シン、帝国に反旗を翻す?
シンはローレヌ伯爵の不安を煽りに煽っていくだけで良い。
後は勝手に伯爵が一人でコンディラン伯爵を相手に踊り狂うだろう。
シンの言葉に先に突き動かされたのは、伯爵では無く傍らに控える護衛の騎士達であった。
「閣下、これは忌々しき事態かと……正直に申し上げて、これ以上この者に関わって時間を浪費するのも惜しまれます。このままではコンディラン奴の下風に立たされるか、あるいは奴の讒言によってお家が無くなるやも知れませぬぞ、直ぐにでも行動すべきです。どうか、御決断を!」
伯爵は唇を噛みしめながら忌々しげにシンを睨む。
「ふん、よかろう。この場は卿の口車に乗ってやるわ、通行許可を出してやるゆえさっさと去ね」
もう用は無いと言わんばかりに、しっしっと邪魔者を追い立てるように手を振った。
一礼して、天幕を出ると一顧だにもせずにシンは急ぎ足でその場を立ち去った。
「勝手に権力闘争でも何でもやっていろ、エルがお前らの悪事に気が付いてない訳が無い。貴様らを待っているのはバラ色の未来では無く、身の破滅だけだ。さてと、伯爵が変な気を起こさないうちに、さっさとカーンへ入っちまおうか」
シンたちは、城塞都市カーンへ向けて街道を最短距離で、かつ最小限の休息を以ってして半ば強行軍のように急ぎ進んだ。
「カーンに入ってしまえば、容易に手出しは出来なくなる。キツイだろうが堪えてくれ、その代りカーンでたっぷりと休息を取ろう。賊も伯爵がある程度は掃除したと思うが、油断はするな。索敵を密にして奇襲だけは防ぐようにな」
軽騎兵隊の指揮官はヨハンであるが、そのヨハンがシンの指揮に従っているので、実質的な指揮官はシンと言う事になってしまっている。
「ローレヌ伯爵の方も上手く行きましたな」
「策だと分かり切っていようとも、乗らずにはいられないからな。あの腐れ貴族共は欲の皮が突っ張り過ぎだぜ、そのおかげで俺の拙い策でも動かすことが出来たんだが……あんなのが大貴族ってんじゃ陛下も頭を抱えちまうわけだぜ」
シンとヨハンは馬を並走させながら、互いに笑い合った。
新北東領で為すべきことは終えた。後は帝都に着くまで油断しなければいい。
だが、越権行為による懲罰は覚悟せねばなるまい。命まで取られるようなことは無いと思いたいが、放逐くらいはありえるだろうと考えている。
無位無官に戻ったのならば、今度は何をしようか? 再び迷宮に潜るか、それとも各地を流離い依頼を受けながら冒険者として暮らすか。
何にせよ雇った人たちや、保護したハイデマリーとローザの生活の面倒は最後まで見なければならないだろう。
どうやって稼ぎを出すか、今の内に考えておかねばならないだろうと、シンは一人馬上で思案に明け暮れた。
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シンが城塞都市カーンを目指していた頃、帝都シャルロッテン・ヴァルデンベルクに激震が奔った。
「ご報告申し上げます。巡察士シン、ディーツ侯爵を斬って帝国に対し反旗を掲げたとの報で御座います」
会議室に於いて各大臣や宰相たちと、予算の配分比率や懸案事項の確認をしていた皇帝ヴィルヘルム七世は、近侍の報告に対し手に持っていた書類から僅かに目を離しただけで、直ぐに何事も無かったかのように書類にサインを書いていく。
「へ、陛下! これは一大事ですぞ!」
大臣たちは大いに慌てふためき、口々に一大事と騒ぎ出すが、皇帝の斜め前に座っている宰相は、皇帝の方をチラリと一瞥しただけで、再び積み上げられた書類の束との格闘へと戻って行った。
「誤報だ。いや、待てよ……ディーツ侯爵は斬ったのは事実かも知れぬな。だが、帝国に反旗を翻すと言うのは誤りであろう」
「侯爵を斬った? それが事実であるならば、反逆者として成り立ちますが……まさか、かの地で旗揚げする気ではありますまいか?」
旗揚げという言葉を聞いた皇帝は、最初は声を押し殺し笑っていたが、ついには堪えきれなくなったのか大口を開けて笑い出した。
「ぷっ、ふふふ、あはははは、いや、済まぬ。卿を笑ったのではないぞ、あのシンが一国の主か……面白いかも知れぬな、いっその事そうしてみるか」
普段ならば気さくな皇帝の冗談で済まされるだろうが、今の大臣たちにはそれがいつもの冗談には聞こえない。
動揺した幾人かが思わず立ち上がるのを見て、皇帝は自分の諧謔が受け入れられなかったことを知り、心の中で舌打ちした。
「へ、陛下! な、何を申されます!」
相手をするのが一気に面倒になった皇帝は、相も変わらず涼しい顔をしたまま書類に目を通している宰相に、全部丸投げすることに決めた。
「エドアルド、お前はこの報を受けてどう考える?」
皇帝に名指しで問われた宰相エドアルドは、書類から目を離すと淡々と自分の考えを述べた。
「おそらくではありますが、侯爵の方からちょっかいを掛けたと思われます。そして手痛い反撃を受けたと……彼の者はきちんとした計算が出来る男です。今の新北東領では、旗揚げをしたとしても兵を養う事が出来ない事はわかっているはずです。現に現在の治安維持派遣軍の糧秣は全て本土からの輸送で御座います。故に旗揚げして帝国に反旗を翻すと言うのは、陛下の仰る通り誤報でしょうな」
エドアルドは敢えて皇帝の言った、シンを一国の主にするという冗談を無視した。
そこに噛みついて来るだろうと思っていた皇帝は、肩すかしを喰らってつまらなそうに鼻を鳴らした。
「な、なるほど……ですが、侯爵を斬ったのは拙いですぞ。これは法によって裁かなければなりますまい」
宰相の言葉に落ち着きをとりもどしつつあった大臣たちが、次は侯爵殺しを憂慮すべき問題であると口々に騒ぎ始める。
それらを皇帝は手を上げて鎮める。
「何れにしても、シンが戻ってからの事である。その上で事情を聞かねば始まるまい。それに余の送り出した近衛選抜の軽騎兵隊からも事情は聞けるだろうから、それらを聞いたうえで判断を下すこととす。卿らに望むのはこの件をいたずらに広めぬこと、軽挙妄動を慎む事の二つのみである」
もうこの件についての話は終わったと、皇帝は再び書類に目を向ける前に宰相にだけわかるように目配せをした。
それを見た宰相は後で呼び出されることを予期し、そしてその内容が死亡したディーツ侯爵の後釜に誰を据えるかということであると確信をした。
人の口には戸が立てられない。シン、帝国に反旗を翻すの報は、瞬く間に人々の口から口へと伝わり、帝国内に少なからぬ動揺が起こったのであった。
この報が届いた翌日、ヴァルター・フォン・ハーゼ伯爵を始め、剣術指南のザンドロックなど、シンと親交のある貴族たちが次々噂の真偽を確かめに皇帝に謁見を申し入れてきた。
数日後、迷宮都市カールスハウゼンを治めるヴィッセル・フォン・シュトルベルム伯爵からも早馬で、真偽を問う手紙が届けられた。
彼だけではなく、スードニア戦役で共にルーアルト王国と戦った東部の貴族たちからも次々と手紙が届けられた。
これらを見れば、如何に帝国に於いて注目されているのかが、窺い知れるというものである。
貴族だけではなく、民衆たちも次々にシンの噂話を口にする。
「おい、知っているか? あの竜殺しが反乱を起こしたらしいぞ」
「いや、そいつは違う。俺が聞いた話によると、ルーアルト王国に引き抜かれて新北東領で暴れまわっているらしい」
「それは無いだろう。俺の知っている商人が言うには、何でも国を興そうと旗揚げをしたとか」
一部の貴族だけでなく、民衆まで広く誤報が伝わり動揺を示しているのを知った皇帝は、この件に関して詳しく調べその結果をきちんと伝えることを布告し、事態の一時的な収拾を図った。




