『杖の勇者ジージー』序章 静けさは扉
『Staff Hero ― 支える勇者 ―』
序章
静けさは扉
ブリスベンの朝は、太陽が本気を出すのが早い。
少年だったジョージ・ギルバートは、汗でぺたりと道着が張りつくのも気にせず、何度も畳に叩きつけられていた。
がん、と床が鳴る。
受け身が甘い。肩で落ちた。痛みが走る。
「ジョージ、もう一回だ。受け身が上手くなったら、どんなに強い奴にも倒されなくなるぞ」
初老のコーチが笑って言う。
年齢のわりに動きの切れるそのコーチは、たいてい“守る”という言葉を添えた。
攻めの話より、そっちの話のほうが多かった。
「倒したら終わりじゃない。相手が怪我しないで済んだら、それが一番いい。分かるか?」
「イエス、コーチ」
英語にところどころ日本語訛りが混ざるコーチに、ジョージは無邪気にうなずいた。
ブリスベン近郊の小さな柔道場。ここが彼の“最初の武道”だった。
そのときはまだ、彼は知らない。
この「倒さずに済ませる」という考え方が、一生の芯になることを。
◇
大人になったジョージは、スーツが似合うようになった。
平日は営業。汗をかくのは顧客の前ではなく、数字を追うとき。
けれど週末の彼は、少年のときとほとんど同じ顔でジムにいた。グローブをつけて、リングの縁に腰をかけ、仲間のミット打ちを見ては茶化す。
「おいトム、ジャブ遅くなってんぞ。ビール増やしたろ」
「Shut up, mate! これは戦略的なリズムなんだよ」
「その戦略、腹にも出てんぞ」
「お前にだけは言われたくねぇよ、ミスター・ミートパイ」
トムは肩で笑いながら、ミットを構えなおす。
ジム仲間はみんな似たような年頃で、仕事が終わったらここで汗を流すのが習慣になっていた。ボクシング、クラヴマガ、ちょっと変わった武器術をかじるやつもいる。
ジョージはどれにもそこそこ付き合った。殴る、かわす、組み付く。どれも面白い。だが、いつも頭のどこかに“柔道で習った受け身”が顔を出す。
(どう倒すかより、どう怪我させないか……)
そうやって考えているところが、彼がオーストラリア人でありながらやけに日本的だと、仲間内では評判だった。
「なあジョージ」
「ん?」
「この前Facebookで見たんだけどさ、Japanの忍術ってほんとにあるんだな。マスクして、棒でくるくるやってるやつ」
「ああ、あれな……」
ジョージは、その話題にはすぐ噛みついた。
あの日、ネットの片隅で偶然見つけた“埼玉の忍術道場”の動画は今でも頭に残っている。
黒装束ではなく、きちんとした道場着。ゆっくりした歩法。棍の受け流し。そしてなにより、師範の言う一言。
『静けさは扉。力はその蝶番だ。開くために使いなさい』
あれを見てしまってから、彼の中では“殴るための武”よりも“止めるための武”が重たくなっていた。
「行ってきたんだよ。ジャパン。Saitama」
「はぁぁ? お前ほんとに行ったのかよ!」
「I did. Seven years, mate. Seven.」
「Seven!? お前、日本人と結婚でもしてんのかと思ってたわ」
「Nah, just training. Sensei was… real. Not YouTube cool, real cool.」
トムが大げさに肩をすくめる。
「お前、ほんとに日本好きじゃん。“忍術学びに来ました〜!”ってか」
「Exactly. でもな、あそこで初めて“倒すな”って本気で教えられた」
「倒すなって、じゃあ何すんだよ」
「止める。立たせたまま終わらせる。武器持ったやつだったら、握ってる手だけ壊す……まではやらねぇで、持てなくさせる。そんな感じだ」
「面倒くさ」
「面倒くさいんだよ、ほんとに。だから面白いんだ」
ジョージは笑った。
日本の道場の話になると、彼はいつも少し静かな口調になる。埼玉の冬の匂いを思い出すのかもしれない。
夜の道場で、師が杖を持って見せたあの姿。
呼吸を詠唱に変え、息の数で動きを固定する技法。
あれは剣でも拳でもなかった。
“支える杖”だった。
──このとき、彼の中の道筋はもうできていたのだろう。
どんなに殴り合える身体を持っていても、最終的には“止める”ほうへ流れていく。
それがジョージ・ギルバートの“拍”だった。
◇
その日も、ただの休日だった。
ブリスベン近郊のショッピングモール。
いつものメンバーで、トムと、細身でキックが得意なジェイと、あと新しく入ったばかりの若いやつがいた。
フードコートでテーブルを囲んで、トムが巨大なバーガーを開けながら言う。
「でさ、次のスパーどうする? 俺、最近若い子のジャブ、まじで見えん」
「お前酒やめろって。アルコールは反射を殺すってSensei言ってたろ」
「あの日本の先生、俺まだ会ってねぇから説得力ゼロなんだよなぁ」
「会ったら黙るよ。怖えから」
「こわいの? 忍術ってやっぱ忍者なの? 手裏剣とか?」
「手裏剣より、目をそらさずに“やめろ”って言うほうがこええんだよ」
そんな他愛もない話。
テーブルの上には、コーヒー、肉パイ、ポテト。
モール自体は家族連れでにぎわっていて、子どもが走り回っている。
──ぱん。
空気を裂く音がした。
乾いていて、しかし聞き間違えようのない、銃の音だった。
ジェイが一番に顔を上げる。
「…What was that?」
トムが笑いかけて止まり、顔から色が引く。
二発目が、天井を貫いた。
ガラスが砕け、散った。
誰かの悲鳴が、モールの中をものすごい速さで駆け抜けていく。
「ジョージ、行くな! 武器持ってる!」
トムの叫びが背中に飛んでくる。
ジョージはすでに立ち上がっていた。
椅子が大きく後ろへ引きずられ、テーブルが揺れる。
走る。
足元の食器を蹴り飛ばしながら、一番近くにあった清掃用のモップをつかんだ。
柄の長さ、重さ、握りやすさ。一瞬で判断できた。日本で何度もやった。棍として扱えるかどうかを。
(間合いが遠い。だが……踏み込める)
銃を構えた男が、ちょうど別方向を向いていた。
彼の前に、小さな男の子と、その母親らしい女性がしゃがみこんでいる。脚がすくんで動けないのだ。
「Move! Move! Get out—!」
ジョージは叫びながら踏み込む。
一拍で距離を詰め、モップの先で銃口を打ち上げた。
日本で習った“払い上げ”の応用。
銃口が天井へ逸れ、無駄な弾丸が空へ走る。親子がわっと横へ転がる。
「Run!」
その一瞬は作れた。
しかし、男はすぐに銃口を戻してきた。
近すぎる。打撃に移る前に──
ドン。
胸に凄まじい衝撃。
肺から一気に空気が抜け、視界に赤が差し込む。
床が遠ざかるように見える。いや、自分が落ちているのだ。
「ジョージ!!」
トムが叫ぶ。
誰かが泣いている。
モールのスプリンクラーが作動する音が遠くで鳴っている。
痛みは、最初の一瞬だけ異様に鋭く、そのあとは熱いものが広がっていくだけだった。
(……上出来だ)
息がうまく吸えない。
けれど、さっきの親子は逃げた。
それでいい。
誰かが行かなきゃ、誰か死ぬ。
そう思ったから行っただけだ。
身体が持ち上がる。トムが抱え上げようとしている。
血で滑る手。トムの顔がぐしゃぐしゃだ。
「Stay with me, mate! Stay—!」
「……Fair go, mate……お前ら……やれるだけ……やれ……」
言葉がうまく続かない。
だが、内側でぱち、と何かが鳴った。
それはまるで、師が道場で鳴らした小さな鈴の音によく似ていた。
──静けさは扉。
あの夜、埼玉の道場で聞いた日本語の響きが、そのまま白い光の中から返ってくる。
音が、熱が、痛みが全部遠ざかっていく。
◇
風がある。
草の匂いがする。
鳥が鳴いている。ブリスベンでも、埼玉でもない。もっと湿っていて、もっと澄んだ音だった。
ジョージは目を開けた。
いや──目を開けたつもりだった。まぶたが重い。視界が高くない。
見えるのは青い空と、揺れる光と、どこかの女の人の泣き声。
「……あれ」
声を出そうとしたら、出てきたのはか細い、鈴のような声だった。
自分の喉から出たとは信じがたい。
両手を動かす。
白くて、細くて、丸い。筋張った男の手ではない。赤ん坊の手だ。
その右手に、細い木の棒が握られている。
いや──棒ではない。
杖。
あの日モールで掴んだ清掃モップと同じ長さ、同じバランス。だけど、こっちは木目がきれいで、握るところが温かい。
(……マジかよ)
赤ん坊の表情で驚くのは難しい。だが心の中では思い切り驚いていた。
自分は今、女の子の赤ん坊になっている。
周りでは、若い母親らしき女性が「生まれてる……! 生まれてるわ……!」と泣き笑いしている。
どこだここは。
オーストラリアじゃない。英語じゃない。聞いたことのない単語が飛び交っている。
(転生……? 異世界……? マジで?)
赤ん坊の喉で、どうにか声を漏らす。
「あー……あぁ……」
それはまるで、そうだな、と彼が認めたため息のようでもあった。
でも、手に杖がある。
なら話は早い。
(……まぁ、使い方は一緒だろ。相手を殺さず、止めるだけだ)
風が赤ん坊の黒髪を揺らす。
どこか遠くで、小さな鈴がまた鳴った。
“静けさは扉”
その教えを、彼女──いや、元オーストラリア人の彼は、異世界でやりなおすことになる。
“杖の勇者ジージー”の物語は、こうして始まった。




