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万象の碑銘(ひめい)  作者: ユーディ
第二章 芽吹きの泥土と、白銀の食卓
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第二章 第三部 泥に蒔く希望と、春の息吹

命を奪うことと、命を育むこと。

泥濘でいねいの王がもたらす絶望は、あらゆる生命を腐敗させ、無に還す「死の暴力」である。それに対抗する手段は、決して剣を振るって敵の血を流すことだけではない。

焼け野原となった荒野を耕し、土にまみれ、小さな種を蒔く。それは、泥から生まれた短命な種族が、悠久の絶望に対して叩きつける最も力強くて泥臭い「反逆」の形である。

かつては血で血を洗った人間と亜人が肩を並べてすきを引き、全てを凍てつかせていた白銀の巫女が、その魔力を恵みの雨へと変える。

黄土こうどの街を覆う『銀霊樹ぎんれいじゅの結界』の南端。

かつては魔物が徘徊し、血と瘴気しょうきに塗れていた荒野は今、見渡す限りの広大な「農地」へとその姿を変えつつあった。

結界のドームが外の冷たい瘴気を完全に遮断し、太陽の光だけを優しく透過させているため、この内側だけは常にうららかな春の陽気に包まれているのだ。


「そーれ、引けェェッ!!」

「ガウゥゥッ!!」


土煙が舞う中、腹の底から響くようなゴウの掛け声と共に、巨大なすきが硬い荒野の土を深く掘り起こしていく。

その重い鉄の鋤を引いているのは、牛や馬ではない。剛の太い腕と、狼牙族ろうがぞくの巨漢戦士・牙狼ガロウをはじめとする亜人たちの分厚い筋肉であった。


「いいねェ、剛! そのまま『土行どぎょう』の気を地脈に流し込んで、石っころを砕いちまえ!」

少し離れた木陰から、水筒を手にしたエンが口笛を吹いて冷やかす。


「うるせェ燕! てめェは風の気で涼んでねェで、こっち来て手伝いやがれ! これだけ広大な土地を開墾すんのに、人手が足りてねェんだよ!」

汗だくになった剛が、首に巻いた手拭いで顔を拭いながら怒鳴り返す。


「バカ言え、俺の『軽気けいき』は土を掘るのには向いてねェの! 適材適所ってやつだ。……ほら、隊長殿とお姫様のお出ましだぜ」


燕が顎でしゃくった先、開拓地の入り口から、大きなかごを抱えたレイリンが歩いてくるのが見えた。


今日の黎は、いつもの藍色の長着ではなく、袖を肩まで捲り上げた粗末な麻の作業着姿だった。首には手拭いを巻き、麦わら帽子を被っているその姿は、英雄というよりも完全に気の良い農家の青年のそれである。


そして、その隣を歩く凛もまた、彼女の神秘的なイメージを心地よく裏切る出で立ちをしていた。

白銀の長髪は作業の邪魔にならないように頭の後ろでお団子にまとめられ、春華シュンカから借りたという少し大きめのモンペ(農作業用の袴)を履いている。泥がつかないように裾をキュッと紐で絞り、細い腕には腕抜きまで身につけているという、完璧な『村娘』の装いだった。


「みんな、お疲れ様! 春華と街の女将さんたちが作ってくれた、塩むすびと冷たいお茶を持ってきたわ!」

凛が、抱えていた籠を高く掲げて、弾むような声で呼びかける。その翡翠ひすいの瞳は、太陽の光を浴びてキラキラと輝いていた。


「おおっ! 待ってました、俺たちの女神様!」

「メシだメシだ! 腹が減ってぶっ倒れそうだったんだ!」


泥だらけになっていた人間と亜人たちが、凛の姿を見るなり歓声を上げて一斉に休憩所に群がってくる。

かつては互いの命を奪い合った者たちが、今は同じ泥に塗れ、同じ土を耕し、そしてエルフの少女が運んできたおにぎりを取り合ってバカ笑いをしている。黎は、その光景を少し離れた場所から目を細めて見守っていた。


「……すっかり板についてきたな、凛」

黎が、籠を空にして満足そうに息をつく凛に声をかけると、彼女は嬉しそうにはにかんだ。


「ふふっ、そうかしら。エルフの森にいた頃は、土に触れるなんて考えたこともなかったけれど……こうして自分の手で土を触って、種を蒔く準備をするのって、すごく温かい気持ちになるのね」

凛は、自分の手のひらについた黒い泥を、愛おしそうに見つめた。


「ああ。俺たち泥の末裔は、土から離れちゃ生きていけないからな。結界で街を護れたのはいいが、人が増えすぎて食糧が足りなくなりそうだったんだ。だから、エン城主の提案で、こうして結界内の空き地を全部畑に変えることになった」


黎は、剛や牙狼たちが掘り起こしたばかりの、黒々と湿った土の匂いを深く吸い込んだ。

「この開拓が終われば、秋には街の全員が腹一杯食えるだけの麦や野菜が採れる。そうすれば、亜人たちも本当の意味でこの街に根を下ろすことができるはずだ」


「……黎は、本当にこの街のみんなのことが大切なのね」

凛が、黎の横顔をじっと見つめて呟く。


「隊長だからな。それに……俺は、お前と一緒に美味い飯を食うって約束しただろ。そのためには、まずは畑を作らなきゃ始まらない」

黎が照れ隠しのように麦わら帽子を深く被り直すと、凛は堪えきれないようにクスクスと笑い声を漏らした。


「もう、黎ったら。そういう泥臭いところ、本当にあなたらしいわ」


休憩が終わり、再び開拓作業が始まった。

黎も作業着の袖をまくり直し、剛や牙狼たちに混じって重いくわを振るう。彼が『陽』の気を鍬に乗せて振り下ろすたびに、岩のように硬かった地盤がボロボロと崩れ、柔らかい土へと変わっていく。


凛は、春華や街の女性たちと一緒に、掘り起こされた土に等間隔で麦の種を蒔く作業を手伝っていた。

「凛ちゃん、そっちはもう終わった? じゃあ、次はこのうねにお願いね」

「うん、わかったわ春華!」


凛は、エルフの精緻な動きで、一つ一つの種を丁寧に、まるで宝物を扱うように土の中に埋めていく。

彼女の指先から、ほんのわずかな、無意識の『陰の魔力』がこぼれ落ち、種を包み込んでいく。それは、エルフの森で植物を育むための、純粋な自然の祝福だった。


「……ふう。これでこの区画の種蒔きは終わりね。あとは、たっぷりお水をあげなくちゃ」

春華が腰をトントンと叩きながら立ち上がると、空を見上げた。

「結界の中はいつも晴れてて気持ちいいんだけど、雨が降らないのが難点なのよね。近くの川から水路を引く工事はまだ終わってないし……井戸からバケツで運ぶしかないわね」


「待って、春華。水なら、私に任せて」

凛が、少し得意げな笑みを浮かべて前に出た。


「え? 凛ちゃん、魔法を使うの? でも、あなたの魔力は『氷』じゃ……」

春華が心配そうに言うのも無理はない。凛が太極の淵で放った絶対零度の魔法は、神話の化け物を凍らせるほどの凄まじい破壊力を持っていたからだ。


「大丈夫よ。ちょっとだけ、コツを掴んだの」

凛は目を閉じ、両手を胸の前でそっと組み合わせた。


彼女の周囲の空気が、ふわりと冷たくなる。

エルフの森で何百年も培ってきた、緻密で完璧な魔力制御。凛は、空気中の水分を極限まで薄く、柔らかく集め、それを凍らせる一歩手前の『冷たい霧』へと変換した。


「——降り注げ、恵みの雫」


凛が両手を天に向かって広げると、彼女の手のひらから、キラキラと輝く細かい銀色の霧が、広大な畑全体へとフワリと広がっていった。

霧は太陽の光を反射して小さな虹を無数に作り出しながら、ゆっくりと、まるで優しい春の雨のように土へと降り注いでいく。


「うおおっ!? なんだなんだ、急に涼しくなったぞ!」

「すげェ……! 霧が土に染み込んで、種に水を与えてやがる!」

剛や燕、そして開拓作業をしていた亜人たちが、空から降ってくる美しい銀色の霧を見上げて感嘆の声を上げた。


黎もまた、鍬の手を止めてその光景に見入っていた。

神話の化け物を封じ込めるためだけに使われていた、孤独で哀しい白銀の魔力。それが今、人間の街で、泥から芽吹く小さな命を育むための温かい恵みとして使われている。


(……凛。お前はもう、氷の巫女なんかじゃない。俺たちと同じ、この街で生きる一人の女の子だ)

黎の胸の奥が、熱く、そしてひどく心地よいもので満たされていく。


霧のシャワーを降らせ終え、凛は少しだけ息を弾ませながら黎の方を振り返った。

「……どう? 黎。私、少しは開拓の役に立ったかしら?」


泥だらけのモンペ姿で、誇らしげに胸を張るエルフの少女。

そのあまりにも愛らしく、そして尊い姿に、黎は麦わら帽子を取って大きく頷いた。


「ああ、最高だ。今年の秋の収穫祭は、お前が一番の功労者だな。……ありがとう、凛」


黎の真っ直ぐな言葉に、凛の白い頬がパッと花が咲いたように赤く染まる。

開拓地に響く仲間たちの笑い声と、湿った土の匂い。

泥に塗れた英雄たちと白銀の少女が育む、戦いとは無縁のほのぼのとした温かい時間は、黄土の街の春の陽射しの中で、ゆっくりと、しかし確かな絆となって彼らの魂に根を張っていくのであった。


「——降り注げ、恵みの雫」


リンの両手から放たれた銀色の霧が、柔らかな春の雨となって、開拓されたばかりの広大な畑へと降り注ぐ。

太陽の光を反射してきらきらと輝くその恵みのシャワーは、土の奥深くに眠る麦の種へと確かに命の潤いを与えていた。


「……どう? レイ。私、少しは開拓の役に立ったかしら?」

泥だらけのモンペ姿で、誇らしげに振り返る凛。

その神々しくも愛らしい姿に、黎は麦わら帽子を取り、満面の笑みで大きく頷いた。


「ああ、最高だ。今年の秋の収穫祭は、お前が一番の功労者だな。……ありがとう、凛」


黎の真っ直ぐな言葉に、凛の白い頬がパッと花が咲いたように赤く染まる。

その和やかな空気を破るように、ゴウの腹の底から響くような大声が開拓地に轟いた。


「っしゃあ! これで今日のノルマは完全達成だ! 泥の部隊も、亜人の衆も、よく働いたな! エン城主の差し入れの酒樽を開けるぞォォッ!」

「ウオォォォォッ!!」

狼牙族ろうがぞく牙狼ガロウをはじめとする戦士たちが、くわを放り投げて歓声を上げる。


夕暮れが黄土の街を琥珀色に染め上げる頃、開拓地の脇に設けられた大きな天幕の下では、ささやかな、しかし最高に熱気あふれる「宴」が始まっていた。

切り株のテーブルの上には、春華シュンカや街の女将さんたちが腕によりをかけた大皿料理が並ぶ。猪肉の香草焼き、川魚の甘酢あんかけ、そして山盛りの塩むすび。


「ほら、お姫様もこっち来て座りな。今日はあんたの霧のおかげで、水汲みの重労働が省けたんだ。一番美味い肉を食う権利があるぜ」

エンが、串に刺さった猪肉を凛の前の木の皿にポンと置いた。


「あ……ありがとう、燕。でも、私、お肉はあまり……」

エルフの森では木の実や清流の水しか口にしてこなかった凛が、少しだけ戸惑いながら猪肉の脂の匂いを嗅ぐ。


「無理して食うことはねェよ。ほら、春華が甘い芋を蒸してくれた。こっちなら食えるだろ」

黎が、ホカホカと湯気を立てる黄金色の蒸し芋を半分に割り、凛に手渡した。

「……ありがとう、黎」


凛が小さな口で蒸し芋をかじると、その素朴で優しい甘さが、農作業で心地よく疲労した身体にじんわりと染み渡っていく。

周囲を見渡せば、巨大な体を揺らして樽の酒を煽る剛と牙狼、子供たちに手品のような風の気功を見せて笑わせている燕、そして怪我の手当てをしながらも楽しそうに輪に加わる春華の姿があった。


種族も、生まれた場所も、寿命の長さも違う者たちが、同じ火を囲み、同じ飯を食って笑い合っている。


「……信じられない光景ね」

凛は、手の中の温かい芋を見つめながら、隣に座る黎に小さく語りかけた。

「エルフの森では、何千年も同じ顔ぶれで、同じ静けさの中を生きていたわ。変化を嫌い、他種族を遠ざけるのが『高貴』なことだと教えられてきた。でも……」


凛は顔を上げ、楽しそうに笑い合う人間と亜人たちの輪を見つめた。

「泥に塗れて、汗を流して、こうして肩を寄せ合って食べるご飯が、こんなに美味しいなんて。……私、数百年も生きてきたのに、世界の本当の温かさを、何も知らなかったのね」


その翡翠ひすいの瞳には、かつての孤独な氷の巫女の面影はない。

黎は、自分の膝の上に肘をつき、夜空を覆う銀色の結界——凛の同胞たちが作り上げた魔法の光を見上げた。


「俺たち人間は、放っておけばすぐに死んじまうくらい弱いからな。誰かと寄り添って、一緒に土を耕して飯を食わなきゃ、生きていけないんだ。……でも、だからこそ、この『弱さ』が俺たちの強さでもある」

黎は、自分の泥だらけの右手をギュッと握りしめた。

「お前が俺たちに、冷たい魔力を『恵みの雨』に変える方法を教えてくれた。だから、俺たちもお前に、泥臭い命の温かさを全部教えてやるよ」


黎の不器用で、しかし真っ直ぐな言葉に、凛は胸の奥が甘く締め付けられるのを感じた。

「……ええ。たくさん教えてちょうだい。私、黎のこと、この街のこと、全部知りたいわ」


夜が更け、宴の熱気も静かな寝息へと変わり始めた頃。

黎と凛は、少しだけ天幕を離れ、開拓されたばかりの畑のうねの傍らに立っていた。


銀色の結界を透過して降り注ぐ、柔らかな星明かり。

凛は、自分が昼間に種を蒔き、霧を降らせた黒い土の上にそっとしゃがみ込み、その表面を愛おしそうに撫でた。


「黎。……この土の下で、小さな種が必死に呼吸をして、芽を出そうとしているのがわかるわ」

凛の言葉に、黎も隣にしゃがみ込む。


「秋になれば、ここが一面の黄金色の麦畑になる。そしたら、その麦で一番美味いパンを焼いて、またみんなで宴会をやろう」

「ええ。……その時も、黎は私の隣にいてくれる?」

凛が、上目遣いに黎を見つめる。その瞳には、ほんのわずかな不安と、切実な願いが揺れていた。


いつか訪れるであろう、太極の淵での泥濘の王との最終決戦。

そして、いずれ寿命を迎えて消えていく人間の命。長命種である彼女にとって、「未来の約束」は、常に喪失の恐怖と隣り合わせのものであった。


黎は、凛のその不安を断ち切るように、彼女の少し冷たい肩を、自分の大きな手でしっかりと引き寄せた。

「当たり前だ。俺が耕した畑の収穫を、俺が見届けないでどうする。秋の麦畑も、冬の雪景色も、来年の春も……全部、お前の隣で見るって決めてるんだ」


黎の体温が、長着越しに凛へと伝わってくる。

その絶対的な熱量に触れ、凛の目から、ポロリと一粒の涙がこぼれ落ちた。それは悲しみの涙ではなく、氷結していた彼女の魂が、完全な春を迎えて溶け出した証であった。


「……ずるいわ、黎。そんなこと言われたら、私、もう絶対にあなたから離れられなくなるじゃない」

凛は、黎の胸元に顔を埋め、その温かい鼓動に耳を澄ませた。


「離れなくていい。俺の命が続く限り、お前の手は絶対に離さない」

黎は、腕の中の白銀の少女を優しく抱きしめ返した。

夜風が、湿った土の匂いと、春の息吹を運んでくる。

泥に塗れた英雄と、氷を溶かしたエルフの少女。

二人の極星は、壮絶な戦いの合間に訪れたこの「ほのぼのとした日常」の中で、互いの魂の形を少しずつ重ね合わせ、やがて来る過酷な運命に立ち向かうための、絶対的な絆を育んでいくのであった。


芽吹いたばかりの希望の種は、彼らの足元で、確かに力強い鼓動を打ち始めていた。

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