見えない新たな敵
一度の小休止を挟んだ後、ブリギッタは再び話し始めた。
ルードビッヒ男爵領に居れば命の危険があることから、一刻も早く離れなければと。
だが、自身は孤児で身寄りもなく、頼るべき人も場所もない。
途方に暮れていた時にふと思い出したのは、女中たちが噂をしていたレオナのことだったという。
レオナが帝都で近衛騎士をしているとの話を小耳にはさんだことがあり、その話に僅かな希望を見出した。
人目を忍ぶようにして帝都を目指したが、路銀は少なく駅馬車などを利用することは出来なかった。
少ない金は全て食費に回し、それでも足りずに雨水を啜り、野草を食みながら帝都を目指しひたすらに歩き続けたという。
赤子を連れた少女が一人旅をして帝都に着いただけでも奇跡に近く、驚嘆に値するだろう。
無事帝都に着いたもの、レオナを探すのは難航した。
反逆者であるルードビッヒ男爵の名前は口が裂けても言う事は出来ない。
出せる情報はレオナという名前だけ、これでは広い帝都で見つかるはずもない。
だが天は少女に味方した。勘当されていたとはいえ、レオナは反逆者ルードビッヒ男爵に連なる者、それを警戒する帝国の諜報の網にブリギッタは引っかかった。
衛兵に囲まれ、詰所に連行されたブリギッタは恐怖に駆られついレオナの事を喋ってしまった。
「拙いな……」
シンの表情はまるで苦虫を噛み潰したようで、さらに短い舌打ちまでしてしまう。
その様子に怯えたブリギッタは縮こませた身体をさらに小さくした。
「……申し訳ございません……」
レオナは血の気を失った表情でシンに頭を下げ、詫びる事しかできない。
「いや、そうだな……俺は今から宮殿に赴く。お前たちは交代で番をしろ、警戒を怠るな。ブリギッタさんは赤ん坊とゆっくり休んで下さい」
そう言うや否や、シンは颯爽と部屋を飛び出していく。
あまりの行動の早さに皆は声を掛ける間もなく、残された者達はシンの命に従うほかなかった。
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少しだけ早めの晩餐の後で、食後の酒を嗜みくつろいでいた皇帝の元に、近侍の者が駆け寄り耳打ちをする。
何とも言えぬような複雑な表情を見せる夫に共にくつろいでいた皇后は、不思議なものを見るような眼差しでどうしたのかと聞く。
「いや、シンがな……訪ねて来たらしいのだが、どうも様子がおかしいとのことでな……」
心配そうに見詰める妻に軽くキスをした後、皇帝はシンの待つ応接室へと向かった。
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応接室で待つシンは思考の海を彷徨い続けていた。
夜に宮殿を訪れるのは無礼千万、それは承知してはいるが急がねばならない理由があった。
反逆者ルードビッヒ男爵に連なる者としてレオナは監視されており、そこに怪しげな赤子を連れた少女のブリギッタが接触を図ってきた。
そのことを諜報は掴んでいるのに逮捕拘禁されなかったのはおかしい。
ブリギッタはあえて泳がされたのではないかとシンは考えていた。
皇帝はシンに対して友誼を結んでおり寛大であるが、部下もそうだとは限らない。
シンは戦場で度々武勲を上げ、その功績に対し羨望の眼差しを受けているが、その中に嫉妬も含まれているのを肌で感じている。
更に皇帝の覚えめでたく、格別の寵を受けているとなれば尚更のこと、嫉妬だけでなく、シンを危険視する者もいるだろう。
そう言った者達があれこれ蠢動する前に、手を打たなければならない。
ルードビッヒ男爵の娘であるレオナだけでも危険な綱渡りを続けている状態であるのに、更にルードビッヒ男爵の情婦とその子供を匿ったと知れれば、糾弾は免れようがない。
ブリギッタが衛兵に捕まったのに、レオナの元へ素直に送り届けられたのは策謀の香りが漂いすぎている。
――――誰かが俺を嵌めようとしているのか? 具体的な心当たりは無いが、有り得ない話では無い。斬った張ったの世界で生きていれば人知れず恨みつらみを買う事もあるだろう……一体誰なんだ? どうもこう言ったのは苦手だな。
諜報が皇帝に報告する前に、自発的に全てを話して信用を得なければ自身やレオナだけでなく弟子たちにすら危険が及ぶ可能性がある。
だが、皇帝一人の信用を得るだけで大丈夫だろうか? 皇帝は俺に甘い。皇帝に寵を受けていることにかこつけて見逃されたと思われないだろうか? そうすると皇帝にも迷惑が掛かることになってしまう。
しかめっ面をして考え込んでいたシンは、皇帝に声を掛けられるまでその存在に気が付かなかった。
いつものシンにあるまじき姿に皇帝も僅かに眉を顰める。
「シン、どうした? いつものお主らしくもないな、何かあったのか?」
声を掛けられハッと我に返ったシンは、皇帝の顔をまじまじと見た後、覚悟を決めた。
「陛下、宰相殿をお呼びしていただけないでしょうか?」
シンが晩酌を共にしようと訪れたのではないことはわかってはいたが、それでも少しだけ落胆した気持ちを切り替えて、皇帝は政務の時に見せる顔つきに戻してシンの要望に応えた。
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急に呼び出された宰相が到着し、皇帝とシンが詫びる。
宰相は手を振り、何事ですかなと話を急かしてくる。
シンはそこで今日の出来事を包み隠さず話し、皇帝と宰相の判断を仰ぐことにした。
「何、ルードビッヒの遺児だと? まことか?」
皇帝の眉が危険な角度へと跳ね上がる。
「それで、その者は男児ですか? それとも女児ですかな?」
そう問う宰相の目つきは鋭く険しいものへと変わっていく。
「女児です、どうやらルードビッヒは身寄りのない女を見繕い手を付けていたようで……その赤子の母親であるブリギッタも孤児院から女中の奉公と偽られてルードビッヒの慰み者にされたらしく、他にも似たような手口で連れて来られた者が多数いたと話しております」
皇帝はチッと舌打ちし、宰相はフンと面白くなさそうな表情を浮かべる。
「して、この親子をどう致すべきか判断を仰ぎたく、夜分礼を失していることを承知で参上致しました」
「シン、よい。普通に話せ! 女児であろう? ならば問題はあるまい、宰相どうか?」
宰相はシンをチラリと一瞥した後、皇帝の下問に答える。
「はっ、そうですな……おそらく問題はあるまいとは思いますが……」
「いつになく歯切れが悪いな、卿はこう言いたいのであろう。この事自体に策謀の影があると」
皇帝の目が細まり、宰相は小さく頷いた。
「はい……離間策の可能性があります。この事を騒ぎ立てて陛下がシン殿に処罰を与え、その仲を裂く。問題は誰がどのような目的で行っているのかということであります」
「シンの話ではその娘は諜報の網に掛かったのであろう。その時点で余に報告が上がってこないのは変だ。そうだな……いっその事、相手の思い通りに事を運んで見るか?」
宰相も顎鬚を扱きながら考え込む。
「それは少々危険ではありますまいか? 考えられる敵は、シン殿の功績を妬む輩、反逆者どもの残党、教団各位の総本山勢力、そして現近衛騎士……ルーアルトとハーベイの可能性も無くは御座いませんが、今あの両国は我が帝国にちょっかいを掛けている暇はございますまい」
「厄介だな。だが、シンが正直者で助かったわ。そやつらが動き出す前にこうして来て包み隠さず話してくれた。策の質からいってシンの政治中枢からの排除が目的か? だとすれば敵は絞れるだろう?」
シンも考えてみるが思い当たる節が多すぎて困惑する。
「少し調べてみますか、もしかすると諜報からは報告は上がっていたのかも知れません。握りつぶしたか、あるいは嘘の命令を与えたか……そこをまず調べたいと思います。差し当たっては、その女児の件ですが……」
「女児であれば問題はないが、一応は注意をしておくか。シン、その女児と母親の名前を変えさせろ。ルードビッヒの残党に目を付けられないようにな。尤も、もう目を付けられておれば無駄であるが、打てる手は打っておくに越したことはない。それと引き続きお主がその親子を保護せよ。よいな?」
「はっ、直ちに改名させます。寛大な処置に感謝致します」
「堅苦しいな、シン。お主はこういった戦いは苦手であろう? 余は得意だから任せておけ、すぐに敵の正体を暴いてやるわ」
皇帝の目が細まり暗い光が灯り、宰相のは大きくため息をついた。




