『杖の勇者ジージー』第3話 ― 裏切りの夜 ―
その日の風は、朝から落ち着きがなかった。
庭先の庇から下がる二鈴が、いつになく細かく揺れた。
チリ、チリ――と鳴るたびに、澄んだ鈴音の底に、どろりとした何かが混ざる。
「……今の、やっぱりヘン」
ジージーは足を止め、庇の下から見上げた。
春の終わりの陽が、白壁をあたたかく染めている。
父ウィルヘルムは書斎で帳面をつけ、母ミリアは台所で歌いながらスープを煮ている。
鶏が土をつつき、畑の子どもたちが笑う声が聞こえる。
いつも通りの、穏やかな一日のはずだった。
「ジー?」
背後から声が降ってきて、振り向く。
剣の鞘を肩にかけた兄――レオン・ギルバート が、戸口に立っていた。
十五歳。
顔つきはまだ少年めいているのに、腰の剣だけはもう大人と同じ重さを持っている。
「どうした。さっきから鈴ばかり見て」
「だって……さっきから、ちょっと“痛い音”するんだもん。
いつもの“ちん”じゃなくて、“ぎっ”て感じ」
レオンは一瞬だけ二鈴を見上げ、それからふっと笑った。
「お前の耳はよくできてるな。……でも、心配いらねぇよ」
ジージーの頭にぽんと手が乗る。
大きくなった兄の手は、前より少し骨ばっていた。
「風なんて気まぐれだ。今日の風は、ちょっと機嫌が悪いだけさ」
「ほんとに? なんかイヤな感じする」
「ほんとに。
大丈夫だ、ジー。父上も、母上も、俺もいる」
言葉はあたたかかった。
それでも胸の奥の“ひっかかり”は消えない。
二鈴が、また揺れる。
チリ――と鳴った音のあとに、きゅう、と小さな軋みが混ざった。
風が、扉の蝶番を触っているような音だった。
◇
その夜の夕餉は、いつもより少しだけ賑やかだった。
昼のうちに狩りに出た狩人たちが小さな獲物を持ち帰り、
厨房では香草と一緒に煮込まれた肉の匂いが広がっている。
父は珍しく葡萄酒をおかわりし、母は笑顔でそれを止めもしない。
「今日はいい日だな」
父がそう言い、杯を掲げた。
「畑も順調、領民も笑っている。……それにレオン、剣の腕があがった」
「まだまだです」
レオンは照れくさそうに目をそらす。
「父上の背中はまだ遠い。初陣もまだですし」
「十五になった。次の王都への上洛の折には、正式な紹介をしてもいいだろう」
ジージーはスープを啜りながら、兄の横顔をじっと見た。
いつからだろう。
同じ目線だったはずの兄の顔が、こんなに高くなったのは。
「レオン兄、かっこよかったよ。今日の稽古」
「見てたのか?」
「うん。風が“レオン兄のほうへ行くよ”って言ってたもん」
兄の口元が、少しだけ緩む。
「そうか。じゃあ、風の期待を裏切らないようにしないとな」
母が笑い声を立て、二鈴を一度だけ鳴らした。
チリ――。
その一音だけは、まだ澄んでいた。
◇
夜が深くなると、屋敷は静かになった。
ジージーは薄い毛布にくるまりながら、天井の木目を数えていた。
窓の外には星がちらちらと瞬き、庭の木々が風に揺れる影を映している。
耳を澄ませば、遠くで犬が一声だけ吠えた。
(……今日は、眠れないな)
胸のあたりがふわふわと落ち着かない。
布団からそっと抜け出し、裸足のまま窓辺に歩み寄る。
冷たい床板が、少女になった足の裏にじん、と伝わる。
以前の、重く分厚い足裏とは違う感覚。
軽く、冷たく、繊細だ。
窓の鍵に手をかけかけて、ふと、外から微かな音がした。
きい――。
木の扉が軋むような音。
屋敷の正門ではない。
もっと、低くて、湿った音。
(裏門……?)
聞き慣れたはずの音に、得体の知れない冷たさが混ざっていた。
胸がぎゅっと縮む。
息を呑むと、肺の中の空気まで冷えていく。
次の瞬間、遠くで鉄の触れ合う音がした。
◇
裏門のところに立つ男がいた。
ラント。
ギルバート家に仕えて二十年以上になる古参の家臣。
父ウィルヘルムがまだ若かった頃から、共に戦場を歩いてきたという。
そのラントが、夜陰の中で、鍵束を握っていた。
門の向こうには、黒鉄の鎧をまとった兵たちが立っている。
胸元には隣領の紋章――黒い鷲。
ラントは一度だけ振り返り、屋敷の明かりを見た。
「……旦那様」
小さく呟き、鍵を回す。
重い閂が外れ、門が開いた。
冷たい夜気と一緒に、鎧のきしむ音が滑り込んでくる。
「感謝するぞ、ラント殿」
先頭の兵が低く言う。
「これで手柄はお前にも分けてやれる」
「……余計な血は、なるべく流さぬように」
「それは新しい主のご機嫌次第だろう」
くだらない冗談に、誰も笑わなかった。
犬小屋のほうから、短く喉を鳴らす声が聞こえた。
次の瞬間には、それも止んだ。
昼のうちに撒かれていた毒餌が仕事を終えたのだ。
兵たちは声をあげない。
鎧をきしませぬよう足音を抑え、屋敷を包囲するように散っていった。
◇
最初に異変に気づいたのは、父だった。
執務室の窓から外を見ていたウィルヘルムは、闇の中に不自然な影を見た。
歩き方、間合い、空気。
領民ではない。
迎え入れた覚えのない足取りだ。
「……まさか」
腰の杖を取り、廊下へ出る。
床板が重く鳴る。
その音が、今夜の静けさへの最後の警告になれば良かったのに、とジージーは後で何度も思うことになる。
「レオン!」
父の聲が、二階の廊下を揺らした。
「起きろ、武器を取れ! 家が――侵入を受けている!」
レオンの部屋の扉が勢いよく開く。
乱れた髪のまま、兄が飛び出してきた。
寝間着に帯だけ締め、壁に立てかけていた剣をそのまま掴む。
「襲撃ですか?」
「そうだ。裏門から入られた。母上と下の子らを守れ。私は門の確認に――」
言い終わる前に、階下のほうで怒号があがった。
「開けろ!」「抵抗するな!」という声。
兵の靴音、物が倒れる音、女の悲鳴。
父とレオンは、同時に駆け出した。
廊下の角で、父の背中が一瞬だけ見えた。
ジージーは部屋の扉を少しだけ開け、その隙間からその背中を見つめる。
「父さま……」
喉がひりつく。
足が震える。
出なきゃ、行かなきゃ、そう思うのに、身体が動かない。
幼い少女の体躯は、恐怖を受け止めるには小さすぎた。
◇
一階へ続く階段の踊り場で、最初の刃がぶつかった。
父とレオンが下りかけたところに、甲冑を着た兵が三人、槍を構えて立ちふさがる。
「ギルバート準男爵ウィルヘルム殿だな」
先頭の兵が言う。
「我らが主の命により、貴殿の領地を預かりに参った」
「預かる、だと?」
父の声音に怒りよりも冷たいものが混じる。
「正規の勅許もなく、夜半に武装で屋敷を襲うのを、預かるとは言わぬ」
「文は既に王都へ届いている。
弱き領主のもとに民を置くことは、国の損失――とのことだ」
レオンの拳がぎゅっと握り締められた。
「ふざけるな……!」
彼は一歩前に出た。
「父上、ここは私が」
そう言って、剣を抜く。
刀身が階段の灯りを受けて、一瞬だけ白く光った。
「レオン、下がれ」
父が制する。
だがレオンは首を振った。
「私は十五です。ギルバートの名を継ぐ者として、
ここで父上の背中を守らせてください!」
兵たちが鼻で笑う。
「ひよっこが一本、か」
「だが剣を持つなら、子ども扱いはできんな」
槍が一斉に構えられる。
階段は狭く、逃げ場はない。
レオンは深く息を吸い込み、父の前に立った。
ジージーは階上の陰から、その姿を見ていた。
喉に熱いものがこみ上げる。
「レオン兄……」
彼女の足は動かなかった。
体は小さく、呼吸は浅く、心臓ばかりがやたらとうるさい。
(息を整えろ。ひと息、一拍――)
頭のどこかで、前世の師の声がした。
だがここで息を整えるのは、ジージーではなくレオンだ。
「レオン!」
父の呼ぶ声を背中で受けて、兄は駆けた。
一歩――。
剣を構え、斜めからの槍を受け流そうとする。
だが相手は大人の兵。重い鎧と訓練された腕力。
レオンの剣は槍の柄に弾かれ、姿勢がぐらりと崩れた。
二歩――。
別の槍が、横から走る。
ジージーの世界が、そこで割れた。
「レオン兄!!」
叫びより早く、槍の穂先が兄の脇腹を貫いた。
肉を裂く鈍い音。
階段の石段に、ぶしゅ、と濃い液体が散る。
レオンの口から、息とも声ともつかぬ音が漏れた。
剣が手から滑り落ち、階段を転がる。
兄の身体が、ゆっくりと後ろへ倒れた。
「レオン!!」
父が叫び、腕を伸ばす。
だが支えきれず、兄は半身を階段に打ちつけ、そのまま転がり落ちる。
血が、ふたりの間に線を引いた。
ジージーは階段の上から、それを見下ろしていた。
視界がぐにゃりと歪む。
足の裏から冷たさがせり上がり、喉に塩辛い何かが込み上げる。
レオンの目が、かすかに動いた。
血の中に転がった顔が、こちらを見上げる。
「……ジー……」
声が、ひどく遠い。
それでも、彼女の名を呼んだ。
「泣く……な……ジー……
守れ……なかった……すま……な……」
その言葉が終わる前に、兄の瞳から光が消えた。
剣を握っていた手がだらりと垂れ、鈍い音を立てて石段に落ちる。
「やめろ……やめて……やめてよ……」
ジージーは膝から崩れ落ちそうになる身体を、必死に扉の枠で支えた。
声が出ない。
息もできない。
胸の中で、何かがばきんと折れる音がした。
◇
そこから先は、音だけが鮮明だった。
誰かが「火を持て!」と叫ぶ声。
布が燃え上がる音。
木がはぜる音。
女たちの悲鳴。
子どもたちの泣き声。
父の怒号。
「下がれ! 門を閉じろ!」
「民を傷つけるな! 敵は我だ!」
そして――背中から肉を裂く音。
ウィルヘルムが兵を押し返しながら玄関広間へ出たとき、
すでにラントがそこにいた。
肩で息をする主の背後に、静かに歩み寄る。
「ラント、お前……」
振り返るより早く、刃が背中に突き立てられた。
肺に冷たい鉄が流れ込む感覚。
足元から力が抜ける。
「……ラント……?」
「申し訳ありません、旦那様」
ラントはどこか淡々とした声で言った。
「時代が変わるのです。弱い方につく家臣など、どこにもおりませんよ」
父は、怒りより先に哀しみの顔をした。
「弱い……か。
ああ……そうかもしれんな……
私は……領民を守ることしか……考えられなかった」
血が口元から溢れ、言葉を濁す。
それでも、父はラントを責めなかった。
ただ、遠く階段の上を見た。
そこには、震えるジージーの影があった。
「……ジージー……」
その名を呼びながら、父は片膝をつく。
杖が床に転がり、がらん、と乾いた音を立てた。
「守れず……すまない……
どうか……静けさの……音を……忘れ……るな……」
そのまま、ウィルヘルム・ギルバートは動かなくなった。
◇
屋敷に火が回るのは、早かった。
壁にかけられたタペストリーが燃え、
木製の梁に火が移る。
煙が廊下に溜まり、視界が白灰色に曇る。
子ども部屋の扉が乱暴に開かれ、兵が雪崩れ込んだ。
まだ小さな弟たち、妹たちが布団から引きずり出される。
「やめて! どこに連れて行くの!?」
母ミリアが飛びつき、兵の腕を掴む。
頬に煤が付き、髪は乱れ、それでも目は鋭い。
「子どもたちに触らないで!
私はどうなってもいいから――!」
「価値ある商品だ。粗末には扱わんよ」
兵のひとりが、嘲るように笑って拳を振るった。
鈍い音。
ミリアの身体が壁に叩きつけられ、そのままずるずると床に崩れ落ちる。
「母さま!」
ジージーが駆け寄ろうとした瞬間、別の兵に腕を掴まれた。
細い手首に、粗い指が食い込む。
「放して! 放してってば!」
もがいても、力はまるで足りない。
少女の筋力は、鎧の男の腕に逆らえるほどには強くない。
足をばたつかせても、地面を擦るだけだった。
「暴れるな。高く売れる顔に傷がつくだろうが」
兵が舌打ちする。
ジージーの頬に涙が滲む。
床に倒れたままの母が、手を伸ばした。
震える指が、ジージーの手先をかすめる。
「……ジー……」
かすれた声が、煙の中で揺れた。
「母さま! 行かないで……起きてよ! 一緒に逃げようよ!」
ジージーは必死に叫ぶ。
兵の腕の中でもがき、けれど抜け出せない。
母の手を掴もうとするが、指先はわずかに触れるだけで、届かない。
ミリアは、娘の髪を探るように指を動かした。
黒髪に触れ、その柔らかさを確かめる。
女の子の髪だ、と微笑む。
「……泣かないで……ジージー……」
視界がぼやけているのか、涙で滲んでいるのか、自分でも分からない。
それでも、母は笑おうとした。
「あなたは……風……
風は……誰も……殺さない……」
胸が痛いほど締めつけられる。
そんなこと、今はどうでもいいのに。
父も兄も、もういないのに。
「あなたは……扉……
二鈴が……守って……くれる……」
ミリアの指が、娘の頬をなぞる。
転生してから少しずつ女の子になっていった身体。
母はきっと、全部分かっていた。
「……愛してるわ……ジージー……」
その囁きと同時に、彼女の腕から力が抜けた。
瞳が、静かに閉じられる。
ジージーの叫び声は、炎と煙に呑まれていった。
◇
それから先は、ひどく乱暴で、ひどく簡単だった。
兄弟たちは、年齢で分けられた。
上の兄は鉱山行きの“労働力”として、
幼い妹たちは“高値の品”として奴隷商人に引き渡される。
ジージーもまた、鎖をかけられた。
手首。足首。
細い骨の上に冷たい鉄が食い込む。
「離せ! 離してよ! 兄さんと母さまを返せ!!」
叫んでも、兵たちの表情は変わらない。
レオンの剣は、血に濡れたまま階段の途中に放置されている。
父の杖は、玄関広間の床で転がり、炎に照らされていた。
誰もそれを拾わない。
「こいつは別だ」
荷車の前で、ひとりの男がジージーを覗き込んだ。
砂色の衣をまとい、目だけを布で隠している。
声には砂を噛むような訛りがあった。
「目がいい。骨もいい。……何より――匂う。
魔力の匂いがする」
「では、そいつはあんたのものだ。金は払えるな?」
「ああ、たっぷりとな」
男は笑い、ジージーの顎を指で持ち上げた。
泣きはらした赤い目を見ても、表情は崩れない。
「よく泣く目だ。
……いいか、小娘。ここから先、お前は“商品”だ。
泣くのも笑うのも、売る側の自由ってことだ」
ジージーは、その指を噛みつきたい衝動に駆られた。
けれど、噛んだところで何が変わるわけでもない。
それくらいは、戦場を見る前から知ってしまった。
(あたしは……何も、止められなかった)
レオンも、父も、母も。
誰も守れなかった。
ひとつの拍も、風を通せなかった。
(だったら……)
荷車に放り込まれる瞬間、ジージーは硬く唇を噛みしめた。
血の味がした。
あの日、モールで感じた血の味と同じだった。
(だったら……今度は……止められる力が欲しい)
目を閉じる。
まぶたの裏に、炎に包まれた屋敷と、兄の笑顔と、父の背中と、母の手の温もりが並んでいく。
涙は、もう出なかった。
泣いたところで、何も変わらないことを、子どものくせに知ってしまった。
荷車が軋みながら動き出す。
屋敷が、遠ざかる。
二鈴が、風に揺れた。
チ……リ……。
音は、完全に濁っていた。
静けさの扉は、乱暴にこじ開けられ、蝶番だけが悲鳴のような音を残している。
(静けさは……扉……)
母と師が同じように言った言葉が、胸の中でひっそりと反芻される。
(……なら、いつか……
誰も、あんな音を出さなくて済むように――)
荷車は闇の中へ消えていく。
炎と煙が、ギルバート家の最後の夜を空へ押し上げる。
星はただ見下ろし、何も言わない。
その夜、ひとりの少女だけが生き残った。
何も守れなかった、柔術家の魂を抱えたまま。
【後書き】
この「裏切りの夜」で、ジージーは初めて思い知ります。
「柔術は“止める”武だけれど、
そもそも立てる場所にいなければ、何もできない」
幼い身体、圧倒的な戦力差、
そして“内側からの裏切り”。
この三つの条件が揃ったとき、どれほど技を磨いていても、どうしようもない場面がある。
だからこそ、彼女は後にこう考えるようになります。
「強い奴だけが生きて、弱い奴が踏み潰される世界なら、
“止められる強さ”を持つ奴がいなきゃダメだ。」
この夜の無力感と喪失感が、
後の「非致死・ほどほど」の背骨になります。
殺さないために戦うのではなく、
“殺さなくても済むほどの技術と覚悟”を持つために戦う。
その道のりは、まだ始まったばかりです。
次は、奴隷として連れ出された先――砂漠での物語へ続きます。




