第二章 第二部 毛野(けの)の秘湯、奇妙な静寂
戦士にとって、鎧を脱ぎ捨てる瞬間とは、命を無防備に晒す最も恐ろしい時間であるはずだ。
しかし、大地の熱が溶け込んだ湯に身を沈め、傷だらけの互いの背中を見せ合った時、種族や寿命の違いという冷たい壁は、白い湯煙と共に空へと溶けて消えていく。
永遠を生きるがゆえに体温を持たなかった白銀の巫女と、泥から生まれ、泥に塗れて生きる短命な人間や亜人たち。全く異なる命の旋律が、大自然の懐に抱かれて一つの穏やかな和音を奏でる。
黄土の街が『銀霊樹の結界』に覆われてから、街の領域は以前とは比べ物にならないほど拡大していた。
結界のドームは街の北側に連なる険しい山間部までをもすっぽりと包み込んでおり、かつては魔物の巣窟であったその山は今、人間と亜人たちが共同で開拓を進める新たな資源の宝庫となっていた。
その北の山間部のさらに奥深くに、『毛野』と呼ばれる谷がある。
「……なんだか、奇妙な場所ね。街の喧騒からそれほど離れていないはずなのに、音が全くしないわ」
白銀の長髪を揺らしながら、凛が周囲の木々を見上げて小さく呟いた。
「ああ。俺たちも、この谷の存在は噂にしか聞いたことがなかった。結界が張られて瘴気が晴れたことで、ようやく安全に入れるようになったんだ」
黎は、腰の黒剣が木の枝に引っかからないように手で押さえながら、落ち葉の積もった山道を慎重に進んでいく。
天を突くような巨大な杉の古木が、何百本も鬱蒼と立ち並んでいる。その樹齢は数千年にも及ぶように見え、木々の間から差し込む陽光は、まるで古い神殿の中にいるような厳かで不思議な静寂を作り出していた。
いつもの戦場のような血の匂いはない。代わりに、鼻の奥をツンと突くような、強い硫黄と薬草の混ざった独特の匂いが、谷の奥から白い湯気と共に漂ってきている。
「おいおい、なんだこの卵の腐ったような匂いはよ! 鼻が曲がりそうだぜ」
先頭を歩いていた燕が、顔をしかめて鼻をつまむ。
「バカ野郎、これは大地の血が沸き立ってる匂いだろうが。俺の『土の気』が、この谷に入ってからビリビリと喜んでやがるぜ」
剛が太い腕で胸を叩き、深く深呼吸をした。その後ろでは、救護箱を背負った春華が、足元に生えている珍しい薬草を嬉しそうに摘み取っている。
彼ら『泥の部隊』の幹部たちと凛、そして狼牙族の戦士である牙狼がこの谷を訪れたのは、炎城主からの「特別休暇」という名目の、実質的な地形調査の任務だった。
『毛野の谷には、万病を治し、気を練り直す奇妙な秘湯が湧いている。今後の亜人たちとの共同生活において、そこを保養地として使えるか確かめてこい』というのが、城主からの命令である。
「グルル……。確かに妙な静けさだが、嫌な気配はしない。それに、この匂い……俺たち獣人の傷ついた筋肉をほぐすのに、すごく良さそうな気がするぜ」
牙狼が、鋭い鼻をヒクヒクと動かしながら尻尾を揺らした。
「ほら、着いたぞ。ここが『毛野の秘湯』だ」
黎が杉の巨木のアーチをくぐり抜けると、そこには、山の岩肌から直接こんこんと熱い湯が湧き出している、広大な天然の露天風呂が広がっていた。
乳白色に濁ったお湯が、棚田のように幾重にも連なる岩の湯船を満たし、周囲の苔生した岩と相まって、息を呑むほど幻想的な景色を作り出している。
だが、その美しい景色の中で、一つだけ異彩を放つ奇妙なものがあった。
湯が湧き出している源泉の真上に、人間の背丈の三倍はある『巨大な四六の蝦蟇の石像』が、ドカッと鎮座していたのだ。
「……なんだありゃ? なんでカエルの石像なんかがこんな山奥に……」
燕が目を丸くして、その巨大な石像を指差す。
その蝦蟇の口からは、とろとろとした乳白色の湯が絶え間なく吐き出されている。どこかユーモラスでありながら、深い自然の畏怖を感じさせる奇妙な造形だった。
「古い伝承で聞いたことがあるわ。大昔、この山がまだ神々の遊び場だった頃、傷ついた大きな蝦蟇がこの湯に浸かって傷を治したっていう言い伝え。この石像は、その蝦蟇を祀ったものかもしれないわね」
春華が、蝦蟇の石像を見上げて感心したように頷く。
「カエルが浸かって治るなら、俺たちの切り傷なんざ一発で治っちまうな! 隊長、早速入ろうぜ! 俺はもう汗と泥でベタベタだ!」
剛が嬉々として上着を脱ぎ捨て、分厚い筋肉に覆われた上半身を露わにする。牙狼もまた、重い革鎧を外し、毛むくじゃらの巨体を震わせて準備運動を始めた。
「わ、わかった。だが、武器はすぐ手に取れる場所に置いておけよ。一応は未知の領域なんだからな」
黎も苦笑しながら、帯を解いて藍色の長着を脱ぎ始めた。
彼の上半身には、数え切れないほどの刀傷や魔物の爪痕が刻まれている。そして右腕には、あの『瘴気の巨猿』のブレスを斬り裂いた時に負った凄惨な火傷の痕と、エルフの魔力が融合して生まれた、微かに銀色に光る奇妙な紋様が浮かび上がっていた。
「……あの、黎?」
ふと背後から、ひどく遠慮がちな、震えるような声が聞こえた。
黎が振り返ると、そこには、顔を真っ赤にして俯いている凛の姿があった。彼女は自分の服の裾を両手でギュッと握りしめ、視線を泳がせている。
「エルフの森には……その、他者と一緒に、衣服を脱いでお湯に浸かるという風習が、なくて……。それに、人間と……男の人と一緒に入るなんて、私……!」
凛の白い肌が、頭の先から首筋まで、まるで茹で上がったタコのように真っ赤に染まっていた。
「あ……」
黎は自分の上半身裸の姿に気づき、慌てて脱ぎかけた長着を胸の前に当てて隠した。彼自身も一気に顔を赤くする。
「ち、違う! 一緒に入るわけじゃない! あっちの奥の岩陰に、ちゃんと女性用の湯船になりそうな区切られた場所があるから! なあ、春華!」
黎がパニックになりながら助けを求めると、春華はクスクスと意地悪そうに笑いながら、凛の腕を優しく引いた。
「もう、黎くんったらデリカシーがないんだから。行きましょう、凛ちゃん。あっちの奥なら男たちの視線は絶対に入らないし、私が背中を流してあげるわ。このお湯、お肌がすごくスベスベになるらしいのよ」
「えっ、あ……うん。お願い、春華……」
春華に手を引かれ、凛はチラリと黎の方を振り返り、恥ずかしそうに小さく微笑んでから、湯煙の奥へと消えていった。
「……おーおー。純情な隊長殿は、エルフのお姫様の照れた顔を見ただけで、心臓の経脈が破裂しそうになってるじゃねェか」
燕が、すでに腰に手拭いを巻いた姿で、黎の肩に肘を乗せてニヤニヤとからかう。
「うるさい燕! さっさと入れ!」
黎は燕の頭を軽く小突くと、彼らもまた、乳白色の熱い湯が張られた一番大きな湯船へと足を踏み入れた。
「……ふぉぉぉぉ……こいつぁ、効くぜ……!」
湯に肩まで浸かった瞬間、剛がだらしない声を上げて目を閉じた。
黎もまた、全身の毛穴からジワジワと毒素が抜け出し、代わりに大地の強力な熱(気)が体内へと流れ込んでくるのを感じて、小さく息を吐いた。
「すごいな……ただの熱いお湯じゃない。水の中に溶け込んでいる大地の気が、直接経脈に浸透してくる。これなら、前線の兵士たちの疲労も一晩で全快するはずだ」
黎が右腕の銀色の紋様を湯に浸しながら呟くと、隣で肩まで浸かっていた牙狼が、大きく頷いた。
「ああ。俺たち亜人も、森を追われてからずっと張り詰めてた。黄土の街に入れてもらったとはいえ、人間たちとの共同生活は、正直言うと肩が凝ることも多い。……だが、こういう場所で一緒に裸になって湯に浸かると、そういう種族の違いみたいなもんが、どうでもよく思えてくるから不思議だぜ」
牙狼は、濡れてぺったりとした頭の毛を掻き上げながら、黎に向かってニッと笑いかけた。
黎もその言葉に、静かに笑みを返す。
「そうだな。服を着て、立場の違いを背負ってると見えないものもある。こうして泥を落として、同じ湯に浸かってりゃ、俺たちもあんたたちも、ただの温かい血が流れてる生き物だ」
「違いない。それにしても……隊長、あんたのその身体の傷、エグいな」
燕が、湯の中で黎の身体に刻まれた無数の傷跡を見つめて言った。
「霍のジジイも傷だらけだったが、あんたの傷は、まるで全部の傷が『誰かをかばってついた』みたいな不格好な治り方をしてやがる。……お前、自分の命を安売りしすぎなんじゃねェか?」
燕の言葉には、いつもの皮肉ではなく、本気の心配が滲んでいた。
黎は、湯船の縁に頭を乗せ、巨大な杉の木々の隙間から見える青空を見上げた。
「……命を安売りしてるつもりはないさ。ただ、俺の命は、あの森の地下で一度終わってたんだ。霍隊長が道を創ってくれて、お前たちの風や土が背中を押してくれて、凛が魔力をくれたから、今こうして息をしてる」
黎は、湯の中で自分の左胸——心臓の鼓動をそっと押さえた。
「だから俺は、この貰った命を、絶対に無駄にはしない。……この街の連中が、こうして平和に湯に浸かって、笑って明日を迎えられるなら、俺は何度でも盾になる。それが、泥から生まれた俺たちの、一番熱い命の燃やし方だと思うんだ」
その言葉に、燕は「あっそ」と短く返し、お湯で濡らした手拭いを自分の顔にバサッと乗せて仰向けになった。
「……ったく、どこまでも暑苦しい隊長だぜ。このお湯よりのぼせそうだ」
口では文句を言いながらも、燕の口元は微かに緩んでいた。剛も、牙狼も、黎のその言葉を聞いて、ただ静かに、心地よい湯の熱と静寂を楽しんでいた。
一方、その頃。
岩陰で仕切られた女性用の湯船では、また違った温かい時間が流れていた。
「わあ……本当にすごい。お湯が白くて、少しとろみがあるのね」
凛は、胸元まで乳白色の湯に浸かりながら、翡翠の瞳をキラキラと輝かせていた。彼女の白銀の髪は頭の上で器用にまとめられ、その白く滑らかな肩口には、ほんのりと桜色の赤みが差している。
「ふふっ、凛ちゃん、お風呂の気持ちよさがわかってきたみたいね」
春華が、凛の背中に回って、持参した良い香りのする石鹸で彼女の背中を優しく洗いながら微笑んだ。
「うん……。エルフの森には、こういう習慣はなかったから。汚れは魔力で浄化すれば落ちるし、体を温めるという概念自体が薄かったの。でも……誰かに背中を流してもらって、温かいお湯に包まれるのって……こんなに心が解けるものなのね」
凛は、手でお湯をすくって、そっと自分の頬に当てた。
「黎くんたちも、今頃あっちでバカ騒ぎしながらのぼせてるわよ、きっと」
春華がクスクスと笑うと、凛は少しだけ視線を落とし、小声で尋ねた。
「ねえ、春華。……黎は、いつもあんな風に、誰かのためにボロボロになって戦っているの?」
「……そうね。黎くんは、本当は誰よりも優しくて、不器用なだけなの。霍隊長が亡くなってから、自分がみんなを引っ張らなきゃって、ずっと気を張ってる。だから、凛ちゃんが来てくれて、黎くんが少し普通の男の子みたいな顔を見せるようになって、私、すごく嬉しいの」
春華の言葉に、凛は胸の奥が温かくなるのを感じた。
(私に、彼を支えることができるだろうか……数万年の孤独を生きる長命種の私が、彼の一瞬の熱に寄り添うことが)
その時、岩の向こうから、剛の「おい燕、俺の頭に湯をかけるな!」という怒鳴り声と、燕の「手が滑ったんだよ!」という笑い声、そして黎の「お前ら、いい加減にしろ!」という楽しげな声が響いてきた。
その騒々しくも平和な声を聞いて、凛は自然と笑みをこぼした。
「……私、この街に来て本当によかったわ。黎と一緒に、もっと色々なものを見たい。この温かい時間を、彼と一緒に護っていきたい」
凛の言葉は、湯煙の中に静かに、しかし確かな祈りのように溶け込んでいった。
奇妙な静寂に包まれた『毛野の谷』。
だが、そこにあるのは冷たい孤独ではなく、泥に塗れた者たちが互いの傷を舐め合い、再び立ち上がるための、深く温かい大地の鼓動であった。
「……はぁ、極楽極楽。俺の筋肉が嬉し泣きしてやがるぜ」
巨大な蝦蟇の石像が見下ろす天然の露天風呂から上がり、黎たちは脱衣所代わりに使っている平らな大岩の上で、火照った身体を夜風に冷ましていた。
空には、銀霊樹の結界越しに、歪みのない澄んだ満月がポッカリと浮かんでいる。
「確かに、ただの湯じゃねェな。経脈の奥まで大地の気が染み込んで、傷の治りが異常に早い。これなら、街の怪我人たちを連れてきても十分な保養地になるぞ」
黎が、持参した手拭いで濡れた黒髪をガシガシと拭きながら言うと、隣で丸太のような腕を伸ばしていた剛が大きく頷いた。
「おう! 明日にでも、炎城主に報告して道を整備しねェとな。……おっ、女子たちも上がってきたみたいだぜ」
岩陰の向こうから、カサカサと落ち葉を踏む音がして、春華と凛が姿を現した。
「ふう、いいお湯だったわね。……黎くん、剛くん、燕はどこへ行ったの?」
春華が、すっきりと赤みを帯びた顔で尋ねる。
「あいつなら、『湯上がりの酒のツマミを探してくる』って言って、牙狼と一緒に森の奥へ行っちまったよ。……って、おい、凛! 大丈夫か!?」
黎が視線を向けた先で、凛の足元がふらりと大きく揺れた。
「あ……ええ、大丈夫よ……ただ、少し、足に力が入らなくて……」
白銀の髪から滴る雫が月光に輝き、その透き通るような白い肌は、まるで熟れた桃のように全身が薄紅色に染まっている。エルフの森の冷たい魔力しか知らなかった彼女の身体にとって、大地の熱気が濃密に溶け込んだ秘湯は、いささか刺激が強すぎたのだ。いわゆる『湯あたり』である。
「危ないっ!」
凛の身体がふらりと前に傾き、岩肌に倒れ込みそうになった瞬間、黎が弾かれたように飛び出し、その華奢な肩と腰をガシッと抱きとめた。
「あっ……」
凛の小さな唇から、吐息のような声が漏れる。
「バカ、無理するな。人間よりも体温の低いエルフには、ここの湯は熱すぎたんだ。……ほら、そこに座ってろ」
黎は、腕の中にすっぽりと収まってしまう凛の身体のあまりの軽さと、柔らかな温もりに心臓を跳ね上がらせながらも、努めて平静を装い、彼女を大岩の平らな部分へそっと座らせた。
「ご、ごめんなさい、黎……。なんだか、頭の中がぽわぽわして、雲の上に浮いているみたいで……」
凛は恥ずかしそうに俯き、黎の長着の袖口をきゅっと小さな手で握りしめた。その潤んだ翡翠の瞳で上目遣いに見つめられ、黎はたまらず視線を夜空へと逃がした。
「……気にすんな。ほら、冷たい湧き水だ。少し飲んで落ち着け」
黎が竹筒に入った水を差し出すと、凛は両手でそれを受け取り、こくこくと小さな喉を鳴らして水を飲んだ。
「ヒューッ! 若いねェ、青春だねェ! こっちは汗水垂らして木の実を採ってきたってのに、隊長殿はエルフのお姫様と月明かりの下でイチャイチャかよ!」
茂みの奥から、大量の果実を抱えた燕と、その背後から牙狼がニヤニヤと笑いながら戻ってきた。
「ち、違う! 凛が湯あたりしたから休ませてただけだ!」
黎が慌てて立ち上がり、必死に弁解するが、その耳まで真っ赤になった様子がさらに燕たちの笑いを誘う。
「からかうのもその辺にしとけ、燕。ほら、山葡萄と、甘い蜜を持った果実を見つけたぜ。湯上がりの渇きには最高だ」
牙狼が、抱えていた巨大な葉っぱの上の果実を大岩の中央にどさりと置いた。獣人である彼らの嗅覚とサバイバル能力は、こういう時にこの上なく頼りになる。
「おお! すげェ美味そうじゃねェか! 牙狼、お前案外気が利くんだな!」
剛が目を輝かせて果実に手を伸ばす。
「ふん。森の恵みを見つけるのなんざ、俺たち狼牙族にとっちゃ朝飯前よ。……それに、こんだけ気持ちいい湯を教えてもらった恩返しだ」
牙狼は少し照れくさそうに鼻を擦り、黎の隣にどっかりと腰を下ろした。
「食えよ、隊長。あんたも、お姫様もな」
牙狼が差し出した赤紫色の果実を、黎は「ありがとう」と受け取り、一つを凛に手渡した。
凛が一口かじると、口いっぱいに爽やかな甘酸っぱさが広がり、熱を持っていた身体にスッと心地よい涼風が吹き抜けるようだった。
「美味しい……。森の果実より、ずっと味が濃くて、甘いわ」
「だろ? ここの山の土は、大地の気が強ェからな。育つもんも全部、生命力に溢れてるのさ」
牙狼が誇らしげに笑う。
その夜、彼らは大岩の上に座り、果実をつまみながら、他愛のない話で夜が更けるまで語り合った。
かつては血で血を洗う敵同士だった人間と亜人が、同じ月を見上げ、同じ湯に浸かり、他愛もない笑い声を響かせている。それは、泥濘の王が目覚めようとしている絶望の世界にあって、奇跡のような『日常』の風景だった。
「……ねえ、黎」
皆の笑い声が少し落ち着き、燕や剛が気持ちよさそうに大の字になって夜風を浴びている横で、凛が黎の袖を小さく引いた。
「ん? どうした、まだ気分が悪いか?」
黎が心配そうに覗き込むと、凛はゆっくりと首を横に振った。
「ううん。ただ……不思議だなと思って。私、エルフの森にいた数百年より、あなたたち泥の部隊と一緒にいるこの数ヶ月の方が、ずっと多くのことを知って、たくさんの感情が動いているわ」
凛は、自分の手の中で半分になった果実を見つめながら、静かに語り始めた。
「森では、悲しみも、喜びも、全てが静かな水面のように平らだった。でも、ここには……怒りがあって、涙があって、そしてこんなにも温かい笑顔がある。……私、氷の結界の中で、この世界は泥に沈んでも仕方がないほど穢れていると、どこかで諦めていたの。でも、今は違う」
凛は顔を上げ、黎の横顔を真っ直ぐに見つめた。
その瞳には、かつての氷のような冷たさは微塵もなく、確かな『生』への執着と、愛おしさが宿っていた。
「私は、この温かさを護りたい。黎が護ろうとしているこの泥臭くて愛おしい世界を、私も一緒に、最期まで見届けたいの」
その凛の言葉は、長命種である彼女が、自らの悠久の時間を『人間』という刹那の命に預けるという、最も重く、純粋な告白であった。
黎は、ドクンと心臓が大きく鳴るのを感じた。
夜風が吹き抜け、杉の木々がざわめく中、黎は凛のその透き通るような眼差しから目を逸らすことができなかった。
「……ああ。俺も、お前と一緒に生きたい。この戦いが終わったら、エルフの森にも、ドワーフの地下にも、まだ見ぬ大陸の果てにも……お前を連れて、世界中の美味いもんを食いに行こう。約束だ」
黎は、自分の傷だらけの大きな手で、凛の小さな白い手をそっと、しかし力強く握りしめた。
凛は嬉しそうに目を細め、黎の肩にコトリと頭を持たせかけた。
「ヒューッ! だーかーら、青春だねェって言ってんの! こちとら丸聞こえなんだよ!」
「燕、お前空気読めよ! せっかくいい雰囲気だったのによォ!」
「えっ、あ、起きてたの二人とも!?」
狸寝入りをしていた燕と剛が囃し立て、春華が呆れてため息をつき、牙狼が腹を抱えて笑い出す。
「なっ……! お前ら、起きて……!?」
黎が顔を爆発させそうになるほど赤くして立ち上がり、凛も慌てて黎の背中に隠れるように顔を覆った。
蝦蟇の石像が、そんな彼らの賑やかで温かいやり取りを、どこか優しげに見下ろしている。
世界を救うための過酷な旅路の前に訪れた、ほのぼのとした秘湯の夜。
この泥臭くも温かい絆こそが、後に彼らが立ち向かうことになる強大な神話の化け物たちに対抗するための、最強の「武器」となっていくのである。
彼らの笑い声は、奇妙な静寂に包まれていた毛野の谷に、新しい春の息吹として優しく溶け込んでいった。




