『杖の勇者ジージー』第13話 谷間の焚き火と、青い獅子の旗
【前書き】
蠍鍋の夜に、ジージーは故郷の旗の名を聞きました。
――エルビアンヌ王国。
かつて家族を奪われた国の名が、砂漠の真ん中でふたたび現れる。
サンドイーグル隊にとっても、ジージーにとっても、
「ただの砂漠のレジスタンス」ではいられなくなる夜明けです。
今回は、戦闘ではなく“見に行く話”。
谷間の焚き火と、そのそばに立つ男たちの会話が、
この先の悲劇の種になります。
⸻
夢を見ていた。
石造りの廊下。
赤い絨毯。
家令の古い声。
「ジョージア様、こちらへ。
旦那様がお待ちです」
子どものころの自分が、
まだ何も知らない顔で歩いていく。
扉が開く。
父がいる。
母がいる。
兄が笑っている。
その笑顔が、次の瞬間、
血と火に塗り潰された。
槍の列が庭を埋め、
「反逆」の声が響く。
兄が斬られる。
父が刺される。
母が引きずられる。
そして、青い獅子の紋章が、
炎の向こうでひらひらと揺れていた。
「――っ!」
ジージーは跳ね起きた。
喉が焼けるように痛い。
息が荒い。
毛布の中は汗でぐっしょりだった。
外はまだ暗い。
夜明け前、空がわずかに白み始めるころ。
「……っは……はぁ……」
胸に手を当てる。
心臓が、暴れるように打っていた。
耳の奥に、さっきの声がまだ残っている。
(エルビアンヌ……)
昨夜、斥候が告げた名。
青い獅子の紋章。
国境でしか見たことのない旗。
それが、砂漠の向こうにあるという。
布団をかき分ける音に、
隣で寝ていたサルーシャが目を擦りながら顔を上げた。
「……ジージーちゃん?」
「あ、ごめん。起こした」
「ううん。悪い顔してる」
彼女は半分寝ぼけたまま、
ジージーの額に手を当てた。
「熱はないけど……心臓バクバクしてるでしょ」
「なんでわかるの」
「血の匂いがする」
「怖いこと言わないで」
サルーシャは小さく笑って、
毛布を少し整えた。
「……夢?」
「うん。ちょっと」
「故郷の?」
ジージーは答えられなかった。
代わりに、強く唇を噛む。
サルーシャは、それ以上は踏み込まなかった。
「……ひとつだけ言っていい?」
「なに」
「怖いのは、悪いことじゃないよ。
怖さを知ってる人は、
『怖いって言えない人』よりずっと強いから」
「……そうかな」
「そうだよ」
彼女は立ち上がると、そっと焚き火のほうへ向かった。
「顔を洗いなさい。
砂漠の朝は冷たいから、少しは目が覚める」
「……うん」
テントの隙間から外に出ると、
薄い青の空に、最後の星がまだ残っていた。
冷たい空気を吸い込む。
胸のざわめきが、少しだけ落ち着く。
(エルビアンヌ……)
木杖の感触を確かめるように握りしめ、
ジージーは、まだ暗い砂地を踏みしめた。
⸻
夜明け前の薄闇の中、
エイリアスはすでに起きていた。
隊の中央付近。
地図代わりの粗い羊皮紙を広げ、
石で四隅を押さえている。
セルグレン、リース、モハン、
それに若い隊員が二人、周囲を囲んでいた。
「……谷間の位置はここ。
昨夜の報告によれば、焚き火の数は三つ。
隊列から見て、おそらく二十から三十人規模だ」
エイリアスは砂に指で線を引いた。
「戦うためじゃない。
今日は偵察だ。
近づいて、何者かを見極める。
できるだけ相手に気づかれずに戻る」
セルグレンが頷く。
「斥候は誰を出す?」
「セル、リース、ライル、それから……」
そこまで聞いて、
ジージーは思わず前に出てしまった。
「隊長!」
四人の視線が一斉にこちらに向く。
「……あたしも、行かせてください」
自分でも、声が震えているのがわかる。
それでも、一歩も引かなかった。
「エルビアンヌの旗……なんですよね。
ここから先にいるのは」
「ああ」
エイリアスは認めた。
「でも、それとお前を偵察に出すかどうかは別だ」
「――故郷のことだから、ですか」
「その通りだ」
あっさりと言われて、
ジージーの胸に苛立ちが込み上げる。
「……あたし、足手まといにはなりません」
「そういう話でもねぇ」
口を挟んだのはセルグレンだった。
彼は腕を組み、
じっとジージーを見下ろす。
「昨日の戦い、お前が尻尾を逸らしたのは大したもんだ。
だからこそ、今のお前は戦場に出せねぇ」
「どういう意味?」
「心がぐちゃぐちゃのまま、刃の届くところに出すわけにいかねぇってことだ」
セルグレンの声は荒いが、
そこに嘲りの影はなかった。
「お前、自分でわかってんだろ。
今、何を見てる」
「……」
「砂漠か? 谷か? 敵か?
――それとも、“昔の屋敷”か」
呼吸が、一瞬止まった。
図星だった。
さっきまで、
夢の中の屋敷の廊下を歩いていた。
「心が前じゃなく、過去を見てる奴は、
足が遅れる。
遅れた足は、味方を巻き込む」
セルグレンは、
少しだけ声を落とした。
「お前に死なれたくねぇ。
それだけだ」
「……隊長も同じ意見?」
ジージーは、
エイリアスを見た。
エイリアスは短く息を吐いた。
「心が揺れてる奴は、戦場に出すな。
それは俺の決まりだ」
「でも――」
「ジージー」
初めて名を、はっきりと呼ばれた気がした。
エイリアスの瞳は、
焚き火の残り火のような色をしている。
「お前はここで待て。
これは命令だ」
喉まで出かかった言葉が、
その一言に押し戻された。
悔しい。
納得したくない。
でも――
(……隊長は、あたしを“守ろう”としてくれている)
それが、
痛いほど伝わってきた。
「……了解です」
ジージーは、
ぎゅっと拳を握りしめた。
「戻ってきたら、全部話す。
だから、待ってろ。
逃げ出したりするな」
「しませんよ」
ようやく、少しだけ笑えた。
「ここ、蠍鍋が出る隊ですから」
「そうだ。うまいだろうが」
モハンが横から無表情で口を挟む。
「次はもっと旨くする。
だから、生きて戻る」
「……はい。待ってます」
偵察組が出発の準備を始める。
セルグレンは長槍ではなく、短い槍と短剣。
リースは弓に加えてナイフを二本。
若い隊員ライルは、軽い革鎧と短弓。
ジージーは見送りの列に混じりながら、
胸の奥のざわめきを押さえつけた。
(隊長は間違ってない。
今のあたしが行ったら、きっと迷う。
それはわかる)
わかるのに――
足だけが、彼らを追いかけたがっていた。
⸻
偵察組が砂丘の向こうに消えていったあと、
ジージーは自分の居場所をうまく見つけられなかった。
サルーシャは負傷者の様子を見に行っている。
モハンは食器と鍋の片付け。
別の隊員たちは、荷物の整理やラクダの世話をしていた。
(何か、手伝えばいいんだろうけど)
落ち着かない。
じっとしていると、
さっきの夢の続きが脳裏に浮かびそうになる。
「ちょっと、歩いてくる」
誰にともなく言って、
ジージーは杖をついて歩き出した。
隊からそう遠くない砂丘の上。
見張りの邪魔にならない程度の場所。
そこからなら、
谷のある方角も、かろうじて見えた。
風が吹く。
砂が少しだけ舞う。
足裏に意識を落とし、
セルグレンに教わった“砂漠の乗り方”を試す。
(土踏まず、指先。
深く踏まない)
それを繰り返していると――
少しだけ頭が静かになる。
耳を澄ますと、
遠くでラクダの鳴き声。
隊員たちの笑い声。
その合間に、微かな別の音が混じった。
(……足音?)
砂を踏む、複数の音。
ジージーは思わず、耳をそばだてた。
やがて、
谷のほうから、
低い声が風に乗って届いてくる。
完全には聞き取れない。
だが――
間違いなく、セルグレンたちの声だ。
(もう戻ってきた?)
そう思って足を下ろしかけたとき、
別の声が混じった。
聞き慣れない、ねっとりとした声。
「――ですからねぇ、
あまり手加減なさらないほうがよろしいのですよ、隊長殿」
ジージーははっとして身を低くした。
砂丘の斜面を少し下ると、
風の流れの関係か、
声が少しだけはっきり聞こえる位置があった。
そこから覗き込むと、
砂丘の影になった浅い谷の縁が見えた。
岩陰に、セルグレンとリース、ライルが身を潜めている。
さらにその先、谷間の底には、
小さな焚き火が三つ。
火の周りに、
エルビアンヌ式の軍服を着た兵士たちが十数人。
鎧は比較的新しく、剣も槍も磨かれている。
――だが。
(……なんか、変だ)
ジージーは無意識に眉をひそめた。
兵士たちの動きが――ぎこちない。
腰の重心の置き方が浅く、
槍の持ち方にも迷いがある。
(本当の兵隊なら、もっと“身に染みてる”動きをする)
前世でジム仲間から聞いた話を思い出した。
プロと素人の足運びの違い。
当たり前のように立っている姿勢。
この兵士たちからは、その“当たり前”が感じられない。
焚き火のそば。
一際だらしない体つきの男が、
どっかりと腰を下ろしていた。
しちさん分けの髪は脂ぎって、
額から後頭部にかけてM字に薄くなっている。
頬はたるみ、顎は二重。
癖のある鷲鼻、その下に分厚い唇。
ギョロリとした目だけが妙に落ち着かず動いている。
「……あいつか」
岩陰からセルグレンの低い声が聞こえた。
「あのデブが“頭”だな。
槍の持ち方も歩き方もなっちゃいねぇのに、
真ん中に座って命令してやがる」
「隊長……かな?」
ライルが小声で問う。
リースが首を横に振った。
「エルビアンヌの正規軍の隊長が、
あんなひどい飼い方された腹してるわけないでしょ」
「じゃあ、何者だ」
「“別のところ”から来た連中だよ」
モハンの声だ。
気づけば、いつの間にか彼も岩陰に加わっていた。
「刃物は新品。
鎧も靴も新しい。
でも身体は鍛えられていない。
――つまり、“後から武器だけ持たされた人間たち”だ」
「誰に?」
「知らねぇ。
だが、あのでぶ……ただの商人には見えねぇな」
谷底では、そのデブがゆっくりと立ち上がり、
周囲の兵士たちを見渡していた。
「諸君ぃ」
ねっとりした声が、谷に響く。
「“国家平和理事会”は、
諸君の働きに大いに期待しておる。
この辺りの村々は、まだ“処理”が済んでいない」
(……国家、平和、理事会?)
ジージーは耳を疑った。
聞いたことのない言葉。
しかし、その組み合わせが持つ響きは――不気味なほど甘い。
「抵抗する村は焼き払って構わん。
家畜も畑も、根こそぎだ。
女と子どもは、縛って引き立てよ。
“上”が望んでおられる」
「“上”って……大臣様ですか?」
若い兵士の一人が、おずおずと尋ねる。
デブは、
ギョロ目を細めて笑った。
「違うよぉ。
もっと、もっと上さ」
唇の端から、
ぬるりとした笑みがこぼれる。
「我らの理事会の、さらに上――
“北の御方”に捧げるのだ。
諸君は誇ってよろしい。
人の世を正しく作り替えるための、立派な“釘”になるのだからねぇ」
兵士たちは、
その意味を理解していないようだった。
ざわ、と小さなどよめき。
しかし誰も、
はっきりと疑問を口にしようとはしない。
「……くそったれが」
岩陰で、セルグレンが小さく吐き捨てた。
「ああいう“耳触りのいいこと”を言う奴が、
いつも一番遠くで笑ってやがる」
「どうする、隊長」
リースが、エイリアスを振り向く。
ジージーは、その瞬間になって初めて、
エイリアスもそこにいることに気づいた。
岩に背を預け、
じっと谷を見下ろしている。
「……今は手を出さねぇ」
短く答えが返る。
「数が多い。
たしかに動きは素人のそれだが、
背後にいる連中は素人じゃねぇ」
「でもほっといたら――」
「ほっとけねぇから見てる。
今はまだ“目”だけだ。
ここでぶつかれば、
サンドイーグルが潰される」
リースが唇を噛む。
「いつもそうだね。
“でかい連中”が何かやらかして、
こっちが被害を受ける」
「それが砂漠だ」
モハンが言った。
「上を見るな。
見たところで、届かねぇ」
「届かないのに、命令は落ちてくる」
セルグレンが肩を竦めた。
「……そして、死ぬのはいつも“下のほう”だ」
ジージーは、
砂丘の影で膝を抱えた。
(……あたしの家も)
昔、庭に来た“偉そうな人たち”のことを思い出す。
父が浮かべた、あの曖昧な笑み。
母の緊張した横顔。
兄の目の奥にあった怒り。
(あのときも、“上のほう”で何かが決まってたんだろうか)
谷底のデブが、
再び口を開く。
「では諸君。
まずはこの一帯の“査察”だ。
反逆の芽は早めに摘まねばならん。
なに、恐れることはない。
我らには理事会の後ろ盾がある」
言葉の意味が、ひとつ、ひとつ、
ジージーの中に重く落ちてくる。
(反逆……査察……)
耳の奥で、
別の日の叫びが重なった。
『反逆の疑いあり!
ルーデンリッヒ子爵家を取り押さえよ!』
兄が立ち上がる。
剣を抜く。
次の瞬間、背後から槍に貫かれる。
(……っ)
吐き気が込み上げた。
砂の匂い。
焚き火の煙。
蠍鍋の残り香。
全部が混ざって、
胸の中でぐちゃぐちゃになる。
ジージーは堪らず、
砂丘の影から少し離れた場所へよろめいた。
跪き、
喉の奥に溜まったものを吐き出す。
「っ……げほっ……」
酸っぱい胃の中身が、
砂にじゅっと吸い込まれていく。
「大丈夫?」
背中に手が乗った。
振り向くと、
サルーシャがいた。
「……なんでここに」
「ジージーちゃんが“ちょっと歩いてくる”って言ったの、
顔が真っ青だったからね。
こっそりついてきた」
「ストーカーだよ、それ」
「医者ってそういうものでしょ?」
サルーシャは微笑んで、
ジージーの背中をゆっくりとさすった。
「見たんでしょ。
聞いたんでしょ」
「……うん」
声がかすれる。
「あたしの国の旗。
あたしの家を、
“反逆”って決めつけたのと同じような連中が、
ここでも……」
言葉がうまく出てこない。
喉が詰まる。
「吐いちゃいなさい。
それ全部、飲み込んでたら、
お腹の中が腐るよ」
「もう吐いたよ……」
「言葉の話」
サルーシャは、
少し離れた谷のほうを見やりながら言った。
「怖い? 悔しい? 腹が立つ?
どれ?」
「……ぜんぶ」
ようやく、それだけ言えた。
「怖いし、悔しいし、腹が立つ。
何もできなかった自分も嫌だし、
今ここで見てるだけなのも嫌だし……」
「うん」
サルーシャは否定しなかった。
「そうだよね。
そう思うの、当たり前だよ」
「当たり前……?」
「そう。
当たり前のことがちゃんと“当たり前に”思える人は、
あたしは好きだよ」
サルーシャの手が、
背中から肩へ移る。
「怖がるのも、悔しがるのも、
全部、ジージーちゃんの“力”になる。
今はまだ足を引っ張るかもしれないけどね」
「……いつか、足を押してくれる?」
「きっとね」
彼女は軽く笑った。
「だって、
“止めるために戦いたい”なんて言う子だもの。
その子が、“誰をどう止めるか”を決めるには、
いっぱい痛い思いをしないと」
「……それ、慰めになってる?」
「なってる。少なくとも私は、そう思う」
ジージーは、
ぐしゃぐしゃの顔のまま、
かろうじて笑った。
⸻
偵察から戻ってきたのは、
それからしばらく経ってからだった。
エイリアスたちは、
余計な足音を立てずに隊に戻り、
すぐに幹部だけを集めて話を始めた。
ジージーは、
少し離れた場所からその様子を見る。
セルグレンが、
ふとこちらに気づいて近づいてきた。
「……聞いてたな」
「どこまで?」
「谷にいた連中のこと。
“理事会”とやらのこと」
ジージーは視線をそらせなかった。
「ごめんなさい。命令、破って」
「命令破ったのは“偵察についてくるな”だ。
お前は“遠くから見てただけ”だから、
今回は目をつぶる」
「甘いですね」
「甘くしてんだよ。
あんまり締め付けると折れる」
セルグレンは、
砂の上にドン、と腰を下ろした。
「吐いたか?」
「……見てました?」
「音でわかる」
ジージーは苦笑した。
「最悪だよ。
蠍鍋が台無し」
「別にいいじゃねぇか。
また獲ればいい」
さらりと言われて、
少しだけ肩の力が抜けた。
「隊長はどうするつもり?」
「今はやり過ごす。
決定だ」
セルグレンは空を見上げた。
「正直なところ、俺もそうする他ねぇと思ってる。
あいつらの背後にいる“何か”に喧嘩売るには、
砂漠のレジスタンスは小さすぎる」
「……悔しくない?」
「悔しいさ。
でも、“悔しいから今殴る”ってやってたら、
ここにいる全員、一週間もたねぇ」
セルグレンは、
手のひらで砂をすくい上げた。
「砂漠の戦いはな、
“今”じゃなく、“いつ殴るか”なんだよ」
「いつ……」
「乾いたときか、
濡れたときか、
風が吹いたときか。
砂が動く瞬間を待てる奴だけが、
生き残る」
砂が指の間からこぼれ落ちていく。
「ジージー」
「なに」
「お前が泣くのは、今じゃねぇ」
その言葉は、
優しいのに、少しだけ残酷だった。
「泣きたいなら、
俺たちの後ろで泣け。
前に出てるときに泣く奴は、死ぬ」
「……わかってる。
わかってるけど」
「わかってねぇ顔だ」
セルグレンは伸びをして立ち上がる。
「いつか、“殴っていいとき”が来る。
そのときに、ちゃんと殴れるように、
今は足を作っとけ」
「足……」
「そうだ。
逃げるにも、追うにも、殴るにも、
足がなきゃ話にならねぇ」
彼は、
ほんのわずかに笑った。
「そのとき一緒に殴りてぇなら、
ちゃんとついてこい。
砂漠の足の使い方、教えてやる」
胸の奥に、
小さな火が灯る。
(セルと一緒に、殴れる日が来る……?)
それが、
遠い未来のことだとしても。
「……約束ね」
ジージーは立ち上がった。
「ちゃんと生き残って、
“殴っていいとき”まで、一緒に行こう」
「おう。
約束だ」
セルグレンの掌が、
ジージーの掌と軽く打ち合わされる。
砂の乾いた音が、
短く、心地よく鳴った。
――その約束が、
この先どれほど重くなるのかを、
このときのジージーは、まだ知らない。
砂漠の上に、
青い獅子の旗が、静かに揺れていた。⸻
【後書き】
今回のエピソードは、戦いの音が一切鳴らないのに、
いちばん“胸の奥がざわつく章”になったと思います。
蠍鍋の夜、ただの雑談に紛れ込むように出てきた――エルビアンヌ王国。
ジージーにとっては「忘れたいのに、忘れられない名前」であり、
サンドイーグル隊にとっては「今までと少し違う砂の流れの始まり」。
読者の皆さまにとっては「何か不穏なものの影」が、
ようやく手触りを持ち始めた回だったはずです。
⸻
■“見に行く”だけの描写が、なぜこんなに重いのか
今回は剣も槍も振るわれていません。
敵と味方が真正面からぶつかるシーンもありません。
あるのは、谷の焚き火を囲んだ“奇妙な兵たち”と、
その中心に座る、ねっとりした声の男。
そして彼らが口にした
「国家平和理事会」
「反逆の芽」
「北の御方」
派手な戦闘よりも、
こういう“名前だけが先に歩いてくる不気味さ”のほうが、
砂漠ではよほど恐ろしい。
ジージーが吐いてしまったのは、
気持ちの弱さではなく、
聞こえてきた響きの奥に、
“あの日の屋敷の焼け焦げた匂い”が混ざっていたからです。
⸻
■ジージーを止めたのは、情ではなく「戦場の理」
エイリアスも、セルグレンも、
ジージーを否定したわけではありません。
むしろ逆で、
「今のお前を前に出すのは、死なせることになる」
という、非常に現実的な判断です。
心が過去を見ているとき、
足は必ず遅れます。
遅れた足は、自分だけでなく仲間を殺す。
――その事実を、砂漠は決して甘く見逃さない。
でも彼らは、突き放しながらも、
しっかり“戻ってこい”と声をかける。
あの一言で、
どれだけジージーの足が地面に戻ったか。
⸻
■「いつ殴るか」を選ぶ世界
セルグレンが言った言葉――
「砂漠の戦いは、“今”じゃなく、“いつ殴るか”なんだ」
この一文に、サンドイーグル隊の生き方がすべて詰まっています。
殴りたいから殴るのではなく、
殴っていい“風が吹く時”まで待つ。
その遅さは、臆病ではなく、
生き延びる知恵です。
そしてジージーは、
まだその“風”の読み方を知らない。
だから今回の彼女は、
悔しさ・恐怖・怒り、
全部を“飲み込んでしまった”。
サルーシャに背中をさすられながら吐いたのは、
感情ではなく――その“飲み込みすぎ”です。
⸻
■この章の核心:「いつか殴るために、今は足を作る」
彼女はまだ、戦場に立てない。
でも今日の叫びは、
彼女の“未来の戦い”に確実につながる種になります。
セルグレンが差し出した掌と、
軽く打ち合わされたあの音。
あれはただの約束ではなく――
「同じ場所で殴る日を、共に迎えよう」
という宣言です。
そしてその約束が、
この先どれほど重い意味を持つかを、
まだ誰も知らない。




