38 優香派
入浴の後、僕は性的な意味での興奮が治らず明け方近くまで寝られなかった。次の日に目が覚めたのは9時過ぎで、それでも睡眠時間はいつもの半分以下だから頭が重かった。
「おはよう。朝ご飯、温め直すね」
「……おはよう」
「疲れてる?」
「ちょっと眠れなくてね。だから眠くて」
「それは……昨日のことのせい?」
答えはイエスだけど説明の仕方が難しい。夜の間に僕が予想してなかったことが判明したんだけど、何も説明しなかったら優香はまた自分に問題があるのかと悩みかねない。
「誠がすぐに答えないのは、わたしに気を遣ってるからよね? でもそういうのって嬉しくない。わたしは誠が何でも話せる相手になりたい」
「何でも?」
「うん」
「それが聞いたら恥ずかしくなることでも?」
「それって、誠がわたしに……その……」
言いかけた優香の顔が赤くなる。
「ぼ、勃起できないことと関係あるの?」
「ある」
「だったら言って。わたしは誠の妻なんだから恥ずかしがってちゃ駄目だと思う。教えてもらわないと自分がなにをしたらいいのかもわからない」
「じゃあ言うよ。でも聞きたくないと思ったらすぐにそう言ってくれ。約束できるか?」
「わかった」
僕は優香に対して性的な話題を避けてきた。もちろん湊川の件があったからだ。でも最近の彼女は恥ずかしさに負けずに僕に寄り添おうとしてくれている。今が乗り越える時なのかも知れない。
こういう話題は少し遠回しに言うのが普通だろうけど、それだと僕が特殊なために誤解されずに説明するのが難しい。ここは彼女の言ってくれた通り事実をそのまま話すことにする。
「じゃあ率直に言うよ。昨日の晩は優香の裸を見たことで興奮していたんだ。高ぶった性欲を持て余していた」
「…………!」
僕の言葉が直球過ぎたせいか、僕の言葉を優香が理解するまで少しタイムラグがあった。だけど勘違いはされなかっただろう。
「大丈夫?」
「……続けて」
「自慰をして射精しないと興奮が治らない状態だったんだけと、昨日はそれが上手くできなかったんだ」
「……じい?」
「英語でマスターベーション。ドイツ語でオナニーのこと」
「あ、うん」
「僕の場合、自慰には物理的な刺激とエッチな妄想の両方が必要なんだ。僕が自慰を始めた頃にはいつも優香の裸を妄想してた」
「…………は、はい」
「最初は優香の裸を思い浮かべるだけでも射精できた。でもあくまで僕の想像に過ぎないから次第にもっと興奮できるイメージが必要になったんだ。見るだけじゃなくて体の色々なところに触れることも想像するようになった」
「……」
「続きを話しても大丈夫?」
「だ、大丈夫」
「あの頃、中学の頃の優香は僕が君に好意を持ってると知った時に困ってただろ」
「困るというか、今まで通りに付き合えなくなるのは嫌だなって……」
「その頃に僕がそんな妄想をしてると知ったらショックを受けたよね」
「それは……たぶん……うん」
「それを意識してからは妄想でも優香にそんなことはできなくなった」
「……」
「世の中にはエッチな画像や映像が色々あるから、そういう物を利用するのが男としては一般的なんだ。だけど僕は優香でないと駄目だった。女の子として僕が心を惹かれる相手じゃないと、どんな恥ずかしい姿を見てもあまり興奮できないんだ」
人間の性的嗜好というのは、性が目覚めた最初の頃に決まるらしい。僕の場合は性欲が好きな相手に限定されてしまった。
「それで僕は妄想の対象を架空の女性にしたんだ。僕の好みだから悪意のなさと行動的なところは優香に似ていて、もっと年上で優香ほど美人じゃないイメージだ」
「……」
「それから僕が自慰をする時はいつもその女性を頭に浮かべていた。昨夜も僕はそうしようと思ったんだけど……優香の裸がどうしても頭から消えなくて妄想に集中できなかったんだ」
話を聞いた優香の顔は、また真っ赤になっていた。でも恥ずかしがっているだけで嫌悪感とかはないようだ。
「昔はわたしの裸で興奮したのよね」
「そう」
「できなくなったのは、わたしが嫌がると思ったからなのよね。だったら今のわたしなら…」
「できなかったんだ」
「えっ?」
「今の優香を。僕を拒否しない優香を思い浮かべて自慰をしようとしたんだ。でも…」
「ダメだった?」
僕がその質問に黙って頷くと、優香の表情が暗くなった。
「……わたしじゃ駄目なの?」
「優香に我慢させるんじゃ興奮できないんだ」
「我慢なんかじゃないよ。わたしは誠がしたいんだったら……」
「優香が嫌がるとは思ってない。でも僕のためならって気持ちからだよね。僕が興奮するためには優香が僕にそういったことをされて気持ち良くなれるかが大切なんだ」
「……えっと?」
「相手もセックスを求めてないと駄目なんだ。満足できるほど興奮しないんだ」
「……」
「今までの妄想でも強引なのが駄目だったかというと、そうでもなかった。僕の妄想する女性はセックスに対して積極的で、そんな相手に受け入れられる範囲のことならOKなんだ」
「わたしだと……強引になれない?」
「うーん。……えっとだね。僕にとって妄想の女性は食べ慣れた料理みたいなものなんだ。だからたまには味を変えてみたくなる。だけどそれが滅多には食べられない大好物だったら一番美味しい食べ方でしか舌が受け付けない」
僕は特上の鰻丼だとしてもケチャップをかけられたら食欲が失せてしまう。実際に食べたのは安い蒲焼だったけど、ケチャップとの相性は僕にとって最悪だった。
性欲を食欲と一緒にするなと言われるかもしれないけど、僕以外の男だって性欲では偏食な人間が多いんじゃないだろうか。
メジャーなところで巨乳派と貧乳派。よりマイナーなフェチと呼ばれるものなら無数にある。その中で僕を分類するなら優香派ってことだ。
「優香には申し訳ないけど、僕は面倒臭い童貞でそういう性的嗜好の人間なんだ。それを努力で変えるのは難しいんだ」
「……ごめんなさい」
「え? 何か優香が謝るようなことを言った?」
「前にも言われたの。お前は何をしても反応がなくてつまらないって」
ん? その言葉はいつだったか聞いたような。…………あ、たしか湊川が死んだことを伝えた日だ。そういう意味だったのか。
「わたし、そういう関係になれないのを誠のせいにしてた。誠がわたしとしたくても、わたしの方が準備できてなかったんだよね」
「いや。普通の男なら相手に拒否さえされなければ大丈夫なんだよ」
「……」
「そうでないと、初めての女性とはセックスができないだろ」
「……痛がるから?」
「それもあるし、最初は不安だったり怖かったりするんだろ? その状況だと僕には絶対に無理だと思う。世の中には処女信仰とかもあるんだから僕の方が特殊なんだよ」
僕が優香のことをよく知らなかった頃なら、きっと優香も喜んでいるはずだとか思い込みで興奮できていたかもしれない。
でも今の僕は彼女の気持ちがわかるようになった。風呂に一緒に入った時も、優香は恥ずかしがっているだけで僕みたいに興奮してはいなかった。
「でも、わたしがもっと普通の子だったら誠に応えられてるはずなんだよね。子どもだって作ってるんだから」
「どうしてそう思うんだ?」
「え? だから…」
「湊川がそう言ったから?」
優香の反応で当たりだとわかった。
「湊川は確かに女慣れはしていたと思う。だけどあいつは子どもの頃に大人の女にレイプされて、その後も性に積極的だったりベタ惚れしてくる女とばかり付き合ってた。だからそうじゃない女を不感症扱いしてたんだろう」
「……」
「世の中には、レイプでも技術さえあれば女は気持ち良くなると思ってる男がいるんだ。湊川もきっとその類だよ」
きつい言い方だけど別に怒ってるわけじゃない。僕の推測をそのまま話しただけだ。
「あいつに言わせれば僕は童貞でインポのヘタレ野郎だろうね」
「そんなこと! ……ないから。だからわたしがちゃんと…」
「女は男よりも精神的な刺激の方が重要だって聞くよ。その意味で湊川は下手くそだったみたいだから優香にはこれから正しい経験をして欲しいと思ってる」
「……わかった。勉強する」
優香が真剣な顔でそう言ったから、僕は面倒をかけることを申し訳なく思いながら言葉を足した。
「あ、今はまだ急がなくていいからね」
「どうして?」
「個人差はあるけど、妊娠中は性欲の弱まる人が多いらしいんだ。優香の場合は全然なのかもしれない。だから優香が性感を開発する気なら出産した後の方がいい」
「そ、そう」
「優香はセックスには良くない記憶もあるからね。時間がそれを癒してくれるのを待とうよ。それに生まれた子どもをその手に抱いたら優香は原因になった嫌な記憶を乗り越えられる。そう僕は思ってるんだ」
僕の話を聞き終えると優香の表情はさっきよりずっと落ち着いたように見えた。
「どうかな?」
「うん。そうする。…………あ、でも。それだと約束は?」
「僕の希望としては続けたい。優香が頑張って進めてくれた2人の関係は後退させたくない」
「いいの?」
「ただあまり度々だと勉強に支障が出そうだから、最初に話した通り週1のペースにしておこう。僕が優香の裸に慣れたら自慰の問題も解決すると思う。スケジュールにをどうするかはその時に決めよう」
「うん」
優香が止めるまでと思って僕からは話にブレーキをかけなかったけど、気がついたら完走してしまっていた。
これなら次の目標を決めておいた方がいいだろう。そこまでに十分な期間を設けたら優香も急いで僕に応じようと焦らなくて済むはずだ。
「これからの話だけど」
「何?」
「僕が志望校に合格したら一緒に旅行にいこう。優香はどんな場所なら雰囲気が盛り上がると思う? イメージでいいから考えておいて」
「……うん!」




