44 出産
優香が見ているタブレットの画面に、気になるタイトルの記事が表示されていた。
「立ち会い出産? ……優香はどうしたい?」
「どうって?」
「半数以上の夫が分娩室に一緒に入るって聞いたことがある。優香はどう思ってる?」
「わたしは……病室まででいいかな」
僕にとって意外な答えが返ってきた。
「僕が立ち会うのは嫌?」
「わたしたちの場合だと、あんまりメリットがないかなって思って」
「えっ? ……い、いや。優香がそう思うなら僕も是非にとは言わないけど」
「この記事に夫が立ち会い出産で良かった思ったことが書いてあるの。お産の大変さが分かって妻に感謝したとか、父親の実感がわいたとか、子育てへの意欲が生まれたとか、夫婦の愛が深まったとか。誠には別に必要ないよね」
「必要ないと思うだけで嫌じゃないんだね。それなら…」
「子どもを産むときは自分の姿や声に構ってられないくらい痛いって。それを見た夫から異性として見られなくなったって話も書いてあった」
「そうなのか?」
「もし少しでもそういうのがあるなら、わたしは嫌だなって」
出産シーンを見たから優香への気持ちが薄れるなんてことは100%あり得ない。そのことには自信がある。
だけど僕にはそれとは別の問題が存在している。出産後に僕が彼女に勃起できるかだ。いざとなって駄目だった時に立ち合い出産が原因かもと優香に後悔されたくない。
当日になって優香の気が変わったら別だけど、そうでなけれは分娩室まではついて行かないことにした。
◇◆◇◆
12月15日。予定日まで30日となった日に優香が検査入院をすることになった。『子宮頸管が通常より短めで下腹部に張りがあるため、早産の可能性がある』とのことだった。
正期産になる37週まで8日しかないことと、胎児の体重も週数に対して標準の値とのことから、もし早産になっても危険はないという説明を受けた。
落ち着かない気分のまま、学校で僕が苦手な数学記述式問題の対策講座を受けていると、スマホにお義母さんからの電話が入った。指導の先生に急用だと告げてから廊下で電話に出る。
「もしもし。誠くん? いま病院なんだけど、優香の子どもがもう生まれるかもしれないの。もし来れるなら…」
「すぐ行きます! ……先生。家族の具合が良くないので早退します」
入口から教室の中にそう声をかけると、返事を待たずに僕は玄関へと急いだ。廊下を駆け足で進みながらタクシーを呼び、10分後に到着したタクシーで病院に向かった。
よりにもよってこんな時にタクシーが事故渋滞に引っかかった。運転手に30分以上は遅れそうだと聞いた僕は、タクシーを降りて自分の足で病院へと走った。
途中に信号が多かったり、履いていたのが革靴だったり、そもそも走るのが苦手だったりしたから、5キロほどの距離を移動するのに40分近くかかってしまった。
渋滞を抜けた所でもう一度タクシーを呼べばよかった。そう気が付いたのは既に病院に着いてからだった。思っていた以上に気が動転していたようだ。
病院の待合室を通り抜けようとして、よれよれの僕は看護師に救急室へ連れていかれそうになった。その看護師とまともに話をできなかったからだ。
息が切れてるだけでなく、冷たい乾燥した空気の吸い過ぎで喉が酷く痛かった。子どもが生まれそうだから走って来たとスマホに文字を打って見せた。
ふらつく足取りで病室に着くとそこには誰もいなかった。SNSのメッセージに気づいた僕が別の階にある分娩室の前にたどり着くと、ドアの前にはお義父さんとお義母さんがいた。
「ゆ……ゆ、優香は?」
「大丈夫なの?」
呼吸はまだ回復しきっていなくて、声も枯れてしまっていた。
「電話をした後にすぐにここに入ったの。お医者さんは大丈夫って言ってたけど」
「な……中には……入れないんですね」
「予定よりだいぶ早かったから、医療の方を優先するってことらしいけど」
「そう、ですか」
いざという時になってから、僕は立ち会い出産のメリットを思い知ることになった。こんな不安な気持ちのまま外で待つだけなんて状況にならないことだ。
時間は驚くほどゆっくりとしか進まず、僕は何度もスマホで時刻を確認してしまった。体感ではこの場所に着いてから1時間以上過ぎているのに、実際にはまだ10分しか経っていない。
「初産の場合は…10時間以上かかることも…あるんですよね」
「それは陣痛からの時間よね。分娩室に入るのは子宮口が開いてからで、それからだと2時間ぐらいだと思うけど」
その言葉のすぐ後に、分娩室のドアを開けて看護師が現れた。
「おめでとうございます。元気な女の子ですよ」
「えっ? もう?」
「はい。安産でしたよ。どうぞ中へ」
「早産だったんですよね?」
「はい。でもお子さんに問題はありません。体重は2390グラムでしたから、この週数の赤ちゃんとしては平均くらいですね。特別な処置も必要なさそうです」
ベッドの上にいた優香は、特にやつれた様子もなく僕たちに笑顔を見せた。その胸の上には生まれたばかりの愛香が抱かれていた。子どもの肌と母親の肌を触れ合わせているこれは、早期母子接触やカンガルーケアと呼ばれている。
僕のイメージする赤ん坊よりかなり小さかったけど未熟児用の透明なケースには入れられてない。早産児だけど愛香は健康だということだ。
さっきまでの重い不安が一気に暖かい気持ちへと変わっていった。優香が愛香を抱いて微笑んでいる光景は僕にとって最高を超えたシーンだった。
「ありがとう、優香」
「うん」
「愛香…」
感動してた僕の口から名前の次に出たのは、お腹の中にいた時に何度も話しかけていた言葉だった。
「僕の声が聞こえる? 大好きだよ」
「あ」
「どうした?」
「誠が話しかけたら、愛香が動いた。もう一回話しかけてみて」
僕の目には愛香が動いたようには見えなかった。でも大仕事を終えた優香の言葉に従わない理由はなかった。
「愛香。本当に、僕の声が聞こえてる?」
「また動いた。お母さん、話しかけてみて」
「こんにちは、愛香ちゃん」
「……動かない。男の人の低い声だから反応したのかな。お父さん」
「え? 何て言えばいいんだ?」
「何でもいいから」
「あー、愛香。よく生まれてきてくれたな」
「……やっぱり動かない。誠」
そんなことがあるんだろうか。いつもはお腹をトントンと叩いて合図してから話すようにしていた。声だって走ったせいでこんなに枯れている。
「いや、だって……本当に僕の声を聴き分けてくれてるのかな?」
「動いた! やっぱりわかるんだ」
僕には優香の言ったその動きはわからなかった。小さな手足で触れた部分のわずかな力の変化を優香は感じたんだろう。
「誠はお腹の中の愛香にずっと話しかけていたから、それを覚えてるんだよ」
「不思議ね。そんなことあるの?」
「赤ちゃんには、ずっと見続けてきた助産師の私たちでも驚くようなことがあるんですよ。きっとお母さんの言う通りなんでしょうね」
「そうなんだって、誠。 ……あ」
「どうしたの、優香ちゃん?」
「誠。ちょっと外で息を吸ってきた方がいい。わたしたちはもう大丈夫だから」
「何を言ってるんだ、優香」
「お父さん。誠がもう限界みたい」
優香の言う通りだった。不安の後にあれほど待ち望んでいた愛香に会えて、愛香を抱いている優香を見て、こんな小さな愛香が僕の存在を認めてくれた。
そんなことが一体になって僕の感情を時間と共に膨れ上がらせていた。涙を滲ませながら挙動不審になってる僕を見て、優香はお義父さんに僕を外に連れ出してくれるように言った。
何とか自制している僕を、お義父さんは駐車場に停めた自分の車に連れて行ってくれた。僕はその中で思う存分に歓喜の叫びを吐き出し続けた。
胎児は羊水の中にいるため、外からの音は小さく高音の消えた状態でしか聞こえません。
ただし母親とそれ以外では声を聞き分けているという調査があるので、声色でなく言葉のリズムで違いを感じているのかもしれません。




