表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Staff Hero ― 支える勇者 ―  作者: 和泉發仙


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

14/242

『杖の勇者ジージー』第13話 谷間の焚き火と、青い獅子の旗

【前書き】


蠍鍋の夜に、ジージーは故郷の旗の名を聞きました。

――エルビアンヌ王国。


かつて家族を奪われた国の名が、砂漠の真ん中でふたたび現れる。

サンドイーグル隊にとっても、ジージーにとっても、

「ただの砂漠のレジスタンス」ではいられなくなる夜明けです。


今回は、戦闘ではなく“見に行く話”。

谷間の焚き火と、そのそばに立つ男たちの会話が、

この先の悲劇の種になります。




 夢を見ていた。


 石造りの廊下。

 赤い絨毯。

 家令の古い声。


「ジョージア様、こちらへ。

 旦那様がお待ちです」


 子どものころの自分が、

 まだ何も知らない顔で歩いていく。


 扉が開く。

 父がいる。

 母がいる。

 兄が笑っている。


 その笑顔が、次の瞬間、

 血と火に塗り潰された。


 槍の列が庭を埋め、

 「反逆」の声が響く。


 兄が斬られる。

 父が刺される。

 母が引きずられる。


 そして、青い獅子の紋章が、

 炎の向こうでひらひらと揺れていた。


「――っ!」


 ジージーは跳ね起きた。


 喉が焼けるように痛い。

 息が荒い。

 毛布の中は汗でぐっしょりだった。


 外はまだ暗い。

 夜明け前、空がわずかに白み始めるころ。


「……っは……はぁ……」


 胸に手を当てる。

 心臓が、暴れるように打っていた。


 耳の奥に、さっきの声がまだ残っている。


(エルビアンヌ……)


 昨夜、斥候が告げた名。

 青い獅子の紋章。

 国境でしか見たことのない旗。


 それが、砂漠の向こうにあるという。


 布団をかき分ける音に、

 隣で寝ていたサルーシャが目を擦りながら顔を上げた。


「……ジージーちゃん?」


「あ、ごめん。起こした」


「ううん。悪い顔してる」


 彼女は半分寝ぼけたまま、

 ジージーの額に手を当てた。


「熱はないけど……心臓バクバクしてるでしょ」


「なんでわかるの」


「血の匂いがする」


「怖いこと言わないで」


 サルーシャは小さく笑って、

 毛布を少し整えた。


「……夢?」


「うん。ちょっと」


「故郷の?」


 ジージーは答えられなかった。

 代わりに、強く唇を噛む。


 サルーシャは、それ以上は踏み込まなかった。


「……ひとつだけ言っていい?」


「なに」


「怖いのは、悪いことじゃないよ。

 怖さを知ってる人は、

 『怖いって言えない人』よりずっと強いから」


「……そうかな」


「そうだよ」


 彼女は立ち上がると、そっと焚き火のほうへ向かった。


「顔を洗いなさい。

 砂漠の朝は冷たいから、少しは目が覚める」


「……うん」


 テントの隙間から外に出ると、

 薄い青の空に、最後の星がまだ残っていた。


 冷たい空気を吸い込む。

 胸のざわめきが、少しだけ落ち着く。


(エルビアンヌ……)


 木杖の感触を確かめるように握りしめ、

 ジージーは、まだ暗い砂地を踏みしめた。



 夜明け前の薄闇の中、

 エイリアスはすでに起きていた。


 隊の中央付近。

 地図代わりの粗い羊皮紙を広げ、

 石で四隅を押さえている。


 セルグレン、リース、モハン、

 それに若い隊員が二人、周囲を囲んでいた。


「……谷間の位置はここ。

 昨夜の報告によれば、焚き火の数は三つ。

 隊列から見て、おそらく二十から三十人規模だ」


 エイリアスは砂に指で線を引いた。


「戦うためじゃない。

 今日は偵察だ。

 近づいて、何者かを見極める。

 できるだけ相手に気づかれずに戻る」


 セルグレンが頷く。


「斥候は誰を出す?」


「セル、リース、ライル、それから……」


 そこまで聞いて、

 ジージーは思わず前に出てしまった。


「隊長!」


 四人の視線が一斉にこちらに向く。


「……あたしも、行かせてください」


 自分でも、声が震えているのがわかる。

 それでも、一歩も引かなかった。


「エルビアンヌの旗……なんですよね。

 ここから先にいるのは」


「ああ」


 エイリアスは認めた。


「でも、それとお前を偵察に出すかどうかは別だ」


「――故郷のことだから、ですか」


「その通りだ」


 あっさりと言われて、

 ジージーの胸に苛立ちが込み上げる。


「……あたし、足手まといにはなりません」


「そういう話でもねぇ」


 口を挟んだのはセルグレンだった。


 彼は腕を組み、

 じっとジージーを見下ろす。


「昨日の戦い、お前が尻尾を逸らしたのは大したもんだ。

 だからこそ、今のお前は戦場に出せねぇ」


「どういう意味?」


「心がぐちゃぐちゃのまま、刃の届くところに出すわけにいかねぇってことだ」


 セルグレンの声は荒いが、

 そこに嘲りの影はなかった。


「お前、自分でわかってんだろ。

 今、何を見てる」


「……」


「砂漠か? 谷か? 敵か?

 ――それとも、“昔の屋敷”か」


 呼吸が、一瞬止まった。


 図星だった。


 さっきまで、

 夢の中の屋敷の廊下を歩いていた。


「心が前じゃなく、過去を見てる奴は、

 足が遅れる。

 遅れた足は、味方を巻き込む」


 セルグレンは、

 少しだけ声を落とした。


「お前に死なれたくねぇ。

 それだけだ」


「……隊長も同じ意見?」


 ジージーは、

 エイリアスを見た。


 エイリアスは短く息を吐いた。


「心が揺れてる奴は、戦場に出すな。

 それは俺の決まりだ」


「でも――」


「ジージー」


 初めて名を、はっきりと呼ばれた気がした。


 エイリアスの瞳は、

 焚き火の残り火のような色をしている。


「お前はここで待て。

 これは命令だ」


 喉まで出かかった言葉が、

 その一言に押し戻された。


 悔しい。

 納得したくない。

 でも――


(……隊長は、あたしを“守ろう”としてくれている)


 それが、

 痛いほど伝わってきた。


「……了解です」


 ジージーは、

 ぎゅっと拳を握りしめた。


「戻ってきたら、全部話す。

 だから、待ってろ。

 逃げ出したりするな」


「しませんよ」


 ようやく、少しだけ笑えた。


「ここ、蠍鍋が出る隊ですから」


「そうだ。うまいだろうが」


 モハンが横から無表情で口を挟む。


「次はもっと旨くする。

 だから、生きて戻る」


「……はい。待ってます」


 偵察組が出発の準備を始める。


 セルグレンは長槍ではなく、短い槍と短剣。

 リースは弓に加えてナイフを二本。

 若い隊員ライルは、軽い革鎧と短弓。


 ジージーは見送りの列に混じりながら、

 胸の奥のざわめきを押さえつけた。


(隊長は間違ってない。

 今のあたしが行ったら、きっと迷う。

 それはわかる)


 わかるのに――

 足だけが、彼らを追いかけたがっていた。



 偵察組が砂丘の向こうに消えていったあと、

 ジージーは自分の居場所をうまく見つけられなかった。


 サルーシャは負傷者の様子を見に行っている。

 モハンは食器と鍋の片付け。

 別の隊員たちは、荷物の整理やラクダの世話をしていた。


(何か、手伝えばいいんだろうけど)


 落ち着かない。

 じっとしていると、

 さっきの夢の続きが脳裏に浮かびそうになる。


「ちょっと、歩いてくる」


 誰にともなく言って、

 ジージーは杖をついて歩き出した。


 隊からそう遠くない砂丘の上。

 見張りの邪魔にならない程度の場所。


 そこからなら、

 谷のある方角も、かろうじて見えた。


 風が吹く。

 砂が少しだけ舞う。


 足裏に意識を落とし、

 セルグレンに教わった“砂漠の乗り方”を試す。


(土踏まず、指先。

 深く踏まない)


 それを繰り返していると――

 少しだけ頭が静かになる。


 耳を澄ますと、

 遠くでラクダの鳴き声。

 隊員たちの笑い声。

 その合間に、微かな別の音が混じった。


(……足音?)


 砂を踏む、複数の音。

 ジージーは思わず、耳をそばだてた。


 やがて、

 谷のほうから、

 低い声が風に乗って届いてくる。


 完全には聞き取れない。

 だが――

 間違いなく、セルグレンたちの声だ。


(もう戻ってきた?)


 そう思って足を下ろしかけたとき、

 別の声が混じった。


 聞き慣れない、ねっとりとした声。


「――ですからねぇ、

 あまり手加減なさらないほうがよろしいのですよ、隊長殿」


 ジージーははっとして身を低くした。


 砂丘の斜面を少し下ると、

 風の流れの関係か、

 声が少しだけはっきり聞こえる位置があった。


 そこから覗き込むと、

 砂丘の影になった浅い谷の縁が見えた。


 岩陰に、セルグレンとリース、ライルが身を潜めている。

 さらにその先、谷間の底には、

 小さな焚き火が三つ。


 火の周りに、

 エルビアンヌ式の軍服を着た兵士たちが十数人。

 鎧は比較的新しく、剣も槍も磨かれている。


 ――だが。


(……なんか、変だ)


 ジージーは無意識に眉をひそめた。


 兵士たちの動きが――ぎこちない。

 腰の重心の置き方が浅く、

 槍の持ち方にも迷いがある。


(本当の兵隊なら、もっと“身に染みてる”動きをする)


 前世でジム仲間から聞いた話を思い出した。

 プロと素人の足運びの違い。

 当たり前のように立っている姿勢。


 この兵士たちからは、その“当たり前”が感じられない。


 焚き火のそば。

 一際だらしない体つきの男が、

 どっかりと腰を下ろしていた。


 しちさん分けの髪は脂ぎって、

 額から後頭部にかけてM字に薄くなっている。

 頬はたるみ、顎は二重。

 癖のある鷲鼻、その下に分厚い唇。

 ギョロリとした目だけが妙に落ち着かず動いている。


「……あいつか」


 岩陰からセルグレンの低い声が聞こえた。


「あのデブが“頭”だな。

 槍の持ち方も歩き方もなっちゃいねぇのに、

 真ん中に座って命令してやがる」


「隊長……かな?」


 ライルが小声で問う。


 リースが首を横に振った。


「エルビアンヌの正規軍の隊長が、

 あんなひどい飼い方された腹してるわけないでしょ」


「じゃあ、何者だ」


「“別のところ”から来た連中だよ」


 モハンの声だ。


 気づけば、いつの間にか彼も岩陰に加わっていた。


「刃物は新品。

 鎧も靴も新しい。

 でも身体は鍛えられていない。

 ――つまり、“後から武器だけ持たされた人間たち”だ」


「誰に?」


「知らねぇ。

 だが、あのでぶ……ただの商人には見えねぇな」


 谷底では、そのデブがゆっくりと立ち上がり、

 周囲の兵士たちを見渡していた。


「諸君ぃ」


 ねっとりした声が、谷に響く。


「“国家平和理事会”は、

 諸君の働きに大いに期待しておる。

 この辺りの村々は、まだ“処理”が済んでいない」


(……国家、平和、理事会?)


 ジージーは耳を疑った。


 聞いたことのない言葉。

 しかし、その組み合わせが持つ響きは――不気味なほど甘い。


「抵抗する村は焼き払って構わん。

 家畜も畑も、根こそぎだ。

 女と子どもは、縛って引き立てよ。

 “上”が望んでおられる」


「“上”って……大臣様ですか?」


 若い兵士の一人が、おずおずと尋ねる。


 デブは、

 ギョロ目を細めて笑った。


「違うよぉ。

 もっと、もっと上さ」


 唇の端から、

 ぬるりとした笑みがこぼれる。


「我らの理事会の、さらに上――

 “北の御方”に捧げるのだ。

 諸君は誇ってよろしい。

 人の世を正しく作り替えるための、立派な“釘”になるのだからねぇ」


 兵士たちは、

 その意味を理解していないようだった。


 ざわ、と小さなどよめき。

 しかし誰も、

 はっきりと疑問を口にしようとはしない。


「……くそったれが」


 岩陰で、セルグレンが小さく吐き捨てた。


「ああいう“耳触りのいいこと”を言う奴が、

 いつも一番遠くで笑ってやがる」


「どうする、隊長」


 リースが、エイリアスを振り向く。


 ジージーは、その瞬間になって初めて、

 エイリアスもそこにいることに気づいた。


 岩に背を預け、

 じっと谷を見下ろしている。


「……今は手を出さねぇ」


 短く答えが返る。


「数が多い。

 たしかに動きは素人のそれだが、

 背後にいる連中は素人じゃねぇ」


「でもほっといたら――」


「ほっとけねぇから見てる。

 今はまだ“目”だけだ。

 ここでぶつかれば、

 サンドイーグルが潰される」


 リースが唇を噛む。


「いつもそうだね。

 “でかい連中”が何かやらかして、

 こっちが被害を受ける」


「それが砂漠だ」


 モハンが言った。


「上を見るな。

 見たところで、届かねぇ」


「届かないのに、命令は落ちてくる」


 セルグレンが肩を竦めた。


「……そして、死ぬのはいつも“下のほう”だ」


 ジージーは、

 砂丘の影で膝を抱えた。


(……あたしの家も)


 昔、庭に来た“偉そうな人たち”のことを思い出す。

 父が浮かべた、あの曖昧な笑み。

 母の緊張した横顔。

 兄の目の奥にあった怒り。


(あのときも、“上のほう”で何かが決まってたんだろうか)


 谷底のデブが、

 再び口を開く。


「では諸君。

 まずはこの一帯の“査察”だ。

 反逆の芽は早めに摘まねばならん。

 なに、恐れることはない。

 我らには理事会の後ろ盾がある」


 言葉の意味が、ひとつ、ひとつ、

 ジージーの中に重く落ちてくる。


(反逆……査察……)


 耳の奥で、

 別の日の叫びが重なった。


『反逆の疑いあり!

 ルーデンリッヒ子爵家を取り押さえよ!』


 兄が立ち上がる。

 剣を抜く。

 次の瞬間、背後から槍に貫かれる。


(……っ)


 吐き気が込み上げた。


 砂の匂い。

 焚き火の煙。

 蠍鍋の残り香。


 全部が混ざって、

 胸の中でぐちゃぐちゃになる。


 ジージーは堪らず、

 砂丘の影から少し離れた場所へよろめいた。


 跪き、

 喉の奥に溜まったものを吐き出す。


「っ……げほっ……」


 酸っぱい胃の中身が、

 砂にじゅっと吸い込まれていく。


「大丈夫?」


 背中に手が乗った。


 振り向くと、

 サルーシャがいた。


「……なんでここに」


「ジージーちゃんが“ちょっと歩いてくる”って言ったの、

 顔が真っ青だったからね。

 こっそりついてきた」


「ストーカーだよ、それ」


「医者ってそういうものでしょ?」


 サルーシャは微笑んで、

 ジージーの背中をゆっくりとさすった。


「見たんでしょ。

 聞いたんでしょ」


「……うん」


 声がかすれる。


「あたしの国の旗。

 あたしの家を、

 “反逆”って決めつけたのと同じような連中が、

 ここでも……」


 言葉がうまく出てこない。

 喉が詰まる。


「吐いちゃいなさい。

 それ全部、飲み込んでたら、

 お腹の中が腐るよ」


「もう吐いたよ……」


「言葉の話」


 サルーシャは、

 少し離れた谷のほうを見やりながら言った。


「怖い? 悔しい? 腹が立つ?

 どれ?」


「……ぜんぶ」


 ようやく、それだけ言えた。


「怖いし、悔しいし、腹が立つ。

 何もできなかった自分も嫌だし、

 今ここで見てるだけなのも嫌だし……」


「うん」


 サルーシャは否定しなかった。


「そうだよね。

 そう思うの、当たり前だよ」


「当たり前……?」


「そう。

 当たり前のことがちゃんと“当たり前に”思える人は、

 あたしは好きだよ」


 サルーシャの手が、

 背中から肩へ移る。


「怖がるのも、悔しがるのも、

 全部、ジージーちゃんの“力”になる。

 今はまだ足を引っ張るかもしれないけどね」


「……いつか、足を押してくれる?」


「きっとね」


 彼女は軽く笑った。


「だって、

 “止めるために戦いたい”なんて言う子だもの。

その子が、“誰をどう止めるか”を決めるには、

 いっぱい痛い思いをしないと」


「……それ、慰めになってる?」


「なってる。少なくとも私は、そう思う」


 ジージーは、

 ぐしゃぐしゃの顔のまま、

 かろうじて笑った。



 偵察から戻ってきたのは、

 それからしばらく経ってからだった。


 エイリアスたちは、

 余計な足音を立てずに隊に戻り、

 すぐに幹部だけを集めて話を始めた。


 ジージーは、

 少し離れた場所からその様子を見る。


 セルグレンが、

 ふとこちらに気づいて近づいてきた。


「……聞いてたな」


「どこまで?」


「谷にいた連中のこと。

 “理事会”とやらのこと」


 ジージーは視線をそらせなかった。


「ごめんなさい。命令、破って」


「命令破ったのは“偵察についてくるな”だ。

 お前は“遠くから見てただけ”だから、

 今回は目をつぶる」


「甘いですね」


「甘くしてんだよ。

 あんまり締め付けると折れる」


 セルグレンは、

 砂の上にドン、と腰を下ろした。


「吐いたか?」


「……見てました?」


「音でわかる」


 ジージーは苦笑した。


「最悪だよ。

 蠍鍋が台無し」


「別にいいじゃねぇか。

 また獲ればいい」


 さらりと言われて、

 少しだけ肩の力が抜けた。


「隊長はどうするつもり?」


「今はやり過ごす。

 決定だ」


 セルグレンは空を見上げた。


「正直なところ、俺もそうする他ねぇと思ってる。

 あいつらの背後にいる“何か”に喧嘩売るには、

 砂漠のレジスタンスは小さすぎる」


「……悔しくない?」


「悔しいさ。

 でも、“悔しいから今殴る”ってやってたら、

 ここにいる全員、一週間もたねぇ」


 セルグレンは、

 手のひらで砂をすくい上げた。


「砂漠の戦いはな、

 “今”じゃなく、“いつ殴るか”なんだよ」


「いつ……」


「乾いたときか、

 濡れたときか、

 風が吹いたときか。

 砂が動く瞬間を待てる奴だけが、

 生き残る」


 砂が指の間からこぼれ落ちていく。


「ジージー」


「なに」


「お前が泣くのは、今じゃねぇ」


 その言葉は、

 優しいのに、少しだけ残酷だった。


「泣きたいなら、

 俺たちの後ろで泣け。

 前に出てるときに泣く奴は、死ぬ」


「……わかってる。

 わかってるけど」


「わかってねぇ顔だ」


 セルグレンは伸びをして立ち上がる。


「いつか、“殴っていいとき”が来る。

 そのときに、ちゃんと殴れるように、

 今は足を作っとけ」


「足……」


「そうだ。

 逃げるにも、追うにも、殴るにも、

 足がなきゃ話にならねぇ」


 彼は、

 ほんのわずかに笑った。


「そのとき一緒に殴りてぇなら、

 ちゃんとついてこい。

 砂漠の足の使い方、教えてやる」


 胸の奥に、

 小さな火が灯る。


(セルと一緒に、殴れる日が来る……?)


 それが、

 遠い未来のことだとしても。


「……約束ね」


 ジージーは立ち上がった。


「ちゃんと生き残って、

 “殴っていいとき”まで、一緒に行こう」


「おう。

 約束だ」


 セルグレンの掌が、

 ジージーの掌と軽く打ち合わされる。


 砂の乾いた音が、

 短く、心地よく鳴った。


 ――その約束が、

 この先どれほど重くなるのかを、

 このときのジージーは、まだ知らない。


 砂漠の上に、

 青い獅子の旗が、静かに揺れていた。⸻


【後書き】


 今回のエピソードは、戦いの音が一切鳴らないのに、

 いちばん“胸の奥がざわつく章”になったと思います。


 蠍鍋の夜、ただの雑談に紛れ込むように出てきた――エルビアンヌ王国。

 ジージーにとっては「忘れたいのに、忘れられない名前」であり、

 サンドイーグル隊にとっては「今までと少し違う砂の流れの始まり」。

 読者の皆さまにとっては「何か不穏なものの影」が、

 ようやく手触りを持ち始めた回だったはずです。



■“見に行く”だけの描写が、なぜこんなに重いのか


 今回は剣も槍も振るわれていません。

 敵と味方が真正面からぶつかるシーンもありません。


 あるのは、谷の焚き火を囲んだ“奇妙な兵たち”と、

 その中心に座る、ねっとりした声の男。


 そして彼らが口にした

 「国家平和理事会」

 「反逆の芽」

 「北の御方」


 派手な戦闘よりも、

 こういう“名前だけが先に歩いてくる不気味さ”のほうが、

 砂漠ではよほど恐ろしい。


 ジージーが吐いてしまったのは、

 気持ちの弱さではなく、

 聞こえてきた響きの奥に、

 “あの日の屋敷の焼け焦げた匂い”が混ざっていたからです。



■ジージーを止めたのは、情ではなく「戦場の理」


 エイリアスも、セルグレンも、

 ジージーを否定したわけではありません。


 むしろ逆で、

 「今のお前を前に出すのは、死なせることになる」

 という、非常に現実的な判断です。


 心が過去を見ているとき、

 足は必ず遅れます。

 遅れた足は、自分だけでなく仲間を殺す。


 ――その事実を、砂漠は決して甘く見逃さない。


 でも彼らは、突き放しながらも、

 しっかり“戻ってこい”と声をかける。


 あの一言で、

 どれだけジージーの足が地面に戻ったか。



■「いつ殴るか」を選ぶ世界


 セルグレンが言った言葉――


「砂漠の戦いは、“今”じゃなく、“いつ殴るか”なんだ」


 この一文に、サンドイーグル隊の生き方がすべて詰まっています。


 殴りたいから殴るのではなく、

 殴っていい“風が吹く時”まで待つ。


 その遅さは、臆病ではなく、

 生き延びる知恵です。


 そしてジージーは、

 まだその“風”の読み方を知らない。


 だから今回の彼女は、

 悔しさ・恐怖・怒り、

 全部を“飲み込んでしまった”。


 サルーシャに背中をさすられながら吐いたのは、

 感情ではなく――その“飲み込みすぎ”です。



■この章の核心:「いつか殴るために、今は足を作る」


 彼女はまだ、戦場に立てない。

 でも今日の叫びは、

 彼女の“未来の戦い”に確実につながる種になります。


 セルグレンが差し出した掌と、

 軽く打ち合わされたあの音。


 あれはただの約束ではなく――


「同じ場所で殴る日を、共に迎えよう」


 という宣言です。


 そしてその約束が、

 この先どれほど重い意味を持つかを、

 まだ誰も知らない。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ