峡谷を発つ
馬車の中で負傷療養中のシンの元に、仲間が次々と代わる代わる来ては声を掛けて行く。
「……師匠、申し訳ありませんでした……」
そう言って頭を下げて謝るカイルに、シンはまだ力が入らぬ腕を無理やり動かし、その肩をポンポンと軽く叩く。
「何を言う。お前があの厄介な毒蛇を引き受けてくれたからこそ、あの化け物を倒す事が出来たんだぞ」
「でも、もっと僕が早く毒蛇を仕留めていれば!」
その先の言葉は、シンの上げた手によって遮られた。
「いや、カイルとレオナがそれぞれの首を相手取ってくれたからこそ、勝機が見えた。まぁ、俺がドジっちまって山羊にやられちまっただけだ……お前が気に病む事じゃない。お前、気付いていたか? あのキマイラって化け物の弱点に」
「弱点?」
あの強大な魔獣にそんなものがあるのかと、カイルは首を傾げる。
「ああ、あのキマイラには明確な弱点があった。それは、それぞれの首が自我を持っているのに、体の操縦は獅子の首にしか出来なかった。まぁ、考えてみれば当たり前だ。それぞれの首が思い思いに動いたら大変なことになるもんな」
「あっ、そういえば!」
「それに気が付いた俺は、獅子の注意を引き付けるために爪が届く距離で戦って、奴が自由に動き回らないように立ちまわったんだが……まぁ、しくじってこのザマじゃ、恰好つかないがな」
シンの徴発に乗ってしまったキマイラは、ただひたすらにシンを仕留める事に集中して、足もその背に生えた翼も活かす事無く死んでいった。
あの巨大な化け物の猛攻を受けながら、即座に弱点を見出し対応するとはと、カイルはその身を震わせた。
自分は、この人に追いつき肩を並べる事が出来るのだろうか……今更ながらに己の未熟さを知り、握りしめた拳に力が籠る。
そんなカイルを見たシンは、穏やかな笑みをその口許に浮かべた。
こいつはまだまだ伸びるだろうと。
次に顔を出したのはハンクであった。
「シン、どうだ? 傷の調子は?」
心配そうに覗き込んで来るハンクに、シンは笑いながらもう大丈夫だと手を振った。
「そうか、良かった」
「聞いたぜ、トドメを刺したのはハンクだってな」
「いや、違う違う。俺はただ、最後にちょろっと攻撃しただけで……」
シンの言葉に、ハンクは大慌てで手を振って否定した。
「実際、それがトドメになったんだから胸を張れよ。ありがとな、それとお願いなんだが、レオナに今リーダーを任せているんだが、色々と教えたり手助けしてやってくれないか? 恥ずかしい話だが、まだ身体を元通り動かせるようになるには、二、三日掛かりそうだ」
「わかった、任せてくれ。一つ聞きたいんだが、これからどうする? 一度帝国に戻るか?」
「いや、この峡谷は俺が頭に思い描いていた絶好の場所だ。もう少しここの地形を把握しておきたい」
「だが、またあんな化け物が出てきたら……」
「いや、俺の勘なんだが、あいつ以上の化け物がこの峡谷に居るとは思えない。あの人を舐め腐った振る舞いといい、ここの頂点に君臨していたに違いないと思うんだが……」
「確かに、あんな化け物が大量に居るとは思えんが……よし、わかった。だがここを探索するのは、シンが完治してからにしよう。それでいいな?」
ハンクの言葉に、シンは素直に頷いた。
素直なのはいい事だ、また来ると言って、ハンクは馬車を後にした。
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ハンクが去ってしばらくすると、ばたばたと慌てた様子でレオナが馬車に乗り込んで来た。
「シ、シン様! マ、マーヤと接吻したと言うのは本当ですか?」
いきなり何を言っているのかと、シンは眉間に皺を寄せた。
「だから、違うって言ってるでしょうが! はい、邪魔だからどいてどいて!」
薬湯を運んできたエリーが、レオナの襟首を掴みあげて無理やりどかす。
エリーの後ろには、申し訳なさそうに耳を垂れているマーヤの姿があった。
「マーヤ、手伝って。シンさんを起こして、薬湯を飲ませるから」
エリーの剛力で襟首を摘ままれて放り投げられたレオナは、目を回してひっくり返っていた。
「エリー、助かったよ。ありがとう。なぁ、エリー……レオナが言っていたのは、一体何のことだ?」
エリーはひっくり返っているレオナを見て溜息を付くと、シンに事情を説明した。
「つまりは、マーヤに助けられたってことだな。マーヤ、感謝する」
薬湯を飲ませるために、シンの身体を起こして支えていたマーヤは、ほんのりと頬を染めながら首をふるふると振った。
先程まで垂れていた耳はピンと立ち、尻尾は嬉しげに左右に揺れている。
「後でレオナにはよく言い聞かせておくから。それじゃ、お大事に」
「頼む」
薬湯を飲み終えたシンは再び体を横たえて、体力の回復に努めた。
レオナは再びエリーに襟首を摘ままれて、引き摺るようにして馬車から引きはがされて行き、マーヤもその後に続く。
何だかんだ言って、あの三人の仲は良好である事に安心する。
しばし目を閉じ安静にしていると、馬車の周りに何者かの気配を感じた。
シンは動かぬ体に力を込め、震える手で立てかけてある刀に手を伸ばそうとしてやめた。
馬車の周りをうろついている者の正体に気付いたためである。
その正体は、馬車の中をこっそりと覗き込む龍馬サクラであった。
シンが半身を起こして馬車を覗き込むサクラと目を合わせると、サクラはささっと馬車の影に身を隠した。
「サクラ、俺は怒ってないぞ。顔を見せてくれよ」
努めて優しい声で呼びかけると、しゅんとしたサクラが申し訳なさそうに首を垂れながら姿を見せた。
サクラは恐れていた。キマイラに怖気づいた事をシンに怒られると思っていたのだ。
だが、シンはその事を怒ってはいなかった。あの時のサクラは、まるで蛇に睨まれた蛙そのものだった。
シンですら足が震え、逃げ出したいと思った程の相手である。サクラが怖気づいても責める事は出来ない。
申し訳なさそうにぐるると喉を鳴らし続けるサクラに、シンは身を起こして手を伸ばし、鼻先を軽く撫でる。
許して貰えたと思ったのか、サクラの鳴き声が段々と明るいものに変わっていく。
「気にするなサクラ、誰だって苦手な相手はいるもんだ。身体が治ったら、またよろしく頼むぞ」
伸ばした手は、舐めまわされて涎塗れになっていた。
愛馬がいつもの調子に戻りつつある事に安堵したシンは、再び身を横たえると直ぐに穏やかな寝息を立て始めた。
サクラはその日からシンが治るまで、馬車を護るかのようにその場を離れようとはしなかった。
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四日程経つと、シンはすっかり元気を取り戻した。
「今日からこの峡谷を探索する」
シンは書きかけの地図を広げながら、探索するポイントを指でなぞった。
「おい、シン。無理はするなよ、焦らなくてもゆっくり体を治してからでも……」
ハンクの声に、皆も同意して頷く。
だが、シンは首を横に振った。
「いや、気持ちは有り難いが、時間は有限だ。俺がドジっちまったせいで、かなりの遅れが出ちまった。少しでも遅れを取り戻したいところだ」
「わかった。だが、決して無理をするなよ」
「ああ、勿論だ。このヴェルドーン峡谷には、恐らくあのキマイラより強大な敵は存在しないと思われる。だが、油断はするな」
峡谷の探索では、マーヤの鋭敏な感覚が役に立った。
なるべく風下を位置取りながら、マーヤの鼻を頼りに探索を進めて行く。
シンの思っていた通り、このヴェルドーン峡谷にはキマイラ以外の大型の魔獣は生息してはいなかった。
それでも注意すべき生物は存在する。毒蛇や毒蜘蛛などに細心の注意を払いながら、峡谷を見て回って地図を書き込んでいく。
三日ほどの時間を掛けてヴェルドーン峡谷の全体を把握すると、峡谷を離れて次の目的地へと出発した。
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