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万象の碑銘(ひめい)  作者: ユーディ
第一章 泥濘(でいねい)の末裔たち
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第一章 第九部 銀の庇護、遥かなる崑崙

旅とは、命を削る行為である。

長命種エルフは森という揺り籠から出ず、魔物は本能の縄張りから離れない。世界を自らの足で歩き回り、見知らぬ土地で血を流し、異なる種族と交わろうとするのは、寿命という絶対的な期限を背負った人間だけである。

短く脆い命だからこそ、彼らは「今ここにある絶望」から逃げず、遥か彼方の「未来の希望」へと手を伸ばす。

泥濘でいねいの王の瘴気が大陸を覆い尽くそうとする中、黄土こうどの街は銀の結界という絶対の盾を得た。だが、彼らはその盾の中に引きこもることを良しとしなかった。

「……ぐ、うぅッ……!」 


黄土こうどの街、統星楼とうせいろうの地下に設けられた特別な療養室。

レイは上半身裸のまま寝台に縛り付けられるようにして座り、奥歯が砕けそうなほどの激痛に耐えていた。

瘴気の巨猿きょえんが放った死のブレスを正面から斬り裂いた右腕は、表面の皮膚こそ塞がっているものの、その内部の経脈はズタズタに焼き切れ、通常の人間であれば二度と動かすことのできない廃腕となっているはずだった。


「動かないで黎くん! 今、強引に気のバイパスを繋ぎ直してるんだから……気を抜いたら、逆流した熱で心臓が破裂するわよ!」

黎の背後に回り込み、その右肩から背中にかけて両手を押し当てているのは春華シュンカだった。彼女の額からは滝のような汗が流れ落ち、その柔らかな『治癒の気』は、かつてないほどの高出力で黎の体内へと注ぎ込まれている。


「ハァッ……ハァッ……すまん、春華。だが、俺はまだ……剣を、握らなきゃならないんだ」

黎が震える声で絞り出す。


「わかってるわよ、バカ! ……でも、信じられない。普通の人間ならとっくに死んでるわ。黎くんの経脈の中に、あの『銀霊樹ぎんれいじゅの結界』から流れ込んできた純粋な魔力と、黎くん自身の『陽の気』が、まるで寄り添うようにして新しい道を作ろうとしてる……」


春華の言う通りだった。

黎の右腕には、巨猿の瘴気を焼き払った際の赤黒い火傷の痕に沿って、微かに銀色に発光する奇妙な紋様が浮かび上がっていた。エルフの聖域で取り込んだ神木の光と、リンという少女から託された『陰の魔力』の残滓。それらが、黎の泥臭い生命力と完全に融合し、物理的な限界を超えた肉体の再構築を行っていたのだ。


「——はっ!!」


春華が鋭い呼気と共に、最後の気を黎の背骨へと叩き込む。

「ガ、アァァァッ!!」

黎の全身が大きく跳ね、直後、赤黒い気と銀色の光が右腕を中心にしてスッと体内に収束していった。


静寂が戻る。

黎は荒い息を吐きながら、ゆっくりと右手の指を動かした。

一本、また一本と、確実に己の意志に従って関節が曲がる。力強く拳を握り込むと、以前よりも遥かに深く、冷たくも熱い『気』が丹田たんでんから掌へと巡ってくるのがわかった。


「……動く。いや、前よりも経脈が太くなってる」

黎が信じられないというように己の拳を見つめると、春華はその場にへたり込み、安堵のあまりボロボロと涙をこぼした。


「よかった……本当によかった……っ! あの防衛戦から丸一ヶ月、黎くんがずっと目を覚まさないから、私……!」

「泣くなよ、春華。お前が俺の魂を、泥の底から引き上げてくれたんだ」


黎は寝台から降りると、不器用に春華の頭を撫でた。

その時、療養室の重い木の扉が乱暴に開け放たれた。


「おうおう! 泣き声が聞こえたと思ったら、ついにウチの無茶苦茶な隊長殿がお目覚めかよ!」

「黎! 生きてたか、この野郎ォォッ!」

ドカドカと足音を立てて入ってきたのは、見慣れた灰色の外套を羽織るエンと、部屋の天井に頭をぶつけそうな巨漢のゴウだった。剛に至っては、黎の顔を見た瞬間に熊のような雄叫びを上げ、黎の体を骨が折れそうなほどの力で抱きしめた。


「い、痛い痛い! 剛、治ったばかりの骨がまた折れる!」

「うるせェ! てめェが死にかけたせいで、俺たち『泥の部隊』は一ヶ月間お通夜みてェな空気だったんだぞ!」

剛が鼻水をすすりながら黎を解放する。


燕は壁に寄りかかり、腕を組んでニヤリと笑った。

「まったく、あの巨猿のブレスを真正面からぶった斬るバカがどこにいる。だが……お前が時間を稼いでくれたおかげで、街は救われたぜ。外を見てみろ」


促されるまま、黎は上着を羽織り、地下室から統星楼の中層にある張出窓へと向かった。

窓の外に広がる光景を見て、黎は息を呑んだ。


見渡す限りの黄土の街。そのさらに外側の荒野までをも、直径数キロに及ぶ美しい『半球状の銀色のドーム』が覆い尽くしていた。

結界の外では、泥濘の王の瘴気を含んだ分厚い灰色の雲が渦巻き、無数の魔物たちが飢えた目で街を見下ろしているのが見える。しかし、そのおぞましい瘴気も魔物の爪も、銀色の光の壁に触れた瞬間に浄化の炎で焼かれ、決して内側へは侵入できない。


街の中は、かつてないほどの活気に満ちていた。

防衛という最大の不安から解放された人々は、壊れた城壁を直し、新たな家屋を建て、畑を耕している。鍛冶屋の炎魔地区からは、以前にも増して力強い槌音つちおとが響き渡り、子供たちの笑い声が風に乗って聞こえてきた。


「……すごい。これが、銀霊樹の力……」

「ああ。エン城主のジダンと、お前が持ち帰った神木の核が、この街を大陸で唯一の『絶対安全圏』に変えたんだ」

燕が横に並び、外を見つめながら言う。


「噂を聞きつけた西の遊牧民や、瘴気に追われた亜人の一部までもが、結界の庇護を求めて黄土の街の周辺に集まってきてる。炎城主は、敵対しない亜人たちに限定的な居住区を与え、労働力として受け入れる法案を通した。この街は今、人間だけじゃなく、様々な種族が混ざり合う巨大な『泥の坩堝るつぼ』になりつつある」


(亜人との共存……炎城主の頭脳なら、この状況すら利用して街をデカくする気か)

黎は、眼下に広がる力強い命の営みを見つめながら、己の右腕を強く握りしめた。

カク隊長が命を懸けて繋ぎ、黎が死線を越えて守り抜いた人間の未来が、確かにここで花開こうとしている。


「——その通りだ。泥から這い上がるには、泥を塗り重ねて巨大な山を築くしかない」


不意に、背後から冷徹で威厳のある声が響いた。

振り返ると、豪奢な黒絹の長衣を纏った炎城主が、数名の護衛を連れて立っていた。


「城主様……!」

黎、燕、剛、春華の四人が一斉に片膝をつき、頭を下げる。


「立て、黎。そして泥の部隊の若者たちよ。お前たちはもはや、ただの武術院の教え子ではない。この黄土の街の命運を切り開いた英雄だ」

炎は扇子を閉じ、黎の前に立ってその瞳を覗き込んだ。

「右腕の具合はどうだ。気の流れが、以前とは根本的に変異しているように見えるが」


「……問題ありません。いや、以前よりも遥かに強い気が練れます。黒剣との繋がりも、より深くなりました」

黎が真剣な眼差しで答えると、炎は満足げに頷いた。


重畳ちょうじょうだ。お前が目覚めるのを待っていた。軍議の間へ来い。お前たちに、次なる大命を授ける」


炎の言葉に、黎たちの間に緊張が走る。

黄土の街が絶対の安全を手に入れた今、これ以上何と戦う必要があるのか。


最上階の軍議の間に通された黎たちを待っていたのは、見慣れた沙盤(作戦盤)ではなく、壁一面に広げられた巨大な「大陸全土の地図」だった。

地図の東端に銀葉の森と黄土の街があり、そこから遥か西——大陸の中心を横断するように連なる、天を突く山脈の図が描かれている。


「……泥濘の王の末端を退け、結界を張ったことで、我が黄土の街は当面の危機を脱した。エルフの森も、相変わらず沈黙を保っている」

炎は軍扇で地図の中央、黒い墨で塗りつぶされた山脈の最深部を指し示した。


「しかし、これはただの時間稼ぎに過ぎない。諸悪の根源である『泥濘の王の本体』は、崑崙こんろん山脈のさらに奥、『太極のふち』と呼ばれる古代神殿の底で、今この瞬間も完全に目覚めようとしているのだ」


「太極の淵……!」

黎は息を呑んだ。エルフの大長老・白瑛ハクエイが語っていた言葉。氷の魔力を操る少女・凛が、たった一人で本体の封印を監視しに向かったという原初の地。


蒼影ソウエイ率いる偵察部隊の決死の調査によれば、太極の淵の周辺はすでに通常の生物が生きられない完全なる『腐界』と化している。そして、その瘴気を強引に抑え込んでいる強力な『氷の結界』の存在が確認された」


「凛様の魔力だ……! 彼女はまだ、たった一人であの化け物を抑え込んでいるのか!」

黎が思わず身を乗り出す。


「おそらく、その巫女の命も長くはもつまい」

炎は冷酷な事実を告げた。

「彼女の結界が破られ、泥濘の王が完全に地上へ這い出せば、この黄土の街の銀霊結界など、一瞬で紙くずのように握り潰されるだろう。世界は再び、神話の時代のような泥と混沌の海に沈む」


軍議の間に、重苦しい沈黙が落ちた。

街を護ったという安堵は、大陸規模の絶望の前ではあまりにも小さかった。


「……炎城主。俺たちに、何を命じますか」

黎は黒剣の柄を握り、真っ直ぐに炎を見据えた。


「泥の部隊の規模を拡大する」

炎の双眸に、狂気とも取れるほどの冷たい炎が宿った。

「遊牧民、腕利きの傭兵、さらには結界内に保護した亜人の戦士たちをも糾合きゅうごうし、百名規模の『特別遠征軍』を再編成する。お前たちにはその中核となり、黄土の街を出て、大陸を西へ横断してもらう」


「西へ横断……つまり、あの泥濘の王の本体が眠る『太極の淵』へ向かえと!?」

燕が驚愕に目を剥いた。

「冗談じゃねェぞ! あの末端の肉塊一個を倒すのに、俺たちは霍のおっさんの命を使い切ったんだ! 本体なんざ、人間が百人集まったところでどうにかなる相手じゃねェ!」


「わかっている。だからこそ、力を集めるのだ。この大陸には、エルフ以外にも神話の時代から生きる強大な存在が隠れ潜んでいる。ドワーフの地下帝国、竜人の霊峰、あるいは未知の神獣たち……」

炎は黎の肩に、重く手を置いた。


「黎よ。お前はただの武人ではない。エルフの神木に魂の格を認めさせ、魔力と気功を融合させた唯一の器だ。お前が遠征軍を率い、各地の強者たちと交わり、戦い、あるいは交渉して『対・泥濘の王』のための巨大な連合を作り上げろ。そして、太極の淵へ辿り着き、あの白銀の巫女と共に、元凶を討つための道筋を創るのだ」


それは、数ヶ月で終わるような任務ではない。

数年、いや、十年、二十年とかかるかもしれない、途方もない大遠征の始まりの合図だった。

一つの世代の命を全て使い切るほどの、残酷で、しかしあまりにも壮大な『熱の使い道』。


黎は、自分の魂の奥底で、かつてエルフの泉で見た『百の世代に渡る転生のヴィジョン』が静かに脈打つ感覚を覚えた。

(俺の命だけで、王を倒せるかはわからない。……だが、俺がこの道を切り拓けば、その熱は必ず次の世代の誰かへ……遠い未来の『極星』へと繋がっていく!)


「……承知しました。この命、泥の底まで使い切って見せましょう」

黎は深く、力強く頭を下げた。

傍らで、剛が覚悟を決めたように力強く頷き、春華が黎の背中をそっと支える。燕は大きくため息をついた後、「とんでもねェバカの副官になっちまったもんだ」と毒づきながら、悪びれた笑みを浮かべた。


第一世代の戦いの舞台は、一つの街の防衛から、ついに大陸全土を巻き込む壮大な覇権闘争と神話の討伐へと拡張されたのである。

若き黎隊長が率いる『泥の連合軍』が、遥かなる崑崙こんろんを目指して出立する日は、すぐそこまで迫っていた。


黄土の街に銀霊樹の結界が張られ、絶対安全圏が確立してから数ヶ月後。

街の南門前に広がる広大な練兵場には、かつてない異様な熱気と、一触即発の殺伐とした空気が渦巻いていた。


集まったのは、総勢三百名。

だが、その構成はこれまでの人間の軍隊とは全く異なっていた。

半数は黄土の街の正規兵や傭兵たち。そして残り半数は、泥濘の王の瘴気に領土を追われ、エン城主の交渉によって結界内への居住を許された「亜人」の戦士たちであった。

かつてレイたちと死闘を演じた狼牙族ろうがぞくの生き残り、山岳地帯から降りてきた虎人こじんの武闘派、そして荒野を駆ける土鬼どきの民。


「……おいおい、どいつもこいつも俺たち人間を食い殺そうとした連中ばかりじゃねェか。本当に背中を預けられるのかよ」

エンが、二振りの湾刀(ククリ刀)の柄に手をかけたまま、舌打ちをした。

人間と亜人。長年、血で血を洗う生存競争を繰り広げてきた種族同士が、同じ部隊として編成されたのだ。練兵場のあちこちで、互いを威嚇する唸り声と、剣呑な罵声が飛び交っている。


「グルルゥッ……! 泥の虫共が、俺たちに指図する気か! 結界の中に入れてもらった恩はあるが、戦場じゃ俺たち獣の方が上だ!」

身長二メートル半を超える巨大な狼牙族の戦士——牙狼ガロウが、人間たちを見下して大斧を地面に叩きつけた。


「んだとコラ! てめェら亜人が森から逃げ出してきたから、俺たちが尻拭いしてやってるんだろうが!」

ゴウが激昂し、六十斤の鉄棍棒を構えて牙狼の前に立ち塞がる。両者の間に凄まじい殺気が膨れ上がり、周囲の兵士や戦士たちも一斉に武器を手に取った。

暴動が起きる。誰もがそう思った、次の瞬間。


「——武器を収めろ」


静かで、しかし練兵場全体をビリビリと震わせるような、絶対的な重圧を伴った声が響き渡った。

黎である。

彼は部隊の先頭からゆっくりと歩み出ると、人間たちと亜人たちが睨み合う中心へと、無防備な姿で入っていった。


「黎隊長……!」

「泥の若造が……引っ込んでろ! 俺たちは炎城主との契約で戦うだけだ、てめェの部下になった覚えは——」

牙狼が威嚇の咆哮を上げ、黎を見下ろして大斧を振り上げようとした。


だが、黎の姿が陽炎のようにブレたかと思うと、次の瞬間には、黎の右手が牙狼の分厚い胸ぐらを正確に、そして岩山のようにビクともしない力で掴み上げていた。


「な……ッ!?」

亜人の中でもトップクラスの筋力を持つ牙狼が、体格でふたまわりも劣る人間の青年に、片手で持ち上げられそうになっていたのだ。


黎の右腕——瘴気の巨猿のブレスを斬り裂き、エルフの魔力と融合して再生したその腕には、赤黒い『陽の気』と、銀色の『陰の魔力』が螺旋状に絡み合い、異常なまでの出力を生み出していた。


「……俺たちは皆、泥だ。人間も、獣人も、エルフも、元を辿れば女媧ジョカが振り撒いた一つの泥から生まれた兄弟だ。血の色の違いを誇って、どうする」

黎は牙狼を静かに睨み据え、その言葉を練兵場の全員に叩きつけるように響かせた。


「西の果て、『太極の淵』で目覚めようとしている泥濘の王は、俺たちの生存圏を全て飲み込む。人間だ、亜人だと言い争っている間に、世界は終わるんだ。……俺は、誰の血脈も否定しない。だが、俺の部隊に入るなら、その怒りと力は、隣の仲間ではなく、西の化け物へ向けろ」


黎の瞳の奥で燃える、カク隊長から受け継いだ灼熱の意志。そして、絶望的な神木の試練を乗り越えた者だけが持つ、魂の格。

牙狼は、黎から放たれる圧倒的な『王気』に当てられ、本能的な畏怖を感じて斧を取り落とした。


「……わか、った。悪かった、隊長。俺たちの命、あんたの熱に預ける」

牙狼が恭順の意を示して片膝をつくと、それを見ていた亜人たち、そして反発していた人間たちも、次々と武器を下ろし、黎に向かって頭を下げた。


種族の壁を越えた、三百の『特別遠征軍』。

エルフの結界の核を持ち帰り、死線を越えた若き英雄の言葉は、ついに種族の違いすらも束ねる巨大な求心力となったのである。


「……さすがだ。カクのジジイ以上のバケモンに育ちやがった」

燕が呆れたように笑い、春華シュンカが誇らしげに胸を張る。


「全軍、陣形を整えろ! これより我ら『泥の遠征軍』は、黄土の街を出立し、西の最果て——崑崙山脈を目指す!」

黎が右腕を天高く掲げると、三百の戦士たちから大地を揺るがすようなときの声が上がった。


城壁の上、統星楼のバルコニーから、炎城主が静かにその光景を見下ろしていた。

(ゆけ、黎よ。お前が点けたその業火で、停滞した大陸の歴史を焼き尽くし、新たなる道を切り拓くのだ)

炎は、遠征軍の背中へ向けて、音もなく深く頭を下げた。


ギギギギ……ッ!

黄土の街の巨大な西門が開かれる。

銀色の結界が、遠征軍が通る部分だけわずかに道を空け、彼らを灰色の荒野へと送り出した。


行軍が始まった。

目指すは、大陸の中央を横断する途方もない距離の先にある、神話の源流。

かつて黎が一人で剣を振っていた小さな練兵場から始まり、森の地下神殿での絶望、エルフの聖域での試練を経て、彼らの戦いはついに世界を巻き込む大河へと流れ込んだのだ。


行軍の道中、黎の脳裏には、銀霊樹の泉で見た『百の世代に渡る転生のヴィジョン』が幾度となくフラッシュバックしていた。

自分がこの旅の果てに死のうとも、魂は必ず次の泥へと受け継がれていく。そして、いつか遥かな未来で『紫苑シオン』として目覚め、太極の陰を司る『莉桜奈リオナ』と共に、世界を真の破滅から救う。

その途方もない約束が、黎の足をどんな過酷な荒野でも前に進ませていた。


「隊長! 前方に巨大な峡谷が見えてきました! 崑崙山脈の入り口、『地竜ちりゅうあぎと』です!」

数週間の過酷な行軍の末、斥候に出ていた燕が、砂埃を上げて駆け戻ってきた。


黎が馬を止め、前方を見据える。

灰色の雲を突き抜けるようにそびえ立つ、絶望的なまでに巨大な黒い岩山の連なり。崑崙山脈。その根元には、大地が大きく裂けたような底無しの峡谷が口を開けていた。


「あれを越えなければ、太極の淵には辿り着けない。……だが、あの峡谷は、ただの自然の裂け目じゃないな」

黎の鋭い気が、峡谷の奥底から立ち昇る、尋常ではない『金行きんぎょう』と『土行どぎょう』の密度の高い気配を捉えていた。


「ああ。どうやら、すんなりとは通してくれねェらしいぜ」

燕が顔をしかめる。

「峡谷の入り口に、分厚い鋼鉄の巨大な城門が築かれてやがる。……あそこは、地上を嫌って地下に潜った頑固者たちの国、『鋼のドワーフ帝国』の領土だ。炎城主が言っていた、もう一つの強大な勢力ってやつさ」


「エルフの次はドワーフか。神話の時代から続く種族は、どいつもこいつも面倒な扉を閉ざしてやがる」

剛が棍棒を肩に担ぎ、獰猛な笑みを浮かべた。

黎は黒剣の柄に手を当て、そびえ立つ鋼鉄の門を睨み据えた。

泥濘の王の本体が眠る太極の淵。そして、そこでたった一人で結界を張り続けている白銀の巫女・リン

彼女の元へ辿り着くためには、この大陸に点在する古い種族たちの封鎖を、一つ残らずこじ開けて進むしかない。


「止まるな。俺たちは泥だ。扉が閉まっているなら、力ずくでもノックしてこじ開けるまでだ」

黎の号令と共に、泥の連合軍は、重々しい地鳴りを響かせながら、未知なる地下帝国へとその足を踏み入れていった。


彼らの命の炎が、第一世代の最後の燃焼に向けて、最も激しく赤熱しようとしていた。

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