『杖の勇者ジージー』第7話 サンドイーグル隊の日常
翌朝の砂漠も、やっぱり冷たかった。
目を開けると、薄い布越しに朝の光が差し込んでいる。
砂に敷いた厚手の布は、ごつごつしているはずなのに、不思議と昨日よりよく眠れた気がした。
(……ここで、ちゃんと生きていくんだ)
ぼんやり思いながら身体を起こすと、テントの外からあの低い声が飛び込んできた。
「おーい、小娘、起きてるか?」
セルグレンだ。
「……起きてる」
「じゃ、今日から本格的に“身の回り”教えるぞ。砂漠なめんな講座、初級編だ」
妙に張り切った声に、ジージーは思わず苦笑した。
◆ ◆ ◆
「まず――寝床の片付けだ」
テントの外に出ると、セルグレンが腕を組んで立っていた。
頭頂部は朝日をまぶしく反射し、背中には相変わらず大きな荷物袋。もうそれが“安心の印”に見えてきている自分に、ジージーは少し驚いた。
「寝床?」
「当たり前だろ。生きてるってことは、寝て、起きて、飯食って、動いて、また寝るってことだ。
寝床の整え方ひとつで、砂漠で死ぬか生きるかが変わる」
「そんなに……?」
「そんなに、だ」
セルグレンは、ジージーが使っていた布を指差した。
「いいか。まず、砂を払う。『上から軽く』ってのがコツだ。力任せにやると、布の中まで砂が入る」
「こう?」
ジージーが布をつまみ、ぱんぱんと払う。
砂が細かく舞い、朝の光の中できらきらと光った。
「そうそう。終わったら、巻け」
「巻く?」
「布はな、畳むんじゃなくて“巻く”んだ。畳むのは家だ。巻くのは旅だ。
ここは家みてぇだけど、実際はいつでも走って逃げられるようにしておかなきゃなんねぇ」
妙な理屈だけれど、なぜかすとんと胸に落ちた。
「じゃあ、これからは巻くようにする」
「おう。よし、次だ。靴」
セルグレンはジージーの靴を指さす。
「昨日も言ったが、靴紐は命綱だ。朝と昼と夜、三回は確認しろ」
「三回も?」
「砂はな、紐を舐める。気づくと緩んでる。
転んだら膝をやる。膝をやったら走れねぇ。走れねぇ奴から死ぬ。それが砂漠だ」
「また極端な……」
「極端なくらいでちょうどいい」
セルグレンに言われると、すべてがそれらしく聞こえてしまうのが悔しい。
言われた通りに紐を結び直すと、彼は満足げに頷いた。
「よし。――次、水袋」
今度は腰にかけていた水袋を取り上げられた。
「水は命だ。だが、飲みすぎても命を縮める」
「またそういう……」
「これは真面目な話だ。喉が渇いて一気に飲むと、身体は『まだ足りねぇ』って勘違いする。
そうすると、余計に水を欲しがる。だが、砂漠ではそんなに飲めねぇ。結果、フラフラになる」
「じゃあ、どうすれば?」
「口を“濡らす”くらいにして、少しずつ飲め。
ほら」
セルグレンは自分の水袋を示し、ほんのひとくちだけ水を口に含み、ゆっくりと飲み込んでみせた。
「こうやって、喉と身体に『落ち着け、まだ大丈夫だ』って教えるんだよ」
「身体に教える……」
なんだか、前の世界で習った呼吸法に似ている気がした。
ラウンドの合間、水の取り方ひとつで動きが変わる――コーチの声が頭の奥から蘇る。
(……同じなんだな。世界が違っても、身体ってやつは)
「今、何か思い出してる顔だな」
セルグレンにじっと覗き込まれ、ジージーは肩をすくめた。
「ちょっとだけ。昔の……別の場所で、似たようなこと言われたなって」
「ほぉ? じゃ、吸収は早いはずだ。お前、こういうの得意だろ」
「得意……だった、かも」
過去形になってしまうのは、まだ心のどこかで“前の自分”と“今の自分”を繋ぎ切れていないからだろう。
セルグレンはそれ以上は深く聞かなかった。
「ま、そのうちな。
――次だ。荷物整理」
「まだあるの?」
「まだまだある」
ジージーは思わず笑ってしまった。
◆ ◆ ◆
「ジージーちゃん、干し布の袋はこっち! 食料と混ぜない!!」
「混ぜたらどうなるの?」
「味が死ぬ!!」
サルーシャの言葉には、妙な説得力がある。
午前中は、サルーシャから“生活系”の細かい知恵を叩き込まれた。
「汗を拭いた布は、絶対日陰で干すのよ。
わかる? 日なたじゃなくて日陰。
日なたは熱が強すぎて布が傷むし、匂いが布に焼きつく」
「匂いが焼きつくってそんな……」
「ほんとよ。男どものテント、行ってみる?」
「やめておく」
想像だけで、充分だった。
「それと、髪」
サルーシャがジージーの黒髪を指先で持ち上げた。
「長い髪は砂漠で命取りになることもあるの。
でも、あなたの髪、きれいだから全部切れって言いたくない」
「……きれい?」
前の世界では、髪のことなんてほとんど気にしたことがなかった。
短くしてヘッドギアで押さえればいいだけだったから。
「だから、まとめましょう。ほら」
サルーシャが器用に指を動かし、ジージーの髪を後ろで束ねていく。
低めの位置で結び、余った毛先をくるりと丸めて布でくくった。
「これなら戦うときでも邪魔になりにくいし、暑さも少しマシになるわ。
ほら、鏡」
差し出された小さな鏡に映った自分は、ほんの少し、大人びて見えた。
「……なんか、知らない人みたい」
「ふふ。『自分を作る』のも、身の回りの支度の一部よ」
サルーシャはそう言って、優しく笑った。
◆ ◆ ◆
「モハン、包丁貸して」
「おう。指切るなよ」
「切らないわよ。ジージーちゃん、こっち見て」
昼近くになると、サルーシャとモハンは料理の準備に入った。
ジージーも手伝いに借り出される。
「この根菜はね、切る方向を間違えると固くて噛めない、って男どもは文句言うのよ」
「文句……」
「だから、こう。繊維と直角に。ほら、やってみて」
包丁を握るのは慣れている。前の世界でも、独り暮らしで自炊くらいはしていた。
だが、こっちの野菜は形も硬さも違う。
慎重に包丁を入れると、意外なほどすっと刃が通った。
「お、筋がいいじゃねぇか」
いつの間にか横で見ていたモハンが、珍しく声を上げた。
「……そう?」
「最初から『怖がらない握り方』してる。
包丁はな、怖がると変に力が入って余計危ねぇ。
お前、怖いもの見た後だからかもしれんが……妙に落ち着いてる」
「怖いものって……サンドワーム?」
「それ以外にあるか」
モハンは太い腕を組み、鍋をかき回した。
「まぁいい。今のうちに覚えとけ。
隊長が言ってただろ、“戦えない日は飯を作れ”。
ここじゃ、誰かの役に立つ奴が“家族”だ」
その言葉は、どこかで聞いたことがあるような気がした。
(護るために殴る、護るために立つ。
あたしは、前も今も、そういう場所を探してたのかもしれない)
◆ ◆ ◆
昼食後。
太陽が真上に昇り、砂がじりじりと熱を持ち始めるころ。
「さて――次は“動き方”だな」
セルグレンが腕をぐるりと回しながら言った。
リースも弓を背負い、その隣に立つ。
「動き方?」
「砂の上での歩き方、走り方。
それと、荷物を背負って立つ姿勢。
間違えると腰をやる」
「……また腰」
「腰は命だ。腰を甘く見る奴は、晩年寝たきりだぞ」
晩年という言葉に、ジージーは一瞬だけ、前世の老いた道場主の顔を思い出した。
「じゃ、ジージー。とりあえず走ってみ?」
リースが砂の上を指差した。
「普通に?」
「普通に。いつもどおりでいいよ」
ジージーは頷き、数歩助走をつけてから砂の上を駆け出した。
ざく、ざく、ざく――。
足首から上まで砂を蹴り上げる感触。
でも、思ったほど進まない。足が沈んで、速度が出ない。
「……わ、重い」
数十メートルも行かないうちに、息が上がった。
「ほら止まれ」
セルグレンが手を上げる。
「悪くねぇが、もったいねぇな」
「もったいない?」
「お前、足の力は結構ある。
だが“砂の沈み方”を無視してる」
セルグレンはそう言うと、自分で砂の上に立った。
「よく見てろ」
一歩、踏み出す。
二歩、三歩。
大股ではない。だが、妙に滑らかで、ほとんど足が沈んでいないように見える。
ず、ず、と砂の表面だけを移動しているような不思議な動きだ。
「……なにそれ」
「かっこいいだろ?」
リースが横から口を挟む。
「俺らは“砂渡り”って呼んでる。
セルの専売特許――と見せかけて、隊長ももっとすごい」
「うるせぇ」
セルグレンが手招きした。
「コツを教える。足の裏全体で砂を押すな。
“足指の根元あたり”で、砂の固い層を探るように乗れ」
「固い層……?」
「砂は全部ふわふわしてるわけじゃねぇ。
表面の下に、少しだけ固く締まった部分がある。
そこに乗れれば、沈まずに移動できる」
ジージーは言われたとおりに、ゆっくりと一歩を踏み出した。
砂の感触を足裏で探る。
(……あ、ここ)
ほんのわずか、砂の抵抗が違う場所がある。
そこに重心を乗せるように、一歩。
ざく、と音はするが、さっきほど沈まない。
「そうだ。次」
もう一歩。
今度は、少しだけ早く探る。
足の裏で、固い層を“探知”するイメージ。
(前の世界で、打ち込みのとき、床の反発を使った感じに似てる……)
数歩、進む。
息はまだ上がるが、明らかにさっきとは違った。
「おお」
リースが感心したように声を上げる。
「なぁ、隊長ー。こいつやっぱ飲み込み早いって!」
いつの間にか近くで見ていたエイリアスが、ふっと口元を緩めた。
「身体に“何か”が入ってるんだろうな。
……自覚はあるか?」
「自覚……?」
「砂は“初めての相手”のはずだ。それなのに、迷い方が普通じゃない」
ジージーは少し考え、そして小さく首を横に振った。
「わかんない。ただ……足の裏で“ここだ”ってところを探す感じ。
前にも、似たようなことを“どこかで”してた気がする」
「どこか、ね」
エイリアスはそれ以上は踏み込まなかった。
「まぁいい。覚えろ。砂の上で生きるなら、“身体で覚えたこと”が一番の財産だ」
その言葉が、胸の奥にしみこんだ。
◆ ◆ ◆
日が傾き始めるころには、ジージーはもう足をがくがくさせていた。
「……つ、疲れた……」
「そりゃそうだろ。今日は基礎だけで終わりだ」
セルグレンは笑いながらも、ちゃんとジージーの肩を支えてテントまで送ってくれた。
「明日はもう少し、荷物を持って歩く練習だな」
「まだ増えるの……」
「生きてる限り増える」
「なんか、生きるって大変だね」
「大変だよ。だから、生きる奴は皆すげぇんだ」
何気なく言われたその一言が、不思議と心に残った。
◆ ◆ ◆
夕食前、ジージーはサルーシャに捕まった。
「はい、こっち。今日の身体チェック」
「チェック?」
「全身筋肉痛でしょ。変なところ庇って歩いてると、余計怪我するの。
ちょっと見せて?」
ジージーは黙って腕や足を伸ばした。
サルーシャの手が触れるたび、そこからじんわりと温かさが広がる。
「ふふ。ちゃんと“動かした”筋肉の痛みね。悪くないわ」
「悪くない……?」
「怠けてるだけの身体は、触ると重いの。
あなたのは、まだ軽い。ちゃんと、“先に進もうとしてる身体”よ」
言われていることが全部わかるわけではない。
でも、不思議と嬉しかった。
「サルーシャも……前はこんなふうに教えてもらってた?」
「そうねぇ。昔、別の隊でお世話になった人がいたわ。
もういないけど」
さらっと言うサルーシャの笑顔は、どこか寂しげだった。
「……ごめん」
「謝ることじゃないわよ。
でも、そうね。いつかあなたにも、ちゃんと話してあげる」
サルーシャはそう言って、ぽんとジージーの肩を叩いた。
「その前に、生き残ること。いいわね?」
「うん」
◆ ◆ ◆
夕食の席。
今日もモハンの料理は美味しかった。
豆と干し肉の煮込みに、香草の香りが加わっている。
砂漠の質素な食事のはずなのに、なぜか心が満たされていく。
「ジージー、明日も訓練だってさ」
リースが茶碗を片手に言った。
「今日の“砂渡り”、だいぶ様になってたぞ」
「そうかな……全然余裕なかったけど」
「余裕のある奴は真っ先に死ぬんだよ」
セルグレンが横から横槍を入れる。
「余裕のねぇ奴が、なんとか生き延びる。
――だろ、隊長?」
エイリアスは、焚き火の向こうで静かに酒を飲んでいた。
「余裕と油断は違う。
ジージーはまだ“余裕のない初心者”だ。
それは悪くない。油断よりはずっとマシだ」
「……がんばる」
「がんばれ。がんばって、生きろ」
短い言葉。だが、それがこの隊の全てを物語っているように思えた。
◆ ◆ ◆
食事が終わり、皆が思い思いに武器の手入れや雑談を始めたころ。
リースが、ふと地面を指差した。
「見ろ。蟻だ」
「蟻?」
ジージーがしゃがみ込むと、焚き火の外側の砂の上を、小さな黒い影が行列になって歩いていた。
ひとつ、一列だけではない。
細い線が、何本も、砂の上に走っている。
「これ、普通の蟻?」
「今見てる分にはな」
リースは真顔で言った。
「ただ――砂漠の蟻はな、数が揃うと、別物になる」
「別物……」
「今日はただの“挨拶”みたいなもんだ。
でも、覚えとけ。
砂の上で“まっすぐな線”が増えたら、それはだいたい、ろくでもない前触れだ」
ジージーは、蟻たちが運ぶ小さな砂粒をじっと見つめた。
その小さな動きが、これから自分たちに訪れる“試練”の影のように思えて、背筋にぞわりとしたものが走る。
(――生きるって、やっぱり大変だな)
でも。
横を見ると、セルグレンが豪快に笑い、
サルーシャが皿を片付け、
モハンが鍋を磨き、
エイリアスが静かに星を見上げている。
その光景が、なぜか心強かった。
(大変でも、ここなら――やっていけるかもしれない)
そう思えたことが、今日一日の何よりの収穫だった。
砂漠の夜風が吹き抜け、焚き火の火が小さく揺れる。
ジージーの“砂漠で生きる日々”は、まだ始まったばかりだった。
その足元を、黒い小さな蟻たちが、静かに行列を作って歩いていた。
まるで、これから訪れる“軍隊”の影をなぞるように――。




