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万象の碑銘(ひめい)  作者: ユーディ
第二章 芽吹きの泥土と、白銀の食卓
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第二章 第五部 足元の死脈と、黒き泥の浸透

平穏とは、薄氷の上に築かれた砂の城である。

銀霊樹ぎんれいじゅの結界』という絶対的な盾を得て、黄土こうどの街に集う人間と亜人たちは、ようやく「明日を生きる」というささやかな希望を手にした。彼らは泥を耕し、大市場で笑い合い、春の陽射しを謳歌した。

だが、光が強ければ強いほど、足元に落ちる影は濃く、そして深くなることを忘れてはならない。

空からの瘴気しょうきを完璧に弾き返す白銀のドーム。しかし、その強固な結界の「内側」で、決して破られるはずのない平和な日常の裏側に、音もなく這い寄ってきた『見えざる脅威』があった。

黄土の街の南東区画。

大市場の喧騒からは少し離れたこの場所には、街の生活用水の大部分を賄う巨大な井戸——『渡良わたらの水汲み場』が存在する。街の地下深くを網の目のように流れる広大な水脈から、清廉な地下水を引き上げる重要なライフラインだ。


しかしその日、水汲み場の周辺はただならぬ異臭と、住民たちのパニックに包まれていた。


「……ひどい臭いだ。これは、ただの水が腐った臭いじゃねェ」

エンが、井戸の縁に片足を乗せ、鼻を布で覆いながら眉間を深く寄せた。


「どいてろ燕! 俺が引き上げてみる!」

ゴウが太い腕に力を込め、井戸の滑車を勢いよく巻き上げる。

ギギギ……と重い音を立てて引き上げられた木製の釣瓶つるべの中には、澄んだ地下水ではなく、どす黒く濁り、ブクブクと異様な泡を立てる「粘性のヘドロ」が満たされていた。

釣瓶が地上に出た瞬間、卵が腐ったような、いや、それ以上に生命が溶けて腐敗したような強烈な『死の臭い』が周囲に撒き散らされた。


「うわっ……! なんだこりゃ! 水が全部泥になっちまってるぞ!」

剛が釣瓶を地面に放り出す。ドチャッという音と共に、黒いヘドロから微かに赤い瘴気が立ち昇った。


「下がれ、剛! その泥に直接触れるな!」

レイが鋭く制止し、腰の黒剣の柄に手を当てながらヘドロに近づく。

彼の隣には、春華シュンカから借りた胡服こふくの上に、動きやすい革の軽鎧を纏ったリンが立っていた。彼女の翡翠ひすいの瞳もまた、かつてないほどの警戒色に染まっている。


「……黎。この泥から、微かだけれど『泥濘でいねいの王』の瘴気を感じるわ。太極の淵で戦った分身体ほど濃密ではないけれど、確実に同じ根源の力よ」

凛が、冷たい魔力を指先に纏わせながら、ヘドロを観察して言った。


「王の瘴気だと!? バカな、銀霊樹の結界は完璧に機能してるはずだぜ! 上空の魔力網に綻びは一切ねェ!」

燕が空を見上げて叫ぶ。


「上空じゃない……『地下』だ」

黎は、井戸の奥深く、光の届かない漆黒の暗闇を睨み下ろした。

「結界は、街の空と地上を半球状に覆っている。だが、地下深くを流れる渡良の水脈までは完全に遮断しきれていない。泥濘の王の瘴気が、崑崙こんろんの底から地脈と水脈を伝って、この街の足元にまで『浸透』してきてるんだ」


その黎の推論に、泥の部隊の面々は息を呑んだ。

黄土の街の地下には、自然の地下洞窟と水脈が複雑に絡み合っている。この水脈が完全に汚染されれば、結界の中にいようが、街の人間は数日で全滅する。


「……隊長! 大変です!」

井戸の騒ぎを聞きつけ、街の守備隊の若い兵士が血相を変えて走ってきた。

「地下の主貯水池で、拡張工事をしていた亜人の職人たち数名が、突然地下から湧き出した『泥のバケモノ』に引きずり込まれました! 生死不明です!」


「なんだと!?」

黎の目の色が変わった。大市場で共に笑い合った、あの多国籍な職人たちだ。

「燕、剛! お前たちは守備隊と合流して、街中の全ての井戸と地下への入り口を封鎖しろ! 民衆を水場から遠ざけろ、一滴も飲ませるな!」


「了解だ! だが黎、お前はどうする気だ!」

剛が棍棒を構えて問う。


「俺は凛と一緒に、貯水池から水脈の奥へ潜る。引きずり込まれた職人たちを助け出し、水脈を汚染している『元凶』を特定してぶっ潰す!」

「待て隊長! 地下は相手のホームグラウンドだぞ! それに、視界が全くねェ!」

燕が引き止めようとするが、黎はすでに駆け出していた。


「大丈夫だ、燕。私と黎なら、暗闇でも気と魔力で周囲を把握できる。……剛、春華の護衛をお願いね!」

凛も黎の隣に並び、風のように走り出す。

二人の背中を見送った燕は、「……ったく。イチャついてたと思ったら、すぐこれだ。死ぬんじゃねェぞ、バカ隊長!」と悪態をつきながら、井戸の緊急封鎖へと急行した。


渡良の主貯水池。

普段は澄んだ水が満々と湛えられている巨大な地下空間は、今や異臭を放つ黒い泥の沼地と化していた。


「……気をつけろ、凛。空気がひどく淀んでる」

黎は黒剣を抜き、丹田から『陽の気』を薄く放出して、暗闇の中にぼんやりとした赤い光源を作り出しながら、泥の斜面を滑り降りた。


「ええ。それに、足音が響かない。泥が全ての音を吸い込んでいるみたい」

凛もまた、右手に氷の剣を具現化し、その白銀の冷気で周囲の瘴気を中和しながら黎の背中を護る。

第一章の時とは違う。今の二人は、互いの呼吸のタイミング、踏み込む足の重心までを完全に理解し合った、阿吽あうんのペアとなっていた。


ズズズ……。

貯水池の奥、さらに深い地下水脈へと続く洞穴から、奇妙な摩擦音が聞こえてきた。


「……来るぞ」

黎が黒剣を下段に構えた瞬間。

暗闇の泥の中から、三体の異形の影が音もなく跳躍してきた。


「グルァァァッ!!」

それは、先ほど引きずり込まれたという亜人の職人たちの姿をしていた。だが、その顔の半分はすでに黒い泥に侵食され、目からは赤い瘴気の光が漏れ出している。泥濘の王の瘴気に寄生され、完全に『泥の傀儡くぐつ』と化した哀れな姿だった。


「ッ……! もう手遅れか……!」

黎はギリッと歯を食いしばり、迎撃の態勢を取る。

相手は、結界の庇護を求めてこの街にやってきた住人だ。だが、ここで情けをかければ、自分たちも泥に飲まれる。


傀儡と化した亜人が、常人の三倍以上の腕力で襲いかかってくる。

「はぁぁッ!」

黎は殺意を消し、最小限の動きで傀儡の爪を躱すと、黒剣の峰で相手の膝裏を打ち据えて体勢を崩させた。


「凛!」

「——凍てつけ!」

黎が弾いた瞬間、背後にいた凛が氷の剣を一閃する。

斬るのではない。傀儡の四肢の関節部分の泥の水分だけを瞬時に絶対零度で凍結させ、物理的に行動を完全に封じ込めたのだ。

殺さずに無力化する。それは、二人の気が完全に同調していなければ不可能な神業だった。


「……すまない。街に戻ったら、春華の治癒の気で元に戻せるかもしれない。それまで眠っててくれ」

黎が凍りついた亜人の職人を安全な岩壁に立てかけた、その時だった。


ボゴォォォォォンッ!!!


貯水池の泥の底が突如として爆発し、黎たちの足元が大きく隆起した。

「黎!!」

凛が叫び、黎の襟首を掴んで後方へ大きく跳躍する。


彼らが先ほどまで立っていた場所から姿を現したのは、巨大な『泥の百足むかで』だった。

体長は十メートルを超え、無数の足の先端は鋭い刃のようになっている。そして何よりおぞましいのは、その百足の頭部が、人間の頭蓋骨と獣の骨がデタラメに融合したようなおぞましい形をしていることだった。


「ギチギチギチ……!!」

泥の百足があぎとを鳴らし、赤い瘴気を噴き出しながら黎たちを睨みつける。

王の瘴気が地下水脈の泥と生物の死骸を核にして生み出した、完全な『地下の暗殺者』。


「こいつが、水脈を汚染している元凶……!」

黎が黒剣を上段に構える。


「黎、気をつけて! あの泥の甲殻、普通の魔物よりずっと密度が高いわ! 並の熱じゃ焼き切れない!」

凛が氷の結界を薄く展開し、百足の口から吐き出された酸の毒液を弾き返す。


「なら、内側から爆発させるまでだ! 凛、俺の背中を護れ!」

「ええ! あなたの道は、私が開くわ!」


黎が地を蹴り、巨大な泥の百足に向かって正面から突撃する。

百足が無数の刃の足を蠢かせ、黎をミンチにせんと襲いかかる。


「——白銀の軌跡きせき!」

その後方から、凛が氷の剣を地面に突き立てた。

瞬時に地下の泥が凍結し、黎の足元から百足の頭部へと続く「真っ直ぐな氷の道」が形成される。同時に、百足の無数の足の根元が氷に縫い留められ、その動きが一瞬だけ完全に停止した。


「もらったァァッ!!」

黎は氷の道の上を滑るように加速し、右腕に浮かび上がった銀色の紋様を赤黒い陽の気で激しく発光させた。

エルフの魔力と人間の気が融合した右腕が、黒剣の威力を極限まで引き上げる。


気功絶衝きこうぜっしょう陰陽連牙いんようれんがッ!!」


黎の放った黒と白の螺旋の斬撃が、百足の硬い泥の甲殻を容易く粉砕し、その内部に隠されていた瘴気のコアを正確に貫き、爆散させた。


「ギ、ギィィギャアァァァァッ!!」

百足が断末魔の叫びを上げ、その巨体がボロボロと崩れ落ち、ただの泥の山となって地下貯水池の底へと沈んでいった。


「……やったか」

黎が黒剣を振って瘴気を払い、荒い息を吐く。


「ええ。水脈を汚染していた瘴気の濃度が、急激に下がっていくわ」

凛が氷の剣を消し、黎の元へと歩み寄る。


だが、彼らの表情に安堵の色はなかった。

黎は、百足が崩れた泥の跡から、さらに深い地下へと続く「不自然な巨大な横穴」がぽっかりと口を開けているのを見つめていた。


「……こいつは、ただ水脈に迷い込んだ魔物じゃない」

黎の顔が険しく引き締まる。

「結界の地下を掘り進んで、意図的に街の水脈を汚染しようとした『知能』を持った奴の差し金だ。王の本体は崑崙の底で眠っているはず。だとしたら、一体誰が……」


黄土の街を護る絶対の盾、銀霊樹の結界。

だが、その地下には、彼らの知らないさらに深く、広大な暗闇のネットワークが広がっていた。

泥の部隊の日常を切り裂いたこの事件は、やがて彼らを、地下で蠢く新たな敵対勢力——王の瘴気を信仰する狂気の集団との、避けられない戦いへと引きずり込んでいくことになる。


「……戻ろう、凛。急いで炎城主に報告し、地下水脈の防衛線を構築しなきゃならない」

黎は気を引き締め、凛と共に凍りついた亜人の職人たちを抱え上げると、光の差す地上へと向かって歩き出した。

平穏な春の時間は終わりを告げ、泥の英雄たちの新たな試練の幕が、今、静かに切って落とされたのである。

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