血ノ盟約
陽が昇る直前に、シンは自然と目を覚ます。
中庭の井戸へ行き顔を洗う。指に細かく砕いた岩塩を乗せ、指を使っての歯磨きを始める。
歯茎もしっかりと磨いてうがいをし、最後に柔らかい布で歯を一通り拭いた。
「おはようございます、師匠!」
「おう、おはよう。良く眠れたか?」
「はい、それはもうぐっすりと」
「そうか……今の内に屋根と布団を楽しんでおけよ。しばらくしたら、空が屋根で大地が寝床の生活だからな」
そうこうしている内にカイルがやってきて、シンがしたのと同じように洗顔と歯磨きを始めた。
次に来たのはエリー、続いてレオナとマーヤが、時間を置かずにハンクとハーベイ、それにゾルターンも起きて来た。
いつの間に来たのか、ギギとロラも井戸水を掬い上げて顔を洗っていた。
シンはギギに、ゴブリン族は歯磨きをどうするのかと聞くと、歯木と呼ばれる木を、噛んでくしゃくしゃにした物で磨くらしい。
ここにはその歯木が無いので、シンは岩塩の粉をギギに渡して指で磨くやり方を教えた。
ゾルターンにエルフの歯磨きはどうなのかと聞くと、エルフはニームの木から取れる樹液を乾燥させ粉にしたもので磨くという。
「儂は、塩で磨く方がすきじゃ」
シンは取り敢えずロラにも塩を渡しておいた。
挨拶と洗顔が終わると、シンたちはラジオ体操を始める。
ロラは初めて見る奇怪な動きに驚き呆然としてしまうが、ギギは何かの舞踊かと思ったらしく、シンにこの舞いの意味は何かとしつこく聞いてきた。
シンが、この運動は体をほぐし、この後に行う激しい運動をするための下準備だと説明すると、興味を持ったのか見様見真似でラジオ体操を始めた。
次に念入りに柔軟を行う。股割りを真似していたロラが、耐え切れずに悲鳴を上げた。
ギギは元々身体が柔らかく、数々の柔軟運動に軽々と着いてきた。
「流石だな、体の柔らかさは強さの源の一つだからな。手合せしなくてもギギの強さがわかるよ」
シンに褒められたギギは、犬歯を剥きだしにしてニヤリと笑った。
柔軟が終わったら、走り込みを開始する。
中庭をぐるぐると十人ほどで走っている姿は些か滑稽ではあるが、体力作りの大切さを知っている皆の表情は真剣そのものであった。
ギギとロラにも走り込みの意味を教えると、二人も皆の後に続いて走り始めた。
予想通りロラが最初に脱落した。それでもロラは休み休みながらも、距離にして八キロ程の距離を走った。
ギギは戦士の誇りに賭けて皆には負けじと意気込むが、流石にシンには着いて行けず段々とペースが落ちて行く。
シンとカイルはきっちり二十キロ、その他の者は十キロ程で走り込みを終えて、今度は武器の素振りや型の確認を始めた。
ギギとロラも、弓で的撃ちをする。
ロラの放つ矢は的に吸い込まれるようにして命中するが、ギギの矢は中々的に当たらない。
「ギギ、見ていて気が付いたんだが、弓が身体にしっくりとこないんだろ? もしかして普段はもっと短い弓を使っているんじゃないか?」
道具のせいにはしたくは無いのか、ギギは悔しそうに顔を歪めながらゆっくりと頷いた。
――――やっぱりそうか……吹き矢の件といい、恐らくゴブリン族は森の中に住む狩猟民族なのかも知れないな。ロングボウでは密林の移動に支障を来たすから、ショートボウを使うのだろう。となると、近接武器はマチェットや山刀みたいな物を好むのかもしれない。
「ギギ、後で俺と一緒に武器を買いに行こう」
シンがそう言うと、ギギは金が無いと言う。
その言葉でゴブリン族にも貨幣の概念はあることがわかった。
「俺が買い揃えてやるから心配するな。借りは戦いで返してくれればいい。何にせよ、敵討ちにも武器は必要だろ?」
「ワカッタ。シン、コノ恩、アガデス族ノ戦士ギギ、忘レナイ。シン、俺ト血ノ盟約ヲ交ワセ」
血の盟約とは何だと聞いても、ギギは笑って答えない。
突然の事に戸惑い、少し考えた後でシンは、その血の盟約を交わすことに同意した。
シンが同意すると、ギギは自分の左手の人差し指を噛み切り、赤い血を滲ませた。
そしてその血が流れる指先を立てながら、シンへと向ける。
シンもギギの真似をして、自分の左手の人差し指を噛み切った。
人差し指からギギと同じように赤い血が流れ落ちる。
その指を、ギギがするのと同じようにして前に出す。
ギギは、一歩踏み出して血が流れている自分の指と、同じく血が流れているシンの指とをピタリと合わせた。
二人の指から流れる血が混ざり、大地へと流れ落ちる。
地面にその血の染みが出来た事を確認すると、ギギは指を離した。
「シントアガデス族ノ戦士ギギノ二人ハ、今ココニ血ノ盟約ヲ交ワシタ!」
――――これは儀式……そうわかりやすく言うならばヤクザなどが行う杯を交わすのと同じ行為なのではないだろうか? 見た感じだと二人の間に上下は無いようだし、五分杯というやつかもな……
ギギは自分の指を見て、それからシンの指を見て、満足そうな笑顔を見せる。
この血の盟約とは、一体何なのだろうか? シンが教えてくれと言ってもギギは首を横に振るばかりである。
「時ガ来レバ、ワカル」
その言葉を聞いて、その時が来ればわかる物なのだろうと、それ以上血の盟約について追及するのを止めた。
シンはエリーに声を掛けて呼ぶと、二人の指の傷を治癒魔法で癒して貰った。
その後も訓練で軽く汗を流していると、執事が朝食の用意が出来たと知らせて来たので、訓練を切り上げて汗を拭き、皆で食堂へと向かった。
---
「こちらに戻って来たばかりだと言うのに熱心なことだ。もう少しゆっくりと休んでいても、罰は当たらぬぞ?」
そう言って伯爵は笑った。
「手を抜いたりサボったりすると、その遅れを取り戻すのに何倍もの時間が掛かりますから……」
「そうか、まぁ武人とはかくあるべしと言ったところか……もし良ければ、儂の部下たちにも稽古をつけてはくれぬか? 今朝の訓練を見て、大いに刺激を受けたらしくてな。何か変わった事をしていて、それが強さの秘密なのではないかと言うのだが……」
彼らが言う強さの秘密とは、おそらくラジオ体操と柔軟の事だろう。
「構いませんよ。今朝の訓練は、帝都にある近衛騎士養成学校でも行われているものですし……ですが、今日はこの後、武器や資材などの買出しに行くので、明日からならばいつでも構いません」
「そうかそうか! それを聞いたら部下たちも喜ぶ。では、明日からでも頼む」
朝食を終えたシンは、一度部屋に戻り昨晩書いた手紙を手に取ると、執務室で仕事をしている伯爵の元へと赴いて手紙を託した。
「確かに受け取った。この儂の責任を持って必ずや、陛下の元へとお届けする」
「お願いします」
部屋を辞したシンは、その足で仲間たちがいる大部屋へと足を運び、全員を集めて買出しをするために街へと繰り出すことにした。
「カイル、エリーとデートしてきてもいいぞ」
シンがカイルをからかうように言うと、カイルは真面目くさった顔で、今はデートなんかよりも買出しが優先だと言う。
デートなんかよりもと言われたエリーは面白くない。カイルのわき腹に肘鉄を喰らわすと、レオナとマーヤを連れて先へと歩いて行った。
足元で悶絶している弟子を見て、真面目過ぎるのも欠点なんだなとシンは深い溜息をついた。
シンたちはぞろぞろと皆で談笑しながら、武器屋を目指す。
その美と醜が混在する一団は、どうあっても人目についてしまう。
エリーの愛らしい笑顔、レオナの凛とした気品、マーヤのミステリアスな雰囲気、そしてロラの憂いを帯びた微笑。
それに比べて、目つきの悪い大男、スリを警戒してか眼光の鋭い少年、どうみても冒険者か傭兵崩れにしか見えない二人、萎びた老エルフ……そして極めつけはゴブリン。
これらが混じり合って、談笑しながら通りを歩いているのだから堪らない。
この集団を一目見たビルゼンスの街の住人たちは驚き、目を離すことが出来なくなってしまう。
そんな視線たちを物ともせずに、シンたちは露店で買い食いをしながら街を練り歩いて行った。
ブックマーク、評価ありがとうございます!
ゴブリンだけに五分杯……




