尻尾と算盤
帝都に戻って来たシンは数日の休息の後で、ルーアルト王国にある星導教の総本山に向かう手筈となっていた。
自宅に戻って一日だけ完全休息を取り、翌日からは普段通り厳しい訓練を己に課す。
弟子であるカイル、クラウスは当然として、他のメンバーも同じように訓練に励む。
新しく加わったハンクとハーベイ、そしてマーヤは、文字通り反吐を吐きながらも厳しい訓練に喰らいついている。
今もだだっ広い庭で、マーヤが体力向上のための持久走をしている。
そのマーヤを見つめるシンの表情は厳しい。腕を組み眉間に皺を寄せながら、時折低い呻き声を上げている。
そのシンの真剣な表情を見たレオナは、もしかしてマーヤに邪な感情を抱いているのではないかと一瞬でもシンを疑った己を恥じた。
相も変わらず息を切らせながら走るマーヤを黙って見続けるシン。だがシンは真剣な表情とは裏腹に、マーヤに対し邪な感情を抱いていた。
マーヤの薄褐色の肌に汗が煌めく。金の双眸に流れるような白金髪、頭から突き出た耳の先だけが僅かに黒く、走る度にピコピコと揺れてその存在を主張している。
だが、一番の存在感を表しているのはボリューム満点の尻尾で、身体のバランスを取るように左右に揺れる姿は、何時まで見ていてもシンの目を飽きさせない。
――――耳が頭の上に付いているってことは、本来付いているはずの所はどうなっているのだろう? 髪が邪魔で確認できないな……それにあの尻尾は……危険だ……どんな肌触りなのだろうか……ああ、触りたい。俺は何時まで理性を保っていることが出来るのだろうか?
真剣な顔をしながらシンは、このような馬鹿げたことを考えていた。
幸いにも、皆シンを過大評価しておりシンがこのようにしかめっ面をしている時は、何か途轍もないことを考えていると勘違いしていた。
それにしても走る度に揺れる豊かに実った二つの果実よりも、耳と尻尾に気を取られるとは、健全な男性としていかがなものだろうか?
マーヤ本人は直ぐにシンの視線を感じたが、連日の鍛錬の中で師弟のような絆が出来つつあり、真剣に自分の訓練を見てくれていると思っている。
左右に揺れる尻尾に目が釘付けとなりつつ、このままでは理性が崩壊しかねないと思ったシンは、少し予定の時間には早いが、呼び出しを受けていた皇帝に会いに宮殿へと向かった。
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宮殿に着いたシンは、いつもの応接室ではなく執務室へと通された。
中に入ると皇帝と宰相、各大臣たちが大量の書類と格闘を繰り広げている。
「丁度良いところに来たな、ちょっと手伝うがよい」
へいへいとシンは、計算の部分だけをテキパキと片付けていく。
大臣たちに埋もれていて最初は気が付かなかったが、御用商人のヘンデルがおり、パチパチと算盤を指で弾いている。
「おお、算盤かぁ……子供の頃に習ったなぁ……」
算盤を見たシンの何気ない一言に、室内の時は一時停滞する。
「……お主、相も変わらず多芸だな。お主の国にも算盤があるとは……」
皇帝が書類から目を離してシンを見ると、宰相や大臣たちもそれに釣られてシンの顔に視線が集まる。
「皆は算盤使わないのか? 便利なのに……」
シンの疑問に宰相が答えた。
「算盤は商人が使うもので、王侯貴族が使うものではないとされているのです。理由は、王侯貴族は庶民より優れたる存在であるからにして、計算位暗算するものであると……それに倣って官僚や役人も算盤を使わないのが当たり前となっています」
それを聞いたシンは、心底くだらない理由に吐き気すら覚えた。
「全くもってくだらん考えだ。陛下、そんなくだらない考えは絶対に改めるべきです! 脳みその出来なんて王侯貴族だろうが庶民だろうがそんなに変わりはしない。十分な教育を受けたかどうかの差だけでしかないはずです!」
尊い身分であるから……シンはこの手の選民思想が大嫌いであった。
そう言った考えを目にすると、片っ端からぶち壊して行きたい衝動に駆られてしまう。
今もその衝動を抑えられず、ついつい荒い口調になってしまったが、皇帝はそれを咎めなかった。
「くだらぬか……ふふふ、そうであるな。お主の言う通りやも知れぬな。だがいくら余でも、深く根付いてしまっている考えを一朝一夕には変えることは出来ぬぞ。何か知恵はあるか?」
シンは顎に手を添えて、何かヒントは無いかと日本のことを思い出す。
「……ある……職能手当だ……それと……」
「職能手当? なんだそれは?」
「いきなり本丸を落とすのが無理なら外堀から埋めていくべきだ。つまり、下っ端の役人から変えて行けば良い。算盤をきちんと使える者の給金を増やすんだ。便利である上に給金まで上がるとなれば、皆こぞって使い出すだろう。下っ端でも使える者たちを派手に取りたてれば、上に乗っかっている奴らも焦り始めるはず。それに加え陛下が率先して使い始めることと他には、あんまり実用道具を飾り立てるのは褒められた事じゃないが、算盤に装飾を施したりして貴族たちの関心を高めるとか……」
元々頭の回転の良い男だと皆思っていたが、短い時間でこうも次々にアイデアを出してくる様を見ると、驚かずにはいられない。
「なるほど、帝国全体の仕事の効率化か……やってみる価値はあるだろうな。皆はどう思う?」
「確かに算盤を使えば、筆算に使用する紙や羊皮紙の量は減ります。それらに掛かっていた費用を、その職能手当とやらに回すとすればいかがでしょうか?」
「良し、善は急げと言う。早速今度の会議でこの件を取り上げる事とする。差し当たっての問題は、算盤を教える者をどうするかだが……ヘンデルよ、お主に用意出来ぬものは無かろう。謝礼は弾むゆえ、算盤とそれを教える者たちを揃えてくれるか?」
「ははっ、御意に」
「それにしても職能手当か……他にも使えそうだな……シンよ、これからも思いついたことは何でも良いから遠慮せずに申せ、良いな」
「いいのですか? 帝国の風習や考えを壊してしまうかも知れませんよ?」
「その程度で壊れるようなものならば、壊れてしまえば良いのだ。惜しむべき何物も無い」
改革者と破壊者は必ずしもイコールでは無いが、部分的には通じるものがある。
果たして皇帝ヴィルヘルム七世は改革者なのか、それともただの破壊者なのか……後世に於いてどう評価されるのかを、シンは叶うならば見てみたいと思った。
こうして帝国で算盤が普及しだしていく。十年もすると当たり前のように使うようになり、帝国の役人や貴族で算盤を使う事が出来ないのは恥であると言った風に変わって行った。
これはこれで問題ではないかと思ったが、取り敢えず算盤の普及を早めることには違いは無いので、不本意ながらシンは目を瞑ることにした。
金銀細工や宝石などをあしらった算盤が貴族の間で流行すると、更に算盤の普及に勢いが付きその熱は他国にまで伝わって行った。
算盤が普及している国は今までハーベイ連合だけであったが、これに帝国が新たに加わることによって、ルーアルト王国、エックハルト王国、ソシエテ王国などで少しずつではあるが算盤が注目されていくことになる。
尚、シンたち碧き焔の中ではエリーが一番早く習得し、名実ともにパーティの金庫番を務める事となる。
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シンとヘンデルの協力で、いつもより早く午前の執務が終わった皇帝は、応接室に軽食を運ばせてシンと歓談を楽しむ。
「それで、大ババ様には会ったか?」
いたずらっ子のような笑みを浮かべながら聞いて来る皇帝に対し、シンは何事も無かったように装いつつ答える。
「ああ、優しい人だったぜ。協力を約束してくれた」
嘘は言っていない。癖はあるものの国を憂い、弱者に慈悲を与える姿勢にシンは好感を覚えていた。
「フン……そうか……」
思っていた反応を得られなかった皇帝は、半ば不貞腐れたように鼻を鳴らした。
餓鬼かと笑いながら、シンは星導教の総本山への出発を何時にすれば良いかを問うた。




