第二章 第六部 黒泥(こくでい)の狂信者と、地下迷宮への入り口
光が強ければ強いほど、影は濃く、そして深くなる。
銀霊樹の結界という絶対的な「光の鳥籠」を手に入れ、多様な種族が手を取り合って笑い合う黄土の街。その大市場の喧騒や、温かい焼き味噌饅頭の香りのすぐ足元で、泥濘の王を崇拝する者たちは、音もなく静かに根を張っていた。
渡良の地下貯水池で起きた、泥の百足と傀儡たちの襲撃事件。
泥の部隊の隊長・黎と、白銀の巫女・凛によってもたらされたその報告は、黄土の街の頭脳である統星楼の最上階に、重く冷たい沈黙を落とした。
「……やはり、単なる魔物の迷い込みではなかったか」
軍議の間の巨大な沙盤(作戦盤)を見下ろしながら、炎城主が静かに扇子を閉じた。
「氷結させて持ち帰った亜人の職人たちは、春華の治癒の気と私の魔力で、なんとか瘴気の摘出に成功しました。命に別状はありません。ですが……」
凛が、翡翠の瞳に痛切な色を滲ませて報告を続ける。
「彼らの身体を蝕んでいた泥は、自然発生した瘴気とは構造が違いました。何者かが意図的に『呪術』を施し、彼らを操り人形へと作り変えていた痕跡がありました」
「呪術、だと……? バカな、エルフの結界の内側で、そんな大掛かりな術を使える奴がいるってのか!?」
壁際に寄りかかっていた燕が、信じられないというように声を荒げた。剛もまた、太い腕を組んで険しい表情を作っている。
「……王の本体は崑崙の底で眠っている。だが、その王の『意志』を代行しようとする愚か者どもは、この大陸に確かに存在しているのだ」
炎城主は、沙盤の端——黄土の街の地下に広がる水脈の地図を軍扇で指し示した。
「神話の時代より、泥濘の王を『世界を平定する真の神』として崇める狂信者の集団がいる。自らを『黒泥教団』と名乗る、人間と亜人の成れの果てだ。奴らは、個の命が争いを生むこの世界を呪い、全ての生命が泥に溶け合い、一つになる『死の平等』こそが至高の救済だと信じて疑わない」
「死の平等……。ふざけやがって。昨日まで大市場で一緒に笑ってた奴らを泥人形に変えることが、救済だって言うのか」
黎が、腰の黒剣の柄をギリッと強く握りしめた。その瞳には、かつてないほどの静かで、しかし凄まじい怒りの炎が灯っている。
「黎。お前たちが見つけた貯水池の横穴は、間違いなくその教団が結界の地下を掘り進んで作った『侵入経路』だ。奴らの目的は、街の地下水脈を完全に汚染し、この街に集まった何万もの命を内側から泥に還すこと」
炎城主が、黎たち『泥の部隊』の幹部たちを鋭く見回す。
「事態は一刻を争う。黎、燕、剛。そして凛。お前たち精鋭のみで横穴の奥へ潜入し、教団の拠点を特定、これを完全に粉砕せよ。……これは戦争だ。街の日常を護るための、見えざる防衛戦だと思え」
「了解しました。俺たちの足元を泥で汚す奴らは、一人残らず斬り捨てます」
黎が深く頭を下げた。
その日の夜半。
月明かりすら届かない渡良の地下貯水池の奥底。黎、凛、燕、剛、そして優れた嗅覚と夜目を持つ狼牙族の戦士・牙狼の五人は、泥の百足が現れた巨大な横穴の前に立っていた。
「……嫌な臭いだぜ。血と腐肉の臭いに混じって、妙に甘ったるい香の匂いがする。間違いなく、人間の手の入った場所だ」
牙狼が鼻をヒクヒクと動かし、大斧を構える。
「行くぞ。足元に気をつけろ」
黎が右手に黒剣を持ち、丹田から微小な『陽の気』を放出して足元を照らしながら、先頭を切って横穴へと足を踏み入れた。その後ろに、凛が氷の魔力で瘴気を中和しながらぴたりと続く。
横穴の中は、自然の洞窟とは明らかに異なっていた。
壁面はドロドロの泥を何らかの術でカチカチに焼き固めたように滑らかで、一定の間隔で、泥濘の王を象徴する「八つの首を持つ龍」の紋章が刻まれている。
進むにつれて、空気がねっとりと重くなり、肺に泥を詰め込まれているような息苦しさが五人を襲う。
「……隊長。なんだか、声が聞こえねェか?」
最後尾を歩いていた剛が、鉄棍棒を構えながら周囲を見回す。
剛の言う通りだった。暗闇の奥深くから、ブツブツと何十人もの人間が低い声で経典を読み上げるような、不気味な『祈りの声』が反響して聞こえてくる。
通路を抜け、彼らの視界が不意に大きく開けた。
そこは、黄土の街の地下にこんな空間があったのかと疑うほどの、巨大なドーム状の『地下神殿』だった。
天井からは鍾乳石のように黒い泥が垂れ下がり、中央には赤黒い瘴気を噴き出す巨大な祭壇が設けられている。そして、その祭壇を囲むようにして、泥色のローブを深く被った数十人の信者たちが、虚ろな瞳で祈りを捧げていた。
「見つけたぜ……。あいつらが、水脈を汚染しようとしてたドブネズミ共か」
燕が双剣を抜き放ち、舌打ちをする。
「待て。あの祭壇の上にいる男……ただの信者じゃない」
黎の鋭い視線が、祭壇の最上段に立つ一人の男を捉えた。
その男は、他の信者たちとは異なり、まるで高位の神官のような黒い装束を纏っていた。だが、その顔の右半分は泥濘の王の瘴気に完全に侵食され、黒い鱗のようなものに覆われている。にもかかわらず、男の左半分の人間の顔は、極めて知的で、狂気すら感じさせないほどに理知的な笑みを浮かべていた。
「……よくぞここまで辿り着いた、地上の迷い子たちよ」
男が口を開いた。その声は地下神殿によく響き、黎たちの鼓膜を不快に撫でた。
「我が名はガラク。偉大なる『泥濘の王』の意志を継ぎ、この腐った世界をあるべき姿へと導く者だ」
「あるべき姿だと? 罪のない職人たちをバケモノに変えて、街の水を腐らせることがか!」
黎が黒剣を突きつけ、ガラクを鋭く睨み据える。
「罪がない、だと? ククク……人間よ、結界という鳥籠の中で、亜人や異民族と手を取り合った気になって、平和を気取っているお前たちこそが罪深い」
ガラクは両手を広げ、演説するように言葉を紡ぐ。
「どれほど市場で笑い合おうとも、種族の違い、寿命の違い、持つ者と持たざる者の差は決して埋まらない。やがてお前たちは、その小さな器の中で再び血を流し、奪い合う。……ならば、なぜ拒む? 王の泥に抱かれ、自我を捨て、全てが一つに溶け合う『絶対の平等』を。それこそが、争いのない真の平和ではないか」
「……戯言を」
黎の隣で、凛が静かに、しかし絶対的な軽蔑を込めて言い放った。
「何百年も森に引きこもり、変化を拒んできた私でさえ、今の黄土の街の温かさを知っている。命は、ぶつかり合い、混ざり合うからこそ美しいの。あなたたちが泥の中で見ているのは、平和ではなく、ただの『死の停滞』よ!」
凛の言葉に、ガラクの左目の瞳孔がスッと細くなった。
「白銀の巫女……。かつて王を封じた忌まわしきエルフか。だが、時代は変わったのだ。我らが王の根は、すでにこの大陸の地下深く、お前たちの足元の全てに張り巡らされている!」
ガラクが右腕を天に掲げると、地下神殿の泥の床がボコボコと沸き立ち始めた。
「殺せ、泥の同胞たちよ! あの不純物どもを、王の胃袋へと還元しろ!」
「ガァァァァァッ!!」
祈りを捧げていた数十人の信者たちが、一斉に獣のような咆哮を上げ、ローブを脱ぎ捨てた。彼らの肉体はすでに半分以上が泥の魔物と化しており、無数の触手や鋭い刃の腕を振り回しながら、黎たちへと襲いかかってきた。
「狂ってやがる! 行くぞお前ら!!」
「応ォォッ!!」
燕が風のように陣形を飛び出し、双剣で先陣の信者たちの触手を鮮やかに斬り飛ばす。
剛が六十斤の鉄棍棒を大上段から振り下ろし、泥の床ごと信者たちを叩き潰す。
牙狼が大斧を大車輪のように振り回し、迫り来る泥の群れを次々と薙ぎ払っていく。
「凛、お前は俺の背中を護れ! あの司祭の首は、俺が獲る!」
「ええ! 行って、黎!」
黎は仲間たちが開いた血路を駆け抜け、祭壇の上に立つガラクに向かって一直線に突進した。
「無駄な足掻きを……! 泥の洗礼を受けよ!」
ガラクが瘴気に侵された右手を振り下ろすと、祭壇から無数の『黒い泥の槍』が弾丸のような速度で黎へと撃ち出された。
「はぁぁぁッ!」
黎は極限まで圧縮した『陽の気』を黒剣に纏わせ、飛来する泥の槍を次々と斬り落としていく。斬り飛ばされた泥がジュウゥッと音を立てて蒸発する。
そのままの勢いで祭壇へと跳躍し、ガラクの脳天へ向けて黒剣を振り下ろした。
ガギィィィンッ!!!
だが、黎の渾身の一撃は、ガラクが瞬時に泥を硬化させて作り出した『黒泥の剣』によって、完全に受け止められていた。
「……泥人形の分際で、その異常な熱量。貴様が、エルフの結界をこじ開けたという部隊長か」
ガラクの至近距離からの冷たい視線。彼の泥の剣から、凄まじい密度の瘴気が黎の黒剣へと流れ込んでこようとする。
「俺たちは泥だ。泥だからこそ、てめェらみたいな腐った泥には絶対に染まらねェ!!」
黎が丹田からさらに気を爆発させ、ガラクを力任せに弾き飛ばした。
「狂信者! お前たちの言う平等なんかクソ食らえだ! 俺たちは、今日ケンカして、明日一緒に笑って、美味い飯を食うために生きてるんだよ!」
「——極光・一閃!!」
黎の陽の気に呼応するように、背後から凛の『陰の魔力』が飛来し、黎の黒剣に絶対零度の白銀の刃を形成する。
黎が地を蹴り、一瞬でガラクの懐へと潜り込んだ。
「な……! エルフの魔力と人間の気が、融合しているだと……!?」
驚愕に目を見開くガラクの胴体を、黎の白と黒の螺旋の斬撃が容赦なく斜めに両断した。
ズバァァァァンッ!!
「ガ、アァァァァッ……!!」
ガラクの身体が上下に分断され、祭壇の上に崩れ落ちる。彼の肉体から泥と瘴気が抜け出し、急速に崩壊を始めていた。
信者たちもまた、燕や剛たちの圧倒的な戦闘力の前に全て制圧され、地下神殿に再び静寂が戻った。
「……勝負ありだ。大人しく、教団の全容を吐け」
黎が黒剣の切っ先を、息も絶え絶えになっているガラクの喉元に突きつける。
だが、半分泥に還りかけているガラクの顔には、絶望ではなく、不気味な嘲笑が張り付いていた。
「ククク……愚かな……。私など、広大な地下ネットワークの末端の司祭に過ぎん……」
ガラクが残された力を振り絞り、祭壇の中心にある巨大な泥の水晶に手を触れた。
「王の根は、すでに大陸の裏側を侵食している……。黄土の街の温かい坩堝が、やがて煮えたぎる泥の鍋に変わる日を……地獄で待っているぞ……」
ゴゴゴゴゴゴゴゴッ!!!
その言葉と共に、地下神殿の天井や壁が激しく鳴動し、巨大な岩の塊や泥の奔流が崩れ落ち始めた。自爆装置——証拠を隠滅し、黎たちを道連れにするための神殿崩落の罠だった。
「チィッ! 全員、ここから脱出するぞ! 走れ!!」
黎はガラクから情報を引き出すことを諦め、凛の手を強く引いて神殿の出口へと駆け出した。
「崩れるぞ! 隊長、こっちだ!」
剛が落ちてくる岩を棍棒で砕きながら退路を確保し、五人は間一髪で崩壊する地下神殿から飛び出し、渡良の貯水池の横穴へと逃げ延びた。
背後で凄まじい轟音と共に、教団の拠点は完全に土砂と泥の中に埋もれ、道は完全に塞がれてしまった。
「……ハァッ、ハァッ……。間一髪だったな」
燕が膝に手をついて荒い息を吐く。
「ええ……。でも、これで水脈の汚染は防げたはずよ」
凛が、地下から這い出てくる瘴気の濃度が完全に消失したのを確認して、安堵のため息を漏らした。
だが、黎は崩れた横穴の土砂を見つめたまま、黒剣を強く握りしめていた。
「ああ。だが、ガラクの言った通りだ。奴らは一つの拠点を潰されたくらいで諦める組織じゃない。この結界の足元には、俺たちの想像を超える『黒い根』が張り巡らされている」
黄土の街に戻り、明るい太陽と結界の光を見上げた時、黎は改めてこの街の平和が、いかに薄氷の上に成り立っているかを痛感していた。
大市場の喧騒、子供たちの笑い声、紬が織り上げた美しい絹布。
その全てを、地下の狂信者たちは「無価値な争いの火種」として泥に沈めようとしているのだ。
「……絶対に、護り抜く。俺たちの街の、明日を」
黎の呟きは、春の風に溶け込み、確かな決意となって泥の英雄たちの魂に深く刻み込まれた。




