35 スケジュール
翌日の昼。次女叔母の瀬田一家以外は既に自宅への帰路についている。瀬田家は従姉の夫が挨拶も兼ねて明日迎えにくるらしい。
見送ったときの皆が僕を見る目には暖かい親しみが込められていた。初対面の時とはすっかり変わって優香の夫だからではなく僕自身か身内として見てもらえていると感じられた。
僕の実家も家族の仲は良い方だと思う。だけど鈴原家では親戚一同がお互いに気持ちを素直に言い合える関係で、優香とそれぞれとの距離も半端なく近いと感じられる。優香にとって必要な人たちだ。
僕は本当の意味でこの人たちの身内になるには何年もかかると思っていた。何かとストレートに自分のことを伝えてきたのは、少しでも早く彼らの一員として認められたかったからだ。
その目標はこの数日間でほとんど達成されてしまった。ある意味では、鈴原家はもう僕の実家より住み心地のいい場所になっている。
◇
昼食は瀬田家の母娘が作ることになったので、その間は赤ん坊の颯太の面倒を優香が見ている。
前にも言ったけど、赤ん坊を抱く優香の姿は僕にとってお気に入りだ。颯太をあやしている優香を見ている内に、気がつけば昼食の準備が終わっていた。
「神崎くんって、本当に赤ちゃんが好きなのね」
「もちろん赤ん坊は可愛いんですが、優香が大切に抱きかかえて優しい目で見てるってことが、その可愛さを何倍にもするんです」
僕は割と細かなことで悩んだり疑ったり後悔したりしてきた。赤ん坊を抱いた優香の姿には僕のそんなごちゃごちゃを頭から消してくれる力がある。
「ああ、はいはい。やっぱり基本は優香なのね」
「何かこの子に買ってあげられませんか? 服とかオモチャとか。帰るまで時間がないので僕の代わりに欲しがる物を買ってやってください。10万ほどあれば足りますよね?」
「じゅっ……。駄目よ! 教育に悪い」
「颯太が使うんじゃないから大丈夫ですよ。それでも気になるなら遅い出産祝いということで」
「優香。ちゃんとこの人の手綱を握ってないと駄目よ。お腹の子どもを甘やかせ過ぎて駄目な子にしたくなかったらね」
あと5ヶ月と待たずに、優香はお腹の赤ん坊をその腕に抱くことになる。やっぱり自分の子どもを抱いたなら、その優香の姿はまた格別なんだろうな。
「あっ、今、優香のお腹を見たわよ。そしてこの緩みきった顔」
「まあ、優香にとっては良いことなんじゃない? 普通の男だったら絶対にこうはならないから。……やっぱり似てるわね」
「え?」
「真琴も小さい子が大好きで、生まれたばかりの赤ちゃんを見ていた時はこんな感じだったわ」
「神崎くん。このままだと生まれ変わり説が定着しちゃうわよ」
一昨日の件では僕の考えにも変化があった。優香の湊川への好意が元を正せば僕の行動に対する感謝だとわかったことで、容姿へのコンプレックスが大幅に解消されたからだ。
僕はもっと早く悦子さんのことを優香に話していれば良かったんだろうか。皆から感謝されながら少しそう思ってしまったけど、冷静になった今はそれが無理な話だったとわかる。
特に好きでもない自分に好意がある同級生の男子が、認知症の自分の祖母にこっそりと接近して自分のことを聞き出していた。普通に考えたらゾッとするような話だろう。
あの時にはもう皆が僕に好意的だったから、悦子さんのことでも詳しい話まで聞いてくれた。そして当時の僕が全くの他人だったことを気にかけず悦子さんを救ったと感謝してくれた。
それを思うと、この縁を繋いでくれたお腹の子どもに対して僕の感謝の気持ちは増すばかりだ。その存在が無ければ僕がここまで幸せな状況になることは絶対になかった。
夕食の後に自分の部屋に戻ると、僕は優香との約束をどうするかについて考えた。約束の1つ目と2つ目には遅くても7日毎という期限がある。それぞれ最初の日をいつにするかと繰り返す間隔を決める必要がある。
最も積極的なのは、今日から毎日優香と一緒に風呂に入ってベッドを共にするという日程だ。これは優香としても想定外だろう。僕がそんなに優香を過剰摂取してしまったら受験勉強に大きな影響が出るのは避けられない。
逆に1番消極的なのは、約束した日の7日後から始めてそれ以降も7日毎に続けるスケジュールだ。それだと優香は僕が嫌々約束に従っていると思うかもしれない。
その間を取るとしたら、まず入浴と就寝は別の日にするべきだろう。それぞれを曜日で固定して、様子を見ながらそれ以外の日にも予定を追加していく。
追加しなかったら消極案とほぼ同じだけど、慣れるまではペース控えて徐々に増やしていくつもりだと言えば優香は僕の積極性を認めてくれるだろう。
僕は自分の部屋を出ると隣にある優香の部屋の前に立った。おそらく中にいるはずだ。長めに間隔をとって3回ドアをノックする。
「…………どうぞ」
いないのかな、と思ったほど時間を空けてから返事があった。
「約束のことなんだけど」
ドアを開けながらそう言うと、優香は椅子じゃなくベッドの上に座っていた。僕が部屋に入っても俯いたままでこちらを見ない。
「今日はもう休むのか?」
「う、ううん」
優香の顔がまた赤くなっていた。僕が約束の話と言ったから、これからする具体的な話を考えて恥ずかしがっているんだろう。
「謝らない方がいいのよね?」
「え?」
「お守りのこと」
「あ、うん。どちらが悪かったとか、そんな話はしたくないな」
「誠はもう吹っ切れたのよね」
「そうだな。もう優香の気持ちを疑ったりしない。本気で僕に応えてくれてると信じてる」
「……うん。わたしも焦らないことにした。一生かけないと無理だと思うから」
優香は顔を上げると真っ直ぐに僕を見た。
「それで……今から?」
「あ、うん。そのつもりで来た」
「あの、いやとかじゃなくて。……お風呂を先にした方がいいと思うんだけど」
「そうなのか? 一緒に寝るのを先にした方がいいと思ってたんだけど。そっちの方が慣れてるだろ」
「な、慣れてはないかな」
「そうか。じゃあ明日の土曜日は一緒に風呂に入ることにして、一緒に寝るのは火曜か水曜にしようか」
「え? 明日? 別の日に?」
「同じ日に続けてはキツくないか? 慣れるまではそれぞれ週に1回のペースにして、それから頻度を上げていくのがいいと思うんだけど」
あれ? フリーズしてる? 僕が続けるのを嫌がってるんだと思われた?
「ほ、ほら。確かに結婚はしたけど、僕と優香は付き合い始めてまだ……62日目だよね。普通の交際ならまだキスもしてない関係だったとしても不思議じゃない」
「……」
「そう考えたら、僕たち2人はかなりハイペースで関係を進めていると思うんだ。普通の夫婦としての関係になるまで半年ぐらいかけても良いんじゃないかな」
「……」
ヤバい。全然返事が返ってこない。これはアプローチを間違えたのか。
「………………そうね! わたしも、そのくらいがいいと思うわ!」
声が大きいだけでなく、どこか棒読みのような口調だった。でも怒ってるようには感じない。
「そうか。じゃあ、そういうことで」
「はい!」
「明日は2人で一緒に風呂に入ろう」
「は、はい」
優香の顔は酒に酔ってるのかと思うくらい赤くなっていた。恥ずかしいのか、怒っているのか、その両方なのか。
そういえば、約束では優香の裸をじっくりと見るってことになっていた。優香は浴室の中でモデルみたいにポーズをとったりするんだろうか。
「……あの」
「何?」
「誠は……痩せ過ぎの女の子ってどう思う? 綺麗なだけで、女としては魅力がない?」
「そうだな。痩せてても綺麗な子はいるけど、僕なら健康的なぐらいが丁度いいかな」
少なくとも今の時点で優香は痩せ過ぎじゃない。それに妊婦に対して痩せ過ぎがいいと言うやつはいないだろう。
「そう。……わかった。ありがとう」
反応を窺おうとしたけど、優香は表情を変えなかった。
◇◆◇◆
盆休み終了後の独り風呂の問題については、スマホを使うことで解決した。僕が風呂に入っている間は浴室内にスマホを置いて優香との通話中にしておけばいい。
喋ってなくても水音が聞こえれば、優香には僕が起きているとわかる。
「起きてる?」
「起きてるよ。あと5分ぐらいで上がるから」
浴槽にゆっくり浸かっているときは、鼻歌でも歌うことにするかな。




