53 育児#1
大学の入学式が終わった。明日から僕はこの大学に通学することになる。そこそこ距離はあるものの、タクシーと新幹線なら片道1時間程度だ。
新幹線では高速な有料Wi-Fi、タクシーでも人工衛星とリンクしたWi-Fiが使えるので、通学の時間を無駄にすることはない。
模試では十分に合格できる成績だったのに、僕は手を抜くことなく受験勉強を頑張った。それは体調不良や問題との相性で万が一にも落ちたくなかっただけでなく、できるだけ自由に人数制限のある講座やゼミや研究室を選びたかったからだ。
おかげで希望通りのスケジュールで取ることができた。通うのは月火木金の4日で、1限目と5限以降は必須の授業のみだ。
愛香は8Kモニターに映っている僕を認識できるようになった。僕のスマホで撮った画像を自宅に送信しているわけではなく、僕にそっくりで精細なバーチャル画像に実声を当てている。
愛香の手や頭や目の動きを感知して、それに合わせて画面にさまざまな効果を表示することもできる。遠隔で我が子の様子を見るだけでなく遊ばせることも可能なわけだ。
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今日の分の出来事を文章として打ち込んで、写真も含めて電子ファイルに保存する。それが裏表合わせてA4用紙1枚分の量になったので印刷して、棚にある背表紙にイタリア語で『長女』と印刷したキングファイルに追加した。
僕は愛香について自分が見聞きしたことや調べたことだけでなく、優香やお義母さんから聞いたことも毎日記録に残している。印刷したQRコードをスマホで撮れば、音声や動画の再生も可能だ。
綾香が生まれる前から記録を始めたので、生後6ヶ月でもかなりのページ数になっている。
愛香にはいつか僕の血を引く子供ではないことを伝えるけれど、その時にはこのファイルを渡すつもりだ。
僕を含めた皆がどれほど愛香を大切にしてきたかを知ってもらうためであり、予定外で愛香が事実を知ってしまった時にも役に立つと思っている。
赤ん坊の体はメラニンが少ないので、生まれたばかりの時は目の色が灰色や青に近い色だったり、体毛も薄い色であることが多い。しかし個人差はあるが6ヶ月ぐらいにはその色も安定してくる。
愛香の目は淡い褐色のヘーゼルアイで成長による変化があまり見られない。眉やまつ毛は濃くなったけど、髪の色は薄いままだ。
湊川は黒目黒髪で母親も同じだったから、湊川を認知しなかった父親、愛香にとっての祖父からの隔世遺伝かもしれない。
日本人でも九州には僅かながらヘーゼルアイがいるそうだ。湊川のことを知らないイトコたちには、目の色は僕の母方の祖母の血で、髪の方はお義母さんからの遺伝だろうと言っている。
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先々週のGWは鈴原家でも特に帰省の時期というわけではない。でも、信一郎と優奈の兄妹がいる河本家と、鏡花と進の姉弟を連れた三男叔父と、春樹と結衣の兄妹の大谷家がそれぞれ別の日に遊びに来た。
全員が成長した愛香に手放しで可愛いと言ってくれた。すっかり気心の知れた親戚たちの言葉だから僕への忖度で言ってる訳じゃないとわかる。
つまり親の欲目じゃない公平な目で見ても、愛香はとても可愛いということだ。
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合格後の旅行で優香とセックスをしてから、僕は自分が彼女に対して自制心を保てるかが心配だった。だけど旅行から1週間と経たない内に、僕は彼女に無理をさせないよう自分を抑えられるようになった。
愛香がいつも近くにいることも理由の1つだけど、それ以上に大きかったのは優香のベッドの上での雰囲気が変わったことだ。
これは上手く言えないんだけど、それまで彼女から感じていた満たされなさとか渇望とかいうようなモノが、旅行後にはすっかり影を潜めてしまった。
すると僕の方も、まだ可能な状態であったとしても、回を重ねなくても抱きしめているだけで満足して眠れるようになった。
もし暇と呼べる時間があった頃の僕だったら、やっぱり優香の体に溺れてしまっていたかもしれない。でも今の僕にはそれ以上にやりたいこと、やるべきことが沢山ある。
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前に説明したように、僕は投資について従来の手法以外にもAIを道具として活用している。
わずか3年ほどで大手と呼ばれるまでなったAI企業の成長前の株を、祖父のつてもあって購入できた僕は、その後もIT関連の企業への投資を積極的に行った。
最初のように大儲けとはいかなかったものの、AIの現状と今後の展望について人並み以上に知識を深めることのできた僕は、平均してかなり良い投資結果を得ることができている。
僕は基本的にAIを開発ではなく利用している立場だ。現状のAIの道具としての限界がどこにあるのか、将来的にはどう発展していくのかを正しく判断するには、技術者としての知識も必要だと感じている。
僕はそれを投資先企業と関係のある技術者とかから収集していたんだけど、僕自身の知識不足によって理解できないことが結構あった。
そこで僕は、僕よりその方面の理解に優れている優香に解説をお願いした。優香は二つ返事でその願いを受け入れてくれて、ネットその他から関連する情報の収集と学習を行ってくれた。
新婚旅行から帰った後に本格的な受験勉強を始めた優香は、僕の薦めで志望する学部を変えることになった。彼女は僕と同じ大学のコンピュータサイエンスと数学を学べる学部を選択した。
優香のその方面の実力について、僕は良くわかっているつもりだった。だけど本気になった彼女の能力はその僕の想定を軽々と超えていた。
優香は僕の受験勉強の邪魔にならないように、僕の知人に聞けばすぐわかることも独学で勉強していた。残念ながらその手の初心者向けの資料は多くないので、彼女は随分と苦労していたようだ。
その枷を外し、僕に対して全力を出すと宣言した優香は、あのかなり偏屈なアレンに認めさせるほどの才能を発揮するようになった。
こうなると優香の能力を普通の受験勉強で浪費するのはあまりにも勿体ない。もっと効率よく、後になって確実に役に立つことに使うべきだろう。
僕がそのために考えた案は、アレンも含めた3人で検討と修正が行われた。そして優香がその案を成功させたらどうなるかについて、僕は誰とは言わずに入試を担当する教授に確認した。
「もし、その領域に達した人が受験したとしたら、それを落とすなんて頭がおかしいとしか思えない」
彼女がこのハードルを乗り越えさえすれば、合格は確実ということだ。
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優香の集中力は僕から見ても大したもので、それを邪魔しないように彼女の勉強中は、僕はより積極的に愛香の世話をするようになった。母親への愛着が深い乳児だと父親の世話だけでは満足しないという話を何度か聞いたけど、幸い愛香の場合はそんなことはなかった。
むずがって泣いていることがあっても、愛香の反応を見ながら穏やかな口調で10分ほど話しかけ続けさえすれば、やがて安心したように泣き止んでくれた。もちろん、ミルクやオムツや睡眠などの要求にはすぐに応えることが前提だ。
僕には原因がわからないまま愛香が泣き続けたことも何度かあった。激しい声じゃなかったので病院には行かず、お腹をさすったり、軽くゆすったり、服を脱がせたり、逆に重ね着させたり、首の辺りを指の腹でこすったり、一緒に散歩に出かけたりしているとやがては泣き止んだ。
お腹にいた時のトントンと同じリズムで胸を軽くポンポンとしてやることで、眠ってしまうことも結構あった。
愛香はいくつかの単語をもう理解しているようだった。それも自分の名前やミルクやオムツ等の聞き慣れた言葉だけじゃない。
僕は最近始めた離乳食で食べ物の名前を言いながら愛香の口に運んでいる。すると幾つかの名前を言ったときには、彼女が口をきゅっと閉めるようになった。
もちろん、辛い、苦い、酸っぱいというような味付けの物は与えていない。食べなかった野菜は調理を工夫してからもう一度食べさせるけど、先にその名前を言ったら口を開けてくれない。
何も言わなかったり嘘の名前を言って食べさせるのは愛香への裏切りだ。だから僕はまず嫌がらない物でお腹を膨れさせる。そして最後の一口としてもう一度その食べ物を出した。
お腹が膨れているのに嫌いな物を食べるはずがない。だけど僕が前より工夫をした話をして食べてくれるようにお願いすると、彼女はその小さな口を開けてくれた。
どう考えても愛香に僕の説明は理解できなかったはずだ。だけど彼女は一度は嫌がった物をそれから何度も、最後には説明なしで食べてくれるようになった。
多分だけど、僕が困っていることはわかったから譲歩してくれたんだと思う。それはそれで驚くべきことなんだけど。
ちなみに、2回続けて愛香の口に合わなかった場合はもう絶対に食べてくれなくなる。できる限りの工夫をしてもそうなったのなら仕方がない。絶対に食べないといけない物なんてないんだから。




