表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
万象の碑銘(ひめい)  作者: ユーディ
第二章 芽吹きの泥土と、白銀の食卓
18/18

第二章 第七部 刀音(とうね)の防衛戦と、濁流の司教

清らかな水は流れ、やがて海へと至り、多様な命を育む。

だが、その流れを堰き止め、よどませた時、水は腐敗し、全てを飲み込む死の泥沼へと姿を変える。

黄土こうどの街の地下で蠢いていた『黒泥教団こくでいきょうだん』の狙いは、単なる生活用水の汚染などという小規模なテロルではなかった。彼らの真の狙いは、街の北東を流れる大陸最大級の水脈——『刀音とうねの大河』そのものを泥の濁流へと変え、結界ごと街を押し流すことにあったのだ。

大いなる自然の猛威と、狂信者たちの執念。絶対安全圏と思われていた街の外郭で、泥の英雄たちはかつてない巨大な「質量」との正面衝突を余儀なくされる。

「急げ!! 防波堤の土嚢どのうをもっと積め! 結界の出力が水圧に負けて破られるぞ!!」


黄土こうどの街の北東部。街の領域の境界線ギリギリを縫うように流れる、大陸最大級の河川——『刀音とうねの大河』。

かつては豊かな水量で街の農業を支え、多種多様な種族が行き交う大市場への水上交易路としても機能していたその清冽な大河は今、地獄の釜の底のようにどす黒く濁り、狂い荒れていた。


「クソッ! ただの洪水じゃねェ! 水の中に『泥濘でいねいの王』の瘴気しょうきが致死量まで溶け込んでやがる!」

豪雨のように降り注ぐ黒い飛沫を灰色の外套で防ぎながら、エンが双剣の柄を握りしめて叫んだ。


彼ら『泥の部隊』が、地下神殿に潜んでいた狂信者・ガラクを討ってから数日。

黒泥教団こくでいきょうだん』の狙いは、単なる地下水脈の汚染などという小規模なテロルではなかった。彼らは地下の工作をおとりにし、本隊を黄土の街の遥か上流——刀音の大河の源流地帯へと進めていたのだ。そこで巨大な瘴気の核を河川に直接投下し、大河そのものを「死の濁流」へと変質させたのである。


巨大な質量を持った黒い泥の津波が、物理的な破壊力と猛毒の瘴気を伴って、黄土の街を覆う『銀霊樹ぎんれいじゅの結界』にドスンドスンと激突している。結界のドームが悲鳴を上げ、銀色の光が明滅を繰り返していた。


「このままじゃ、結界の魔力が削り切られて街が水没する! ゴウ、土の気で堤防を極限まで隆起させろ!」

レイが、膝まで泥水に浸かりながら、迫り来る黒い波濤はとうを黒剣の気功で真っ二つに叩き割りながら絶叫する。


「やってる! だが、相手は大陸一の大河だぞ! 俺一人の気じゃ、自然の暴力を抑え込むのには限界がある!」

剛が両腕の筋肉を限界まで膨張させ、全身の経脈を焼き切らんばかりの『土行どぎょう』の気を大地に注ぎ込んでいる。ズゴゴゴゴッと地鳴りを上げて石の防壁がせり上がるが、泥の濁流はそれを嘲笑うかのように、容赦無く岩壁を削り取っていく。


背後では、狼牙族ろうがぞく牙狼ガロウ率いる亜人の戦士たちや街の守備隊が、決死の覚悟で巨岩や木材を運び、物理的な防壁の補強に走っていた。春華シュンカもまた、濁流の飛沫を浴びて倒れた兵士たちに治癒の気を送り込み、必死に戦線を支えている。


「黎! 上流から、何かが来るわ!!」

氷の魔力で決壊しそうな防壁の亀裂を凍らせて塞いでいたリンが、上流の黒い水面を指差して叫んだ。


ドドドドドォォォォッ!!!


濁流の中から姿を現したのは、倒木や岩ではない。

泥濘の王の瘴気によって異形と化し、黒泥教団の呪術によって操られた何百体もの『水魔すいま』——巨大な泥のわにや、八本足の巨大魚の群れだった。

さらに、その後方。荒れ狂う黒い大河の水面を、まるで平地を「歩く」ようにして、一人の男がゆっくりとこちらへ向かって近づいてくる。


その男は、ガラクと同じ教団の漆黒の装束を纏っていたが、体格は剛に匹敵するほどの巨漢だった。両手には、自身の背丈ほどもある巨大な「泥の戦鎚ウォーハンマー」を軽々と構え、その顔の半分は醜い泥の鱗に覆われている。


「……見苦しいな、迷える泥の末裔たちよ。大いなる王の濁流に抗い、なぜ無駄な石を積む」

男の声は、激流の轟音を貫いて黎たちの鼓膜に重く、そして不気味なほど鮮明に響き渡った。


「てめェが、この大河を腐らせた張本人か!」

黎が黒剣の切っ先を男へと向ける。


「我が名は黒泥教団・大司教『玄翁ゲンオウ』。我らは争いの元となる『変化』を呪う。清らかな水は流れ、大地を削り、恵みを持つ者と持たざる者を分かつ。……故に、全てを泥に還し、流れを止めよ。個を捨てて泥の海に溶け合えば、世界は永遠の平穏に包まれるのだ」

玄翁のその思想は、狂気というよりは、あまりにも純粋で、それゆえに救いようのない歪んだ『救済』の論理だった。


「ふざけるなッ! 水が流れて、季節が変化するからこそ、俺たちは今日生きてる喜びを噛み締められるんだ! てめェらの押し付ける平穏なんざ、ただの冷たい墓場だろ!」

黎が全身から爆発的な『陽の気』を噴き上がらせた。

大市場で共に笑い合った人々、土に塗れて種を蒔いた亜人たち。黎の脳裏に、黄土の街で育んできた温かい日常の記憶がフラッシュバックする。

(あんな温かい時間を、泥なんかに沈めさせてたまるか……!)


「愚かな。泥人形が、王の質量に勝てると思うな」

玄翁が巨大な泥の戦鎚を天に掲げた瞬間、周囲を泳いでいた何百体もの水魔たちが、一斉に防波堤へと牙を剥いて殺到してきた。


「来やがった! 全軍、防波堤を死守しろ! 一匹たりとも街へ入れるな!」

黎の号令と共に、泥の部隊と教団の魔物群との、血で血を洗う総力戦が開始された。


「オラァァッ!! 風纏い・竜巻斬たつまきざん!!」

燕が空中へと跳躍し、双剣から猛烈な真空の刃を放つ。赤峰の空っ風を模したその鋭い斬撃は、泥の鰐たちの硬い鱗を容易く切り裂き、黒い血を空に舞い上がらせる。


「街のみんなが待ってんだ! こんな泥水で溺れてたまるかよ!」

剛が六十斤の鉄棍棒を大車輪のように振り回し、防壁に群がる巨大魚の頭蓋骨を次々とカチ割っていく。牙狼たち亜人の咆哮が戦場を震わせ、種族の壁を越えた連携が、辛うじて水魔の群れを押し留める。


だが、水魔たちの数は圧倒的だった。倒しても倒しても、玄翁が濁流から無限に泥を引き上げ、新たな魔物を錬成してくる。


「……キリがないわ。元凶を絶たない限り、防壁が持たない!」

凛が氷の槍を放ち、水魔を串刺しにしながら黎の背中に背中を合わせた。


「ああ。俺が突っ込む。凛、俺が川の上を走れるように、足場を作れるか!」

黎が黒剣の柄を握り直し、玄翁を真っ直ぐに睨み据える。


「任せて。絶対零度の『道』を敷くわ!」

凛が両手を前に突き出し、刀音の大河の黒い濁流に向けて、全身の『陰の魔力』を極限まで放射した。


ピキピキピキィィィィンッ!!!


凄まじい冷気が大河の表面を舐め、荒れ狂う泥の波濤が、黎の足元から玄翁の立つ水面へと向かって、一直線に分厚い「氷の橋」となって凍りついた。


「行くぞッ!!」

黎が氷の橋を蹴り、砲弾のような速度で大河の上を疾走する。

赤黒い陽の気を纏った若き英雄が、狂信の司教に向かって一気に肉薄した。


「飛んで火に入る夏の虫か。王の泥に沈め、若造!」

玄翁が迎え撃つように巨大な泥の戦鎚を振り下ろす。ただの物理的な打撃ではない。戦鎚の周囲の空間そのものが、圧倒的な質量の重力場を形成し、黎の身体を押し潰そうと迫り来る——。


「飛んで火に入る夏の虫か。王の泥に沈め、若造!」


刀音とうねの大河を覆い尽くす黒い濁流の上。

黒泥教団の大司教・玄翁ゲンオウが、迎え撃つように巨大な泥の戦鎚ウォーハンマーを振り下ろした。ただの物理的な打撃ではない。戦鎚に込められた超高密度の瘴気しょうきが、周囲の空間そのものに圧倒的な重力場を形成し、氷の橋を疾走するレイの身体をミシミシと押し潰そうと迫り来る。


「——陰陽双連いんようそうれん!!」


黎は正面から激突する愚を避けず、背後に立つリンから受け取っている『陰の魔力』と、自身の丹田たんでんで燃え盛る『陽の気』を黒剣に収束させ、迫る戦鎚に向かって真っ向から斬り上げた。


ガアァァァァァァァァンッ!!!!


黎の黒剣と玄翁の泥の戦鎚が激突した瞬間、強烈な衝撃波が大河の上に爆発し、黎の足元に敷かれていた氷の橋が粉々に砕け散った。

「ぬぅぅッ……!?」

玄翁の醜い泥の鱗に覆われた顔に、初めて驚愕の色が浮かぶ。人間の細腕が放つ剣撃が、彼が錬成した絶対質量の泥の戦鎚と、完全に「拮抗」しているのだ。


「言ったはずだ……! 俺たちは泥だ! 泥に塗れて、今日を這い上がってきた熱量が、ただ腐って停滞した泥なんかに負けるわけがねェ!!」

黎の右腕の筋肉がはち切れんばかりに膨張し、経脈が焼き焦げるような激痛が走る。だが、彼の眼光は微塵も揺るがない。

大市場で共に笑い合った人々。ゴウ牙狼ガロウたちと耕した畑の土の匂い。そして、自分の背中を信じて絶対零度の魔力を送り込み続けている凛の温かい体温。

その全てが、黎の命の燃料となって赤黒い炎を上げている。


「小賢しい……! ならば、お前の足元の氷ごと、泥の底へ消え去れ!」

玄翁が戦鎚から片手を離し、もう一方の手で直接、黎の足元の氷を砕こうと泥の濁流を巨大な波へと操り上げる。

黒い大波が、黎を呑み込まんと巨大な口を開けた。


だが、その瞬間。

黎の背中合わせの位置——空中に、いつの間にか凛が飛翔していた。


「一人で戦っている気にならないで。私はもう、彼の手を絶対に離さないと決めているの!」


凛が空中で両手を組み合わせ、玄翁の頭上に向けて純度百パーセントの白銀の光を放った。エルフの森で数千年間研ぎ澄まされてきた、一切の不純物を持たない絶対零度の魔法。


「——氷獄・白銀華ひょうごく・はくぎんか!!」


神話の王を封じた巫女の、真の力が解放される。

空から降り注いだ巨大な氷の蓮華が、玄翁の巨体を、そして彼が操ろうとした泥の濁流の波そのものを、一瞬にして巨大な氷の結晶の中に完全に閉じ込めた。


ピキィィィィィィンッ!!!


「ガ、アァァァ……バカな……! 泥の王の質量が、ただのエルフの氷に……!」

氷に閉じ込められながら、玄翁の狂信の瞳が信じられないものを見るように見開かれ、そして絶望に染まる。


「決めるぞ、凛!!」

「ええ、黎!!」


黎が、凍りついた玄翁の巨体——巨大な氷の結晶のど真ん中へ向けて、黒剣を上段に構える。エルフの魔力と人間の気が限界まで圧縮され、刃の周りに白と黒が螺旋を描く『極光』が顕現する。


気功絶衝きこうぜっしょう極光きょっこうの太刀ッ!!」


ズバァァァァァァァァンッ!!!!


黎の放った渾身の斬撃が、氷獄ごと玄翁の巨体を完全に粉砕した。

ドゴォォォンという轟音と共に、大河の上に砕け散った氷と泥の粒子が、太陽の光を反射してダイヤモンドダストのように美しく舞い散る。


「……オオォォォォォォォォッ!!!」


玄翁を討ち取った瞬間、それを操る主を失った何百体もの水魔たちは次々と泥の塊へと還り、濁流へと溶けて消えていった。

刀音の大河を狂わせていた黒い瘴気も、結界の浄化の力と凛の冷気によって急速に中和され、嘘のように晴れ渡っていく。


決壊寸前だった防波堤の上に立っていた燕や剛、そして牙狼たち亜人や守備隊の兵士たちから、地鳴りのような歓声が上がった。

「やった……! 街が、助かったぞォォォッ!!」

「黎隊長! 凛様!!」


「……ハァッ、ハァッ……」

黎は黒剣を鞘に収め、残された氷の足場の上で片膝をついた。極限の気の解放により、経脈は焼け焦げるように痛み、体力は完全に底を突いていた。だが、その顔には確かな安堵の笑みが浮かんでいる。


「黎!」

凛が氷の上に舞い降りて、崩れそうになる黎の身体を優しく、しっかりと抱きとめた。

「無茶ばかりして……。でも、勝ったわ。私たちの街は、護られたのよ」


凛の冷たくも心地よい治癒の魔力が、黎の火照った身体を優しく癒していく。

黎は、凛の肩に顔を埋めたまま、大河の向こう側——瘴気が完全に晴れ、本来の清らかな青さと豊かな水流を取り戻した水面を見つめた。


「ああ。みんなのおかげだ。……だが、教団の『大司教』が出てきたってことは、奴らも本気でこの街の結界を潰しに来てるってことだ。今日の一戦は、ただの始まりに過ぎない」


黎は身体を起こし、決意を込めた瞳で北西の空——黒泥教団が根城にしているであろう、赤峰連山のさらに奥地の暗がりを睨み据えた。

「王の本体が目覚める前に、教団の根を完全に断ち切らなきゃならない。街で待ってるだけじゃ、いつか必ず防波堤は決壊する」

の街を舞台にした、ささやかで温かい「日常」の時間は、終わりを告げた。

泥の英雄たちと白銀の巫女は、迫り来る大陸全土の泥濘化を食い止めるため、ついに防衛戦から「攻性」へと転じる決意を固める。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ