深宇宙的恋文作法
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│──────────────│
│────これの───────│
│───────言葉は────│
│─────宇宙のきた────│
│────もの────────│
│─────です───────│
│──────────────│
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紙片に書かれている言葉におれは首をひねった。
まるで翻訳に失敗した文章のようだ。
”これは宇宙からのメッセージです”とでも書きたかったのだろうか。
日本語に不慣れな外国人が書いたものだとすれば納得はできるが、それにしては達筆だった。書道の達人が書いたかのように、とめ、はね、はらい、がキッチリとしている。おれよりもよっぽど字がきれいだ。
大学ノートのような罫線が引かれた紙だが、線の上に文字が置かれているのも変な感じがする。楽譜じゃあるまいし、普通なら線と線のあいだに文字を書く。
しかし、問題は内容よりも、紙片があった場所だ。
それは、おれが住むアパートの部屋のテーブルの真ん中に置かれていた。
自分で置いた覚えはない。こんな紙を誰かから受け取った記憶もない。戸締りもきちんとしていた。なのに、夜に寝て、朝起きたとき、忽然とこのメッセージが現れたのだ。
オナモミみたいに袖にでもくっついていたか、それとも、換気扇から入ったネズミが置いていったとでもいうのか。
紙片をよくよく確かめる。
罫線があるタイプのノートの切れ端。かなり几帳面に縦横同じ長さ、ぴったり正方形にカットされている。使われた筆記用具は鉛筆のようだ。シャープペンシルにしては太さが不均一で、文字の表面がほんのすこしざらついている。後半になるほど線に丸みがでているのも、鉛筆が使われたという事実を示唆している。
眺めていると、おれはふと閃いたことがあってカバンを手に取った。昨日大学から帰って、椅子の脇にほっぽりだしたままになっていたのをテーブルの上に置く。それから、なかを探ってメモ帳を取り出した。
ページをめくる。諸々の予定。約束。読めないはしり書き。サークル活動の覚え書き。よくわからない不満。時間つぶしの落書き。どこかの連絡先。買い物メモ。まだなにも書かれていない白紙。白紙。白紙。そして、最後のページが一枚、正方形に切り取られている。
思った通りだ。
机の上にあった紙片に印刷されている罫線に見覚えがあると思っていたら、おれのメモ帳だ。淡い水色で、ちょっと細めの線。
もしやと筆箱のなかも確認する。数本の鉛筆と消しゴム。ボールペン。定規などの文房具。
見ると、先端が丸くなっている鉛筆が一本ある。
おれは就寝前に鉛筆を削る習慣がある。昨日も普段と同じように、すべての鉛筆を矢のようにとがらせていた。
つまりだ。
この謎のメッセージを残した人物は、おれが眠ったあと、鍵のかかった部屋に侵入。カバンからメモ帳を取り出して、持参したものか、部屋にあったのを使ったのか、ハサミかカッターかなんかで正方形にカット。おれの鉛筆を勝手に拝借して、この文言を残した。と、こういうことになる。
意味がわからない。
文章も意味不明だ。
部屋中をひっくり返す勢いで探してみるが、侵入の痕跡は見つからない。金銭類や貴重品も無事。
腑に落ちないが被害はゼロ。心理的な被害ならあるかもしれないが、不快というより、ただただ混乱している。不法侵入の証拠はない。警察に相談しても、いたずらとして処理されるのが関の山だろう。
もうすこし考えてみる。
夜のうちに誰かが侵入した以外の可能性。おれがメモ帳を最後に見たのは昨日、唯一出席した情報通信工学の講義を聞く前。あの授業のあいだに、隣の席の奴がカバンからこっそりとメモ帳を盗み出し、正方形に切り取って文字を書き、カバンに紙片ごと戻して、おれが家に帰ってきたあと、偶然にもカバンからふわりと紙片が飛び出て、机の真ん中に落ち、おれは夜寝て朝起きるまでのあいだそれに気がつかず……。
だめだ。さすがにあり得ない。
それに、これだと家に帰ってから削った鉛筆の先端が丸くなっていた理由が説明できない。
このメッセージが書かれたのは絶対に夜のあいだ、この部屋のなかでだ。
おれが夢遊病にかかったのでもなければ、侵入者がいたはずなのだ。
うーん、と唸りながら考え込んでいたが、はっと時計を見る。
日常という一張羅が虫に食われていようとも、一張羅である以上はおれはそれを着ていくしかない。今日は朝から出席しなければならない講義がある。
四個セットのブドウパンが入った袋から一個をつかむ。かみちぎるようにして胃におさめながら、一人暮らしには十分な小型冷蔵庫から紅茶のペットボトルを取り出した。ふたを開けると、口にあてがって傾ける。四分の三ほど中身が残ったペットボトルはそのままカバンへ。
身支度を整えると、さっさと出かける。あの紙切れのせいで時間を食ってしまった。走らないと電車の時間に遅れる。
念の為、鍵がかかっていることをきちんと確かめてから扉を離れる。玄関外をざっと見回したが、異変はない。いつも通りに薄汚れていて、アパートの他の住民の靴裏にくっついてきたらしい近くの公園の砂利がいくつも散らばっている。
道を歩きながらも、おれは謎のメッセージに思考が囚われていた。窓から入ってきたのかもしれない、などと想像してみる。けれど、アパートの裏手にはほんの数十センチ向こう側に断崖のようなビルがそびえたっている。ビルが建設された当時は、日照問題でだいぶ揉めたらしいが、おれが引っ越してきたときには話し合いがすっかり終わって解決していたので詳しくは知らない。
とにかく、窓を開けて見えるのは壁だ。ベランダなんてものはない。カエルみたいに平たくなって、スパイ映画さながらに壁をよじ登るか、降りてくれば窓からの侵入も可能だろうが、そこまでしてやるのがメモ帳を正方形に切って意味不明な文章を残すだけというのは労力に見合わないように思えてならない。
大学に着いてからもずっと、一日中考えたがちいさなヒントすら見当たらない。
授業中も上の空で、講義に集中できなかった。サークルの部室にいくのもやめて帰宅することに。
家に帰って扉を開けるときにはわずかな緊張が走ったが、鍵はちゃんとかかっており、室内はいつも通り。大学生の一人暮らしならよくあるだろう混雑具合。脱いだ上着があちこちに置きっぱなしになっており、部屋の隅でちいさくなったごみ袋が、ごみ回収車に置いていかれたかのように寂しく膝を抱えている。
ケトルでお湯を沸かして、カップ麺を作る。それから帰りがけにコンビニで買ってきたおにぎり。朝カバンに入れていったペットボトルは空になっていたので、新しいのを冷蔵庫から出して、ごくごくと喉を鳴らして一気に飲み干した。
明日出席する講義の準備をして、友人と長電話。ちょっとだけと思いながらゲームなんかをしていると、外にはとっぷりと夜が充満している。
テーブルの上を片付けて鉛筆を削る。鉛筆削りではなくカッターナイフを使う。
いまどき筆記用具に鉛筆を使っているのはおれぐらいじゃないだろうか。教室でも他の生徒はシャーペンやらボールペンやらを使っている。しかし、鉛筆を使うのに深い理由があるわけではない。父が趣味でデッサンをはじめようとして、すぐにそれに飽きてしまい、その結果、実家には大量に鉛筆が余っていたのだ。埃をかぶっている鉛筆がどうにもかわいそうだったので、大学進学で家を離れるときにすべてもらってきたというわけ。
削る手間はあるが、木が薄く剥けていくこの感触は好きだった。
注射針と見まごうほどにきれいに削った鉛筆をしまうと、寝る準備をしてベッドに倒れこむ。
疲れた。
明日は、何事もなければいいが……。
◆-・ ・ -・・- -
┌──────────────┐
│──────────────│
│────昼─────────│
│───学食で座ります────│
│────窓近く───────│
│──────で丸い机────│
│───待ちます───────│
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朝起きると、また紙片が置いてあった。
テーブルの真ん中。カバンを確認するとメモ帳のページが正方形に切り取られ、鉛筆の先が丸くなっている。昨日と同じ。違うのは内容だけ。
”昼に学生食堂にいき、窓に近い丸テーブルに座って待て”といったところだろうか。
学食はたびたび利用しているので、丸テーブルという情報だけで、どれを指しているのかがわかった。なにせ学食に丸いテーブルはみっつしかないのだ。他はすべて長方形。テーブルが足りなくて、どこかから寄贈されたものを使っているのだと聞いたことがある。
しかし、意味がわからない。
まるで指令だ。
おれになにかをやらせようとしている。
一枚目で宇宙からのメッセージだと書かれていたので、宇宙からの指令というわけだろうか。
ふざけている、が、この呼び出しは考えようによっては、ネタばらしをしようという意味合いにも受け取れる。
おれが件のテーブルで待っていると、メッセージの作成者が何食わぬ顔で現れ、引っかかったな、ドッキリでした、と宣言するわけだ。
ちゅうぶらりんな状態は気持ちが悪い。こんな手品めいたマネがどうやっておこなわれているのかというのにも正直なところ興味がある。
学食は人の目が多い場所なので危険もあるまい。
一度、誘いに乗ってみるのもいいかもしれない。
◆-・ ・ -・・- -
昼前の講義を休んで学食へ。
昼、といういい加減な時間指定だったので、早めにくることにした。
席は二割ぐらいが埋まっていたが、例の丸テーブルの席は空いていた。空いているのも当然だった。大抵の生徒は長方形の席に座る。丸テーブルには椅子がふたつしか置かれておらず、通称カップル席と呼ばれている。こんなところに一人で座るのは、その通称を知らない新入生か、カップルが座るのを阻止したいへそ曲がりぐらいなものだろう。おれはおそらく後者だと思われているに違いない。
視線が痛い。スマホをいじっているふりをするが、針のむしろにいるみたいでまったく落ち着かない。いま現在、内心で滝のような冷や汗をかいているおれを、犯人はどこかで観察して笑っているのではないだろうか。まさか、それが目的か?
カメラを向けている奴がいやしないかと、伏し目がちに学食内を見渡す。けれどそんな奴はいないどころか、学食にいる誰ひとりとしておれのことなど見てはいなかった。緊張で自意識過剰になっていたらしい。
はあ、と溜息。天井の蛍光灯を見上げる。切れかけてちらついている電灯。
そろそろ本格的に昼だ。昼食を食べにくる生徒がわんさとやってくる。おれもなにか注文しようと椅子にカバンをおいたまま、席を立った。
そうして、から揚げ定食を手に戻ってきたときであった。
「あっ」
と、思わずちいさな声がもれた。
おれが座っていた丸テーブルのもうひとつの椅子に、誰かが座っている。
後ろ姿。たぶん女性だ。
そろそろと足音を忍ばせて近づき、横目でちらりと確認。
肩のあたりで跳ねた黒髪。横顔は陰鬱だが、目元口元がふわりと膨らみ、快活そうな印象もある。地味な色合いのシャツとロングスカート。羽織っているのはポケット多めの実用性重視の上着。足元は運動靴。背もたれと背中のあいだに硬そうな手提げカバン。テーブルには野菜たっぷりのサンドイッチが置かれている。ネタばらしにきたイタズラの犯人というふうには見えない。
「あの」
おずおずとおれはテーブルにお盆を置いて、対面にある椅子に置いていたカバンを持ちあげてみせる。
彼女は手元の手帳に落としていた視線を浮かせると、目をぱちくりとさせて、
「えっと、ごめんなさい。気づかなくって」
席を立とうとするのを呼び止める。
「大丈夫です。どうぞ」
「でも」
なにか言いたげだ。ここは通称カップル席。恋人を待っていると勘違いされているのだろう。ひとりで使っていたなどとは言いづらいが、一時間近く待っても誰もこなかったのだから、もういいだろうという気持ちになっていた。この丸テーブルを本来の(本来かはわからないが)用途通り、恋人同士に使わせてやるとしよう。
「別にひとりだったからいいんです。おれは他の席に移ります」
カバンを肩にかけて、運んできたランチのお盆を持ちあげようとすると、
「わたしもひとりです」
空白の時間。
ややあって動き出す。
促すような彼女の瞳。
おれはゆっくりとカバンを置いて、席に腰をおろした。
◆-・ ・ -・・- -
無言で食事にいそしむ。
食事中、おれは探るような視線で向かいの席に座る彼女をねめつけていたが、ぶしつけという点では彼女も負けてはいなかった。
対面から送られてくるじろじろと値踏みするような視線。ねこじゃらしで頬を撫でまわされているかのようなむずがゆさ。
しかし、皿が空になる頃には、お腹が満たされたからか、時間によって気持ちがほぐれたのか、彼女の瞳の奥にあった険はほんのちょっぴり薄らいでいた。食事が終わっても彼女は立ち去ろうとせず、食堂の丸テーブル、通称カップル席、に男女で座っているという状況を意識したのか、すこしだけ椅子をさげて、無関係を装うように体を斜めに傾けた。
彼女はメッセージの関係者なのだろうか。そうは思えない。こんな気まずい席に自らやってきて、心底気まずそうにしている態度には、どこか同類めいたものを感じてしまう。
なにをどう切り出すべきか悩んでいると、彼女のほうから話しかけてきた。
「わたし……」
名前だ。こんなにも至極単純なことを忘れていた。初対面の相手に当然するべきことをすればいいだけだったのだ。おれも軽く自己紹介をする。
「工学部の人なんですね」
そう言った彼女は天文学部の生徒だった。
林檎の輪郭だけをなぞって色を塗らないような会話。けれども言葉の端々に共通点を見つけると、自然と紅く色づいてくる。
「情報通信工学の授業ってわかりづらいですよね」
と、彼女。おれもとっている講義だ。
「あの先生、すぐに話が脱線するからね。トランジスタじゃなく真空管の時代の話にまで遡ったりするし」
「そうですよ。レジュメにないことばっかり」
「わかる。ノートに取らなきゃいけないことがやたらと増えるから大変で」
「あの授業だけで、他の三倍ぐらいはノートを使ってます」
「いちいち古いラジコンで例えるぐらいならいいけど」
「あれは面白いですよね。いまどき使わないような無線の方式にも詳しくなっちゃいました」
不満というのは人と人との距離を近づける。共通の嗜好より、共通の不満。人の価値観はなにを嫌うかにこそ顕著に現れるとおれは思う。もしくは、どこまでを許容できるか、と言い換えてもいい。そのラインがおれと彼女は似通っているように感じた。
ランチのお盆を片付けてからも、丸テーブルに戻ってきてしばし話し込む。お互いのことがほんのすこしわかってきた頃、彼女がおもむろに、こんなことを聞いてきた。
「宇宙人っていると思いますか?」
難しい質問だ。質問を発しているのが天文学部の生徒だというのがより問題を複雑にしている。
これまでの会話で、おれは彼女に非常に強い好感を抱いていた。つまりは、どう答えれば好かれるだろうか、と考えてしまったわけである。
彼女は”宇宙人”と言った。単に地球外生命というだけなら、水が存在するとされる惑星にはいずれも可能性はある。火星に水があるのは有名だし、木星の衛星のエウロパだとか、土星の衛星のエンケラドスなんかには生命がいることを期待され、調査が進んでいるとも聞く。
けれども宇宙人という言葉となると話は別だ。人間と同等かそれ以上の地球外生命体。高度な文明を持っていて、科学技術は地球の水準を超越しており、継ぎ目のない円盤型の宇宙船に乗って宇宙を渡って……、とにかくそんなイメージだ。
直観的に、だが、彼女は宇宙人はいないと考えている、とおれは思った。現実主義的なすこし冷めた思考の持ち主。けれど、向けられている瞳の揺らぎや、固く結ばれたくびちるを見ると、いま求められているのは共感ではなく、反発であるような雰囲気もあった。
「いたら面白いとは思う。映画で見るような火星人とか。あのタコみたいな」
言葉を探して咄嗟に出たのは、なんとも無味無臭でつまらない回答。もうすこし他の表現はなかったのかと、自分にがっかりしてしまう。
「ですよね」
彼女の反応からすると、おれの回答は100点満点中5点、おまけして7点といったところだろうか。
沖を漕いでいたら、いつの間にか座礁していたかのようなやりきれない気分。魚を釣ろうと竿を構えていたのに、潮がサッと引いてしまって、釣り針が落ちるのは砂浜の真ん中。
カンカン照りの砂浜みたいに心のなかが乾きはじめていたおれに、彼女がすこし身を乗り出して、
「学部で宇宙人と交信する方法っていう議題があったんですけど」
「へえ。そういえば、ニコラ・テスラが電波で火星人と交信したって話をきいたことがあるなあ」
友人に聞いた話だ。嘘か本当かは知らない。
「うん。電波。ドレイク方程式っていうのを使えばこの天の川銀河にある通信可能な技術を持つ文明の数が推定できるんですけど、それはゼロじゃなんです」
「ほお」
と、おれは本気で興味を惹かれていた。けれど頭の片隅では、なぜ彼女はこんな話をしているのだろうかとも考えている。そして不意に、(自称)宇宙からのメッセージのことを思い出した。点と点がつながって線になったようでもあり、トポロジー的にまったく同じものの別側面というだけのようでもある。
「学部での議題はどんな電波を発信するかが主になっていました。でも、わたし思うんですよ。電波に固執するのは正しいのかなって」
「どういうこと? 光波通信の話? それともカプセルなんかを打ち上げて直接物を送ってやりとりするとか?」
「そうじゃなくって」
彼女はテーブルに肘を置いて、両手の指を絡ませると、胡桃のようにちいさな顎をその上に乗せた。
「宇宙人はわたしたちとは全く異なる文明を発展させていて、電波や光波に頼らない通信技術を開発してるかもしれないじゃないですか。肉体だって違うだろうし、こちらからすれば超能力みたいな、不可思議な力が使えるように進化しているかもしれない。会話は全部テレパシーなんてこともあり得るわけでしょ?」
ややファンタジーな方向へと傾いていく彼女の話に、おれは表情は真剣に、けれど内心は大いに戸惑いながら聞き入っていた。
「あり得なくはないけど」おれは否定せずに、けれどやっぱりやんわりとした否定の響きを乗せて「確率は低そうな気がするなあ。おれの想像力だと地球の文明の延長線上でしかものを考えられない」
おれが言うと、彼女は困ったような笑みを浮かべた。
「わたしもそうなんです」
それから、そっと席を立って、
「次の講義にでなきゃならないので、これで失礼します。また、お話できるといいですね」
「あっ。うん。またね」
連絡先が交換できればよかったのだが、そんな暇はなく、彼女は颯爽と学食の席のあいだを通り抜けて出ていってしまった。
おれはしばらく彼女の影を追いかけるようにして視線を漂わせていたが、ややあって立ちあがる。次の次の講義に出席予定だが、それまでの時間をサークルの部室でつぶすことにした。
◆-・ ・ -・・- -
扉を開けると、いきなりウニのようにとげとげしい怒声を浴びせかけられた。
「おいっ!」
「なんだよ」と、おれは煙たげに答える。
部室には先客がひとり。睨みつけてくる友人を無視して、冷たいフローリングの床を踏む。
錆臭い部屋。金属ラックが壁中にあって、窓の前までもを占拠している。おかげで窓が開けられないから、血を舐めたときのような香りが一年中こもっている。けれども、なかに入って慣れてしまえば、それほど気になるにおいでもない。自宅に帰った瞬間にだけ、鼻に違和感を覚えるのと同じだ。
六畳ほどの部屋の奥には正方形のテーブルがふたつ並べられている。やたらと姿勢よく座っている友人は、文庫本片手になにか言いたげな口元。
「見たぞ」と、友人。
「なにをだ」
「裏切者めが」
「おれ、なんかしたか?」
部室を見回す。大事なパーツのネジを一本なくした覚えはあるが、新しいのを買ってきちんと補填しておいたはず。
このサークルはロボット愛好会。ロボットというと大層に聞こえるが、玩具を作って遊んでいるに過ぎない。作っているのは所謂ラジコンだ。食堂で彼女と不満を出し合っていた情報通信工学の教授がこのサークルの顧問。
棚からちいさな玩具のヘリコプターを取りだして机に置く。それからお歳暮のお菓子の缶のようなコントローラーを手にして、アンテナを立たせる。やたらと大きなレバーをガチャガチャと動かして操縦。なんとも古風なラジコン。昨今であればスマホでもラジコンは動かせるのだが、教授が言うところだと、古いものを自作することに意味があるのだという。それほど意味があったかはわからないが、部員全員で協力しながらラジコンを組み立てる作業は楽しくはあった。
おれがぼけっと童心にかえっているのを友人はしばらく眺めていたが、
「お前、食堂にいただろ」
「ああ。いたけど」
「丸テーブルに」
と、言われてそういうことかと思い当たった。
「あの子は違うよ」
「尻尾を出したな悪魔の虜め。孫陀羅難陀を見習え」
「そんだ? なんだ……? 異世界語を喋るのはやめてくれ」
「証人の出頭を要請する」
「証人ってあの子か? 要請されても連絡先を知らない」
「名前は?」
「天文学部の人らしい。あそこに座ったのは席がなかったからで、相席になったのは偶々」
なんとなく名前を友人に教えるのは癪であったので適当にはぐらかす。
「ふうん」
納得しかねるというように鼻を鳴らして、
「ぼくも彼女が欲しいよ」
「違うって言ってるだろ」
「はいはい」
と、投げ出すように言った友人は、机の上の文庫本の表紙を撫でながら、封鎖された窓の光に目を向けた。
「お前、恋人いるって言ってなかったか?」
聞くと、口がヘの字に曲がる。いじけたように顎を突き出して、
「だいぶ前に別れたんだよ」
いかにも傷心というふうにうなだれてしまった。
思い返せば、最近のろけ話を友人から聞かなかなくなっていた。高校で付き合いはじめて、大学進学で別々になったのだと言っていた。離れても変わらぬ関係性が続いていると断言していたが、やはり遠距離恋愛は難しいということか。
「なんで別れたの?」
「そんなこと聞くなよ」
と、友人はおれの手からリモコンを奪い取ると、玩具のヘリコプターの操縦に熱中しはじめた。
友人は言語学部の生徒くせに、このロボットサークルに所属している変わり者。とはいえ目当てはこの部室らしい。ここは大学の校舎のはずれにあるので生徒たちの喧騒からほど遠い。他の部員がいないときには静寂そのものなので、ゆっくり読書に耽ろうという魂胆。ついでに時々、こうして玩具を触って、気分転換もできるというわけだ。
玩具を取られたおれは少々憮然としていたが、そうしていてもしかたがないのでカバンからメモ帳を取り出した。今週の予定を確認。明日は講義がない。遊びにいこうか。そろそろ寒くなってきたから服を買っておきたい。途中で本屋に寄り道をして、雑誌の新刊を……。
だが、思考はすぐに学食での出来事に引き寄せられていく。
あのメッセージは結局なんだったんだろう。指示された通りの場所で待っていたら彼女がきた。彼女はなんだ。あのとき、食堂は混んでいたし、さっき自分が口にした言い訳みたいに、席がなかったから座っただけという気もする。けれど、彼女の視線からはそれ以上のものを感じた。警戒心を剥き出しにしていたというか、初対面、ほんの気まぐれで同じ席に座っただけの相手にあんな視線を向けるものだろうか。
――宇宙人。
あの会話に重大な意味があったりするのだろうか。宇宙人との交信。メッセージは本当に宇宙が関係しているとでも? 宇宙人だったら、閉じられたおれの部屋に侵入して、メッセージを置いていくぐらいは簡単にできるに違いない。どこの惑星の奴だかは知らないが、宇宙を渡って(少なくとも世間一般には)バレないように地球までやってこれる技術を持っているのだ。もしかしたら転送装置なんていう超科学だってあるかもしれない。それを使っておれの部屋に侵入して、メモ帳を正方形にカットして、わざわざ鉛筆を使ってメッセージを……。
なんのために?
「じゃ。ぼくは講義にいくから」
ラジコンを片付けた友人が軽く手を振って部室から出ていこうとする。
「おれもいかないと」
カバンを持って席を立ち、友人の隣に並んだ。
午後の授業はまた上の空になりそうだ。
◆-・ ・ -・・- -
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│──────────────│
│───牛前─────────│
│─────十時───────│
│──────山十字公園───│
│─────北東───────│
│───にいく────────│
│──────────────│
└──────────────┘
次の日。またメッセージ。内容は相変わらず簡潔。”牛前”という誤字が気になるが、意味は通じる。
”午前十時に山十字公園の北東へいけ”といったところだろうか。
紙片を見たおれは、山十字公園、という言葉が使われていることに驚いていた。
なぜなら、これはおれが勝手に呼んでいる名前だからだ。正式な公園名はこのあたりで有名な豪族だか武将だか大名だかの名前に由来するものだったはず。やたらと難しい漢字で、読めなかったおれは、山の近くにあって十字の土地だから山十字公園と呼ぶことにしたのだ。
おれがこう呼んでいるのを知っているのは、知り合いのなかでも数名だけ。
そのなかの誰かが犯人?
ロボット愛好会の奴なら遠隔操作のラジコンを使って犯行が可能かもしれない。いやいや、侵入だけならまだしも、カバンに入れているメモ帳を正方形に切り取ったり、鉛筆で文字を書くなどという高度なことはラジコンでは無理だ。それに、どいつもこいつもこんなイタズラをしそうには思えない。
糸口を掴んだような気がしたのだが、結論には辿り着けずにこんがらがって行き詰まる。
改めてメッセージの内容をまじまじと眺める。
無骨な文章。時間と場所の指定だけ。まるで決闘の呼び出しだ。
昨日は時間指定があやふやだったので、その点、今日ははっきりと午前十時と明言されていてありがたい。
ただ、それなら昨日のうちに言っておいて欲しかった。
おれが起きたときには時刻は既に九時半を回っていたのだから。
休みだと思って寝すぎた。
うんざりするが、指示には従ってやることにする。
急いで支度をして、外出。
◆-・ ・ -・・- -
指定された場所に到着したときには十時を越えて、公園の北東に立っている時計の針は十時十分を指していた。
どこかの芸術家がデザインしたという極彩色の奇抜な時計。
小走りで息を切らしながら、なぜ急がされているんだと不満が募る。
時計の足元で息を整える。
胸に手を当てると、激しい脈動を感じた。
シャッター音。
目を向ける。
写真を撮られたのが自分だと気がつくのに時間を要した。
公園のベンチに、学食で会った彼女がいた。
分厚いジャケットを着た彼女が、スマホを構えたまま立ちあがる。棒切れのように時計にもたれかかっているおれのそばまで歩いてくると、あと五歩ぐらいの距離で立ち止まった。そこが心の距離というわけだろうか。
正直なところ、淡い期待はあった。
指示に従えば、再び彼女と会えるのではないかと、なんの根拠もなくぼんやりと思っていたのだ。
だが、実際に会えはしたが、岩塩のように塩辛い彼女の態度を前にすると、反射的に浮かべた愛想笑いを引っ込めて、口を真一文字に結ぶことしかできなかった。
「あなたなんですか?」
おれはみじん切りの包丁ぐらいにせわしなくまばたきをしながら、困惑が閾値を超えて、脳ミソがメモリリーク寸前になっていた。
「これ」
彼女は腰に提げているポーチに片手を入れて、紙切れを取り出すと、おれの目の前に突きつける。もう一方の手ではスマホを構え続けている。どうやら動画を撮っているらしい。スマホのカメラは無言でおれを糾弾し、なんの心当たりがないにも関わらず、自分がなにかの罪を犯した加害者なのではないかと錯覚させてくる。
突き出された彼女の手、風に揺れる紙切れを覗き込んで目を凝らす。
そこにはおれが今朝見たものと似た文言があった。けれど”山十字公園”でなく、公園の正式名称が書かれている。正方形にカットされた紙片。罫線の色はしっかりとした黒。おれのメモ帳ではない。文字は鉛筆によるものだが、太く粗くて、2Bとか3Bとか、それ以上の鉛筆を使って書かれているようだ。
「それ……」
言葉が喉に引っかかる。おれが一歩前にでると彼女は一歩さがった。
「わたしの部屋に不法侵入しましたよね?」
詰問するような厳しい口調。おぼろげながらおれは状況を理解しはじめる。
「いやいやいや」
痙攣みたいに首を横に振って、自分のカバンのなかをかき回す。そんなおれを見て、彼女はまた一歩後ろにさがった。
おれはメモ帳にクリップで挟んでいた今朝のメッセージを取り出すと、飛ばされないように注意しながら手に持って、腕を精いっぱい彼女のほうへと突き出す。
「なんですか?」尖った目つき。風にあおられた彼女の髪が肩の上で激しく踊る。
「朝起きたらおれの部屋の机の上にあったんだ」
「山十字公園?」
書かれている文字を読んで、すぐ近くにあるどら焼きみたいな形の山にちらと目をやる。
「それが用意していた言い訳ですか?」
「違うよ……」
脱力。思わず弱気が言葉尻に出る。この事件に関して、いますぐに冤罪を晴らせるような不在証明は存在しない。先手を打たれた時点でおれになすすべはない。
この状況は、どちらなのかと考える。
ひとつ。彼女もおれと同じような目にあっている。そして、おれをその犯人だと勘違いしている。
ふたつ。彼女が犯人であり、なぜだかは知らないがおれを陥れようとしている。
「どうやったんです」
「おれが聞きたいよ」
泣き言めいた響き。
「合鍵があるんですか」
確かにそう考えるのが普通かもしれない。思いつかなかった。合鍵を使って玄関から入って、玄関から出ていった。単純明快な論理。
「ビデオを撮るのやめてくれないか」
「だめです」
「話し合いがしたい」
「示談の申し込み?」
「とにかくおれに話をさせてくれ」
ベンチを指さす。返事を待たずに歩きだして、倒れこむように座り込んだ。腰を落ち着けると、ほんのすこしだけだが気分がマシになってきた。彼女はおれの逃げ道を塞ぐように前に立って、まだスマホのカメラを向けている。犯罪者だと思っている相手に勇気があるというか、蛮勇というか、とにかく彼女は非常に負けん気の強い性格であるらしい。
おれはカバンから三枚のメッセージを取り出して、
「これが一昨日、朝起きたら机の上にあった。最初の一枚。これが昨日。それで、これが今日」
順番に見せる。
「昨日は書かれている通りに学食にいって、君に会った。今日も同じ」
疑り深い眼差しが突き刺さる。
「わたしもです」
彼女はすこしだけスマホをかざす手を低くして、ポーチから紙を出して見せてくれた。全部で三枚。おれの持っているメッセージと内容はほぼ同じ。
「君がやったんじゃないんだよな」
「なんでわたしが?」
「わからないけど……」
遠回りにお互い同じ境遇なのだと知らせようとしたが、どうにも伝わらなかったようだ。
おれはもうすこし詳しい状況を説明する。使われている紙はおれのメモ帳のページを正方形に切り取ったもので、鉛筆もおれのもの。犯行は夜、おれが眠っているあいだ。目的は不明。
語り終えると、訥々と彼女も話してくれた。同じように勝手に手帳の端が切り取られていて、デッサン用の鉛筆が使われているのだという。
「筆跡鑑定でも、指紋でも、なんでもいいから調べてくれ。おれじゃない」
おれじゃないのと同じぐらい、彼女でもないのだろうなと、彼女の口ぶりから感じた。彼女はまるで銃口をおろすみたいな重々しさでスマホをおろすと、ジャケットのポケットにしまって、
「じゃあ誰がやってるんですか」
「なにもわからないんだ。誰が、も。どうやって、も。なんで、も。わかっているのは、いつ、と、どこ、だけ」
おれが言うと、彼女は深い溜息をついた。張っていた気が抜けたようにうなだれて、地面にへたりこむ。おれがベンチを開けると、彼女が交代に腰掛けた。
打って変わって弱々しく体を丸めて、
「警察にも相談したんですけど、具体的な被害だとか、侵入されている証拠がないと動けないって」
それはそうだろう。こんな事件をまじめに請け負っていたら、警察官が何人いても足りなくなる。
乱れた前髪を払いながら、彼女は手元の紙片に視線を落とした。
「なんなんでしょう。これ」
おれも自分の紙片を眺める。
「本当にあなたじゃないんですよね」
まだ疑いは完全に晴れていない。
「違う」断固とした否定。
「こんな変なナンパもないですよね」
「ナンパ?」
だとすれば、これ以上に回りくどい方法はないだろう。
しかし、不明だった動機として当てはめるにはちょうどよい気もする。おれたちを会わせることが目的。このメッセージを置いていったのはキューピッド気取りの誰かなのだろうか。キューピッドが恋の矢を使わずに、恋文ですらない文を使うのは不可解極まるが。
おれと彼女が親密になって、誰が得をするというのか。
それに、これでは、親密どころか険悪になりつつある。おれたちの意思など関係なく、ただ会わせることだけが目的なのだろうか。
おれがぼーっと突っ立って、腕組みをしながら考えていると、彼女が何度目かの溜息をついた。
「また、明日もなにか書かれてるんでしょうね」
諦観めいた響き。
「友達の家に泊めてもらうとかできないの?」
それで解決になるかはわからないが。
彼女は俯いて黙りこくってしまった。相当に参っているようだ。おれは自分が楽観的すぎたことを反省する。他人が無断で家に侵入しているかもしれないというのに危機感が欠如していた。そんな軽薄な意識こそが、彼女をより深く傷つけたに違いない。
この問題に対して真面目に取り組むことを胸に誓う。
「監視カメラを設置したらどうだろう」
ふと思いついて、スマホで価格を検索してみる。結構な値段。おれの懐具合ではちょっと躊躇してしまう。いや、と考え直す。部屋に置いておくだけなのだから、ちゃんとした監視カメラじゃなく、普通のビデオカメラでいいんじゃないか。自分が寝ているあいだ、約八時間、連続撮影できればいい。それぐらいのデータ容量が収まるSDカードも買うとして……、監視カメラよりはずっと安い。
近くの電気街にいけばすぐに手に入りそうだ。
これから一緒に買いにいかないかと言ってみると、曖昧な頷きが返ってきた。
「あなたが家電量販店のアルバイトでそれを買わせるためにイタズラをしてるんじゃないですよね」
冗談なのか本気なのかわからない。ここまでくると疑心暗鬼も筋金入りだ。
けれど、ひねくれた言葉を向けながら、彼女の刺々しい雰囲気は、さっきまでよりもずっとやわらいでいるように感じた。
◆-・ ・ -・・- -
┌──────────────┐
│──────────────│
│────昼─────────│
│───学食で座ります────│
│────窓近く───────│
│──────で丸い机────│
│───待ちます───────│
│──────────────│
└──────────────┘
二日前と同じ文言。
机の真ん中に置かれた紙片を取りあげる。寸分たがわぬ正方形。書道家が書いたように達筆な鉛筆の文字。二日前の紙と比べてみるが、コピー機で印刷したみたいな一致ぶり。もしかしたら手書きじゃない?
今日は昼前の講義に出る予定がある。学食を指定しているのは、それを事前に知っていたということだろうか。昨日もおれが休みなのを知っていて、公園に出かける指示をしたのかもしれない。
スマホに通知。
彼女からだ。昨日、一緒にビデオカメラを買いにいった帰りがけに連絡先を交換した。
メッセージ。
――カメラ見ました?
――いま起きたところ
これから見る
――確認してください
――OK
台所のシンクの横に設置しておいたビデオカメラを手に取る。
録画を確認。
真っ暗な夜の部屋が映っている。今更だが、豆電球をつけておけばよかった。ほとんどなにも見えない。
早送り。早送り。早送り。なにもない。
四時間半ほどが経った頃、画面の奥に動き。
すこし早戻しして等速に。
ベッドがある方向から、ぬうっと人影が現れた。
茫漠としていた犯人像が実態を伴って姿を現したことで、なんだか胸の奥がむかむかとしてきた。
侵入経路は玄関ではなく窓?
おれの寝ている横を堂々と通ってきたらしい。
人影はテーブルの横に立つと、前屈するみたいに腰を曲げて、椅子の足元に置かれたカバンに手を突っ込んだ。
全身が影になっているので誰かはわからない。かろうじてわかるのは、背の高さがおれと同じぐらいだということと、体つきから男性らしいということ。
犯人をばっちり捉えているのに、大した情報が得られないのがもどかしい。光源を用意しておかなかった自分の気の利かなさが腹立たしい。
人影はカバンのなかから迷いなくメモ帳を取り出すと、ページをめくって、手でちぎりはじめた。
――嘘だろ。
ハサミやカッターではなく、素手で、あんなにもきっちりとした正方形に紙を切ったというのか。人間業じゃない。
紙片が机の上に置かれる。メモ帳が元の場所に戻され、今度は鉛筆を手に。
椅子には座らずに立ったままの体勢。まるでレコードに針を落とすみたいに、鉛筆の先端が紙片に乗せられる。
そこからはポリグラフが稼働しているみたいな激しい動き。
終わると、紙片は机の中央へ、鉛筆はカバンに戻される。
人影は部屋の奥へ。すぐ近くにいる犯人に気がつかず、おれは眠りこけているらしい。
それきり画面に動きはなくなった。
すごく嫌な感じだ。額から冷や汗が垂れてくる。
映像を戻して、もう一度確認する。
人間とは思えない。機械じみた動き。けれど、ロボットにしては人間じみすぎている。なんなんだこいつは。例えるなら、そう、文楽人形。マリオネットのような感じだ。
三度、四度、と繰り返し見ていると、おれはあることに気がついた。
侵入者は影に沈んではいるが、輪郭からうっすらと服装がわかる。犯人のヒントだ。見逃すまいと目を凝らす。
たぶんだが、ちょっとだらしない恰好だ。上下の服ともに、だぼっとしていて、襟がめくれ、右の手首のあたりには、袖のボタンがほつれてぶらさがって……。
おれは、自分の恰好を見下ろした。
だぼっとした上下。寝相が悪くて襟がめくれあがっている。右手の手首のボタンはほつれて外れかけているが、面倒なので直していない。
映像を確認する。自分の恰好を思い浮かべて、ひとつひとつ照らし合わせる。
――これは……、おれ?
自分の両手を見る。裏、表、裏、表。
通話。
出る。
「見ましたか?」
彼女の声。
「うん」
歯切れの悪い返答。
「どうでした?」
「その……」
まだ考えがまとまっていない。けれど、見たままの事実を話す。ドッペルゲンガーさながらの、おれそっくりの影が、紙片に文章を残していった。
「……そうですか」
彼女はおれの突飛な話を呑み込んでくれたふうで、
「実は、わたしもなんです」
「君自身が書いてた」
「ええ」
彼女はおれとは違ってしっかりと光源を用意していたらしく、間違いないのだという。
「……おれたち病気なのかな?」
「夢遊病?」
「そう」
沈黙。氷に触れているかのような感覚に耐えかねて、おれは言葉を絞り出す。
「そっちの紙に書かれていた内容は?」
「食堂のあのテーブルにいけって。一昨日と同じです」
「おれのほうも一緒」
「書かれている通りにします?」
「いや」
言い淀む。どうすればいいのかわからない。医者にいくべきだろうか。しかし、おれひとりのことだったら病気で片づけられただろうが、もうひとり、まったく同じ症状で、同じ内容の書置きを眠っているあいだに残している赤の他人がいるというのはどう説明する。
「今日は会わないようにしよう」
「そうですね。すこし、気持ちを整理する時間が欲しいですし」
「また」
「ええ」
通話を切る。
おれ自身が書いたということを認めるならば、その内容は潜在意識から浮かびあがった根源的な欲望みたいなものなのだろうか。例えばだが、恋人が欲しいという意識が、恋人御用達のあの丸テーブルに座るように誘導しようとしたとか。そういえば公園も同じかもしれない。山十字公園の北東に立っている時計は、待ち合わせ場所としてよく使われている。
だが、そうすると、一番はじめの紙に書かれていた内容はなんだ。
宇宙からのメッセージ。
恋愛とはまるで無関係。はじめに現れたからには、これが一番重要な内容に思えるが、一番荒唐無稽でもある。
頭を抱える。自己分析を進めたところで、彼女が同じ内容を紙に書いていた理由は謎のまま。同調。共鳴。シンクロ。なんと呼んでもいいが、超常的な力の影響を感じざるを得ない。おれは幽霊や悪魔なんかは信じていないが、かといって現代科学の信徒というわけでもないのだ。
工学部に通っているからこそ、現代において解明されている論理の外に、まだ未知の部分が大量に残されていることを実感している。人類が理解できていることなどほんのひと握り。その理解できていると考えている部分ですら、天動説が地動説にひっくり返ったように、いつかくつがえされてしまうかもしれない。
あの世界一有名な探偵だって言っていたではないか。不可能をすべて除外した結果、最後に残ったのがどれだけ奇妙なことであっても、それが真実に違いないのだと。
この現象は人ならざるものによって引き起こされている。
つまり、いわゆる、宇宙人? によって。
◆-・ ・ -・・- -
次の日。また次の日。その次の日。
メッセージは毎朝残されていた。
どこかにいけという指示。よく知っている場所もあれば、名前しか知らない場所もある。
彼女のほうも同様。おれと同じ場所、同じ時間が書かれていた。会え、ということだ。
書かれていた、ではなく、書いた、と言うほうが正しいのだろうが、夢のなかで動く自分の体はどうも他人という気がしてならないので、書かれていたというほうがしっくりくる。
おれと彼女の両方がよく知らない場所が指定されていることもあり、法則性は見いだせない。当然ながら、事前に示し合わせたりなどしていないし、こうなってくると以前に考えた潜在意識の暴走という説は否定された気がする。
結局、医者にいくということもせず、問題解決は先送りにされ続けた。
不気味という以外には害がなかったし、医者に診断を受けてなにかを断定されるのが怖かったというのもある。
それに、自分ひとりではないという事実が、緊迫感を緩め、緊急性を遠のけることにもなっていたのだろう。
あとは、解決しようという意気込みに反して、おれは頭の片隅で、もし解決してしまったら彼女との関係はどうなるのか、と考えてしまってもいた。
惰性によって非日常が日常へと取り込まれようとしていた。
おれと彼女はメッセージの通りに行動したり、しなかったりして、それとは関係なく会って話すこともあった。話す内容は朝に残されているメッセージのことが中心だったが、それ以外の話題もすこしずつ増えていった。
そんなある日。
┌──────────────┐
│──────────────│
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│─────女と寝る─────│
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こんなに直球なメッセージがくるとは思っていなかった。
”寝る”という言葉には複数の意味が含まれているが、これは、どちらに解釈すればいいのか。淫猥なほうではないことを願いたい。まさかとは思うが、そちらの方面の欲求が表出した結果だとか、そういう見方もできてしまう気がする。すくなくともフロイト派ならそう診断するだろう。
朝の書置きの内容について毎日彼女と情報交換をしていたが、これはさすがにぼやかさざるを得ない。
向こうの反応もおれと似たようなもの。
非常に気まずい。
翌日。
┌──────────────┐
│──────────────│
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│─────女と寝る─────│
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└──────────────┘
しつこいな。しつこいと言うしかないだろう。
とはいえ、これまでの内容とはやや性質が異なるのが気にならないでもない。一歩踏み込んできた。そんな感じだ。これは指示に従っていた結果、次の段階に進んだということだろうか。
悪化なのか、快方に向かっているのか、判断がつかないが。この変化を精確に見定めることが、問題解決に際しての重要な一手になるやもしれない。そのはずだ。たぶん。
おれは、慎重に慎重を期して、彼女に連絡をとった。
まったく下心などないことをわかってもらえるように(ないはずだ)、オブラートにオブラートを重ねて、まるで中身がわからないぐらいに包んだ、すりガラス越しの提案をしてみる。控えめな説得の言葉を積みあげるうちに、寝ているあいだ両手両足を縛ってもいいなどというマゾヒストじみたことまで口走っていた。思い返せばかなり恥ずかしい。
おれと彼女はこの謎のメッセージのせいでというか、おかげでというか、それなりに親密な関係性を築けていた(と思う)。おれの誠実な(誠実なはずだ)態度が伝わったらしく、快諾とは言えないまでも、許可に漕ぎつくことができた。(思わず手を握り締めていたが、断じてガッツポーズなどではなかった)
どこで決行するか。
彼女の家は彼女が拒否。おれの家というのもなにかが見え透いているような気がして言いづらかった。
希釈しなければならない。
どこかちょっと遠くに遊びに出かけて、旅行ついでに一泊してはどうか、ということになった。
これなら変なことを考えずに済むというもの。遊びという大義名分をスーパーの半額シールの如くに値段の上からはりつけて、お得であることをことさら強調し、印象づけて、己の注意をそらそうという巧妙な作戦というわけである。
彼女の了承を貰い、今日中、は急すぎる。けれども、もったいぶって先延ばしすることではないということで、明日ということにした。都合よく明日から三連休。場所は彼女が決めて、宿泊先の予約はおれがする。予約がとれなかったら明後日だったが、運よく、というか行楽シーズンでもなかったので、あっさりと部屋を取ることができた。
◆-・ ・ -・・- -
遊園地。
彼女が遊園地が好きだというので、てっきり定番のジェットコースターなどに乗るのかと思ったが、絶叫系は嫌っているらしかった。さらには、水上を船で巡るアトラクションは濡れるのが嫌だといい、観覧車は退屈だという。
強情かつわがままなのは間違いなかったが、おれもほぼほぼ同意見だったので、そこは互いに譲る必要がなくて助かったといったところ。おれもジェットコースターは嫌いだし、濡れるのもいやだ。観覧車に乗るとあくびがでる。
彼女の付き合いで乗らなくてはならないかと思って、少々暗い気分になっていたぐらいなので、ホッと胸を撫でおろす。
となると、遊園地のどこを楽しむのかというと、風景だという。彼女にとっては遊園地というのは動物園や植物園と変わらない場所のようだった。ただ眺める。
たしかに、遊園地というのは非常に凝った建築の集積である。人々の目を引くように計算され、異世界を演出する工夫が随所に見られる。遊園地の内外を分ける、きっぱりとした境界線が発生しており、ここは内側かつ正であり、日常は外側に置かれ、負となって遠ざかる。
陽気。
喧噪。
雲が流れる。
充満している楽しそうな雰囲気が、いまにも破裂してしまいそうだ。
「宇宙人の話をしたのを覚えてますか」
ベンチに腰掛けた彼女が聞いてきた。いつかとは違っておれは隣に座っている。
「宇宙人と交信する方法?」
はじめて会ったとき、そんな課題のことを話していた気がする。
「一番最初のメッセージって、ふたりとも、宇宙の、って書かれていたじゃないですか。どういう意味だと思いますか」
「宇宙人の仕業かどうかってこと?」
「うん」
考える。いままでに何度も考えた。けれど、答えはどこにもない。しかし、おれのなかで一番有力な説として心を占めているのは、宇宙人からの干渉。
「否定する根拠はないよね。悪魔の証明になる」
「肯定する根拠は?」
「根拠じゃないけど、それぐらいじゃないと、ありえないことが起きてる」
「怖いぐらいに」
なぜだかおれは彼女ほどはこの現象を怖がってはいなかった。おかしなことが起きているのは事実なのだが、それによって得ているものがあるからだろうか。
「認めるなら、おれたちは宇宙人に操られているってことになる。まるでラジコンみたいに」
宇宙の、という言葉を額面通りに受け取るなら、メッセージの送信者はおれや彼女の体内にSF映画のエイリアンよろしく寄生しているのでもなければ、幽霊や狐憑きみたいに憑りついているのでもなく、非常に遠方、宇宙から、この現象を起こしているのだと考えられる。
「そう。操られて、つがいにさせられようとしている」
彼女がぽつりとこぼす。
つがい、か。そういうことになってしまうのだろうか。メッセージはおれたちふたりを会わせようとばかりしている。そして”寝る”だ。実験動物のようなもの。そう考えると、熱を帯びていた心が冷えて、惨めな気分がじんわりと滲んできた。
「操るにしてもどうやっているんだろう」
「わたしたちには理解できない技術、能力。きっと考えるだけ無駄ですよ。この宇宙は重力、電磁気力、強い力、弱い力、の四つの力に支配されているとされていますが、宇宙人は第五、第六、第七の力を解明して、使っているのかもしれない」
「頭になにか被ったり、鉛の保管庫にでも入ってれば防げるかな」
「試してみてください」
自分はやらないけど、というふうだ。
「地球侵略の兆しだったりして」
冗談めかして言うと彼女は薄く笑って、ふっと空を仰いだ。きっと空ではなく、宇宙を見ているのだ。
バトル漫画ばかり読んでいるおれにとっては、宇宙人なんていうものはおおむね地球に攻めてくる敵として認識されているが、実際にいたら友好的かもしれない。しかし、これがもし宇宙人の仕業だったと考えて、この相手は友好的だろうか。いまのところ害はない。体が操られているといっても寝ているあいだのほんの短い時間だけで、怪我ひとつない。そうしてやることは、文字を使って一方的に話しかけてくるだけ。けれど重要な要件を伝えてくるわけではなく、よくわからない指示ばかり。
しばらく黄昏れていたおれたちは、ミラーハウスに寄ってから遊園地をあとにすることにした。
彼女はミラーハウスだけは好きらしい。おれははじめて入ったが、自分が無数に分裂するのを見るのはあまりいい気分ではなかった。
めまいを抱えて遊園地を出る。心がざわついているのはミラーハウスばかりが原因ではない。このあとのことを考えて、おれの頭ははちきれそうになっていた。
◆-・ ・ -・・- -
遊園地に出かける前、今日の朝にあったメッセージも昨日一昨日とまったく同じだった。
”女と寝る”
女が誰かという指定はないが、おそらく彼女だろう。それ以外は思いつかなかった。
遊園地近くのホテルの一室。
清潔に整えられた八畳ほどの空間。入口の横手にユニットバスがあり、奥にベッドがふたつ並んでいる。なんの変哲もない、ありふれた部屋だ。ベッドの向かい側にはローキャビネットとテレビ。キャビネットの引き出しを開けると聖書が入っていた。ベッドサイドのテーブルには部屋のシンプルさに対してアンティーク感のあるおしゃれなテーブルランプ。ランプの笠の下にメモ用紙の束と備えつけのボールペン。それからフロントにつながっている電話。
ふたりでひと部屋。費用は折半なので、懐へのダメージは軽微。部屋に入って真っ先に思ったのは、もうすこし豪華な部屋にしてもよかったかもしれないということだった。
遊び疲れたというより、気疲れしたような感覚。ベッドに腰をおろして、浅く深呼吸をする。
彼女が浴室を使うと言うと、おれは自分が狼狽していることを強く意識しながら「どうぞ」と無骨な返事を返した。
壁一枚隔てた向こう側から聞こえるシャワーの音に、自分の体の汗臭さがやたらと気になってきた。次は自分も身を清めなければ。だが、ここにきて着替えを持ってくるのを忘れていたことに思い至る。おれは急いで部屋を出て、茜に染まる夕暮れ空にも扉を閉ざしていない店に感謝しながら必要な衣服を買いあさった。
戻って荷物を整理していると、彼女が浴室から出てきた。濡れ髪から視線をそらして(興味のないふりをしながら)、自分もシャワーを浴びることにする。シャワーを浴びているあいだ、ドライヤーが熱風を吐き出す音が浴室の外から漏れ聞こえていた。
部屋に用意されていたバスローブを羽織って戻ると彼女はすでに眠っていた。本当に眠っているのかはわからなかったが、眠っているという意思表示がありありと見えた。奥のほうのベッドに横になって、そっぽを向いて枕に頭を預けている。
おれは空気が抜けたバルーンアートのようになりながら、新品の着替えに袖を通す。タグをとっていないことに気がつき、一度脱いで、けれどタグを切る道具が見当たらずに、結局はそのまま着ることにした。肌に当たってちくちくするが、いまの気分を紛らわすのにはちょうどいいかもしれない。
彼女を見習うことにして、部屋の電気を消すと、さっさとベッドに入る。生乾きの髪を枕の上に。じんわりと湿った感触。隣のベッドとは逆側を向いて、布団をかぶって目を閉じた。
すぐには眠りはやってこない。
今日の昼間。謎のメッセージについて、彼女とさんざん話をした。
ふたりとも、ビデオの映像によって自分自身がメッセージを書いていることは認めざるを得なかったが、その原因が自分の内側はなく、外側にあると信じていた。つまり、宇宙人が自分たちを操っているのに間違いない、と。
それぐらいに不可解な状況であり、そうでなければ説明がつかない。どんな説明であれ、説明をつけるというのは重要だ。自分を納得させる薬を処方せねばならない。宇宙人は薬であり、それなりの正当性を帯びているようにも思えた。
症状としては夢遊病。調べてみると睡眠時遊行症というのが正式な名称であるらしいが、そういったパラソムニアの原因はストレスが主であるらしい。けれどおれも彼女もこんな事態に陥るまではストレスなどとは無縁であった。日々の疲れはあるが、割合と自分の好きなように過ごしていた。
一卵性双生児のテレパシー実験というのがおこなわれているらしいが、それより遥かに密に、おれと彼女が書いたメッセージは同一性を示している。おれと彼女は双子ではないし、生まれも育ちもまるで別々だと確認済みだ。幼い頃に会っているなどという運命的な偶然は絶対になく、テレビや本などの嗜好はまるで違って、人生における接点は現在に至るまでは皆無だった。
ようするに、これは宇宙人か、それに類する超常的な存在の仕業であるというのが真実であり、もはや疑う余地のない歴然たる事実。
その宇宙人、もしくは宇宙人たちはおれたちを使ってなにをしようとしているのか。目的が明確になれば安心できるというわけでもないのだが、暗闇にある断頭台より、白日の下に晒された断頭台のほうがずっと安心できるのは確かだ。想像力というのはなによりも残酷な恐怖の根源なのだから。
”女と寝る”という指示に従ったことで、メッセージの内容が明日の朝には変わっているかもしれない。どんなことが書かれているだろうか。
ゲームクリア。コングラッチュレーション。実験は終わった、君たちは自由だ。だったらいいが、変なメッセージだったらいよいよ医者の世話になるべきかもしれない。医者すら宇宙人の仕業と認めたら、おれたちは政府の実験に使われたりするのだろうか。それはさすがにないか。SFの読みすぎだ。
眠れない。
いっそのこと起きていようか。起きて彼女が操り人形となって紙に文字を書くところを見届けようか。そういえば紙と鉛筆……。大丈夫だ。これは忘れていない。メモ帳と鉛筆はカバンに入っている。彼女は……、おれよりずっとしっかりしているから無用な心配だな。もしも、忘れていたら、どうなるだろう。紙と鉛筆を隠しておいたら。試したことはなかった。そのうち試してみよう。いま何時だ。彼女が起きあがりはしないだろうか。しかし、このままだと”女と寝る”という指示が果たせない。ふたりとも寝ていないといけない気がする。
眠れない……。
◆-・ ・ -・・- -
いつの間にか眠っていたらしい。揺さぶられて目を覚ます。開眼一番に彼女の寝起き顔。ひどいくせっ毛だ。くちびるがせわしなく動いている。なにか言っているのか。
「見てください!」
おれはのっそりとベッドから体を起こして、寝ぼけまなこをこすりながら、泊まっていたホテルの一室を見る。
視線を泳がせ、彼女の指の先をとらえて、切りそろえられた爪の先端を辿る。
ベッドの向かい側にあるローキャビネット。その上に、たくさんの紙片が散らかっていた。
ぞっ、と背筋に冷たいものが走る。まるで羽虫の死体が積み重なっているかのようだ。
一気に目が覚めたおれは、溢れて床に落ちていた一枚を手に取った。
書かれていた、というより、描かれていたのは、見たことのない記号。
楔形文字に似ている気がしたが、それよりもずっと丸みがあって柔らかい。
他の紙も見るが、いずれも意味不明の記号で埋め尽くされている。
紙は相変わらずの正方形。おれのメモ帳や彼女の手帳ではなく、部屋に備え付けられていたメモ用紙が使われている。しかも、メモホルダーに収められていたものを一枚残らず。
線は鉛筆。おれや彼女が持参したもの。大量の記号を書くのに使われたせいで、鉛筆の芯はすっかりすり減って真っ平になっていた。
全部拾い上げて枚数を数えると、49枚。
おれがその作業をしているあいだに、彼女は部屋の奥のサイドテーブルに置いてあったものを取りあげた。ビデオカメラだ。まったく知らなかったが映像を撮っていたらしい。
ふたりで録画を確認する。しょっぱなが浴室から出てきたおれの姿だったので、思わず息を止めてしまった。彼女がサッと早送りをして流してくれたが、我ながらなんとも言えない顔をしていた。所在なさげというか、しょぼくれた濡れ犬のような。
ふう、と気づかれないように息をはく。映像のなかで部屋の電気が消される。けれど、カーテンが開けっ放しになっていたので、月の光で最低限の明るさは確保されていた。
早送り。窓から差し込む月明かりの角度が変わっていく。
時折、道路を走る車のヘッドライトの光がどこかに反射して、部屋のなかにまで飛び込んでくる。
二時間ぐらいのあいだ、おれのかぶっている布団はもぞもぞと動き続けていた。
「これって起きてますか」怪訝そうに聞かれて、
「なかなか寝付けなくて」
「そうですか」そっけない返事。
それから映像のなかのおれが眠り、さらに二時間ぐらいが経った頃、動き。
おれと彼女が同時に起きあがり、ベッドから抜け出した。
目が開いている。まるで起きているようで気味が悪い。なんだか蝋人形を彷彿とさせられる。
鏡写しのような動作で、ふたりともがカバンから鉛筆を取り出した。メモ帳や手帳も手に取ったが、指先で残り枚数を確認するようなしぐさをした後、それはしまわれて、ベッドサイドのテーブルにあるメモ用紙に手が伸ばされた。
おれのメモ帳はだいぶ薄っぺらくなっていたし、49枚も書くつもりであれば、足りないと判断されたのだろう。自分ではない、何者かの意思を感じて鳥肌が立つ。
すべてのメモ用紙を手で正方形にちぎる。なんとも無造作にやってのける。遠隔操作されている精巧なロボットという印象が強くなる。
ローキャビネットの上に切った紙を置いて、ふたりで肩を並べて立つ。目を見合わせたりはしない、視線は紙片に集中している。
鉛筆を垂直に紙に落として、書道家が筆を滑らすような迷いのなさで、一心に記号を書く。
だが、書く動作は同時ではなかった。おれが書いて、彼女が書く。交互だ。またおれが書くと、彼女が書く。
儀式的な雰囲気。
紙がなくなるまで繰り返される。だが、最後の一枚をおれが書くときにはかなり長い間があった。書き終わってからも長い間。おれと彼女が記号の書かれた紙片を見つめている。
窓から射し込む光の色がほんのりと変化してきた頃、おれたちは逆再生のような動作で鉛筆をしまって、ベッドに戻った。
そこからは何事もなく朝。
彼女が目を覚まし、紙片の山を発見して驚愕している。
「これ、なんでしょう?」
聞かれても困る。とはいえ、彼女は答えを求めているのではなく、困惑を共有したいだけだと思う。
「なんだろうね……」
「悪魔が暴れたあとみたい」と、彼女。
たしかにこの混沌具合は悪魔的だ。悪魔憑きならエクソシストの出番だが、教会にでも依頼すれば悪魔払いをしてもらえるだろうか。
紙片を一枚ずつベッドの上に並べてみる。家具の裏などに隠れていないか確かめたが、49枚が全部で間違いないようだ。
それぞれ違う記号の並び。違う内容。
「線が濃いのはわたしが書いたやつですね」
確かにそうだ。彼女が持ってきた鉛筆は6B。おれのはHB。判で押したような記号の羅列だが違いがある。
「太さで書かれた順番もわかりそう」
「ほんとだ」
と、おれは彼女の観察眼に感心する。
書いているうちに鉛筆の先がすり減るので、あとに書かれたものほど線が太くなっている。
時系列順と思われる順番に並べなおす。けれど、それでなにかがわかったわけでもなかった。しかも、正方形の紙に均質に記号が並べられているので、どちらが上か下かもわからない状態。
おれはとりあえず、すべてのメッセージを写真に収めておくことにした。彼女も同じようにする。
「これって、宇宙人の文字なのかな」
「そうなんじゃないですか。たぶん」
そこでおれは、ぱっ、と思いついたことがあった。
「このメモの写真、友達に送ってもいいかな?」
聞いてみると彼女は眉をちいさくひそめる。あまり話を大きくしたくないという気持ちはわかる。けれど、今日のこれはあまりに急激な変化であり、もはやふたりでなんとかするには手に余る事態。助っ人が必要だ。
「うちの大学の言語学部に知り合いがいるんだ。変な奴でさ。シュメール語が得意らしい。謎解きゲームだって言って、解読させてみたいんだけど」
彼女は逡巡していたが、
「わたしのことは言わないでくださいね」
「言わない。約束する」
さっそくメールを送る。すぐに返信が返ってきた。詳しいルール説明を要求される。メッセージが書かれた順番だけは明確だが、文字らしき記号をどちら向きに読むのかはわからない、と伝える。解いたらなにかあるのか、と友人。おれはすこし考えて、宇宙旅行、と口からでまかせを返信してやった。
この友人、ロボットサークルの部室に入り浸って読書に励んでいるが、愛読しているのはおれと同じくSF小説。ことあるごとに、宇宙にいってみたい、と夢のようなことを言っている。宇宙飛行士でも目指したらどうだ、と勧めてやると、貧弱な肉体を見せつけながら眼鏡を光らせ、本当に目指したら責任とれよ、とのこと。そうして嘆息しながら、個人でも宇宙にいける時代にはなったがお金がなあ、と直近の散財を思い返して胸を痛めるのが常だ。
友人からのメッセージ。
――マジだろうな
――こっちは副賞が欲しいだけだから宇宙旅行は譲るよ
――副賞ってなんだ
――賞金100万円
――これなんのキャンペーンだ
URLよこせ
――秘密
――解読のヒントは?
――まったくなし
――嘘だったら許さんぞ
――そのときは宇宙人に会わせてやる
――ふざけてるのか
――ふざけてない
真剣
頼む
人生かかってる
――わかった
最後の連絡はすぐにではなく、ひと悩みしたぐらいの時間を開けてから送られてきた。メッセージが途切れる。取り組んでくれているのだろう、と信じたい。完全に騙すことになってしまっているので、あとでどう詫びるかも考えておかなければならなそうだ。
ひと仕事終えて顔をあげると、彼女も自分のスマホを触っていた。
「わたしも友達に頼みました」
「こういうのに詳しい人?」
「ええ」
「女の子?」
「そうですけど」
それがなにか、という語調。やってしまった、と思う。
「遠くの大学に進学をして、いまは語学の勉強をしてる子です」
平坦な声で説明をされて、おれは無言で頷く。そして、ふと時計を確認すると、
「あと十五分でチェックアウトしないと」ぎりぎりの時間だ。
「あっ」彼女はぴょこんと立ちあがって、荷物を片付けはじめた。
「これ、おれが持って帰ってもいい?」大量の紙片。
「じゃあお願いします。保管しておいてください」
「わかった」
写真はあるが、あとで現物が必要になるかもしれない。
すぐに支度を済ませて部屋を出ると、なんとかチェックアウトに間に合った。
◆・ -・ -・・
翌日。
メッセージはなかった。
どこにも紙片は置かれてない。
翌々日も、メッセージはない。
ふっつりと途切れてしまった。
もしくは、治ったという表現をしてもいいのだろうか。
食い違っていた歯車がふいに元通りにはまったという感じ。
なんだか拍子抜けするぐらいにあっけなく、正常な日常が戻ってきた。
ビデオカメラも設置しているが、映っているのは朝まで微動だにせず眠りこけている自分の姿だけ。
彼女のほうも同じ。
あれ以来、異常はなくなったのだという。
約一ヶ月ほどが経った。
一週間ぐらいまでは、朝になればいつまた紙片が置いてあるのではないかと戦々恐々としていたが、二週間を越えた頃には、だいぶ気が緩みはじめ、三週間で確信に変わり、四週間後の今日という日には、生まれ変わったような清々しさと解放感で小躍りせんばかりになっていた。
祝勝会をしよう、と彼女に連絡をした。
なにに勝ったかは問題ではない。勝ったという事実が重要なのだ。問題を二元論化して、優位なほうに自分がいるという自覚を目覚めさせることで、一連の事件はやっと終わらせることができるに違いない。
と、いうのは頭っからの言い訳であり、とにかく彼女と会う口実をおれはずっと探していた。
四週間に内包されているのは二十八日というやたらと中途半端な日数なのだが、一ヶ月という呼称を用いることでいかにもキリがよさそうに思わせられる不思議な単位であり、その実、一ヶ月が二十八日なのは閏年ではない二月だけという欺瞞に満ち溢れた表現なのだが、彼女を誘うにはうってつけの言葉に思えた。
だが、
「まだ、一ヶ月じゃないですけどね。三日足りません」
「そうだね」
浮ついた心を指摘されたような気になりながら、おれはコーヒーのカップを傾ける。
飾り気のないオープンカフェ。見えないおしゃれに気を使いすぎて、パッと見には、なにもないように見える店。彼女のいきつけらしい。長居しても怒られないので、レポート作成に最適なのだとか。
窪まった立地。周りを高い建物に囲まれているので影が暗く、どこか陰気臭い。おれたち以外には客が見当たらないがらんどうの店。長居を咎められないのも、さもありなんではある。
遊園地にいったあの日以降も連絡は取り合っていたが、実際に顔を合わせるのは四週間ぶり。大学で見かける機会があるにはあったが、お互いに話しかけたりはしなかった。おれは心底話しかけたかったが、そういうときに限って講義の合間の移動中だとか、教授に呼ばれているだとか、急に入ったバイトの予定があるだとか、やんどころなき事情に縛られていたのだ。
店にきて彼女と久しぶりに会ってから、やたらと喉が渇いていたおれは、すぐにコーヒーを飲み干してしまった。二杯目を注文して、
「あれからどう」
冴えない質問だ。正月に会った親戚のおじさんじゃあるまいし。
「なんだか、気持ち悪いぐらいなにもありません。思うんです。全部夢だったんじゃないかって……」
「わかるよ」
というのは、調子を合わせたわけではなく、心の底から同じ思いだった。
しんみりとした空気。二杯目のコーヒーがきた。角砂糖をひとつ落として匙でぐるぐる。ミルクを注ぐと渦になった。
彼女は安っぽいパフェの上に乗った果物だけを食べて、その下に残るクリームを見つめている。
張り出したカフェテラスの端にあるテーブル。あたたかな陽気。テラスの庇でやんわりと遮られた太陽の光が、足元に陽だまりを作っている。
電話。
「ごめん」
ひと言彼女に断って出る。友人からだ。
「前に頼まれてたやつだけど、期限はいつ?」
いきなりこう切り出されて、
「なんだっけ」
「おいっ!」怒声で記憶が揺り起こされた。
サークルの部室で会ってもメッセージの解読については一切触れてこないから、やっぱり手を付けてもらえてないのかと思っていた。
「あっ! ああ……。ああ、うん」繰り返して「えっーと。どう? わかった?」
相手の質問には答えずに、とりあえずこちらからの要求が通せないか試す。この傲慢な思惑は意外とすんなりと通って、
「もうちょっとなんだよ。いや、そんな気がするだけなんだけどさ。文字の向きはわかったし、表語文字と音節文字のあいのこっていうのは概ね検討はついてて、でもそうすると解釈が複雑になるんだよなあ……」
それから友人は訳のわからない専門用語を並べ立てつつ、経過を報告してきた。ちんぷんかんぷんになりながらも読み取れたところによると、あのメッセージの記号は、どこかの古代文明の文字との相似が認められるらしい。それが宇宙人と交信していたという怪しい伝承のある文明と聞いて、このSFだけでなくオカルトも好きな友人がたどり着くべくして答えにたどり着こうとしているのだなという納得と、きっとその伝承は真実なのであろうという納得の、二重の納得をしていた。
友人は過去の偉大なる言語学者の方々が解読したその文明の文字をとっかかりにして、かなりいい線まで解読を進めているようだ。だが、それぞれの文字には相違する点もあり、そこで行き詰っている、ということらしかった。
「……意味が通らないんだよ。どうしてもわからない単語があって。それに、このままだと、あまりにも内容が……、こんなの問題にするか? って感じで」湿っぽい溜息「ロゼッタストーンかベヒストゥン碑文でもあればなあ」
と、友人は話をしめくくって、
「解読に関してのヒントはないんだよな」聞いてくる。
「ない。けど、本当に解読できてるとは」
舌を巻いていると、
「ぼくのこと信じてなかったのか?」
「いや。信じて頼んだんだよ」
言いつくろうが、通話の向こうから棘のような気配。あと一歩というところで解けないもどかしさで気が立っているらしい。
「あの」
彼女が手をはたはたと振っている。
「ちょっと待って」友人のほうに言って、カフェテーブルの対面に座っている彼女に向き直る。
「なに?」
彼女もスマホを手にしている。こちらが話し込んでいるあいだに、向こうも電話をしていたようだ。
「そちらも解読が進んでるんですよね」
そちらも? と、引っ掛かりながら、
「結構いいとこまでいってる、って本人は主張してる」
おれの言葉がこぼれて伝わったらしく、友人が電話の向こうで不満げに騒いでいる。
「わたしの友達と、そちらの人で意見交換をしてみて欲しいんですが」
「それって、ここに呼ぶってこと?」
「いいえ。とりあえずは、こうすればいいと思うんです」彼女が通話相手になにか言ってスマホを差し出す。「そっちも」促されて、なにがやりたいのかわかった。
おれは友人に、
「もうひとり解読を頼んでいる人と替わるから、ちょっと意見交換してみてもらえる?」
「もうひとり? やっぱり信用してなかったんじゃないか!」
憤慨を宥めるのも面倒だったので、
「もう替わるからな」
さっさとスマホを差し出す。
「聞こえますかー?」
彼女の友達の声。明朗な女の子という印象。
「あっ」と、おれの友人は声を細くして、ちょっと萎縮したように、
「どうもはじめまして……」
スマホとスマホが並べられて、おれの友人と、彼女の友達が言葉を交わす。
「そっちだとどのくらい進んでます?」いきなり本題。
「そのう。この文字って角型、丸型、櫛型に分解できると思うんですけど……」
そこから、またおれにはよくわからない言葉が飛び交う。けれども、ふたりのあいだでは通じているようだ。
激しい議論のあと、
「だったらこれって名前?」と、友人。
「こっちはそうだって考えてるんですけど。グループAとBで、それぞれ一方にしか出てないじゃないですか」
「えっ。じゃあ、やっぱり……」
「だったら相当ふざけてますよねー」
なんだろう。内容が判明したらしい。おれと彼女はスマホ同士の会話を横で聞きながら、顔を見合わせる。
それから、最終確認のこまかいすり合わせをしていたようだったが、おれの友人が突然、
「あれっ? あの、名前まだ聞いてませんでしたよね。伺ってもいいですか」
「……うーん」
と、彼女の友達は渋る。すこし前ぐらいから、なんだか態度が変であった。具体的には、おれの友人が古代文明の宇宙人云々の話をしはじめたあたりだ。
「そっちから名乗ってもらえます?」
「いや、ぼくは。ちょっと。お先にどうぞ」
譲り合いだか押し付け合いだかがはじまって、
「……やっぱりそうだ!」
彼女の友達が、彼女の名前を呼びつける。びっくりした彼女がスマホを手に取って、何事かと聞いている。おれも自分のスマホを取りあげて、友人にどういうことかと尋ねた。
「お前ひどいことするな」と、友人。かなりの怒気が電話越しに伝わってくる。
「どういうことだよ」
「知らなかったじゃすまないぞ」
「本当にわからない」
「とぼけてんのか?」
「マジでわからん。クイズは解けたのか?」
「解けたよ。たぶんだけど。お前が作ったんだろ? 感服するよ。ぼくをおちょくるためだけに、ここまで手をかけるなんて。言語学に詳しかったんだな。どんだけ調べたんだ?」
「なにか行き違いがあるんだと思う。作ったのはおれじゃない」
「じゃあ彼女が作ったのか?」友人が言う彼女とは、さっきまでスマホ同士で会話をしていた相手のこと。彼女の友達。
「違うよ。答えを教えてくれ」
宇宙人の残したメッセージ。その内容がわかったのなら、どうしても知りたい。あんなメッセージが送られていた理由、消えた理由、それらがはっきりすれば、今後の憂いがきれいさっぱりなくなるかもしれない。
誠心誠意頼み込む。すると、
「……メールで送るから確認してくれ」
「ありがとう。頼む」
通話が切られて、ややあって、メールが送信されてきた。目を通す。まだ友達と話している彼女にスマホを渡してメールの画面を見せた。読み進めるうちに、なんとも微妙な表情が返ってくる。おれも同じような表情をしているはずだ。
彼女が通話を終えると、ふたりして飲み物を口にして一服。
「元カレなんですって」
「それであいつ怒ってたんだなあ。元カノと知らされずにいきなり通話させられたから」
「こっちも相当怒られました」
「遠距離恋愛になって別れたって言ってたな」
「それで、しかも、こんなメッセージの解読を頼まれたら、頭にくるでしょうね」
「そりゃそうだよねえ」
友人が送ってくれたメールにもう一度目を通す。49枚のメッセージ。解読されたやりとりの全容。
「わたしたちってスマホだったんですね」
「スマホというか、中継器というか」
「もうメッセージはこないってことでいいんでしょうか」
「こないんじゃないかな。この様子だと」
「試してみましょうか」
「試すって?」
彼女はすこしいたずらっぽく笑って、
「ふたりを復縁させるんですよ」
「……なるほどなあ。あいつまだ未練ありそうだったし、お相手が許すなら、叶いそうだけど」
「説得してみます。向こうの大学で、まだ彼氏はいないって言ってましたから」
「だいぶ悪いことしたから、代わりにキューピッドになってやるか」
「ええ」
宇宙からのメッセージ。
解読されてみれば、なんてことはない内容。
送っていたのはふたり別々の宇宙人だったらしい。
それが、地球を挟んだ宇宙と宇宙の反対側からおれたちに働きかけていた。おれたちふたりを揃えて会話をするために。
そのふたりは恋人同士。考えられないぐらいに超々遠距離恋愛だ。
最後の会話は別れ話。
49のメッセージで、すったもんだの言い合いが繰り広げられ、その末に、絶縁が宣言されていた。
どうしても相手の気持ちを確認したかったのだろう。内容からは、そんな必死さが読み取れた。
「でも」と、おれはコーヒーの水面で回るミルクの渦が、いまは完全に混ざり合っているのを確認しながら、
「その検証が成功したら、また宇宙人からのメッセージがくるかもしれないってことにならない?」
いまやおれは、宇宙人にかなり親近感を持ってしまっていた。
彼女は控え目に頷いて、
「確認するまでは、わたしたち一緒にいないといけないですね」
宇宙を隔てた恋人たちを祝福してやりたい気分。
次に連絡を取るときには、今回のような手間をかけさせずに済むだろう。
おれはただただ、仲直りしろよ、と心の底から願うばかりだ。