『杖の勇者ジージー』第4話 ― 砂の鎖 ―
砂は、音を飲み込む。
昼の砂漠は白く、空気は揺れ、遠くの地平線は水のようにゆらめいて見えた。
その下を、鎖で繋がれた人々が歩いている。
ジージーも、その列のひとりだった。
足首に嵌められた鉄輪から、鎖が伸びている。
前の男の足枷と繋がり、そのまた前へ、さらに前へ――長い鉄の蛇になって、隊列の端から端までを縫っていた。
「歩け! 転ぶな!」
背後から鞭の音が飛ぶ。
乾いた皮が空を裂き、その余韻が肌の上を走る。
振り返る勇気は、誰にもなかった。
ジージーは唇を割り、舌で血の味を確かめた。
喉が焼けるように乾いている。
水袋から与えられるのは、日が高く昇った頃にほんの一口だけ。
それも「高く売れる商品」から順だった。
ジージーは……その中では少しだけ“マシ”な扱いを受けているほうだった。
「おい、小娘。こぼすなよ。高い水だ」
昼、商人のひとりがそう言って、カップを半分だけ差し出した。
ジージーは両手でそのコップを受け、震える指で唇へと運ぶ。
喉に冷たいものが落ちていく。
たったそれだけで、頭の中の霧が少し晴れた。
「……ありがとう、ございます」
礼を言うと、商人は鼻で笑った。
「礼はいらん。その分、次の街で高く売れりゃいい」
その言葉に怒りは湧かなかった。
怒るには、体力が要る。
今のジージーには、その余裕すら残っていない。
足を前に出す。
砂が崩れ、ふくらはぎにまとわりつく。
靴はとうに擦り切れて、素足同然だった。
歩くたびに皮が破れ、血がにじみ、砂が貼り付いてかさぶたになっている。
(痛い……でも、止まったら鞭だ)
頭の中で、自分の声が淡々と状況を説明してくる。
感情がそこに追いつかない。
悲しむのも、泣くのも、怒るのも――すべて“余計な消耗”に思えてしまうほど、身体が削られていた。
列の少し前には、腰の曲がった老人が歩いていた。
足元がおぼつかず、何度もよろめいている。
横にはまだ少女と言っていい年頃の子がいて、老人の肘を支えようとしていた。
「おじいちゃん、もう少しだけ……」
「……ああ……ああ……」
老人の声は、砂に吸い込まれるように弱い。
やがて彼の膝が折れた。
鎖がぐい、と前の人々を引っ張る。
「こら、止まるな!」
後ろから別の奴隷が叫ぶ。
だが止まってしまったものは仕方ない。
商人のひとりが馬を進め、老人のもとに歩み寄る。
「立て」
そう言いながら、老人の肩を足で蹴った。
老人は呻き声をあげるが、立ち上がれない。
「……立てねぇ奴はいらん」
男はそう言うと、鞭を巻き取った手で腰の短剣を抜いた。
刃が太陽を一瞬だけ反射する。
ジージーはそこで顔を背けた。
砂漠の光は強すぎて、何もかも見せつけようとする。
乾いた音がひとつ。
老人の声はもう聞こえなかった。
縄が解かれ、鎖が上から外される。
少し隊列が軽くなった。
代わりに、地面は少しだけ重くなった。
黙って歩き続けるうちに、太陽が少し傾いた。
影が伸び始める。
(止められない)
ジージーは思った。
兄も、父も、母も――そして今、目の前で倒れていく名前も知らない人も。
誰も止められない。
(……今は、止められない)
だから、歯を食いしばる。
生きる。
生き延びる。
怒りも悲しみも、“あと”でいい。
今この瞬間に必要なのは、足を前に出すことだけだ。
それが、この砂漠で学んだ最初の“拍導”だった。
◇
夕暮れになると、商隊は一度だけ足を止めた。
小さな窪地に天幕を張り、荷を下ろす。
奴隷たちは輪になって座らされ、鎖の束は柱に巻きつけられた。
やっと腰を下ろした足が、じん、と痺れる。
座っても楽にはならない。痛みの位置が変わるだけだ。
火が焚かれる。
肉の匂いが、遠慮なく漂ってくる。
「おい、そこの三人。こっちだ」
ジージーを含む何人かが呼ばれ、少量の粥を受け取る。
水で薄めた穀物が、木の皿の中でちゃぷちゃぷと揺れていた。
膝の上に皿を置き、スプーンを握る。
一口。
喉に流し込むと、身体がそれを貪欲に吸い上げた。
胃が、まだ生きていると主張してくる。
隣では少女が皿を抱え、必死に掬っていた。
さっき老人を支えていた子だ。
老人の姿は、もうどこにもない。
「……食べないと、怒られるよ」
ジージーが小さく声を掛けると、少女は一瞬こちらを見て、かすかに笑った。
「うん……分かってる。
食べないと、生きてる意味がなくなるから」
その言い方が、どこか引っかかった。
意味がないなら生きない、というのではなく――
生きるために意味を探そうとしている声音だった。
商人たちは焚き火の近くで大きな肉を焼き、酒盛りを始めている。
笑い声と罵声が飛び交う。
奴隷たちの輪のほうへ、視線はほとんど向けられない。
空は紺に染まり、星が増えていく。
砂漠の夜は、驚くほど冷えた。
昼の熱が嘘のように引き、吹きつける風が骨にしみる。
ジージーは膝を抱え、少しだけ丸くなる。
鎖が乾いた音を立てた。
(……寒い)
身体より先に心がそう言った。
寄り添える家族はもういない。
父の大きな背中も、母の柔らかな手も、レオンの温かい掌も。
(生きるって、なんだろ)
その問いが浮かびかけて、ジージーは頭を振る。
そんなことを考え始めたら、体温がもっと奪われる気がしたからだ。
(今は……息だけ)
吸う。
吐く。
ひと息、一拍。
熱も、痛みも、怒りも、全部いったん胸の奥に押し込む。
砂漠の夜風が、天幕の端をぱさりと揺らした。
◇
その夜、最初に目を覚ましたのは脚だった。
地面の下で、何かが動いている――。
そう思った瞬間、ふくらはぎの骨のあたりに、ずうん、と鈍い震えが伝わった。
(……地震?)
ジージーは半分夢の中でそう考えた。
だが、違う。
揺れは方向を持っている。
地面のどこか一点から、波紋のように広がってくる震えだった。
砂がかすかにさざめく。
乾いた音が連続して、耳の奥をくすぐった。
ジージーは目を開けた。
周りには眠る人々の影。
商人たちが寝そべる天幕のほうからは、酒と汗の混じった匂いが漂ってくる。
震えが強くなった。
砂の粒が跳ねるのが見える。
(何か……来る)
喉が勝手に言葉を作る。
声にならない声。
身体はまだ動かない。冷え切った手足は、自分のものではないようだった。
遠くで、馬が短く悲鳴をあげた。
「ひっ……!」
誰かが息を呑む。
別の誰かが半身を起こす。
その瞬間――地面が、爆発した。
砂丘の一角が、内側から破裂したように吹き上がる。
砂の柱が闇を突き破り、その中心から巨大な口が姿を現した。
丸く開いた環状の口。
何重にも連なる歯。
内側で蠢く肉のひだ。
夜の闇と松明の光を飲み込みながら、そいつは砂の海から躍り出た。
「サ、サンドワームだ!!」
商人のひとりが叫ぶ。
その声は半ば悲鳴だった。
サンドワーム――砂海の捕食者。
砂漠では誰もが恐れる怪物。
地中の振動と匂いに敏感で、一定以上の質量が集まると、それを“獲物”と認識して襲ってくる。
天幕が、あっけなく引き裂かれた。
中にいた商人のひとりが、悲鳴を上げる暇もなく、丸ごと飲み込まれる。
血の匂いと肉のちぎれる音が、夜の空気を赤く染めた。
「逃げろ!!」
誰かが叫ぶ。
だが、どこへ?
奴隷たちの足首には鎖が繋がれている。
立ち上がろうとした男がひとり、鎖に躓いて転んだ。
そのまま、砂に半身が埋まる。
サンドワームの巨体が地面を抉りながら進み、彼を砂と一緒に飲み込んだ。
「やだ……やだやだやだ!!」
少女の悲鳴が耳を裂く。
ジージーは反射的に身体を丸めた。
足首の鎖が、他の奴隷たちの鎖と絡み合う。
「動くな! 慌てるな!!」
誰かが叫ぶ。
商人のひとりか、護衛か。
けれど、その声はすぐに砂に消えた。
サンドワームの別の口縁が、彼を飲み込んだからだ。
ジージーは必死に、地面を蹴ろうとした。
だが足枷が、前の奴隷の足枷と絡み合っている。
どれだけ力を込めても、自分だけでは動けない。
(――このままだと、あたしも砂の中だ)
頭のどこかが冷静に判断する。
恐怖はとっくに振り切れていた。
身体の震えも、涙も、全部どこかへ行ってしまっていた。
(息……)
吸う。
吐く。
一瞬だけ、胸の中に火種を灯す。
「足、どけて!!」
前に繋がれた男の足を蹴る。
その男は転び、鎖が別の角度に引っ張られる。
ジージーは逆に、その反動を利用して身体を横倒しに転がした。
その瞬間、砂の下から鋭い何かが突き上がる。
サンドワームの歯列の一部が、鎖を噛んだのだ。
ぎちん、と嫌な音。
鉄がねじ切れる感触が足から伝わる。
次の瞬間――足首の重さがふっと消えた。
(今だ)
ジージーは、残りの力を全部かき集めて、砂を蹴った。
鎖から解き放たれた足が、砂丘の影へ向かってもがく。
背後で誰かが叫ぶ。
名前を呼ぶ声ではない。
誰かを引き留める声でもない。
ただ、“あたしも連れて行ってくれ”という無数の声。
振り返る余裕はなかった。
振り返ったところで、誰も救えない。
それは、あの夜の屋敷で嫌というほど思い知った。
(今は……生きる)
砂丘の陰へと身体を滑り込ませる。
そこでも砂は揺れている。
すぐ近くを、巨大な何かが通っている証拠だった。
耳を塞いでも聞こえてくる。
骨にまで響く咀嚼の音。
肉と骨が砕ける音。
さっきまで同じ列で歩いていた人々の声が、一つひとつ消えていく音。
ジージーは砂の上に顔を伏せた。
昼の熱がまだ残る砂粒が、頬に貼り付く。
(……まだ、死ねない)
そう思った。
生きたい、ではない。
死ねない、だった。
(止められなかった分……いつか、誰かを止めるんだ)
意識が遠ざかる。
砂の匂いが鼻腔を満たし、世界が狭くなっていく。
音も、光も、全部遠くへ行く。
最後に聞いたのは、サンドワームの咆哮ではなかった。
それは――人の足音だった。
◇
どれくらい時間が経ったか分からない。
ジージーがかすかに眼を開けたとき、視界は黄ばんだ布のようにぼやけていた。
砂の匂い。
血の匂い。
焚き火の匂い。
全部が混ざり合っている。
その中に、もうひとつ、違う匂いがあった。
革と汗と、金属と、香草を一緒に煮詰めたような――戦いの匂い。
「……まだ生きてるな、こいつ」
低い女の声が耳に落ちた。
ジージーの頭上に影が差す。
逆光の中に、そいつの輪郭が浮かび上がる。
頭のてっぺんから横に流れる、モヒカンのシルエット。
しなやかな肩。
砂漠の布をまとう筋肉質な身体。
目元に布を巻いたその女は、口元だけで笑った。
「砂の寝床にしちゃうには、惜しい顔だね」
指が顎を持ち上げる。
ジージーはかすかに身を引こうとして――身体が動かないことに気づいた。
手足が鉛のように重い。
まだ、足首にはちぎれた鎖の一部がぶら下がっている。
「セル。水」
女が短く言った。
すぐそばで、どすん、と大きな影がしゃがむ。
巨体の男――セルグレンが、水袋を手にしていた。
M字に禿げかけた額が、焚き火の光を受けて汗ばむ。
「……姉御、こいつ……軽い……
死にかけてる……水……すぐ……」
セルグレンはそう言って、ジージーの唇に水袋の口を当てた。
冷たい水が流れ込む。
喉がびっくりして咳き込み、少しこぼれる。
それでも、水は生命の筋道を辿って体中に広がっていく。
ジージーは、やっとのことで声を出した。
「……た……すけ……て……」
自分でも信じられないほど、弱々しい声だった。
その声に、モヒカン頭の女はにやりと笑った。
「よし、その顔だ。その目だ。
まだ生きる気は残ってるな、小娘」
少し離れたところから、別の男の声がした。
リース――常人の背丈の青年が、砂の上にしゃがんで散らばった荷物を漁っている。
「姉御、この子……魔力の匂いがします。
普通の奴隷じゃない。
何か……もっと面倒なものを背負ってる匂いです」
「魔力ねぇ」
女は興味深そうに鼻を鳴らした。
「そいつはいい。砂漠で生き残るには、多少の“面倒くささ”が必要だ」
彼女はジージーを見下ろし、手を差し出した。
「名前は?」
ジージーは唇を開く。
砂と血で張り付いた舌が、なんとか言葉の形を作った。
「……ジージー……
ジョージア……ギルバート……」
「長ぇな」
女は笑う。
「じゃあ、ジージー。
今日からお前は“うちの客分”だ。砂の寝床から拾ってやったんだ。生きるかどうか、ここからはお前の仕事だよ」
「……あなたは……?」
「エイリアス」
女は短く名乗った。
「砂漠の民。レジスタンス。砂のレオン、なんて呼ぶ奴もいる」
エイリアスはひょいとジージーの身体を抱え上げた。
その腕はしなやかで、驚くほど安定していた。
「さあ、ジージー。
生きるなら、目を開けてろ。
砂漠じゃ、生きる気のねぇ奴から先に死ぬんだ」
ジージーは、彼女の胸の中で小さく息を吸った。
砂と血と汗の匂いの中で、ほんの少しだけ――香草の爽やかな匂いがした。
(……まだ、止められるようになってない)
兄も、父も、母も。
商隊の人間も。
誰ひとり救えなかった。
(だから、まだ死ねない)
ジージーは、ゆっくりと目を開けた。
砂漠の夜空には、星がこぼれそうなほどに瞬いている。
その下で、モヒカン頭の女が笑っていた。
その笑顔は、残酷な世界の真ん中で――不思議と、風に似ていた。




