42 鼓動と心
「僕たちの娘の名前だけど、愛香というのはどうかな? 愛するの愛に優香の香」
「うん。いいと思う」
即答だった。
「……そんなに簡単に決めていいのか?」
「愛という字は使いたかった。自分の名前から1字を使うのは迷うところだけど、誠から言ってくれたのなら文句なし」
「お義父さんとお義母さんは?」
「わたし達で決めたらいいって言われてるよ。だから決定。ね、愛香」
そう言うと優香は自分のもうすぐ臨月になるお腹を右手で撫でた。そしてその手をすぐ横にあった僕の左手の下に潜り込ませると、持ち上げるようにして互いの指を絡めた。
僕たちは今、浴槽の湯に一緒に浸かっている。ただし最初の頃のように向かい合ってじゃない。僕の膝の上、正確には太腿の上に優香が座ってる状態だ。
◇
一週間前。僕と一緒に浴槽に浸かっている優香は朝から何かを悩んでる様子だった。
「優香。何かあった? さっきからお腹を気にしてるように見えるけど」
「もしも……ううん。何でもない」
そんな言い方をされて気にならないわけがない。僕からの無言の視線に彼女は再び口を開いた。
「えっと、その……あっ!」
「どうした?」
「子どもの動きがいつもと違う。触ってみて」
そう言われても2人は向かい合って座っていて手の届く距離じゃない。すると優香は中腰になって僕に背中を向け、僕の脚を横に押しのけるようにして手の届く場所まで移動した。そして僕の手を掴むと自分のお腹に当てた。
「どう? わかる?」
ベッドでしているように手のひらに神経を集中させると、確かにそれは僕が感じたことのない動きだった。
「本当だ」
「お風呂に入ってるから、暑いのかな?」
「それはないよ。親が暑くても寒くても羊水の温度は一定だから」
「だったら……冷たい!」
「あ、ごめん」
優香が声をあげたのは僕の冷えた肩に優香の肩が触れたからだ。驚いた彼女はその手で僕の肩を触った。でも、そんなに大きな声を出すほど冷たかったかな。
「こんなに冷えてる。お湯が足りてないんだ」
僕は優香より座高がずっと高いから、湯の深さを彼女の肩に合わせると当然僕の肩は浸からないままになる。
「いや、これでいいよ」
僕がそう言っても優香は給湯器の湯量設定を変更してしまった。そして設定を戻そうとした僕の手を引き戻した。
「それだと優香には深すぎるだろ。座高の低い方に合わせるないと」
「そんなこと言ったら、子どもとお風呂に入る時はどうするの? 親はおへそまでしか浸かれないよ」
「その時は子どもを腕とか脚とかに乗せるだろ」
「……そう。じゃあ、こうだね」
優香はそう言うと、止める間もなく僕の脚を跨いで太腿の上に座ってしまった。そして背中を僕の胸に押し当てると、戸惑っている僕の両手を掴んで自分のお腹に当てさせた。
つまり、全裸の僕が全裸の優香を後ろから抱きしめている状態だ。数秒遅れてそのことを理解すると、僕の心拍数は爆発的に上昇した。この心臓の動きは優香の背中にも伝わっているだろう。
自分からしたことなのに、優香の心拍も僕に負けないほど早くなっていた。それがわかったのは、彼女のお腹の動脈に触れている僕の指がその強くて早い脈を伝えてきたからだ。
「誠も……わたしみたいにドキドキしてる」
「と、当然だろ」
「この子がいたら興奮しないんじゃなかった?」
「え?」
優香にはお腹の子どもを感じていると興奮が抑えられると言ったことがある。そして僕の両手は優香のお腹を包むように抱えている。だけどその効果は、衝撃でパニックを起こしそうな僕の頭を冷静にするほどじゃない。
「と、とにかく。僕の上から降りて」
「どうして? これなら誠もわたしも肩まで浸かれてるよ」
優香は掴んだ僕の手首を離そうとしない。お腹に触れてる手を乱暴には動かせないから、振り解いて強引に彼女を立たせることもできなかった。
「それより浴室の空調温度をもっと上げれば…」
「それはダメ! 頭は冷やさないと。またのぼせちゃうから」
「僕ならそんなに寒いと感じてないから」
「わたしにくっつかれるのが嫌?」
嫌なんてとんでもない。
「どうしたんだ? 優香らしくない。何か僕に不満があるなら言ってくれ」
「……じゃあ言わせてもらう。どうしてそんなにわたしに気を遣うの?」
気を遣ってる? そうかな?
「誠は受験生だよね? 普通なら受験勉強に集中している時期だよね」
「集中してるよ」
「だったら、それ以外の時間はもっと気を休めてていいんじゃない」
「休んでるよ」
「本当に? 誠はいつもわたしに気を遣ってるよね。お義母さんに聞いたよ。誠は勉強が終わるとリビングでゴロゴロしてたって。そんな姿、わたし一度も見たことがない」
「それは暇だったからだよ。君が側にいるのに僕が暇だなんて思うわけがないだろ。優香だって僕の側でダラダラしてるところは見たことがないぞ」
「わたしは受験しないから。それだけじゃない。株の仕事のことだって、わたしは少しでも誠に楽をさせたいから手伝うためにしてたのよ。でも誠は逆にわたしのためにやることが増えてるよね」
「AIの勉強のこと? 面白くないと思ったらいつ止めたっていいからね」
「そういうことじゃないの。誠の負担を増やしたくないだけ。わたしは本当に面白いと思っていて自分の進路として本気で考え始めてる」
多くの人の助けになる物を作る仕事。それが僕の聞いていた優香の希望する進路だ。具体的にどんな仕事にするかは大学で見つける予定だった。
「そうか。じゃあ良かった」
「だけどそれが役に立つのはまだ先の話だから。わたしは今すぐに役に立ちたいの」
そういえば優香はいつも喜んで人助けをしていて、それが日常だった。心が回復してきたんだから、また以前のように誰かの役に立ちたくなったんだろう。
「それならボランティアとかかな? でもそれは子どもの生まれた後で…」
「違う! ま・こ・と・の、役に立ちたいの。誠がわたしにしてくれたみたいに、わたしも誠を助けたい」
「僕限定?」
「そう!」
「えっと、だったら……もっとAIのことを勉強して欲しい。そしてそれを僕に教えて欲しい」
「……」
「あの投資支援ツールのお陰で僕は自分の作業時間をかなり減らせてる。でもツール任せの部分が多いことには不安もあるんだ。優香は僕にAIが苦手なことを教えてくれただろ。あれは間違いなく僕の役に立ってるよ」
今まで優香にこんな風に頼まなかったのは、僕への義務感で彼女に勉強して欲しくないからだ。
「……本当に?」
「技術的な仕事なら新入社員をいきなり実践投入なんてしないだろ。僕は先のことを考えて優香に投資をしてるんだ。急いではないけど、僕が優香のために使った分の時間ならすぐに回収できると思う。優香のためを思って勧めたんだけど、僕は欲張りだから自分ためにもなることを選んでるんだ」
心臓の鼓動が教えてくれるのは早さだけじゃない。強いストレスがあればそのリズムが乱れることになる。普通ならわからないような乱れでも、経験を積んだ今の僕なら感じ取ることができる。
優香の鼓動は早いままだったけど、そのリズムは運動してる時のように整っていった。どうやら僕の説明を彼女は受け入れてくれたようだ。
気がつくとお腹の子もいつもの動きに戻っていた。あれは優香のネガティブな気持ちが心音として子どもに伝わっていたからかもしれない。
◇
あの時の僕は完全に狼狽えてしまっていた。だけどそれが優香にとっては良かったんだと思う。
僕に言葉を飾れるような余裕が無いことは彼女に伝わっていたから、あの時に話したことを本心だと信じられたんだろう。
あの夜は久しぶりに眠れない時間を過ごすことになった。今だって全裸の優香を脚に乗せて抱いているんだから平気な訳がない。
手のひらに愛香を感じればこの興奮も治まってくる。それまで僕は主張し始めているアレを太腿の間に挟んでおくことにした。




