せ、首を垂れながらその身をブルブルと震わせた。
王の怒りに触れて、身を滅ぼされては適わない。ここは黙ってじっと耐え、嵐が通り過ぎるのを待つのみである。
だが、怒りはしていてもロベール二世の理性のダムはまだ決壊してはいなかった。
「宰相を呼べ! 直ぐにだ!」
武官は声に弾かれたように這う這うの体で、玉座の間を後にした。
それと入れ違うかのように別の武官が、玉座の間に飛び込んで来る。
「陛下、陛下! 一大事に御座いまする! 北部の貴族たちが、勝手に兵を退きあげた由に御座いまするぞ!」
その報を受けたロベール二世は、ひひひと口の端から涎を垂らしながら哄笑する。
それを見た誰もが狂を発したかと愕然とする中、ロベール二世の不気味な笑い声が玉座の間に響き渡る。
ロベール二世は、笑いながら自身の抱く野望と夢が遠ざかって行く足音を聞いていた。
近隣諸国を平らげ、帝国を打破し、中央大陸に冠を成し諸国に号を下す覇者とならんとする夢が、今まさに崩れ落ちかけているのだ。
――――まだだ……まだ挽回の機会はある! このようなところで、余の覇業は潰えぬ……何者かは知らぬが、余の顔に泥を塗った者を許しはせぬぞ!
評価、ブックマークありがとうございます!
熱中症でしょうか、金曜の日中に屋外に長時間いたためか、帰って来てから頭痛がひどく伏せっておりました。更新が遅れましたことをお詫び申し上げます。申し訳ありませんでした。
いや~、ここ最近本当に暑かったです。水に濡らして叩くと冷え冷えになるタオルとか首に巻いていたんですけどねぇ……




