返還交渉 其の一
時は少し遡りザンドロックが魔剣、竜の舌を拝領した日の午後、ガラント帝国皇帝ヴィルヘルム七世は、ルーアルト王国から派遣されてきた使者と同国の至宝とも言われている聖剣、聖なる白鷺の返還についての交渉に当たっていた。
「寝ぼけた事を申すな! あれは正当な戦利品であり、盗品ではないぞ! それなのにタダで返せとは図々しにも程があるわ。大体にして攻めて来たのはそちらであり、我が方では無い。どうやらルーアルト王国には常識というものがないらしいな、のぅエドアルドよ」
「はっ、それに付け加えて、恥というものも無いようでございますな。厚顔無恥も甚だしい限り」
皇帝ヴィルヘルム七世が高笑いを上げると、宰相エドアルドもそれに追従する。
眼下に跪くルーアルト王国の使者、カドモフェス公爵は表面は冷静さを取り繕うも、内心腸が煮えくり返る思いをしていた。
それは目前にいるヴィルヘルム七世に対してでは無い。
ルーアルト本国にいる国王を初めとした者たちに対してである。
使者であるカドモフェス公爵は先代ルーアルト王国の国王の妹を娶り、王族の重鎮として知られている。
カドモフェス公自体は、この交渉に乗り気では無かったが、王族として繋がりのあるルーアルト王国近衛騎士団長であった、ジョージ・ブラハムの失態を繕うべく仕方なしに交渉役を引き受けた、というより引き受けざるを得なかったのである。
だが、いざ交渉に臨む段となると、大した手土産の用意も無しに送り出され、聖剣の返還に使える額は金貨一万枚までという制限まで設けられたのであった。
いくら何でも吝いとカドモフェスは抗議したが受け入れられず、このように大勢の前で笑いものにされてしまったのである。
――――本国の馬鹿者どもめが、これがどのようなことになるのかもわからんのか! この話は一月もせずに大陸中に広まり結果、ルーアルト王国自体が笑いものになるであろう。なぜそのような事もわからぬのか……
大勢の前でこれ以上は無いと言うほどの辱めを受けたカドモフェス公爵は、逃げるように帝都を去り、本国に帰るな否や喉を剣で突いて自害した。
遺書には現国王ラーハルト二世に対する罵詈雑言が、羊皮紙の裏側にまでびっしりと書かれていたという。
こうして交渉とも言えぬような、第一回目の聖剣返還交渉が失敗に終わり、宰相アーレンドルフは大臣各位や重臣たちと聖剣の返還についての会議を行っていた。
宰相アーレンドルフは周辺諸国にも名の知れている切れ者である。
にも拘らず、このような失敗前提の交渉をさせたのは何故か? アーレンドルフは優秀だが、同時に野心家でもあった。
現国王を操り、権力も富も思うがままにし、何代にも亘って時間を掛けて無理をせずして国を乗っ取るという、大それた野心を身の内に滾らせていた。
アーレンドルフは王国騎士団長であったジョージ・ブラハムが戦死したこの機会を利用して、更に宮廷内の王族の力を削ぐべく暗躍する。
交渉に乗り気でないカドモフェス公爵を、身内の恥をそそぐ事と王族の血筋である誇りを刺激し、交渉役に就かせた。
そして敢えて交渉で失敗するようあの手この手を使った結果、帝国に赴いたカドモフェス公爵は笑いものにされた。
交渉失敗の責を問い、隠居させる予定だったが、誇り高い王族のカドモフェス公は帰国するなり自らを裁いた。
嬉しい誤算である。宮廷内での政敵がこれでまた一人減ったことに、アーレンドルフは狂喜した。
――――これで儂が交渉を成功させ、聖剣を取り戻せば否が応でも名声は高まるであろう。
「カドモフェス公爵は失敗した。だが、公爵は自らを裁き王族の誇りをお示しになられた!」
アーレンドルフはさも悲しみに包まれたかのごとく、窪み濁った両目から涙を流しながら話を続ける。
「我々は公爵の思いを受け継ぎ、何としても聖剣ホーリー・イーグレットを取り戻さなければならぬ」
芝居がかったアーレンドルフに大臣や重臣たちは内心でうんざりしていたが、それを顔や口に出すことはない。
現在国王を凌ぐ権勢を誇るアーレンドルフに目を付けられでもしたならば、それは身の破滅を意味するからである。
「次なる交渉役は、グリュッセル執政官に任ずる。グリュッセル、良いな?」
「はっ、必ずや聖剣を取り戻して御覧に入れましょう。宰相閣下は枕を高くしてお眠りくださいますよう」
グリュッセル執政官は宰相アーレンドルフの子飼いであり、これは宰相自ら交渉に当たると公言しているに等しい。
だが、万が一失敗した時には、グリュッセルに詰め腹を切らせる積りなのが、ここに集まる者たちには言わずともわかっていた。
茶番じみた意味を成さない会議は直ぐに終わり、直ちに二回目の返還交渉の使者が今度はきちんと手土産を持って王都を発した。
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「ほぅ、ではハンフィールド地方の割譲は飲めぬと言うのか?」
皇帝ヴィルヘルム七世は玉座の前に積まれた財宝をつまらなそうに一瞥し、使者に鋭い視線を放つ。
ルーアルト王国の使者グリュッセルは、やや気圧されながらも領土の割譲は突っぱねて見せた。
欠伸を噛み殺し、眼前で跪く中年の男のやや禿げ上がった頭皮を見ながら皇帝は次なる無茶ぶりを振った。
「ならば、朝貢せよ」
その言葉を聞いたグリュッセルは、飛び上がらんばかりに驚き、思わず顔を上げて皇帝の顔をまじまじと見つめてしまう。
その瞳に冗談の影すら見つけられず、再び床に視線を落として流れ出る冷や汗を懐から取り出したハンカチで拭った。
朝貢せよ、詰まりは属国になれということである。
領土割譲を拒否されたのならば、次は財貨と要求の質を段々と落とし妥協点を探るべきはずであるところを、こともあろうに目の前にいる若き皇帝は、言わば国ごと寄越せと言ったのだ。
「ご、ご無体を……」
必死に口を動かしつつも、肺腑から絞り出たのはこの一言のみ。
「何が無体であるか、このような物で余を釣ろうとは片腹痛いわ」
蔑むような視線の先には、積み上げられた財宝がある。
今回の使者であるグリュッセルが持ってきた手土産の内訳は、高級ビロウドの生地、輝石を彫った像、金粉を塗した鞍と鞭、青磁の壺に最高級ワイン、それと小箱にぎっしりと詰まった王国金貨の他に選りすぐりの王国美女が十人。
質素倹約が身に沁みついているヴィルヘルム七世の心を掴むような物は、何一つとして無い。
「では問うが、領土を一寸たりとも寄越さずして、貴国は聖剣の代償に何が出せるのか?」
グリュッセルは言葉に詰まる。
「で、ですから金銭を以って」
「ほぅ、そうかそれならば話は早いな」
皇帝が興味を示したことにより、グリュッセルは安堵し且つ内心で、どうやら上手く行きそうだとほくそ笑んだ。
宰相アーレンドルフより、多少額が嵩んでも金銭でケリを着けよと命じられていたのである。
「ならば戦役の賠償金として、これで手を打とうではないか」
政務官に一通の羊皮紙を渡されたグリュッセルは、又しても口から心の臓が飛び出る程の衝撃を受けた。
そこに書かれていた額は、国家予算十年分にも相当する額であり、いくら国家の至宝を取り戻すためとはいえ、当然払えるものではない。
「こ、こ、こ、これは、これは何かの間違いでは?」
「ん? どれ?」
政務官がグリュッセルから羊皮紙を受け取り、皇帝へと渡す。
皇帝は、わざとらしく眉間に皺を寄せながらそれを眺め、間違いがあったことを認めた。
「すまぬ、使者殿。こちらの手落ちだ。許されよ」
矢張り間違いであったかと、青い顔に精気を取り戻しながら、額に滲み出た汗を再びハンカチで拭う。
皇帝は、傍らに控えている祐筆からインクを滲ませた羽ペンを受け取ると、金額の末尾にゼロを一つ付け加える。
「桁を間違えておったわ、ゼロが一つ抜けていたようだ。許されよ」
グリュッセルは最初から馬鹿にされていたのだとようやく気が付き、青い顔を憤怒の赤に染め直した。




