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万象の碑銘(ひめい)  作者: ユーディ
第二章 芽吹きの泥土と、白銀の食卓
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第二章 第四部 赤峰(せきほう)の空っ風と、風纏い(かぜまとい)の織り手

命が混ざり合う場所には、新たな熱と風が生まれる。

銀霊樹ぎんれいじゅの結界』という絶対的な盾を得た黄土こうどの街は、今や大陸全土から瘴気しょうきを逃れた人々や亜人が集まる、巨大な「泥の坩堝るつぼ」へと変貌を遂げていた。

かつては魔物の咆哮と血の匂いしか知らなかったこの地に、商人の威勢の良い掛け声と、見たこともない異国の品々、そして食欲をそそる芳醇な匂いが満ち溢れる。

だが、平和な日常の裏側には、常に新しい不純物が混ざり込み、小さな火花を散らすものだ。

北にそびえる赤峰連山せきほうれんざんから吹き下ろす強烈な乾燥した空っからっかぜに乗って、一人の勝気な少女が街へやってきた。

黄土の街を覆う結界の恩恵は、単に泥濘でいねいの王の瘴気を弾き返すだけではない。結界内の気候を常に穏やかな春に保ち、多様な種族が共存するための巨大な「温室」としての役割も果たしていた。

しかし春の中頃、街の北側にそびえ立つ雄大な赤峰連山の方角から、この時期特有の強烈な乾燥した空っ風が、時折結界の魔力網をすり抜けて街へと吹き下ろしてくる。


「うわっ……! 今日も風が強いな。目に砂が入るぜ」

エンが外套のフードを目深に被りながら、大通りの喧騒の中で顔をしかめた。


「文句を言うな、燕。この乾いた空っ風が吹くからこそ、干し肉や保存食が美味く仕上がるんだ。街の商人たちにとっちゃ、恵みの風でもあるのさ」

レイは、バサバサと煽られる藍色の長着の袖を押さえながら、朗らかに笑って前を歩く。


「それにしても、すごい活気ね。結界が張られてから、毎日のようにお店が増えている気がするわ」

リンが、風で乱れる白銀の髪を片手で押さえながら、翡翠の瞳をキラキラと輝かせた。彼女の身を包む淡い翡翠色の胡服こふくは、この街の熱気にすっかり馴染んでいる。


ここは、街の南西に新設された『大市場だいいちば』。

エン城主の政策により、人間だけでなく、結界内に定住を始めた様々な亜人や、遠方から噂を聞きつけてやってきた異民族の商人たちが自由に商いを行える、大陸一の交易の場であった。

道の両脇には、見たこともない色鮮やかな香辛料、ドワーフの細工物が並ぶ露店、そして食欲をそそる屋台がひしめき合っている。


「おう、隊長殿! お姫様も! うちの新作、『焼き味噌饅頭やきみそまんじゅう』はどうだい! ふかふかの白い生地に、甘辛い特製の味噌だれをたっぷり塗って、炭火で香ばしく焼いた自信作だ!」

恰幅の良い人間の親父が、長い竹串に刺した大きな饅頭をパタパタと団扇で扇ぎながら声をかけてくる。焦げた味噌の芳醇な香りが、空っ風に乗って胃袋を直接刺激した。


「美味しそう……! 黎、お昼はまだだし、少し食べていってもいいかしら?」

凛が完全に魅了され、黎の袖をちょいちょいと引く。かつての氷の巫女は、今やすっかり黄土の街の温かい味覚の虜になっていた。


「ははっ、いいぞ。親父さん、四本くれ。ゴウ春華シュンカの分もな」

黎が銅貨を渡して串を受け取る。凛はホカホカと湯気を立てる饅頭にフーフーと息を吹きかけ、幸せそうに小さくかじりついた。

「ん……! お味噌が濃厚で甘くて、生地がもっちりしてる! とっても美味しいわ!」


「だろ? ここの大市場は、色んな種族の知恵が混ざり合って、毎日新しいもんが生まれてるからな。……おっ、剛たちが戻ってきたぞ」

見回りを分担していた剛と春華が、人波を掻き分けて合流してきた。剛が黎から焼き味噌饅頭を受け取り、一口で豪快に平らげる。

「おう黎! 北の区画は異常なしだ。亜人の連中もすっかり街のルールに馴染んでやがる」

「平和なのはいいことね。診療所の怪我人もすっかり減って、今日は非番みたいなものだわ」

春華も饅頭を上品に齧りながら、微笑んだ。


彼ら『泥の部隊』の幹部たちは、こうして定期的に市場を練り歩き、治安維持と顔つなぎを行っている。それは第一章の血みどろの戦いからは想像もつかない、穏やかでほのぼのとした日常の風景だった。


だが、その平穏を破るように、市場の少し先——色とりどりの布地を扱う反物屋の立ち並ぶ区画から、鋭い怒声と揉み合うような騒ぎの声が聞こえてきた。


「冗談じゃないよ! アタシの『風纏い(かぜまとい)の絹』は、赤峰の奥地で三ヶ月もかけて手織りした最高級品なんだ! それを、こんな足元を見たはした金で買い叩こうなんて、黄土の街の商人は泥棒の集まりかい!」

「なんだと小娘! 結界の中に入れて商売させてやってるだけでありがたく思え! 大体、そんな薄っぺらい布に銀貨十枚なんて出せるか!」


黎たちが急いで声の方へ向かうと、そこには恰幅の良い人間の悪徳商人風の男と、それに一歩も引かずに噛み付いている一人の少女の姿があった。

少女は黎たちと同じ十五、六歳ほど。動きやすい山吹色の軽装に、足首で縛った独特のはかまを履いている。特徴的なのは、彼女の背中に背負われた巨大な竹編みの籠と、その頭に結ばれた、ふんわりとした巨大な絹のリボンだった。


「あの娘……山岳地帯に住む『風蚕族ふうさんぞく』の人間か。赤峰連山の奥地に住んで、希少な魔力糸を紡ぐって噂に聞いたことがあるぜ」

燕が双剣の柄に手を当てながら、興味深そうに目を細める。


「アタシはツムギだ! 誇り高き風蚕の織り手だよ! あんたみたいなタヌキ親父に売るくらいなら、風に飛ばして捨てた方がマシさ!」

紬と呼ばれた少女は、大きな瞳に怒りの涙を浮かべながら、地面に広げていた美しい翡翠色の絹布を乱暴に畳もうとした。

だが、商人の男が意地悪くそれを足で踏みつける。

「生意気な口を! その布、借金のカタとして没収してやる!」


「やめろ!!」

黎が群衆を掻き分け、商人の男と紬の間にスッと入り込んだ。

黎が男の胸ぐらを掴むでもなく、ただ静かに、しかし圧倒的な『陽の気』の圧力を込めて睨み据えるだけで、商人の男は「ひっ」と短い悲鳴を上げて尻餅をついた。


「た、隊長殿……!」

「市場での強引な取引や恐喝は、炎城主が固く禁じているはずだ。……相応の対価を払う気がないなら、今すぐ立ち去れ」

黎の静かな、しかし有無を言わせぬ警告に、商人は逃げるようにして人混みへと消えていった。


「……ふん。助けてくれなんて頼んでないよ。黄土の街の治安維持部隊かい?」

紬は、足跡のついてしまった自慢の絹布を大切そうに胸に抱き抱え、少しツンとした態度で黎を睨み上げた。その頬には泥が跳ね、必死に強がっているのがありありとわかった。


「すまないな。色んな奴が集まってる分、ああいう質の悪い奴も紛れ込んでるんだ」

黎が苦笑して頭を掻くと、その後ろから凛がひょっこりと顔を出した。


「見せて。……その布、少し汚れてしまったわね。私が綺麗にするわ」

凛が絹布にそっと手を触れ、微かな『陰の魔力』を流し込む。すると、布の繊維に染み込んでいた泥の汚れが、細かい氷の粒子となってフワリと浮かび上がり、風に吹かれて消え去った。絹布は、見事な翡翠色の輝きを完全に取り戻した。


「え……っ! すごい、魔法!? あんた、エルフなのかい!?」

紬の大きな瞳が、さらに限界まで見開かれる。


「私の名は凛。……あなたの織ったこの布、本当に綺麗ね。エルフの森の魔布にも劣らないくらい、軽くて丈夫な魔力が込められているわ。素晴らしい仕事よ」

凛が微笑んで布を絶賛すると、紬のツンとしていた態度が一瞬で崩れ、その顔がパァッと明るくなった。


「ほ、本当かい!? わかる!? この『風纏いの絹』はね、赤峰連山の空っ風の魔力を取り込んで織り上げるから、冬は温かくて夏は涼しいんだ! アタシの村の自慢の品で……!」

職人としてのプライドを褒められ、紬は堰を切ったように布の解説を始めた。すっかり凛と意気投合してしまったようだ。


「へぇ、威勢のいい嬢ちゃんだな。俺は燕だ。よろしくな、紬」

「アタシは春華よ。怪我はない?」

「おう! 腹が減ってんなら、この焼き味噌饅頭を一つ分けてやるぞ!」

泥の部隊の面々が次々と気さくに声をかけ、紬もすっかり警戒を解いて笑顔を見せ始めた。


だが、彼らが新しい出会いに花を咲かせていた、まさにその時だった。


ゴォォォォォォッ!!!


突如として、赤峰連山の方角から、普段の空っ風とは比較にならない、異常なほどの『暴風』が市場へと吹き荒れた。ただの風ではない。風そのものが意志を持ったように局地的な渦を巻き、露店の天幕を次々と引き剥がし、商品を空高く巻き上げていく。


「きゃああっ!」

「うわぁっ、俺の野菜が!」

市場は一瞬にしてパニックに陥った。


「な、なんだこの風!? 結界が破られたのか!?」

剛が吹き飛ばされそうになる屋台の柱を両手で掴んで必死に支える。


「違う、瘴気は混ざってない! これは純粋な自然の風……いや、風の精霊シルフが暴走してるんだ!」

凛が、風の中に渦巻く強烈な魔力の乱れを感知して叫んだ。結界は外からの害意は弾くが、自然現象の変異や、内部で発生した精霊の暴走までは完全に抑え込めないのだ。


「アタシの……アタシの布が!!」

紬が悲鳴を上げた。突風が彼女の背負っていた竹籠をひっくり返し、村から運んできた何十反もの貴重な『風纏いの絹』が、竜巻に飲み込まれて空へと舞い上がってしまったのだ。


「待ってろ紬! 俺が取り返してやる!」

燕が外套を翻し、双剣を抜き放って竜巻の中へと跳躍する。

「はぁぁッ!」

燕の『軽気けいき』による風の刃が、暴走する竜巻の回転とぶつかり合い、バチバチと不可視の火花を散らす。だが、自然の気まぐれな暴風のエネルギーは凄まじく、燕一人では回転を完全に相殺しきれない。


「燕さんだけじゃ分が悪い! 剛、周囲の屋台を土の気で地面に固定しろ! 逃げ遅れた人を守れ!」

「おう! 任せとけ! どっこいしょォォッ!!」

剛が両腕を地面に深々と突き立て、大地の地脈から強烈な『土行どぎょう』の気を引き上げる。市場の石畳がボコボコと隆起し、吹き飛ばされそうになっていた露店の柱をガッチリと挟み込んで固定した。春華も逃げ惑う人々の誘導に走る。


「凛、俺と気を合わせるぞ! あの竜巻の『芯』を狙って、回転そのものを冷やして止めるんだ!」

黎は黒剣を抜き放ち、猛烈な風が吹き荒れる市場の中心へと駆け出した。

第一章での血みどろの魔物との死闘とは違う。だが、これは今日出会ったばかりの少女の「大切な宝物」を護り、黄土の街の笑顔を守るための、絶対に負けられない日常の戦いだった。


「行くわよ、黎! 私の魔力に、あなたの熱を乗せて!」

凛が黎の背中に両手をピタリと当て、白銀の『陰の魔力』を限界まで送り込む。


荒れ狂う春の嵐の中。

黎は凛から受け取った冷たい魔力と、自身の丹田の『陽の気』を黒剣の中で高速で循環させ、太極の螺旋を生み出す。


「燕、道を開けろォ!」

「へいへい、隊長殿のお通りだ!」

燕が空中で身をよじり、双剣の風圧で竜巻の側面に一瞬だけ「穴」を空けた。その数秒の隙を突き、黎が地を蹴った。


「はぁぁぁぁッ!!」

黎が黒剣を竜巻の「芯」——風の精霊が暴走している中心点に向かって真っ直ぐに突き出す。

剣先から放たれた極光の冷気と熱の波動が、暴風の心臓部を正確に貫いた。


ピキィィィィンッ……!!


精霊を殺すためではない。暴走するエネルギーを「鎮める」ための、緻密で優しい一撃。

竜巻の中心温度が急激に下がり、暴走していた風の精霊が「ハッ」と我に返ったように回転を緩めた。


「今よ!」

凛が両手を天に掲げ、残った魔力で風を優しく包み込む。

シュウゥゥ……と音を立てて、市場をパニックに陥れていた暴風が、ただの心地よい春のそよ風へと変わっていった。


しかし、風が止んだことで、空高く巻き上げられていた何十反もの『風纏いの絹』が、行き場を失ってバラバラと落下し始めた。

「布が! 落ちちゃう!」

紬が青ざめた顔で叫んだ。


「落とさせるかよ!」

空中にいた燕が、落下しながら双剣を鞘に収め、空になった両手で器用に風の気流を操る。

「ほらよっ、風蚕族の嬢ちゃん! 受け取りな!」


燕が操った柔らかな上昇気流に乗り、空から降ってくる翡翠色の絹布が、まるで意志を持った巨大な蝶の群れのように、クルクルと美しく舞い踊りながらゆっくりと降りてきた。

その光景は、息を呑むほど美しかった。

太陽の光を透かした翡翠色の絹が、風に乗って大市場の空に何重もの虹を架ける。結界内に住む様々な種族の人々が、足を止めてその幻想的な「絹の舞」に見入っていた。


「……綺麗。これが、赤峰の風が織りなす布なのね」

凛が空を見上げ、ほうっと感嘆のため息を漏らす。


やがて絹布は、汚れ一つ付くことなく、紬が広げていた敷物の上へと見事にふわりと重なって着地した。


「アタシの……アタシの布……!!」

紬は敷物の上に崩れ落ち、無傷で戻ってきた大切な絹布を両腕で抱きしめ、ボロボロと大粒の涙をこぼした。


黎が黒剣を収め、凛と共に紬の元へと歩み寄る。

「怪我はないか、紬。……すごい布だな。こんなに高く舞い上がったのに、シワ一つついてない」


紬は涙を手の甲で乱暴に拭い、立ち上がると、黎と凛、そして降りてきた燕と剛に向かって、深く、深く頭を下げた。

「……ありがとう。あんたたちがいなかったら、アタシの村の半年間の苦労が全部パアになるところだった。黄土の街の兵隊さんは、泥棒ばっかりじゃなかったんだね」


「ははっ、俺たちは兵隊ってより、ただの泥の何でも屋さ」

黎が笑って答える。


「それにしても、見事なもんだったぜ。あんな風に空を舞う布なんて、見たことねェや」

燕が腕を組んで絹布を絶賛すると、周囲で絹の舞を見ていた商人や貴族風の客たちが、ワラワラと紬の露店の前に集まってきた。


「お嬢ちゃん! さっき空を舞ってたその美しい布、私に売ってくれないか! 金貨三枚出そう!」

「こっちは金貨五枚だ! 妻の着物に仕立てたい!」


紬の店は、魔法のような絹の舞のデモンストレーション効果により、一瞬にして大市場で一番の人だかりを作ってしまった。

「えっ……き、金貨五枚!? いやいや、そんなに高くなくていいよ! 順番に並んでおくれ!」


夕暮れ時。

大市場の片隅のベンチで、黎たちは紬からお礼として奢ってもらった『焼き味噌饅頭』を頬張っていた。


「本当に、何から何までありがとね。アタシ、黄土の街の人間のこと、誤解してたみたいだ」

紬が、金貨の詰まった袋(村が一年暮らせるほどの金額だ)を背中の籠に大事にしまいながら、黎たちに向かって照れくさそうに笑った。


「また来るのか? この街に」

黎が尋ねると、紬は力強くコクリと頷いた。

「もちろんさ! 次はもっとたくさんの絹を織って持ってくるよ。黄土の街には、あんたたちみたいに面白い連中がいるってわかったからね!」


空っ風が吹き荒れた一日。

しかし、その風が過ぎ去った後に残ったのは、焦げた味噌の甘く香ばしい匂いと、新しい友人との温かい約束だった。


「……黎」

ベンチの隣で、焼き味噌饅頭の串を両手で大事そうに持った凛が、黎の肩にちょこんと寄りかかった。

「この街は、本当に毎日が賑やかで、飽きないわね。私、こういう小さな騒動も……なんだか好きみたい」


「ああ。俺たちの街は、まだまだ面白くなるぞ」

黎は、夕陽に照らされた凛の横顔を見つめ、優しく微笑み返した。

この温かい絆の積み重ねこそが、やがて再び訪れる大いなる運命に立ち向かうための、彼らの最強の『魂の熱』となっていくのである。

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