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万象の碑銘(ひめい)  作者: ユーディ
第一章 泥濘(でいねい)の末裔たち
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第一章 第六部 銀葉の森、傲慢なる長命種

悠久と、刹那。

世界を観測する「時間」の尺度が違えば、命の価値観もまた決定的に分かたれる。

数百年、数千年という途方もない時間を生きる長命種エルフにとって、歴史とは静かに積み上がる美しい地層であり、変化を嫌う「停滞」こそが至高の平穏である。彼らにとって、わずか数十年で泥に還る人間の生など、森に降る一瞬の通り雨に過ぎない。

だが、その通り雨が、時に巨木をへし折るほどの雷雨となることを彼らはまだ知らない。

寿命という絶対的なリミットがあるからこそ、人は焦り、抗い、次代へと己の熱を託すために異常な速度で魂を燃焼させる。

これは、魔法と血脈を至上とする高貴なる森の住人たちと、知恵と気功を武器に泥から這い上がってきた人間たちが、互いの生存と誇りを懸けて初めて正面から激突した、歴史的な会合の記録である。

魔の森の地下で神話の失敗作『泥濘でいねいの王』の末端を打ち破り、カクという偉大な豪傑を失ってから、三年という月日が流れていた。

黄土こうどの街を囲む版築はんちくの城壁は、度重なる魔物や亜人の襲撃によって修復に修復を重ね、今や元の土の色がわからないほどに黒い血とすすで汚れきっている。


「……右翼、踏み込みが浅いぞ! 盾を前に押し出せ! 気の壁を薄くするな!」


黄土の街から北へ数里離れた荒野。

土埃が舞う戦場で、鋭く、しかし腹の底に響くような号令が飛んだ。

声の主は、二十名ほどの特別探索隊——通称『泥の部隊』の先頭に立つ青年、レイであった。


十八歳となった黎の体躯は、三年前のひ弱な少年の面影を完全に払拭していた。過酷な実戦と練気によって鍛え上げられた筋肉は鋼のように引き締まり、その背中には、かつての霍隊長を彷彿とさせるような、静かで圧倒的な『熱』が宿っていた。


「グルルゥゥッ!」

陣形に襲いかかってきたのは、体長三メートルを超える『腐牙猪ふがちょ』の群れだった。泥濘の王が放つ瘴気にあてられ、森から逃げ出して凶暴化した変異種である。

分厚い突進が、人間の張った長槍陣の盾を大きく軋ませた。


「黎! 右の二頭が陣を迂回しようとしてやがるぜ!」

後方から、身軽に岩を蹴って跳躍したエンが叫ぶ。彼の得物である二振りの湾刀(ククリ刀)には、三年前よりも遥かに洗練された鋭い風の気が纏われていた。


「わかっている。燕は左を押さえろ! ゴウ、陣の中央を支えきれるか!」

「任せとけってんだ! 俺の腕力を舐めるなよ!」

巨漢の剛が、新調した分厚い鉄の棍棒を地面に突き立て、岩のように強固な『土行どぎょう』の気で猪の突進を正面から受け止めた。


春華シュンカ、後方の負傷者に気を回せ!」

黎は矢継ぎ早に指示を出しながら、自らも陣の右翼へと地を滑るように駆け出した。


「はぁぁッ!」

腰に下げた鞘から、気鍛きたんの黒剣が抜き放たれる。

刃の表面には、かつて霍から受け継いだ命の熱が、赤黒い血の紋様となって深く刻み込まれている。黎が丹田たんでんから『陽』の気を流し込むと、剣はまるで主の意志に呼応するように、微かな共鳴音を立てた。


「一撃で仕留める……『気功絶衝きこうぜっしょう・焔断ち』!」


黎の姿がブレた。

三年前のように、ただがむしゃらに気をぶつけるだけの未熟な剣ではない。最小限の気で最大限の破壊力を生み出す、洗練された一閃。

すれ違いざまに放たれた黒い刃が、腐牙猪の硬い外骨格を豆腐のように両断し、その内側に潜む瘴気の核だけを正確に焼き切った。


「ブギ、ギィィ……ッ」

巨大な猪が二つに裂け、轟音と共に荒野の泥へと沈む。

それを見た残りの魔物たちが、黎から放たれる圧倒的な気の圧力——かつて森の奥で感じた『王』の威圧にも似た凄み——に恐れをなし、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。


「……追うな。陣を解いて、負傷者の手当てを優先しろ」

黎が黒剣を振り被り、刀身についた汚れた血を払い落として鞘に収める。

その無駄のない洗練された所作に、若い隊員たちが畏敬の念を込めて深く頷いた。


「お疲れさん、若き隊長殿。今日も見事な采配だこと」

燕が湾刀を回しながら近づいてきて、からかうように肩をすくめた。

「だが、お前もすっかりジジクサイ顔つきになっちまったな。さっきの号令なんて、あの霍のクソジジイが乗り移ったのかと思ったぜ」


「……馬鹿を言うな。俺はただ、隊長として当たり前のことを言っただけだ」

黎は苦笑しながら、汗を拭った。


「黎くん、剛くん! 怪我はない?」

後方から、医療箱を抱えた春華が駆け寄ってくる。彼女もまた、背が伸びて大人の女性の顔立ちになっていたが、その柔らかな治癒の気と優しい声は三年前と変わっていなかった。


「おう春華! 俺はかすり傷一つねェよ。黎の奴が、敵が陣にぶつかる前に一番ヤバいところを全部刈り取っちまうからな」

剛が豪快に笑いながら、棍棒を肩に担ぐ。


「当たり前だ。これ以上の犠牲は出さない。それが、あの地下から生還した俺たちの責任だ」

黎の言葉に、燕も剛も、そして春華も、静かに顔を引き締めた。

あの日の腐界の底。霍隊長が自らの命を燃やして開いた『紅蓮の道』。そして、氷の魔力を操る少女・リンと魂を共鳴させて放った、太極の一撃。

あの絶望と奇跡を知っているからこそ、彼ら『泥の部隊』は、黄土の街で最も生存率が高く、最も恐れられる精鋭部隊へと成長を遂げていたのである。


「……だが、状況は悪くなる一方だ」

黎は、西の空を覆う重苦しい灰色の雲を見上げた。


泥濘の王の末端を破壊したとはいえ、森の奥深くで目覚めつつある「本体」の瘴気は、ゆっくりと、しかし確実に大陸の生態系を狂わせていた。

生存圏を追われた魔物や亜人たちが、人間の土地へと雪崩れ込んでくる。このままでは、黄土の街が防衛戦の波に飲み込まれるのは時間の問題だった。


「隊長! 統星楼とうせいろうの伝令です! エン城主が、直々に黎隊長と副官の燕殿をお呼びです!」

若い隊員が馬を走らせて駆け込んできた。


黎と燕は顔を見合わせた。

黄土の街の頭脳である炎城主が、わざわざ直々に部隊長を呼び出す。それは、ただの魔物討伐ではない、大陸の勢力図を揺るがすような「特命」が下る合図であった。


黄土の街の中央にそびえ立つ、巨大な版築の楼閣——統星楼。

その最上階にある軍議の間は、線香の煙と、重苦しい沈黙に包まれていた。


「……よく来たな、黎。そして燕よ」

円形の沙盤(さばん・作戦ジオラマ)の前に立つ炎城主は、三年前よりも少し白髪が増えていたが、その眼光の鋭さは健在だった。


「はっ。お呼びとあらば」

黎と燕が片膝をついて頭を下げる。


「単刀直入に言う。このままでは、黄土の街は今年の冬を越せない」

炎城主の口から放たれた言葉に、黎は顔を上げた。


「……魔物の異常繁殖と、亜人たちの領土侵犯による食料不足ですか」

「それもある。だが、最大の問題は『防衛の要』だ」

炎は、沙盤の上に置かれた「東の森」の模型を軍扇で指し示した。

「森の奥から漏れ出す瘴気に対抗するためには、我々人間の陣地にも『浄化の結界』を張る必要がある。だが、魔法を持たない我らには、それを構築する素材がない。必要なのは、膨大な魔力を内包した『銀霊樹ぎんれいじゅの核』だ」


「銀霊樹……! 確かそれは、エルフたちの聖域にしか生えていない神木では……!」

燕が驚きの声を上げる。


「左様。東の森のさらに北側……外界との接触を完全に絶っている長命種エルフたちの領土、『銀葉ぎんようの森』にのみ群生する木だ」

炎は扇子をパチンと閉じ、重々しい声で続けた。


「奴ら長命種は、泥濘の王の瘴気が漏れ出し始めた三年前から、自らの森の周囲に強固な結界を張り、外界の惨状を完全に黙殺して引きこもっている。亜人たちが森を追われようが、我ら人間が魔物に食われようが、自分たちの森さえ無事ならそれでいいという傲慢な態勢だ。……私は、これよりお前たち泥の部隊を、『特使』として銀葉の森へ派遣する」


「俺たちを、エルフの森へ?」

黎が聞き返すと、炎は深く頷いた。


「そうだ。奴らから結界の素材となる銀霊樹を譲り受けるか、あるいは、奴ら自身を泥濘の王との戦いに引きずり出すための『交渉』だ。……だが、魔法と血脈を至上とする長命種たちは、我ら人間を『知恵を持ったただの泥の塊』としか見ていない。正規の使者を送ったところで、森の入り口で射殺されるのがオチだろう」


「だから、荒事にも対応できて、一番死ににくい俺たちを使いっ走りにするってわけですか。相変わらず血も涙もねェ城主様だぜ」

燕が皮肉たっぷりに笑うと、炎は冷たく目を細めた。


「お前たちを選ぶ理由はそれだけではない。黎、お前の『気』の中には、三年前に接触したというその『氷の魔力』の残滓が、極めて薄くだが、まだ残っているな?」


黎はハッとして、自分の丹田に意識を向けた。

あの日、凛と交わした太極の気の感覚。それは黎の魂の奥底に、消えない種として確かに根付いていた。


「エルフたちは魔力に敏感だ。お前のその『陰の魔力』の匂いが、偏執的な彼らの結界の門を開かせる鍵となるかもしれん。……黎。交渉が決裂した場合は、力ずくで結界を破り、素材を奪ってでも帰還せよ。これは、人間の未来を懸けた生存闘争だ。泥には泥の、生き汚いやり方がある」


「……御意」

黎は深く頭を下げた。

脳裏に、氷の剣を携えた翡翠ひすいの瞳の少女の姿が浮かぶ。彼女はエルフだったのか、それとももっと高位の精霊だったのか。あの森へ行けば、彼女の正体に手が届くかもしれないという、微かな予感があった。


数日後。

黎、燕、剛、春華を含む泥の部隊は、黄土の街から北東へ数十里離れた辺境の地——『銀葉の森』の境界線に到達していた。


「……なんだここは。空気が、地上のものじゃねェぞ」

剛が、鬱蒼と生い茂る銀色の葉を持つ巨大な木々を見上げながら、ゴクリと唾を飲み込んだ。


森の入り口に立った瞬間、黎たちは肌を刺すような強烈な「圧」を感じていた。

泥濘の王が放つようなドロドロの瘴気ではない。あまりにも澄み切り、あまりにも高密度に圧縮された、純度百パーセントの「魔力」の壁。魔法を持たない人間にとっては、そこにいるだけで息が詰まり、経脈が悲鳴を上げるほどの重圧だった。


「結界だ。この森の木々全体が一つの巨大な魔法陣になってやがる。人間の気功じゃ、この壁は破れねェ」

燕が顔をしかめながら、湾刀の柄に手をかける。


黎が部隊の先頭に立ち、結界の膜の前に進み出ようとした、その時だった。


——ヒュッ!!


音も気配もなかった。

黎の足元の地面、わずか一寸(約3センチ)の隙間に、緑色の魔力を纏った白羽の矢が、落雷のような速度で突き刺さった。


「動くな、泥の虫共」


森の奥の木々の枝から、鈴を転がすような、しかし絶対的な冷酷さを孕んだ声が響き渡った。


黎が視線を上げると、いつの間にか、銀葉の木々の枝という枝に、十名を超える人影が音もなく降り立っていた。

美しい金糸や銀糸の髪。雪のように白い肌。そして、長く尖った耳。

身に纏うのは、森の魔力を織り込んだ極上の魔布で作られた軽鎧。彼らが手にしている弓の切っ先は、全て黎たちの眉間や心臓を寸分の狂いもなく狙っていた。


長命種——ハイエルフの国境警備隊であった。


「……ここは、高貴なる森の聖域。神々の恩恵を持たぬ穢れた泥の末裔が、その汚い足を踏み入れて良い場所ではない。一歩でも動けば、その泥の器を森の肥料にしてやる」


枝の中心からふわりと飛び降りてきたのは、部隊長と思しき、長い金髪を後ろで束ねた壮麗なエルフの美青年だった。

その翡翠の瞳には、人間に対する明確な「侮蔑」と「嫌悪」がありありと浮かんでいた。


黎は、周囲の若い隊員たちがエルフの放つ圧倒的な魔力圧に押されて足を踏み外しそうになる中、ただ一人、表情を変えることなくその美青年を真っ直ぐに見据えた。

腰の黒剣が、黎の丹田から立ち上る『陽』の気を受けて、微かに熱を放ち始める。


「俺たちは黄土の街、炎城主の特使として参った。銀葉の森の長に謁見を求める。……弓を下ろせ。俺たちは泥だが、ただ黙って肥料になるつもりはない」


黎の静かで、しかし鋼のように重い宣言が、魔力の森に真っ向から響き渡った。

魔法を持たぬ最弱の種族と、魔力を支配する最も高貴な種族。

決して交わることのなかった二つの歴史が、今、凄まじい火花を散らして激突しようとしていた。


「……ここは、高貴なる森の聖域。神々の恩恵を持たぬ穢れた泥の末裔が、その汚い足を踏み入れて良い場所ではない。一歩でも動けば、その泥の器を森の肥料にしてやる」


銀色の葉が鬱蒼と生い茂る森の境界。

レイの足元、わずか一寸の隙間に突き刺さった緑色の魔法の矢。そして、頭上の枝から黎たち『泥の部隊』を完全に見下ろし、冷酷な翡翠ひすいの瞳で射抜くハイエルフの美青年。

彼の名は、蒼月ソウゲツ銀葉ぎんようの森の国境を護る警備隊の隊長であった。


「俺たちは黄土の街、炎城主の特使として参った。銀葉の森の長に謁見を求める。……弓を下ろせ。俺たちは泥だが、ただ黙って肥料になるつもりはない」


黎の静かで、しかし鋼のように重い声が響く。

だが、蒼月は美しい顔を歪め、嘲笑した。


「特使だと? 笑わせるな。神話の時代より、土塊つちくれが我ら長命種と対等に口を利いた歴史など一秒たりとも存在しない。さっさとその汚い豚(魔物)の血に塗れた鉄の棒を捨て、地面に這いつくばって命乞いをしろ。さすれば、森の外へ逃げる猶予くらいは与えてやろう」


その侮蔑の言葉に、最も早く反応したのはエンだった。

「……おいおい、耳長のお坊ちゃん。言うに事欠いて、俺たちの生き甲斐(武器)を捨てろだと?」

燕の双眸に、殺気とも呼べる鋭い風の気が渦巻く。双剣の柄を握る手に力がこもり、周囲の落ち葉が竜巻のように舞い上がった。ゴウもまた、無言で鉄張りの棍棒を構え、分厚い胸板を逸らす。


「待て、燕、剛。武器を抜けとは言っていない」

黎が右手を水平に掲げ、部下たちを制止した。


「ですが隊長! 奴ら、初めから俺たちと口を利く気なんてねェぞ!」

「炎城主の命は『交渉』だ。俺たちがここで先に刃を交えれば、黄土の街と銀葉の森は決定的な決裂を迎える。……俺が話す」


黎は一歩、前に踏み出した。

その瞬間、頭上のエルフたちが一斉に弓の弦をギリッと引き絞る。濃密な魔力が矢尻に集束し、今にも黎の全身を蜂の巣にせんとする極限の緊張状態。


「我々は、東の森の地下で目覚めつつある『泥濘の王』の脅威を共有しに来た。奴の瘴気はすでに我々の生存圏を侵し始めている。このままでは、いずれ貴方たちの結界すらも——」

「黙れと言っているのだ、泥人形がッ!!」


蒼月の怒号と共に、彼の指から緑色の光の矢が放たれた。

狙いは黎の右肩。殺すためではなく、物理的な激痛をもって分をわきまえさせるための警告の一矢。

しかし、黎は避ける素振りすら見せなかった。


ガキンッ!!


黎が動かしたのではなく、彼の腰に差されたままの『黒剣』が、主の危機に呼応して凄まじい密度の気を放ち、魔法の矢を空中で弾き落としたのだ。

「な……っ!?」

蒼月が驚愕に目を見開く。魔法の矢を、抜刀すらせずにオーラの防壁だけで弾き落とすなど、人間の技術ではあり得ない現象だった。


「……言ったはずだ。俺たちはただの肥料じゃないと」

黎は黒剣の柄に右手を添え、丹田の奥底——三年前に沈めた『あの記憶』を呼び起こした。


(俺の陽の気だけじゃない……あの時交わった、彼女の陰の魔力を引きずり出せ!)


黎の体内から、赤黒い陽の熱に混じって、極めて微弱だが、絶対的な純度を持った『蒼い凍気』が立ち昇り始めた。それは、神話の時代から続く太極の理。


その冷たく澄んだ魔力の波動を感じ取った瞬間、頭上のエルフたちの間に、かつてないほどの激しい動揺が走った。


「ば、馬鹿な……! この魔力の波長は……!」

「あり得ない! なぜ泥から生まれた薄汚い人間が、我らが『白銀の巫女』様の魔力残滓を纏っているのだ!」


蒼月の顔から血の気が引いた。彼が放っていた傲慢な威圧感が、信じられないものを見る恐怖へと変わる。

「貴様……いや、貴方たちは一体、何者だ? なぜ、数年前に森を出られたきり行方不明となられている、リン様の魔力を宿している!」


(凛……様? やはり彼女は、この森の……)

黎は内心の驚きを隠し、表情を崩さずに真っ直ぐに蒼月を見据えた。


「俺たちは東の森の地下で、泥濘の王の末端と戦った。その際、凛という名の少女と共闘したのだ。この魔力は、その時に彼女から託されたものだ」

半分は真実であり、半分ははったりだった。

だが、その言葉はエルフたちにとって、天と地がひっくり返るほどの衝撃を与えた。彼らにとって『凛』という存在は、単なる同胞ではなく、信仰の対象に近い絶対的な上位者であったのだ。


「……武器を収めろ」

蒼月が震える声で部下たちに命じた。弓の弦が次々と緩められる。


「白銀の巫女様と接触したというのなら、話は別だ。……貴方たちを、長老会議の場へ案内する。だが勘違いするな。我々は貴方たち人間を認めたわけではない。巫女様の行方の手がかりを知るための、ただの『証人』として連行するだけだ」


蒼月が指を鳴らすと、銀色の葉が生き物のように道を空け、森の奥へと続く光の道が現れた。

燕が黎の背中を小突いて、小さく耳打ちする。

「……やりやがったな、隊長。ハッタリ一発でエルフの門をこじ開けやがった」

「ハッタリじゃない。俺の魂が、彼女の魔力を覚えていただけだ。……気を引き締めろ、ここからが本番だぞ」


黎たち三十名の『泥の部隊』は、エルフの警備隊に周囲を完全に包囲されながら、人類未踏の聖域である『銀葉の森』の奥深くへと足を踏み入れた。


森の内部は、黄土の街の泥臭い喧騒とは対極にある、完全なる『静寂と光の世界』だった。

巨大な古代樹の幹がそのまま美しい彫刻の施された住居となっており、宙には光る魔法球がふわりふわりと浮遊している。歩くたびに足元の草花が淡く発光し、空気は甘く清浄な香りに満ちていた。


「すげぇ……なんだよここ、神様の世界かよ」

剛が口をぽかんと開けて見回す。春華もまた、そのあまりの美しさに息を呑んでいた。

だが、黎や燕は鋭い視線で周囲を観察し、ある「違和感」に気づいていた。


(……綺麗すぎる。泥一つない。だが、まるで時間が止まっているようだ)

行き交うエルフたちは皆、完璧な美貌を持っていたが、その表情には起伏がなく、黎たち人間を見ても「汚い虫が入ってきた」というような冷ややかな無関心を向けるだけだった。

変化がない。飢えがない。死の恐怖がない。

それはまさに、巨大な鳥籠の中に作られた、永遠に停滞し続ける美しいジオラマのような世界だった。


やがて彼らは、森の中心にそびえ立つ、ひときわ巨大な一本の樹——『銀霊樹ぎんれいじゅ』の根元に設けられた広大な円形議事堂へと案内された。

そこには、純白の法衣を纏った数名の老エルフたちが、半円状に配置された玉座から黎たちを見下ろしていた。


中央に座す、最も魔力の深いしわがれた老エルフ——大長老・白瑛ハクエイが、重々しく口を開いた。


「炎城主の使いとやら。蒼月から報告は受けている。……泥の身でありながら、我が森の巫女・凛と接触し、共に戦ったというのは真実か」


「真実です」

黎は堂々と胸を張り、三十名の隊員を代表して声を響かせた。

「三年ほど前、東の森の沼地で。我々は彼女の陰の魔力と、俺たちの陽の気を重ね合わせ、泥濘の王から放たれた瘴面鬼しょうめんきを打ち倒しました。その後、彼女は森の奥へと消え……それきりです」


白瑛の顔に、微かな苦悩の影が差した。

「……やはり、巫女様は我らの制止を振り切り、単独で『王』の封印を監視に向かわれていたか。あまりにも無謀な……」


「長老殿」

黎は一歩踏み出し、本題を切り出した。

「俺たちは、凛様の行方を探す手伝いをする用意がある。だがそれ以前に、我々人間には時間がありません。泥濘の王の瘴気が、黄土の街を飲み込もうとしている。街に浄化の結界を張るため、貴方たちの頭上にあるその『銀霊樹の核』の一部を、どうか譲り受けたい!」


その言葉が出た瞬間、議事堂の空気が氷点下にまで凍りついた。

周囲を固めていたエルフの兵士たちが、一斉に殺気を放つ。


「無礼なッ!!」

白瑛が杖を床に激しく突き立てた。

「ただの泥人形が、我らが聖なる神木の一部を寄越せだと!? 身の程を知れ! 泥濘の王が目覚めようとしているのは、地上の生物が過剰に繁殖し、世界を汚しているからだ。アレは世界を掃除するための自浄作用に過ぎん。我らエルフはこの結界の中で、時が過ぎるのをただ待つのみ。貴様ら人間は、泥から生まれた運命を受け入れ、森の外で泥に還るのが自然の理なのだ!」


エルフたちの底知れぬ傲慢さ。

自分たちさえ安全な檻の中にいれば、世界がどうなろうと構わないという絶対的な無関心。


「……ふざけんな」

燕がギリッと歯軋りをした。剛も怒りで顔を真っ赤にしている。


「自然の理、だと……?」

黎は、深く頭を下げていた姿勢をゆっくりと正し、白瑛を真っ向から睨みつけた。

その瞳の奥には、亡き霍隊長から受け継いだ、決して消えることのない反逆の炎が燃え盛っていた。


「血脈に守られ、魔法に守られ、数千年の間、この鳥籠の中でぬくぬくと停滞してきた貴方たちに、命の何がわかる。俺たちは泥だ。血の保証も、魔法の才もない! だからこそ、理不尽に踏み潰される運命を、牙を剥いて噛み砕いてきたんだ!」


黎の全身から、爆発的な『陽』の気が噴き上がる。

エルフたちの魔力圧を押し返すほどの、荒々しく、泥臭く、しかし圧倒的な生命の熱量。


「泥濘の王が完全に目覚めれば、貴方たちのこの美しい鳥籠も無事では済まない。その時になって泥と一緒に死ぬか、今ここで俺たち人間に素材を渡し、未来のために共に抗うか。選べ、長寿なる者たちよ!」


黎の魂の叫びに、白瑛をはじめとする長老たちは圧倒され、言葉を失った。

これほどまでに強烈な「意志」を持った人間を、彼らは見たことがなかったからだ。


「……よかろう。そこまで言うのなら、試させてもらおう」

沈黙を破り、白瑛が立ち上がった。

「神木『銀霊樹』は、魂の格が低き穢れた者が触れれば、即座にその命を吸い尽くす。貴様がただの泥の塊ではなく、神木に触れるだけの『魂の格』を持っていると証明してみせよ。……明日、この森の深き試練の泉にて、貴様の魂を量る」


「上等だ。受けて立つ」

黎は一切の躊躇なく、その挑戦状を叩き斬った。

こうして、魔法を持たぬ人間の青年は、世界で最も気高く閉鎖的な種族の扉を、その異常な熱量をもって強引にこじ開けたのである。

そして黎はまだ知らなかった。この銀葉の森の深部で、彼が再び、あの翡翠の瞳を持つ少女の運命と深く交わることになるということを。

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