表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
54/56

54 育児#2

 愛香がまだ1歳にならない11月の上旬。優香が志望するコンピュータサイエンス学部に総合型選抜で合格した。

 意欲や大学への適正を重視して学力は問わない大学もあったAO入試から変わり、学力も一定程度必要とされるのが総合型選抜だ。ただしその程度は一般の入試ほどじゃないから、優香なら改めて受験勉強をする必要はない。


 コンピュータサイエンス学部の総合型選抜では、一般的な学校で学ぶ知識だけでなく、ソフトウェア開発の実績や作成したプログラムの提出が有利に働く。

 そのプログラムとして僕が優香に薦めたのが、世界中で利用されている機械学習オープンソースプラットホームに自分が作成した関数群を追加することだ。


 その基になるのはアレンが過去に発表した論文だ。既存の処理と比べて大幅な改善とまではならないと考えたアレンは、理論だけを発表して実装、つまりプログラムとして完成させるまではしなかった。

 もしそれを受験生で実装した者がいたとしたら、その知識は大学から合格レベルを遥かに超えると評価される。もし論文にわからない部分があっても、優香はその著者とは直接教えてもらえる間柄だ。これは願ってもない条件だ。


 ソフトウェアの世界では個人のスキルによってその生産性に何十倍やそれ以上の差が発生する。優香は初心者の段階をあっという間に通り過ぎて、トップクラスに分類される才能を発揮し始めていた。

 彼女の才能を重視するなら、僕は国内の大学にこだわる必要はないと思っている。だけど今の時代でも全てをリモートで済ませることはできない。

 少しでも愛香や僕と離れる時間が増える選択は優香にとって考慮にも値しない。それを知っている僕は最初から余計なことは言わなかった。


 ◇


 入試の面接より前。事前に提出されたソースコードとその受験生の名字を見て、受験担当の教授が僕のいる研究室に飛んできた。以前ちょっと話したことを覚えていて僕に説明を求めたのだ。

 僕は知り合いの教授がいる研究室に1年の時から参加している。入学前から株式投資の実務経験があることが認められたからだ。


 優香は単にアレンの論文を実装しただけでなく、そこに彼女自身の発案による処理も追加した。僕は自分の理解している範囲で教授にそのことを説明した。

 それを聞いた教授の口からは優香を賞賛する言葉が次々と溢れ出て、それに同意しかない僕を十分に満足させてくれた。


 その教授が帰った後、研究室のメンバーで院生の奈良沢さんが僕に話しかけてきた。年上だけど友人と呼べる間柄だ。


「神崎って、そんなドヤ顔もするんだな」


 そんなに顔に出ているんだ。少しは取り繕おうとしてみたけど、やっぱり口角が緩んでしまう。


「神崎もここじゃ何度も褒められてただろ。入学前に投資の委託で実績を上げていたり、大手で導入が始まったAIを個人でやってたりして。自分の事だと受け流すのに今日はめっちゃ嬉しそうだな。……もしかしてシスコンか?」

「シスコン? 優香は僕の妻ですよ」

「へ? 妻!?」

「……意外でした? 結婚指輪もしてるでしょう」

「ああ、それか。……ファッションとか親の肩身とか、せめて婚約指輪だろう思ってた人もいたんだよ。……気の毒に」

「え? 奈良沢さんは結婚なんて墓場だと思ってる人ですか?」

「いやいや。そっちの意味じゃないって。そうかあ〜、女性への対応がスマートだと思ったら既婚者の余裕ってやつだったのか」

「……あれ? あの、もしかして?」

「そうだよ。誰とは言わないけどな。そうか、気づいてなかったか」

「本当ですか。この見かけですよ?」

「そんなに悪かないだろ。経済学部生としての実力は文句なしで人柄も合格点だ。でもまあ、さっきの様子を見たらベタ惚れだってわかる。そいつには上手く言っといてやるよ」


 ◇◆◇◆


 愛香の可愛さも成長につれて拍車がかかっている。それは身内からの評価だけじゃなく海外の目から見てもだ。

 優香がチャットやWeb会議に出る時は、女性として関心を持たれたくない彼女は愛香を抱いて画面に出ることが多い。

 そんな儀礼的な挨拶が必要じゃない場合でも、思わず口に出たという感じで参加者のマイクから可愛いという言葉がよく聞こえる。


 愛香が起きていて話の雰囲気が悪くないときは、音声はヘッドホンだけでなくスピーカーからも流している。相手の口だけ動いて声が出ないと愛香が気にするからだ。

 睡眠の邪魔をしたくないのはもちろん、怒った声や嫌な口調の声なども聞かせたくはないから、必要に応じて声を切っている。

 最近は不快に聞こえる声をスピーカーからは流さないというAIを、優香自身が開発してリモート時には有効にしている。


 愛香の話せる言葉は多くない。というか今のところ次の4つだ。


「ママ」

「パパ」

「ばあちゃ」

「じいちゃ」


 意外だったのは、『ばあ』ではなく『ばあちゃ』、『じい』ではなく『じいちゃ』と最初から言ったことだ。ママやパパよりも言い始めが遅かったとはいえ愛香はまだ単語を話し始めたばかりだ。普通ならいきなり2音節の言葉を口にしたりはしない。


 愛香は聞く方ではもっと多くの単語を理解している。愛香のしたいことや食べたい物を僕が言葉で言うとそれに頷くようになっている。

 もしかすると愛香は、自分がまだ正しく発音できない言葉を話したくないのかもしれない。1人遊びをしている時に発音を試すように声を出すことがある。

 ようやく1歳になった子どもがそんな複雑な思考をするのはあり得ないと思う。でも1人で知育玩具を弄っているときの愛香の真剣な表情を見ると、既にそのくらいの知能があっても不思議じゃない気もしてくる。


 僕が話しかけると愛香はいつも笑顔になってくれる。あまり人見知りはしない子だけど、僕と優香以外には笑顔を見せないことも多い。

 お義母さんには僕たちに次いで笑顔が多いけど、お義父さんや他の親戚に対してだと知らない人より笑顔が多めという程度だ。


 僕としては自分にはという特別感は嬉しいけど、愛香にはその可愛い笑顔を見せることでより多くの人に愛されて欲しいという気持ちもある。

 もっとも、僕から見たら無愛想な表情でも大抵の人はそれを見て可愛いと言うんだから、気にしているのは僕だけかもしれない。


 ◇


「あいかは、ことばが、じょうずに、いえない。だから、はなさない?」

「うん」

「パパは、そんなこと、へいき。あいかの、こえを、ききたい」


 そんなことを何度か話してから、愛香は僕にどんどん言葉を使うようになった。言い淀んでいる時は、僕が愛香の言いたそうな言葉をその意味の説明も併せて話しかけた。


「あかい、……おもちゃ、どこ」


 愛香の持ってる赤い玩具は、ボールとクルマと積み木と人形と組み立てパズルだ。名前が出てこないのは2つある人形か買ったばかりの組み立てパズルのどちらかだろう。


「にんぎょう、かな? あかい、ふくの、おんなのこ? それか、どうぶつ?」

「ううん」

「じゃあ、パズル、かな? いろいろな、かたち、くっつける」

「うん。パズル?」

「パズル」

「パズル」


 僕の言葉を繰り返して愛香がにっこりと笑う。覚えることに熱心なのはママ譲りだな。


 ◇◆◇◆


 年末も近い今日、優香に大学の構内を案内することにした。特に注目なのがこの大学に併設されている認可保育所で、職員だけでなく学生も利用可能になっている。

 だから優香だけでなく愛香も一緒だ。施設の雰囲気に愛香が馴染めるかどうかを確認する必要がある。そして想像していた通り、愛香を抱いた優香は学内で滅茶苦茶に目立っていた。


 僕としては入学した優香の美貌に惑わされる学生が続出しないように、彼女が既婚者だということをアピールしておくという目的もあった。

 だけど2人の姿はあまりにも絵になり過ぎている。愛香の存在を優香への恋心の障害だと思う男なんて、そんなにいないんじゃないだろうか。


 愛香を毎日大学に連れてくると世話をできなくなるお義母さんが可哀想なので、保育所を利用するのは2人の時間割に空きコマがある曜日だけだ。

 講義の合間に愛香を構いたいというのは当然として、連れてくる最も大きな目的は、安全を十分に確保した上で愛香を様々な幼児と触れ合わせることだ。


 この保育所では大学が主導して先進的な試みを幾つか行っている。その一つがAIカメラによる幼児の監視だ。

 保護者から許可を受けた幼児は、1人1台の追尾型カメラで常に撮影していて、何か異常を検知したらその場の保育士に通知する。保育士が適時に対応しなかった場合は保護者や施設の管理者にも通知が送られる。

 保護者が希望すれば自分の子どものリアルタイム動画をいつでもスマホで見ることもできる。


 ◇


 保育所を出た後は、優香の希望で僕の所属している研究室に行った。僕の後について愛香を抱いた優香が室内に入ると、その場の雰囲気が一変した。


「初めまして。神崎誠の妻です」


 優香がそう挨拶をしても誰も返事をしない。


「えっと、妻の優香と娘の愛香です」

「……マジ?」


 誰かがボソッとそう言って、その後はまた沈黙が続いた。辺りを見回した僕は奈良沢さんを見つけて優香に紹介した。


「こちらがお世話になっている奈良沢さん。妻の優香です」

「初めまして。貴女のことは主人から伺っています。女の方だったんですね」

「えっ? いやっ、ご心配なく」


 奈良沢さんは慌てた様子でそう返した。


「神崎が自分の細君にぞっこんなのはわかってましたから。いや、納得です」


 それを聞いた優香の頬に赤味がさした。


「どうしてそう思われたのか、良ければ聞かせていただけませんか?」

「優香。それはまた次の機会にしよう。他の人も紹介したいから」


 そう言って優香と移動しようとした僕の肩を奈良沢さんがつついた。


「もしかして、親の決めた許嫁とか?」

「大恋愛です」


 僕が答える前に優香がはっきりとそう言った。そして目を合わせてきた彼女に僕は笑顔で頷いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ