シンの謀略
部屋に漂う微かに香る酒精の元を探ると、テーブルの上に飲みかけのグラスが二つ置いてあるのが見える。
テーブルの上には高く積まれた金貨と、よくわからない絵柄が書かれた複数のカードが散らばっている。
シンはチラリと横目でコンディラン伯爵の表情を探ってみるが、伯爵は青い顔をしたままわなわなと小刻みに震えているばかりで、シンの撒いた餌に喰いついては来なかった。
――――チッ、反応が鈍い。失敗したのか? だがもう後戻りは出来ない、このまま勢いで押し切るか……
「伯爵、簡単な事ですよ。あなたは軍を掌握し、普通に賊を退治して治安を維持する。その傍らで、侯爵や他の貴族の非道な行いを密かに調査し、その証拠を陛下にお伝えするのです」
コンディランは目を大きく見開き驚愕する。
「侯爵亡き後、西部の貴族を束ねるのは一体誰になるのでしょうか? 私が何故、ローレヌ伯爵ではなく、あなたにこの話をしたのかを良く考えて頂きたい」
「……つまり、味方を売れと言うのか? 馬鹿な!」
「何を呑気な事を……侯爵が死んだ以上、後を継いで全軍を掌握するのは次席の伯爵。その伯爵はこの地に二人居るのです。あなたがやらなくてもローレヌ伯爵はどうでしょうか? 彼はあなたと手を取り合って協力するでしょうか? むしろあなたを倒す好機と捉えるかも知れませんね」
コンディラン、ローレヌの両伯爵が領境に跨る鉱山を巡って、小競り合いをし多数の死傷者を出したことをフェリスから聞いている。
それを知ったディーツ侯爵が、頼みもしないのに仲裁を買って出て、利権の大半を巻き上げたことも同じくフェリスから聞いている。
この両名が仲良く手を取り合う事はあってはならない。
その時点でシンの計画が破綻してしまうのだ。
シンはローレヌ伯爵の姿も為人も知らないが、この場は悪役になって貰わねばならなかった。
「それだけではありませんよ、伯爵。あなたは私がディーツ侯爵を成敗した時に、侯爵に対して何の救いの手を差し伸べなかったばかりか、その後で私を連れ立ってこの部屋に入る所を多数の人間に目撃されている。彼らはこう思うでしょうな、今回の事は最初からコンディラン伯爵が仕組んだ事なのではないかと……」
「なっ、馬鹿な!」
伯爵はハッとした表情を浮かべた後で、真っ赤になってシンを睨み付けた。
「貴様、最初から私を嵌める気だったな!」
怒りの感情が、それまで抱いていたシンに対する怯えを吹き飛ばし、正常な思考と判断力をとりもどしつつあった。
「全てはもう遅い。私と伯爵は他の者から見れば、共犯なのですよ。さぁ、覚悟を決めるべきです。ローレヌ伯爵や他の貴族の悪事を暴いて生き残るしか、あなたに道は残されてはいないのです」
事こうなっては仕方がないと、苦虫を噛み潰したような顔で伯爵は協力を約束した。
「身の回りにも気を付けなさい。侯爵の部下は信用出来ませんし、この城にはいない侯爵の縁者たちにも要注意です。彼らが蠢動する前に、悪事の証拠を握ることです」
「よかろう、この際に邪魔者は全て潰す。それでよいのだろう?」
覚悟を決めたのか、野心に火が点いたのかは定かではないが、やる気になったのを見てシンは安堵した。
「ええ、それであなたは命と栄誉を守ることが出来る。では、私は役目を終えたので帝都に戻ります。通行の許可書を一筆お願いします。コンディラン伯爵、あなたの手腕に期待してますよ」
シンは心中で喝采を上げる。コンディランはこれから勝手に踊り狂ってくれることだろう。
ケルヴィンもそうだが、コンディランにも一切の言質を取られていない。
全て、かもしれないという仮定の話で通すことが出来た。
伯爵が普段の正常な精神状態ならばこうも上手くは行かなかっただろう。
目の前で侯爵が殺されて、半ば錯乱状態であればこその成功であった。
――――さて、第二幕と行こうか……
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シンは伯爵から通行許可書を認めてもらうと、酒臭い不快な部屋をさっさと後にする。
「フェリス、そっちはどうだ?」
「ええ、上手く行きましたよ。今頃は口づてに伯爵が全部仕組んだことになってるはずですぜ」
シンが伯爵と話している間、フェリスは幾人かの城の人間に、今回の件は伯爵が仕組んでいたことだと触れ回っていた。
「通行許可書も手に入った。長居は無用、混乱の治まらぬうちに脱出するぞ」
「了解!」
「その前にやっておくことがあったな……ケルヴィンを呼んでくれ」
シンに呼び出されたケルヴィンは、自分も一緒に帝都に戻るつもりだったらしく、ここに残れと言われて憤慨した。
「落ち着け、ケルヴィン卿……卿にしか出来ないことがある。卿はこの城に残り、伯爵の悪事の証拠を掴むのだ。道案内だけの功ではちと弱いが、それらの功績があれば卿の望む富貴が得られるやもしれぬな」
ケルヴィンは顎に手を添えて考え込む。
「わかりました、必ずや確たる証拠を掴んで御覧に入れましょう」
ケルヴィン自身も道案内の功績だけで、爵位を得られるとは思っていなかったのだろうか? それとも彼の欲望の炎がさらに燃え上ったのだろうか? 兎も角、残留する事を決めたケルヴィンに別れを告げて、アロイス達と合流すると早速伯爵に書かせた通行許可書を使い、素早く城外へと馬を走らせた。
城門を出てハスルミアを振り返ると、城壁の上から侯爵の生首が吊り下げられているのが見えた。
「団長、あいつどうなりますかね?」
並走するフェリスが言うあいつとは、誰のことでもないケルヴィンの事である。
「わからんな、あいつの才覚次第だが……おそらく伯爵に消されるだろうな……」
その言葉を聞いたフェリスは、大げさに肩を竦ませて見せた。
「まぁあいつも騎士とは名ばかりの外道ですし、どうでもいいんですがね」
フェリスが聞いた話によると、侯爵が行った民衆からの徴発に嬉々として参加しその時の事を自慢げに話したそうで、誰も彼が無残に殺されようとも心を痛めるような事は無いと思われる。
「ウォルズ村の本隊と合流して、城塞都市カーンへ向かう。そこで最後の仕上げをするぞ」
一路ウォルズ村を目指し、龍馬と馬を乗り潰さないように注意しながら出来る限りの速さで進んで行く。
途中にある幾つかの検問や関所も、コンディラン伯爵の書いた通行許可書のサインと、封蝋に刻まれた紋章のおかげで、怪しまれることも無く楽々と通過する事が出来た。
「この調子なら明後日にはウォルズ村に着くな。許可書のおかげで一々迂回せずに済んだのが大きい」
「ですが、油断無きように……」
短いアロイスの言葉に頷くと、一行は気合いを入れなおして街道を土埃を巻き上げながら駆けて行った。
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シンが新北東領で危機に陥っていた頃、帝都では宮殿に一人の老人が訪れていた。
老人の名はゾルターン。先々代皇帝に仕え、人々に大魔導士と称されるほどの実力を持った魔法使いである。
「ようこそゾルターン老、久しいな。前に会ったのは余が六つの時か、御老体も壮健で何よりだ」
老人は杖を立て掛けとんがり帽子を脱ぐ。
髪は真っ白で顔には深い皺が刻まれているが、眼光鋭くその眼差しを受けた皇帝ヴィルヘルム七世は、思わず息を飲んだ。
「お久しゅうございます殿下……いやこれは失礼、陛下でしたな。時の立つのは早いものですな」
そう言って笑うと鋭い切れ長の目は、皺の中へ隠れてしまう。
「余がいくら呼んでも招聘に応じなかった御老体が、今日は如何なる風の吹き回しかな?」
「ほっほっほ、いや何というか、ちと興味を惹かれましてな……魔法剣とやらに……」
隠棲している老人がどこでそれを知ったのか? 魔法剣を知る者は殆ど居ないはず……一体どうして……
一筋縄ではいかぬ老人を前にして皇帝は、緊張の度合いを一気に高めざるを得なかった。




