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52 夫婦#2

 昨夜のことをはっきりと思い出した僕はどうしようかと悩んでいた。このままだと僕が絶対にしないはずのことを彼女にさせたことになる。

 眠る前の僕は勘違いだったことを伝えれば済むと思っていた。でもそれは優香に、僕にはそのつもりがなかったのに彼女が思い込みであんな行為をしたと教えることになる。

 シャワー後にベッドに戻ったことを指摘しただけで恥ずかしがっていた彼女だ。この事実を知ったら相当なダメージを受けて、今のいい雰囲気だって壊れてしまうだろう。


「どうしたの?」


 シャワーに行かずに黙り込んだ僕に、優香は微笑んだままそう尋ねてきた。その顔に僕に対する嫌悪は感じない。だったら誤解されたままでいいんじゃないか。

 いや。今の優香は大抵のことなら僕を許してしまう。僕がそのことに甘えてしまえば、それが2人の間にしこりとして残るかもしれない。


 更に悩んだ結果、やはり僕は勘違いだったことを優香に伝えることにした。僕は優香に嘘はつかないと決めていた。黙っていることは場合によっては嘘と同じだ。


「ごめん。あんなつもりじゃ無かったんだ」


 できるだけ僕のミスとして説明しよう。気づくのが遅れたのは確かだ。


「僕の言い方が悪かったから君に…」

「謝らなくていい」


 ……謝罪拒否された? でもそれにしては優香の表情は柔らかいままだ。


「誠の思い込みでも妄想でもないから」


 え? えーと……ああ、昨夜じゃなくて最初の夜のことか。僕の思い込みじゃないってことは、優香は僕にセックスをして欲しかったのか?


「わたしは誠から求められたのが嬉しかった。わたしのそんな気持ちが誠に伝わったんだと思う。……初めて誠が自分のためにわたしを必要としてくれたから」

「初めて? いや、そんなことはないだろ。僕はいつだって優香を必要としていたよ」

「それは自分のためだった? わたしが幸せなら見てるだけでも十分だって言ったよね」


 確かにそんなことを言った。今の僕はそれだけじゃ足りないんだ、とも言ったけど。


「そんなのは自分のためじゃない。わたしが誠に喜んで何かをしたら、それは全部わたし自身のためだって誠は思うの?」

「……」

「ずっと不安だった。誠は自分がわたしにとって必要ないって思ったら、わたしの側から居なくなるんじゃないかって」

「僕はそんなこと…」

「しない?」

「もちろん」

「じゃあ、もし誠が株に失敗して大きな借金ができたとしたら、わたしに一緒に苦労して返してくれと言ってくれる?」


 え? それはちょっと、はいとは言い難い。


「もしわたしが何かで認められて海外に呼ばれて、それが誠から見てもわたしのためになると思ったとしても、離れるのは嫌だから行くなって止めてくれる?」

「そのときは僕も一緒に行くよ」

「誠の仕事とか子どものことで日本を離れられなかったら?」

「だったら、できるだけ会いに行くから」

「誠と離れるのは嫌。お互いに刺激し合ってないと好きって気持ちは薄れちゃうって言ったよね」


 そう言われて僕は言葉を詰まらせた。これも簡単には答えを出せない話だ。


「でも……こんな風に話し合えるのならまだいい。誠なら何もかも1人で準備していきなり居なくなるかもしれない。それがわたしのためだと思ったら」

「まさか」


 そんな無責任な真似を僕がするはずがない。


「でもそう思ってたの。誠のすることはわたしの予想を超えてるから。誠にとって大切なのはわたしが幸せになることで、わたしと一緒にいることはついでだって思ってた。だからプロポーズした日にもあんな約束をしたんだって」

「それは違う! あの時には僕の手に届きそうな所までしか言えなかったんだ」

「うん。今ならわかってる。この旅行中に沢山の気持ちを誠に教えてもらったから、誠にもわたしと同じ気持ちがあるってわかった。()()()()()()にわたしが必要なんだよね」

「そうだよ。僕にとって優香は、時には自分を抑えきれないくらい魅力的なんだ」

「そうよね。昨日なんて……」


 言葉を詰まらせた優香の顔がみるみる赤く染まっていった。


「誠にあんなことを頼まれて、わたしはすごく恥ずかしかったけど……それでも誠はわたしを止めなかった。止められなかったんだよね」


 あ……それは違うんだ、けど……まだ今は本当のことを言わない方が良さそうだ。


「はっきり言っておくね。これは誠にだから言えること」

「何?」

「わたしは誠からセックスをするための、家事と育児をさせるための道具として扱われてもいいの。それで誠が幸せでわたしと一緒にいてくれるなら」


 いきなりそう言われた僕は、すぐにはその意味を飲み込めなかった。そして理解した瞬間に慌てて言った。


「優香は、僕がそんなことをして欲しいと思うのか?」

「じゃあ誠はどうなの? わたしが言ったのよりもっと悪い条件だったのに、それでもわたしと一緒にいられるなら幸せだって言ったよね」


 確かにできるだけの譲歩はしたけど、優香が言ったのはそれ以前の問題だ。


「いや、それはあくまで僕の意思でだから。道具扱いって相手の気持ちを無視するってことだよね」

「道具って言ったのがダメだった? でもそれは粗末に扱うってことじゃないよ。それが1つしかない失えない物だったら、道具だって丁寧に扱って大事にする。誠にとってわたしもそうよね?」

「……」

「道具だったら先ず持ち主の役に立つように使うでしょ? 道具に心は無いけど、もしあったとしたら大切に飾られるより役に立ちたいって思うはず」

「気遣いが余計だってこと?」

「いらないって思うこともある」

「……」

「わたしは大切にされるより誠の役に立ちたい。誠に幸せにされるより誠を幸せにしたいの。誠だって同じだよね」


 否定はできない。多分それを優香は僕の口から聞いたんだろう。


「誠はわたしにもっと幸せになって欲しいと思ってる。そのために、わたしは誠に手伝ってもらいながら全力で自分がしたいことをして、大成功して沢山の人を幸せにしないといけないの。そうよね? 何か間違ったことを言ってる?」

「……いや」

「誠はそれができると思ってるのよね?」

「もちろん、優香なら」

「じゃあ、わたしを誠の思うままに導いて。失敗なんて恐れなくていいから。もしそれが上手くいなくても、どこかで苦労して手にしたモノを全部失なったとしても、わたしなら大丈夫。誠がいれば不幸になんてならないから」


 優香は曇りの無い目で僕を見てそう言った。


 もしかして、優香のこれは共依存というやつじゃないだろうか。僕にもその傾向があるから彼女の気持ちはよくわかる。

 ただ僕にはそれと反して昔から自由に振る舞っていた優香への憧れもある。彼女ほど直球な気持ちじゃない。

 本当なら諌めるべきなんだろうけど、僕自身がそれも幸せだなと思っているから彼女を説得できる自信がない。


「それが普通じゃないって自覚はある? 僕にはあるよ」

「わたしたちって、似たもの夫婦よね」


 ◇◆◇◆


 旅行から自宅に帰ると21時だった。行き帰りはお義父さんの運転する特注チャイルドシート付きの車で、ベッドの部分は愛香の体重に合わせて交換している。

 クッションも包むような形状ではなくなったので、2列目に座った僕と優香が愛香を見たり触れたりできるようになった。

 旅行中は普段とは違うことばかりだったからか、ずっとテンションが高めだった愛香は、疲れたせいか車の中ではほとんど眠っていた。


 最近の愛香は夜になると6時間以上まとめて眠るようになっている。今日は昼過ぎに長く寝ていて車中でも寝たから、まだ当分の間は起きているだろう。

 昨日ほどじゃないけど、僕と優香は今朝も起床時間が遅かった。まだ眠気を感じる状態じゃなくて、僕は旅行中に送られてきたメッセージを確認することにした。


 メッセージの中に、知人でAI開発のトップランナーとして知られているアレン・ヒルトンの名前があった。旅行から帰ったら優香と話がしたいらしい。

 アレンは27歳の白人男性で、優香から見ても天才らしい。天才にはよくあることだが常識に欠けている面もある。要するに研究バカというやつだ。


 ◇


 先月、例のAI企業のチャットにアレンがオブザーバーとして参加したことがあった。アレンと他の技術者の専門用語による会話は僕にはさっぱりだったけど、優香は何か疑問があったようで発言の許可を貰ってから短い質問をした。

 その質問に最初に答えたのはアレンじゃない技術者だったけど、優香がその答えに対して更に質問を重ねると、アレンが話に割り込んできて回答した。

 後でアレンから聞いた話によると、最初の回答が優香の質問に対して的外れだったらしい。技術者といってもその分野は色々で、専門外のことは使い方を知っている程度で十分だと考えている人も多いようだ。


 優香と話したアレンは彼女が自分の説明を理解していく早さに驚いた。もちろん、優香に最先端の知識が理解できるわけじゃない。まだ学び始めの人間にしては、という意味でだ。

 優香は話す方はそこそこだけど聞き取るのがあまり得意じゃない。僕は優香の通訳としてその会話に参加した。英語から日本語への翻訳じゃなくて専門用語をより簡単な言葉に言い換える役だ。とは言っても僕にも浅くて広い知識しかないから間違った説明をアレンに訂正されることもあった。


 アレンはこれまで人に物を教えることがあまりなかったそうだ。高レベルの研究者とばかり話をしていた彼にとって、僕たちの的外れな方向に進んだり当たり前のことに疑問を思ったりする会話は新鮮だった。そういうものだとスルーしてきた知識を改めて詳しく説明しようとしたことで、彼は新たな発想の糸口を見つけることになった。

 聞き上手だったこともあってアレンに気に入られた優香は、その後も個人的なチャットで質問に答えてくれるようになった。逆にアレンから通知が入ることも何度かあった。研究中の内容を優香にも理解できるレベルにまで噛み砕いて説明することで、頭の中が整理されて気づかなかった問題を見つけられることがあるそうだ。


 ◇


『何があったんだ? こんなに自分の意見を出してくるユーカは初めてだよ』


 アレンが僕と2人のチャットでそう尋ねてきた。


『迷惑でしたか?』

『いや。聞き上手なところは変わってないから、こちらとしてはいい方向の変化だよ。日本人らしい過剰な遠慮が消えて、何というか肝が座った感じだな』

『今までだって手を抜いてた訳じゃありませんが、心境が変わって本気になったのかなと』

『心境か。……君たちの親密さが上がったことと関係があるのか?』

『そう見えましたか?』

『ユーカのマコトへの遠慮が無くなったとは感じたな。マコトの受験が終わったからだと思ってたよ。そうだ。合格おめでとう、マコト』

『ありがとう』

『あの大学には珍しく良く理解している技術者がいる。ユーカが学ぶ場としては悪くないだろう』


 アレンが言うのなら確かだろう。さっそく僕は教授だったその人の名前を聞いて、優香のために計画の準備を始めることにした。

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