トンプ湿地帯
部隊を解散したのち、シンたち碧き焔はウルスト村を後にしてラ・ロシュエル王国の国境警備の目を盗み入国し、国境沿いに広がるトンプ湿地帯へと戦場視察に来ていた。
本格的な夏の日差しが肌をジリジリと焼き、湿地から立ち上る湿気が体中にねっとりと絡みつく。
奪われていく体力と、不快感による精神の摩耗に堪えながら、シンは探し求めている条件を満たす場所の特定を急いでいた。
住んでいる生物も、亀、蛙、蟹、ザリガニ、ヤゴなど水生生物が多く、またそれらを捕食する蛇や鳥など様々な種類の生き物に溢れていた。
人気のないこのような場所には、当然ながら魔物の姿もある。
巨大なヒルや、大人の腕程の太さのヤツメウナギ、子牛程の大きさの蟹、空から飛来する翼長四メートル以上もある猛禽類など、一瞬たりとも気を抜くことが出来ない。
「さすが辺境部、魔物の数も種類も多いな。ヒルとか蟹を見ると迷宮を思い出すぜ」
ハーベイは足元に忍び寄って来たジャイアント・リーチを、剣で突き刺しそのまま持ち上げて遠くへ放り捨てる。
「基本的な対処の仕方は同じだ。虫よけの香をたんまりと積んで来たから惜しまず使って行こう」
同じようにハンクも、剣を突き刺しながらもなおもウネウネと動くジャイアント・リーチを足で踏み殺した。
このように遭遇する魔物を薙ぎ払いながら、湿地帯を更に進んで行く。
先頭を行く龍馬のサクラに騎乗したシンが、突然その足を止めた。
パーティは即座に戦闘態勢を取るが、どうも様子がおかしい。
シンが立ち止ったのでは無く、シンを乗せている龍馬のサクラが立ち止り動かなくなったのだ。
「おい、どうした? 敵か?」
シンがサクラに話しかけるも、サクラは低く警戒の唸り声を上げるだけで、馬腹を軽く蹴っても、その場から一歩も動こうとしない。
「なんだよ? どうしたんだ一体……」
シンは諦めて下馬し、手綱を取ってサクラの前に一歩踏み出した。
サクラが慌てたように吼えるが、遅い。
シンが一歩踏み出した瞬間、その身体は一瞬にして消える。
慌て驚き懸命にもがくが、泥に包まれた身体はピクリとも動かない。
底なしという訳では無く、足の裏にしっかりとした地面の感触は感じられていたため、シンはパニックに陥らずに済んだのだった。
完全装備をした上で胸元まで泥に浸かった身体は、最早一人ではこの泥沼を脱する事すら厳しいと思われた。
身動きできないシンの耳に、サクラの嘲笑するような唸り声が響いて来る。
「サクラ! お前、わかってたなら言えよ!」
無理な注文である。散々警告してやっただろうにと、サクラは呆れながらも首を伸ばしてシンの襟首を噛むと後ろに下がって泥沼から引きずり上げようとする。
ハンクは馬車に戻ってロープを取出し、ハーベイは槍で周囲を突きながら慎重にシンの方へと向かって来る。
龍馬サクラが両足に力を込めて踏ん張ると、畑から大根が抜けるようにして泥まみれのシンが泥沼からすっぽりと飛び出て来た。
大事に至らず、皆がホッと胸を撫で下ろす。
「ぶへぇ、ぺっぺっ、酷い目に会ったが、これは使えるな。来た甲斐があったぜ」
口に入った泥を吐き出しながらも、シンは嬉しそうに呟いた。
シンは泥まみれのまま馬車へ戻ると、荷台から厳重に封が施された葛籠を取り出す。
封を切り葛籠を開けると、そこには木の板を加工した物が入っていた。
「何だそれ?」
必要の無くなったロープを戻しに来たハンクが、つづらの中にある物を覗き込んで首を捻る。
「これか? これは、今俺が沈んだ泥の上を歩けるようになる魔法の靴さ」
なるほどと、ハンクは納得した。厳重な封が施されていたのも高価な魔道具が入っていたからなのかと。
ハンクが勘違いしているのが、シンにはわかっていたが、面白そうなのでそのまま放って置くことにした。
シンは泥塗れになった鎧兜を脱ぎ、ブーツも脱いで素足になると、ハンクに魔法の靴だと説明したそれを履いてゆっくりと泥沼へと近付いて行く。
カイルとレオナが慌てて止めに入るも、シンは大丈夫だと笑ってその手を振り払う。
エリーは万が一の時のために、即座に治癒魔法を唱えられるようにと身構えていた。
一方、ゾルターンとハーベイはこれから起こる出来事への興味を抑えきれずに、子供のように目を輝かせている。
念のために、ハンクにロープをもう一度用意して貰うと、シンは泥沼へと再びその一歩を踏み出した。
少しだけズブズブと沈む感触はあるが、先程のように体全体が沈むような事はなく、泥沼の上に辛うじて立っている。
「よっと、はっと、ふぅ~。こりゃ、歩くのが結構しんどいな。それにもう一回り大きく作った方が良さそうだ」
シンは泥を捏ねるような不快な音を立てながら、泥沼の上を何度も確かめるようにして歩いた。
「こんなものだろう。よし、ここに決めたぞ」
そう言いながらシンは泥沼から陸に上がると、履いていたシン曰く魔法の靴を脱いだ。
このシンが魔法の靴と言っている物は、そう板樏である。
田んぼで足が泥に埋没するのを防ぐために履く履き物で、弥生時代にはもう使われていたと言われている。
「凄い魔道具だな! あんな泥沼の上を歩けるなんて、相当値が張るんだろう? 幾らしたんだ?」
ハンクが、脱いだ板樏を恐る恐ると言った感じで持ち上げて、着いた泥を落としていく。
「うん? 値段か……そうだなぁ、売るとしたら銅貨三、四十枚くらいじゃないか?」
「へぇ~やっぱりそれくらいはするか……えっ? 銅貨三十枚?」
「ああ、だってそれはそこらにある木の板を使っただけの代物だしな」
「ま、魔法は? これ、魔道具じゃないのか?」
ハンクは今の今まで、高価な魔道具だと思っていた物が、実はタダ同然の板切れから作られたと知り困惑の表情を浮かべた。
「泥の上を歩けるなんて、魔法みたいだったろ?」
シンは人の悪い笑みを浮かべながら、呆然としているハンクの背を叩いた。
中央大陸には米が無い。いや、あるのかもしれないが、帝国やその近隣諸国で一度たりとも見かけた事は無かった。
稲作のために水田を作るような事がなければ、田下駄や板樏なども必要ないし見た事も無いであろう。
シンはその後、パーティ全員からの質問攻めにあった。
どうして魔道具でも無いただの板切れを履いただけで、泥に沈まず立つことができるのかと。
浮力や力の分散などを、出来る限りわかりやすく教えるが、ハンクやハーベイ、そしてエリーは理解が追いつかずに早々にリタイアしてしまった。
逆にグイグイと喰いついてきたのは、レオナ、カイル、ゾルターンで、マーヤも気の無い振りをしながらも耳だけをピンと立ててこちらを窺っていた。
時間を掛けて説明をすると、ゾルターンは完全に理解し、カイルとレオナはおぼろげながらも理解を示した。
マーヤは途中で厭きてしまったのか、気が付いた時にはその姿は無かった。
「面白いのぅ、その水田とやらも見てみたいものじゃて」
「ああ、稲から取れる米っていう穀物は、竈で炊き上げるとふっくらモチモチして、これがまたほんのり甘くて美味いんだ」
ふっくら炊き上げたご飯を想像して、シンの口中に唾が湧きだす。
それと共に、シンの目から一筋の涙が頬へと流れ落ちていった。
普段から当たり前のように食べていた米が、もう二度と食べる事が出来ないという事実を改めて受け止めたシンは、その場で咽び泣くようにして大粒の涙を零した。
シンの突然の涙に驚いた皆は、その場を動くどころか声を掛ける事さえ出来ずにいた。
最年長のゾルターンは静かにその瞳を閉じ、自身の無邪気な好奇心が目の前の青年の失われた郷里への思いを呼び起こしてしまったことを詫びるのだった。
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