3.夏風邪と恋
「純那、そこで使う公式こっちじゃね?」
「あ、ほんとだ……」
昼休み、雨が降っていたので空き教室で桂と会っていた。昔はもっと生徒がいたというが、少子化とやらでこの学校には多目的室が複数あるのだ。
季節はもう夏になっていて、昼飯を食べたあと僕はなぜか桂に勉強を教えられている。
おかしいよな? こいつ、年下なんだけど。
慌てて午後の授業に向けてやり残しの宿題をやっていると、教科書をパラパラ見た桂が公式の間違いを指摘してくる。こんなことはもう何度もあって、同じ高校なのに頭の出来の違いを見せつけられてばかりだ。
「つーか、言えばすぐ直せるんだから純那は勉強できないんじゃなくてしてないだけだろ?」
「んー、どうかな……」
確かに、僕には勉強に対するやる気とか熱意みたいなものが欠けている。がんばったって、やりたいこともないし……
ちょっとだけ、人と勉強するのは楽しいかもしれないと今は思ってるけど。まあこれは一方的に見てもらってるだけか。
「なぁ、K大行きなよ。俺もそこの予定だし」
「えー……言っただろ? この前の模試C判定だったって」
この時期になっても、僕は志望校を決めかねている。桂のおかげで成績が伸びてきているからだ。
親は放任主義だし担任もゆるゆるなためなんとか許されているが、もう志望校に合った二次試験対策を始めていないとまずい。
「次の模試でB判定まで上げたら弁当作ってきてやる」
「三廻部純那、やらせていただきます!」
即座にチャッと敬礼のポーズを取る。……結局、桂に乗せられて次の模試も頑張ることになってしまった。
なんと桂は自分で弁当を作ってきていて、コンビニ飯で昼を済ませる僕にも先日弁当を作ってきてくれたのだ。なんで? と思ったけど普通に美味しくて、僕はまんまと胃袋を掴まれてしまった。まじで良妻すぎんか……?
そのとき桂に毎日弁当を作ろうかと提案され、それなら金を払うと僕が言い、金はいらないと言われ……ひと悶着あった。結果として「たまに」で落ち着いたのだが、僕は桂の手のひらの上でごろごろ転がされている気がしている。
「なんか今日、寒くない?」
夏休みが近づいてきて、エアコンの稼働していない多目的室は暑いはずだけれど。雨だから冷えているのかもしれない。
僕が「うー」と項垂れながら問題を解いていると、「わっ」と正面から声が聞こえた。
「ボタン……上まで閉めろよ。てか風邪でも引いたんじゃね? 顔色悪い気がするし……別に今日寒くねーもん」
「ええ? じゃあ桂が留めて」
「ぐ」
桂には弟や妹が三人もいるらしい。父親は単身赴任中で、母親は一番下の赤ん坊にかかりきり。
長男である桂が家事やチビたちの世話を手伝っているのだそうだ。これで勉強も完璧なんだから、僕は割と本気で尊敬している。
なんだか気づけば僕も桂のお兄ちゃん感に甘えるのが楽しくなってきて、こうしてたまにふざけているのだ。一人っ子だからお兄ちゃんには憧れがある。
桂は眉間に皺を寄せ、僕の鎖骨あたりを睨みつけるようにしてボタンを留めている。なんだその表情と思うが、どうせジーナのことを考えているのだろう。
鍵アカにした当初は「どうして急に?」とたくさん質問が来ていたけれど、一人一人に説明したらみんな納得してくれた。もちろん桂に脅されたからとは言わずに、心境の変化と伝えたのは処世術だ。
心境は確かに変わっていて、最近新規フォローの申請はほとんど見に行っていないし写真の投稿も減っている。あまりSNSを見ていなくても、桂と毎日会って話すから日々の満足感があるのだ。こんなことを認めるのは癪だが、僕は寂しさを拗らせていたのかもしれない。
きっかけは変だったけど、桂のことは今や学年を越えた貴重な友人だと思っている。ジーナの話は桂と全くしていない。結局あの日偶然見ただけで、フォロワーでもない説が濃厚だ。
しかしながら、僕は写真を投稿するときに緊張するようになってしまった。(桂が見るかも……)と考えるだけで写真の編集が延々と終わらなかったり、投稿ボタンをタップするのに変な汗をかいたり。
いやだって、そうだよな? 知り合いに見られたら完全アウトの裏アカを知られているのだ。
なんで桂は普通にしていられるのだろう。ジーナの中身が僕だと知って、がっかりしなかったのか?
聞いてみたいけど、「うん」と言われるのが怖くて聞けない。
寒気に鳥肌の立つ腕を擦っていると、ボタンを留め終えた手が僕の額に向かってきた。目元にかかる髪を避けてぴた、と手が当てられる。
「わっ」
「おい、熱あるじゃねーか! 純那、帰るぞ!」
「えっ……え??」
突然の接触に驚いていると、桂によって机の上を片付けられた。熱い手で腕を引っぱられ、立ち上がったものの足元が覚束なくてふらりとよろめいてしまう。
(あ、まじで体調悪いのかもしんない)
目眩がしてそのまま転ぶと思った体は、ぐいっと腕を引かれて桂に抱き止められた。
「大丈夫か!? 悪い急に立たせて。ちょっと待ってろ、先生に早退って言ってくるからな」
「ん、大丈夫……」
桂は細身に見えるのに、受け止めてくれた体は意外とがっしりしていた。体調の悪さを自覚すると、途端にぼうっとしてしまう。桂は僕を座らせ、午後の体育の授業のために腰に巻いていたジャージを僕の肩に掛けてくる。
とりあえず待っていればいいと分かって、僕は足早に出ていく桂を見送った。ジャージをシャツの上から羽織ると、桂の体温が残っている気がして温かい。ほのかに柔軟剤の優しい匂いがした。
……こんな風に人に心配されるの、いつぶりだろう。年に一、二回風邪を引くことくらいあるけど、僕はいつも自分でなんとかしていた。
でも今は、桂に甘えたくなってしまう。人に優しくされるのって、中毒性があると思う。
「帰るぞ。歩けるか?」
「歩ける。桂も帰るの?」
「おう」
気づけば桂が戻ってきていた。寒気はするけど動けないほどでもなく、そうっと立ち上がれば眩暈もない。
僕が立ったとき、視界の端で桂が両手を構えていたのが面白かった。赤ちゃんの歩行を見守るパパかよ。
いつも鞄ごと持って来ているから教室に戻らず玄関へと向かう。一人だったら普通に我慢しながら午後の授業も受けていただろうけど、桂が一言「帰るぞ」と言ってくれたから「帰ろう」と思えた。
他人の言葉ってすごい。他人じゃなくて、桂だからかもしれないな。
相変わらず寒いけど、大きなジャージで手の甲まで包まれているとホコホコする。傘を持ってきていないというやんちゃな桂を入れてやって(持っているのは桂だけど)、僕は何も考えずに自宅までの道のりを歩いた。
「……ここか?」
「うん。あれ、桂は家どこなんだっけ。傘持っていっていいよ?」
「ちょっとトイレ貸してくんない?」
マンションの前で立ち止まると、桂は建物を見上げて口を開けていた。学校の近くは一軒家ばかりだから珍しいのかもしれない。
送ってもらった形になるしお茶でも出すべきか? そんなことを考えながらエレベーターに乗り、玄関のドアを開けて桂を促す。
「…………」
「あ、うち親いないから。自由にしていいよ」
「いないのか!?」
「あ。父親はいるけど仕事で飛び回ってる」
シンとした廊下、コンクリート打ちっぱなしの壁と、物の少ない無機質な部屋。そういえば普通の家ってもっと生活感があるのかな。……桂、引いてる?
僕の父親は多少名の知れた写真家で、国内や海外も含めて常に飛び回っている。母親は僕が小さな頃に事故でいなくなった。
週に一回家事代行の人が来てくれて、料理の作り置きやまとまった家事をしてくれるから生活には困らない。
そんなことを言い訳みたいにつらつら喋れば、桂はなんだか不機嫌そうに眉根を寄せていた。ネグレクトじゃないよ? 父親とは割と仲がいいと思う。
「純那の部屋、どこ」
「こっち」
聞かれるがまま案内すると、僕は桂によってベッドに押し込まれてしまった。コンクリートの壁に囲まれた部屋はシーツが冷たい。小さく体を縮こめて、布団の中が温まるのを待つ。
「体温計あるか?」
「リビングの、テレビボードの右の棚」
伝えたのはそれだけなのに、桂はすぐに部屋を出て行った。まあドアを全部開けて探検すれば見つかるだろう。
案の定すぐに戻ってきた桂は、救急箱とミネラルウォーターを手に持っていた。
「悪い、冷蔵庫勝手に開けたわ」
「いいよ。蓋開けてくれる?」
「ん」
脇に体温計を挟み、少し起き上がって水を飲む。病院に行くか訊かれたがそれには首を振った。誰かからウイルスを貰ったような心当たりはないし、ただの夏風邪だろう。
「大丈夫ならいいけど。寝れそうなら少し寝とけ。まだ寒いか?」
「大丈夫」
もう一度横になった僕にしっかりと布団を掛けて、桂は優しい表情で頭を撫でてきた。親密な行動にドキッと心臓が跳ねたけど、弟や妹と同じ扱いなんだろう。
桂が僕の部屋にいて、僕を見てるのって変な感じ。不思議だけど全然嫌じゃなくて、むしろ胸の中があったかくなるような心地よさがある。
なんかいいなあ……
僕はその温かさを抱えながら、忍び寄ってきた眠気に身を委ねた。
「ん……ぁ、れ?」
目を覚ますと、斜陽が部屋を赤く染め上げていた。夕方に眠っていたという違和感に、一瞬日付の感覚さえ曖昧になる。
そういえば……昼から帰ってきたんだっけ。
体に汗をかいていて気持ち悪いけど、ふと額に手をやると冷却シートが貼られていた。熱が上がってきたからか貼ってくれたらしい。
テーブルの方に視線を動かせば筆箱を挟んだ教科書と開かれたノートが置かれていて、「あぁ……」と声が出た。
(桂、まだいるんだ。トイレかな?)
喉が渇いていたので常温になった水を飲み、僕は桂を探しにベッドを下りる。トイレにいなかったからリビングへ探しに行くとキッチンの方に人けがあった。
桂がなにか作っている。僕の家のキッチンに桂がいるなんて絶対おかしいのに、不思議なくらい自然な立ち姿だった。彼の背中はキッチンに立ち慣れた人の空気感を纏っている。
なんだかそのことに、僕は静かに感動してしまった。幼い頃に見た母親の背中を唐突に思い出し、胸がぎゅうっと締めつけられる。
起きたとき、桂がいてくれたことがすごく嬉しかった。ほっとして、姿を見ると甘えたくなってしまう。
「うわ!? じゅ、じゅ、純那、びっっくりした……」
「……ありがと」
つい、衝動のままに背中から抱きついてしまった。驚いてびくっと揺れた体は、桂の匂いがしてすごく温かい。
小さく呟いた言葉は聞こえなかったみたいで、桂はそろそろと僕を振り返ってきた。頬が赤い気がする。夕日のせい?
「桂、顔、赤くない? 風邪うつってないよな?」
「赤くない。うつってない!」
「……なに作ってんの?」
本人がそう言うのなら大丈夫なのだろう。僕はずっと気になっていたことを尋ねた。鍋の方からすごくいい出汁の匂いがしている。
「昼もあんま食べてなかったろ? 家政婦さんの作り置きも今日はあれかと思って、うどん作ってみた。食える?」
「ううう~~~」
「どうした!? 気持ち悪いなら無理するなよ?」
「結婚して!!」
桂が優しすぎる。僕は思わず脳裏に浮かんできた言葉を叫んだ。母が生きていたなら、こういう人と一緒になりなさいって言ったと思う。
背中に顔をぐりぐり擦りつけていると、いいタイミングでぐう〜、とお腹が鳴った。
我ながら空気の読めないお腹だ。呆れるけど、素直とも言う。だっていい匂いが過ぎるし。
「ふつつか者ですが……」
「冗談は置いといてさ、なんか腹減ったみたい。食べていい?」
桂はなんだかがっくりとして帰っていった。熱があるくせに食欲のある僕に、呆れ返っていたに違いない。
僕は柔らかく煮込まれたうどんを綺麗に食べ切って薬を飲んで寝て、翌日にはすっきりと目覚めることができた。
早朝の柔らかな光の中、ハンガーに掛けた桂のジャージを見つめて思う。
昨日は熱に浮かされて変な行動をしてしまったと思っていた。でも、クリアな頭になってみれば、自分の本当の気持ちに気づいてしまった。
(僕、桂のこと好きなんだ……)
自分自身同性愛者だという自覚はなかったけれど、桂という魅力に溢れた人間を前にして性別なんて些細な違いだと強く思う。
もちろん、気持ちを伝えるつもりなんてない。
桂には彼女が何人もいるという噂があった。性格を知った今では何股もする男ではないと分かっているが、きっと本命の子が他校かどこかにいるのだろう。たまにスマホを見てにやけてるし。
自分の気持ちを押しつけて桂を困らせたくない。どうせなら今のいい友人関係のまま卒業しよう、と僕は自覚したばかりの恋心に蓋をした。




