40 過去と未来
「ただいま」
「おじゃまします」
「あら、いらっしゃい」
実家の玄関を開けて挨拶すると、迎えに出てきたのは僕の母親だった。
「息子が帰って来たんだから、そこはお帰りなさいだろ?」
「何言ってんの。あんたがただいまって言うべき家は一つだけでしょ?」
「……すみません、お義母さん。大切な息子さんを独り占めしてしまって」
「いいのいいの。男だったら先ず妻と子どもを幸せにしないと。この子の父親だって私を連れて実家を飛び出したんだから」
僕の母親がこの調子なので、それほど遠くないにも関わらず僕は月に数回しか実家に戻っていない。
「だいぶ大きくなったわねえ。予定日は1月だったわよね」
「はい」
「この子、ちゃんと役に立ってる?」
「とっても。もし誠がいなくなったら、どうやって生きていけばいいのかわからないぐらいです」
「あら!?」
優香の言葉に驚いた母さんは、改めて僕と優香を見て笑顔になった。
「そうなのね……良かった」
「誠は本当にわたしの恩人なんです。わたしのおばあちゃんも誠に救ってもらってたんです」
「え? どういうこと?」
「母さん。説明すると長くなるから」
「ああ! 妊婦さんを立たせっぱなしでごめんなさい。さあ、中に上がって」
母さんは中に入ると、ソファーではなく立ち上がりやすい椅子を持ってきて優香を座らせた。それから優香は悦子さんと僕の話を母さんに話し始めた。
◇
「そんなことがあったのね」
「はい。家の者は皆、誠にとても感謝しているんです」
「でもわかる気もするわ。誠もおばあちゃん子だったから」
「え?」
僕がおばあちゃん子? 僕の祖母は僕が5歳の時に亡くなった。僕の頭の中にあるその頃の記憶に、祖母との思い出は入ってなかった。
「覚えてないの? あんなに懐いてたのに?」
「でも、おじいちゃんの家とは結構離れてるから、それほど会ってなかったよね?」
「何言ってんの。何ヶ月も預けてたこともあったのよ」
「え? そうなの」
「そういえば……おばあちゃんが死んだ後、あんたおばあちゃんのことを全然言わなくなってたわね。思い出すと悲しくなるから話さないんだと思ってた」
母親からそう言われても僕には戸惑いしかなかった。
「そういえば、あんたがちょっと変わった子になったのはあの頃からよね。……そっか、忘れちゃってたのか」
「マジで思い出せないんだけど、……本当に?」
「ショックでそうなることって本当にあるのね。聞いたことはあったけど」
「もしかして…」
優香が呟くようにそう言った。
「ん? 何?」
「わたしが悲しむと思ったから病院までおばあちゃんに会いに行ったのよね。もしかして誠の時もすごく悲しかったから?」
「い、いや。本当に覚えてないんだ」
「どうして探偵事務所に頼んでまで調べようと思ったの?」
「それは…」
確かにあの時は調べたからって何かできると思っていた訳じゃない。自分でも上手く説明できない、でも無視もできない気持ちがあったように思う。
「その時に縁がなかったら、湊川を疑っても探偵にまで頼もうとは思わなかったかもしれないよね」
「……どうかな。僕が優香を放っておくことは絶対になかったよ。でも、あんなに上手くはいかなかったかもな」
僕が気づく前に優香はもっと酷いことになっていて、僕は湊川と相打ちになって彼女の前から消えていた。そんな結末だったかもしれない。
「お義母さん。わたしにその人のことを教えてくれませんか?」
優香にそう言われた母さんは、いいわよと言って彼女の正面に腰を下ろした。
「この子のおばあちゃん、花江さんっていうんだけど、すごく良い人だったの。他人をあまり疑わない人だったから騙されたことがあって、その時に助けたのがこの子のおじいさんだったの。お義母さんは騙されたおかげねって言ってたわ」
「……そうだったんですね」
そう言いながら優奈は僕を横目で見た。
「あいつはどんな相手でも関係なく卑劣な手で騙してた。騙された方も悪いなんて言葉は、少なくとも優香に関しては当てはまらないよ」
優香は善良だけどお人よしじゃない。安易に善意を示せば、それが人の悪い心を引き寄せることも知っている。
「あ、ごめんなさい、優香さん」
「いいえ。嫌な気持ちになったわけじゃありませんから」
「その影響か誠は正義感の強い子に育ってね。大人のちょっとしたズルをすぐ指摘するような子だったの。もちろん自分もしない子だった」
今の僕とは大分違っていた。自分が正しくないと思うことをするのは嫌だけど、わざわざ他人に押し付けようとは思わない。
「花江さんが亡くなったのは、スケートボードに乗って車道に飛び出しかけた子どもを止めた時なの。その時に転んで頭を打って。……それまで元気だったから本当にいきなりで。葬式も最悪だった」
「最悪?」
「その子の母親だけが出席してね。子どもはショックを受けてるから出ないのは仕方がないと思うけど、それを納得できない人もいたの。その人と母親がちょっと揉めた時に、母親の方が花江さんのことを勝手に助けて死んだって言ったのよ」
「えっ!?」
「それで雰囲気が最悪になって。……おじいさんが『花江が助けたのは子どもだ。その母親が何を言おうと、花江は子どもが助かって喜んでる』と言ったから、なんとか収まったんだけど」
「おじいちゃんの言葉はもっともだよ」
「えっ?」
「そんな考えをする人間の言葉に傷つくなんて僕も馬鹿馬鹿しいとしか思えない。優香なら優しくてどんな相手にも真面目に対応するだろうけど、そんなことで傷ついて欲しくない」
僕は性善説を信じてるけど、あくまで生まれたばかりの人間には悪意がないというだけの話だ。悪く染まった人間に対して『元は善良なんだから優しくしよう』なんてことは思わない。
そうしたいと思う人を否定はしない。だけど僕の全力は僕が幸せにしたいと思う人たちに使いたい。その優先順位は僕にとって絶対だ。
「誠。あんた、本当に忘れちゃったのね」
「え?」
「涙を流して怒ってたのよ。あの時のあんたは」
母さんにそう言われても、僕にはその記憶を全く思い出せなかった。
◇
仕事から帰ってきた父さんが、僕たちの話に参加した。
「小さい頃の誠は、確かに俺の母のことを上手く思い出せないみたいだったな」
「え? 気づいてたの、浩司さん」
「完全に忘れたてたわけじゃなくて、突然いなくなったことは怒ってたよ。だから母のことを話しかけると不愉快そうな顔をしてた」
「そうよね。だから辛くて話したくないんだと思ってたの」
「あの母さんなら、誠が思い出して悲しむよりも忘れて幸せになる方を喜ぶだろうな。今は幸せなんだろ?」
「それはもちろん」
そう言って僕が優香を見ると彼女は笑顔を返してくれた。
「学校で嫌なことがあると、自分たちの部屋じゃなく仏壇のある居間に座り込んでただろ? 覚えてないか?」
「……部屋だと兄ちゃんが構ってくるから」
「弟が落ち込んでたらほっとけないでしょ?」
「それが嫌だったんだ。仏壇の前だったら騒いじゃ駄目ってなってたから」
今だったら兄に感謝しているところだけど、あの頃の僕には他人の言葉を素直に聞けなかった。
「その時に独り言をしてることが結構あったんだ。というか、俺には母に話しかけているように聞こえた。書斎が隣だったから何度か聞こえたこともあったんだ」
「何て言ってた?」
「どうして人には悪い心があるのかって話だったな」
◇◆◇◆
子どもの頃の僕は、他人の嫌がることをして喜ぶ人間のいることが理解できなかった。今ならそうなった理由がある程度はわかってきたけど、だからといって共感はできないし、できるように努力する気は全くない。
小学校の授業で『人には誰でも良い心と悪い心がある』と聞いた時には衝撃を受けた。あんな理不尽なことを誰でも、僕だってするかもしれないということだからだ。
悪い心の1つが人を憎むことだと教えられた。怒ることと憎むことは何が違うのかと聞いたら、されたことに感じるのが怒りで、それをした人間に感じるのが憎しみだと言われた。それなら憎しみは自分も中にもあった。
誰でもが僕が嫌ってるような人間になるかもしれない。僕自身もいつかそうなってしまうかもしれない。そう考えるようになった僕は他人との関係を避けるようになった。
◇
優香は僕にとって、初めて会った本当に悪意がないと思える人間だった。もちろん出会ってすぐにそんなことがわかったわけじゃない。
だけど他の子との違いはすぐに感じた。同じ美化委員だから僕に対して積極的に関わってきたのに、その行動に嫌だと感じたことが一つもなかった。
他人のために楽しそうに働く優香の行動は、それを見ているだけで僕の気持ちを穏やかにした。今思うと、仏壇の前にいると心が落ち着いていく感じに近かった気がする。
鈴原を好きになってもっと知りたくなり、彼女を知るほど僕の好意は強くなっていった。長い間自分の中に居座っていた『人には悪い心がある』という思い込みを彼女は否定していってくれた。
嫌いだった同級生たちの行為があまり気にならなくなり、彼らへの憎しみも僕の心から消えていった。優香が僕に特別なことをしなくても、心が軽くなった僕は彼女のいる高い場所へと引き寄せられていった。
◇◆◇◆
実家から鈴原家に戻ってくつろぎながら、僕は昔の自分について考えた色々なことを優香に話した。
「僕がおばあちゃんのことを忘れたのは、死んだことの辛さを忘れようとしただけじゃない。似てるけどもっと強い優香への気持ちと混じってしまったからじゃないかな」
「おばあちゃんの代わりにわたしを助けたかった?」
「それはない。だってアイツと会うまでは優香は幸せそうだったから。むしろそんな優香のおかげで僕は自分の中にいたおばあちゃんを供養できたんだと思う」
僕の中に心残りがなくなったから、完全に忘れてしまったんだろう。そんな話を終えてしばらくすると、優香が真剣な顔になって僕に言った。
「誠。わたし、誠にずっと言いたくて……でも言えなかった言葉があるの」
何だろう。雰囲気からするとかなり重要なことみたいだ。僕は目で優香に続きを促した。
「わたし、間違った時にその言葉を使っちゃったの。その時の気持ちと今の誠への気持ちとは全然違うから、誠にはその言葉を使えなくなってたの」
「何かな。言ってみて」
僕は背筋を伸ばして、優香の言葉を聞くための姿勢をとった。
「好き」
「え?」
「わたし、誠が好き」
その言葉なら今までにも聞いたはずだ。そう思って僕は頭の中の優香の記憶を全て探ってみた。するとそれっぽい会話はあったけど、はっきり好きと言われたことは確かになかった。
言いたくても言えなかった。優香がそう言った通り、思い返してみると彼女は時々言葉を詰まらせることがあった。
優香はこれまで他の言葉で僕が好きだということを伝えてくれていた。だから僕は彼女が『好き』と言う言葉を使わなくても、その言葉が聞けそうだと思った時に彼女が言い淀んでも、それを意識しないようにしていたんだろう。
そして僕は今、自分が無意識にしていたことをはっきりと意識した。どうやら僕はそのことを相当に気にしていたようだ。胸の中が熱くなって優香の姿が涙で滲んだ。
「ありがとう。すごく嬉しいよ」
僕の涙を見た優香の目にも涙が溢れた。滲んだ僕の視界でもわかるほどの勢いだった。
「好き! 大好き! こんな気持ちになったのは生まれて初めてなの。変なこと言うから笑ってもいいよ。わたしにとってこれが初恋なんだと思う」
優香の両目から涙がポロポロとこぼれ落ちている。こんなに嬉しそうな涙を僕は見たことがなかった。気がついた時には僕は優香の体を抱きしめていた。
◇◆◇◆
僕の中では過去最高の幸せが進行形で上昇している。優香が驚くほど素直に受け入れてくれるから、僕はいくらでも彼女を幸せにする方法を試すことができる。
まずは本来行動的な優香がしたいと思うことのサポートからだ。好きなことをしてもらってその結果にも満足してもらう。彼女の才能が目覚めた時の活躍ぶりを想像するだけで僕は心が踊っていまう。
そして優香の幸せには、彼女が愛して愛された人たちが幸福なことも必須になる。お腹の子どもや両親や親戚たち。もちろん僕自身もその1人だ。
僕の幸せは優香の幸せとイコールだから特に意識する必要もないんだけど、やり過ぎて僕が自分を犠牲にしてると彼女に思われてはいけない。
目指すのは僕と一緒にいてこそ幸せだと優香が思えるような人生。そのために僕が全力を振るうのはこれからだ。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。主人公とヒロインの物語はまだ半分というところですが、タイトルの揺るがない愛についてはこれでほぼ書き終わったため、本編はここまでで最終回とします。
他の作品では完結後にエピソードを追加していくケースが多くあるため、本作品もここまでを本編として完結させた後で、続編として話を追加していく予定です。




