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朝、日も明けきらぬ頃、一人の女性が目覚めた。年のころは二十歳あたり。真っ白なシミひとつない肌にクセのない真っ直ぐな黒髪。長いまつげに縁どられた黒い瞳が眠そうに二、三瞬いたあとひとつあくびをする。真っ白な寝巻に真っ白な寝具。白と黒の色彩の中でピンクの唇だけが色彩を持ち、美しい顔は、儚げ、というより現実離れした人形のようで、近寄りがたい。
彼女はユーグス伯爵邸の唯一の使用人である。名前はアリアという。屋敷に来て早15年。掃除、洗濯、食事からその他もろもろユーグスの身の回りの世話もこなす。長く仕えて身についた習慣は寝起きの思考がまとまらない頭でもスムーズに行える。顔を洗い、歯を磨いてメイド服に着替え、髪を結い、薄く化粧を施す。特にほほ紅は欠かせない。アリアの肌は白く、唇こそ可憐なピンク色をしているが頬に血色がなく、ほほ紅を付けないとひどく体調が悪く見えてしまう。
身支度を終え、ようやく目が覚めたアリアはひとつ伸びをして今朝の仕事をしに自室をでた。
メイドの朝は忙しいのだ。
伯爵であり賢者であり魔法使いであるユーグスが起きるのはだいたい昼過ぎ。理由は遅くまで研究やら魔法書の執筆やら仕事をしているからである。アリアが来る前は昼夜が完全に逆転していたが彼女が来てから改善された。アリアが来たのは5歳ごろであるから、昼夜逆転につき合わせるのはまずいだろうとのことで改めたのである。
朝のもろもろの仕事を終え、アリアはユーグスの寝室に向かった。ノックをしても返事がないのはいつものこと。ユーグスは朝に弱い。アリアも弱いほうだがその比ではない。一度寝るとかなり乱暴に起こさないと起きられない。
「主、起きてください。主。ユーグス様!」頭まですっぽり布団をかぶったユーグスをゆするがいっこうにおきる気配はなく、穏やかな寝息が聞こえる。いつものことだった。
(あぁ、なんて面倒なのかしら)
アリアはため息をついて、ユーグスの寝ているシーツをつかみ気合を入れ、一気に、ひっくり返してユーグスごとベッドの外へ放り投げた。ゴンッという鈍い音とともに「うぅ~」という情けない声が聞こえ、さすがに目の覚めた主人がのそりと上半身を起こした。
「毎度毎度・・・。もう少し優しい起こし方はできないのかね。痛いぞ。」
ぶつけたのであろう頭をさすりながらアリアをにらみつけた。
「優しくおこして差し上げようとしてますけれど、起きないんですもの。私のせいにしないでくださいませ。さ、食事がさめてしまいます。早くいらしてくださいね」そう言ってさっさと出て行ってしまった。
このやり取りも毎朝のことであった。
アリアは食器をテーブルに並べながら主もことを思った。
ユーグス。賢者であり、大魔法使いであり、不老不死を手にした最強の人間。
彼の成し遂げた偉業の数々は人々の暮らしを大いに飛躍させ、文明は花開いた。世界中の人から崇高の対象とされるのは彼の能力ばかりが理由ではない。
それは彼の容姿にもあった。
男性にしては白めの肌は毎日研究のため屋敷に閉じこもっているからか。緩やかに波打つ長めの黄金の髪が金糸のようにきらめいている。髪と同じ金色の眉の下には同じく金色のまつげ。深い海を思わせる群青の瞳は見る者を魅了して離さない。
左右完全対照の顔は、彼がよくやる左口角だけをクッとあげてつくるニヒルな笑みによって崩れるが、その一癖も二癖もありそうな余裕の笑みが実にはまっている。
そして、長身の体に鍛え上げられた肉体。毎日研究所にこもっているはずだがいつ鍛えているのだろうかと不思議に思う。
毎日見ているイヴでさえ、時折見入ってしまう。それは容姿が整っているからという単純な理由だけではない。彼の持つ、他者を圧倒するオーラに目が引き付けられるせいだ。
(観賞用としてはいいんだけれど、全く面倒な人だわ)
朝は特に忙しい。だから主を起こす時間が惜しい。たまにはちゃんと起きてくれないかしらとアリアは深いため息を落とした。
リビングにユーグスが降り立つとおいしそうな匂いが鼻をつく。
彼の食事は一日二食。起きるのが昼だからだ。そのかわり夜に軽食をとる。
「いつみても完璧だな。すばらしい食事だ」アリアのつくった食事に舌鼓をうちながら絶賛する。
「光栄です」
アリアは基本必要以外しゃべらない。主人と使用人という立場をわきまえて、というわけでも口下手というわけでもない。ただ、しゃべる事でのコミュニケーションを重要視していないのだ。
そして、ユーグスはわりとよくしゃべる。新聞の記事や昨日の研究での成果、天気や食べたいものなど、些細なことをしゃべる。アリアはだまってそれを聞き、相槌を打ちながら時折「そうですか」「なるほど」と抑揚のない声で答える。
第三者からはつまらなそうに相槌を打っているように聞こえるだろうが、その実そうではない。アリアにはコミュニケーション能力の他に表情が圧倒的に欠落している。
毎日一緒にいるユーグスでさえ笑った顔は数えるほどしか見たことはない。それもわずかな変化で、一見すると笑ったとはいいにくいほどかすかな変化だ。
人の心に敏いユーグスだからこそわかるようなもので、よって、にっこりと笑ったところなど見たことはない。ましてや声を上げて笑うなど全く想像がつかない。
怒ったところも泣いたところも見たことはないのだ。
(感情の起伏はちゃんとあるんだがな。それがどうしても表情に表すことができないのだろう)
ユーグスがアリアに話しかけるのは表情を引き出そうとしているからだ。
表情には出ないが喜怒哀楽はちゃんとある。だが、いかんせん顔に出ない。
「そういえば、先日私が贈ったドレスはどうした?」
ユーグスは年頃のアリアにドレスを贈ったのを思い出し尋ねた。
「あぁ、お礼を言うのを忘れておりました。有難うございます。機会があったら着させていただきます。」
「機会って・・・。あれは普段着用のドレスだよ。まったく、いつまでそんな暗い色の服を着ているんだ。メイドなどせずともよいものを」
メイド服はユーグスに言われてきているのではない。12歳の時、通いの年嵩のメイドが退職をしてより、アリアは自主的にメイド服にそでを通し、以来、ユーグスの身の回りの世話と屋敷の管理をするようになった。故に常々ユーグスはそんなことをせずともよいといって聞かせるのだがアリアは頑として聞き入れなかった。
「昔はユーグスユーグスと私の後ろをくっついてきたのに。あるじ、などと。様付けも気に入らんよ。」
「昔のことでございます。幼い私の無礼をお許しください」
ユーグスは深いため息をつき、食後のコーヒーをのんだ。