33 感謝
僕は悦子さんとの会話の一つひとつを思い出しながら皆に話していった。同じ話を何度か繰り返して聞いていたからか、自分でも驚くほど細かなことまで覚えていた。
特に彼女が自分の子供たちについて話したことは、話していると横から叔父や叔母に何度も質問をされた。悦子さんが子どもたちからどれほど愛されていたのかがわかって、僕は覚えてることを全てを話すことにした。
全て話し終わるまでに2時間以上かかった。話の途中からお義父さんはずっと涙を流していた。他の悦子さんの子どもには大泣きしている人もいて、その配偶者まで啜り泣いたりしんみりとした表情になっていた。
そんな中でも優香は泣いていなかった。話の途中で部屋を出た彼女はすぐにあのお守りを手にして戻ってきた。僕が話し終えた後の優香は、そのお守りをただ茫然と見つめているだけだった。
「優香ちゃん」
お義母さんの呼びかけにも優香は反応を見せなかった。
「これ……わたしが自分で誠に渡したんだよ。それなのに覚えてないって……」
「これは最後まで優香の手のひらに乗っていたやつなんだ。お守りとだけ書かれた何処にでもある地味な物だから優香はきっと余り物を取ったと思ったんじゃないかな。だから印象に残ってなくて…」
「もういいよ、誠」
感情の抜けた声で優香が言った。
「わたしの好きって気持ちが誠に信じてもらえないのは当然だよ。おばあちゃんのことだけじゃない。誠がどれだけの事をしてくれたって、わたしはそれに気づきもしてなかったんだから」
これは拙い。今の優香には闇堕ちしそうな雰囲気がある。僕は彼女に漂っているそれを打ち消すためにできるだけ明るい声で優香に言った。
「あー、そのことなんだけど、もう僕の中では解決したんだ。これからは優香の気持ちを疑ったりしない」
「……え?」
「悦子さんと会ってたのが湊川だと思ったんだろ? あんなに良いおばあちゃんだから優香もそれに相応しいくらい大好きだったんだと思う。そんな大切な人の最後に優しくしてくれた人なら君が心を惹かれた理由としては十分だよ」
そういうことだった。これまで納得できずにいたことが、これですっかり解消された気分だった。
優香には僕に謝るより騙した湊川への怒りを感じて欲しかった。僕にも当然あいつへの怒りはあるんだけど、それを口にすると優香が僕への自責の思いを高めるだけだ。
「でも…」
「そうか。そうだったのか。つまり……」
優香がまた自分を責めようとするから、僕はその声にあまり意味のない言葉を被せて止めた。ここで優香に味方をしてくれるのは……やっぱりお義父さんだな。
「これはこっそりと悦子さんと会ってた僕の責任でもありますよね。ね、お義父さん」
「えっ! ……いやいや! それは違うぞ!」
優香のためにパスした僕の言葉を、お義父さんは真っ向から否定した。僕から聞いた悦子さんの話で頭が一杯になって、娘の状態には気づいてないようだ。
「神崎くん!」
そう言って僕の両手を強く握ったのは長女叔母の美奈さんだった。その顔も涙で濡れていた。
「何て言ったらいいか、言葉にできないくらい感謝してるの。ありがとう。本当にありがとう。お母さんの最後がそんなに幸せな……」
その後の言葉は、彼女の嗚咽で途切れてしまった。
「あの、僕はただ優香の…」
「神崎君。君は知らないと思うけど、悦子さんが亡くなった時のことは妻たちにはとても辛い思い出だったんだ」
美奈さんの夫がフォローして、戸惑っている僕にそう言った。
「僕の知っている悦子さんは、とても聡明で厳しいけど公正な人だった。叱るときはそれからどうするかまで考えさせて、褒める時にはしっかりと褒める。いつも前向きで努力することを苦労と思わないような人だった。妻たちにとって自慢の母親だったんだ」
「悦子さんと話していて感じました。本当にその通りだと思います」
「でもな。……それが、認知症になって変わってしまったんだよ」
そう言ったのは次男叔父だった。
「最初は物忘れが増えたぐらいだった。歳だからしょうがないとかいって笑ってたんだけど、しばらくすると突然感情を爆発させるようになったんだ。特に酷かったのが死んだ真琴のことで、生きていると思いこんでいつまでも心配して探したり、一緒に探さない俺たちに怒り狂ったり。死なせたことを後悔して見ている方が辛くなるほど泣き喚いたり。俺たちはそれで、母さんが真琴のことでどれだけ苦しんでいたのかを知ったんだ」
「真琴が死んだ時に、お母さんは十分に悲しんであげることができなかったから」
その後を継いで三女叔母が話し出した。
「真琴が死んだ時は皆が悲しんでいたから、お母さんはそれを慰める方になってしまったの。すぐ後に優香が生まれたから、真琴のことを思い返して1人て泣くこともできなかった。皆のように泣けない自分は冷たい人間なのかって心の中で思ってたみたいなの」
悦子さんがそれを説明したわけじゃないはずだ。彼女の悲しみぶりや断片的な言葉から、兄弟姉妹で話し合ってそう推測したんだろう。
「3年ほど前に癌が見つかって、ほとんどが見つかった時には手遅れと言われてる難しいガンだった。お母さんはその痛みを誰にも言わなかったから見つかった時には余命が半年もない状態だった。母さんは痛みを自分への罰だと思っていて……緩和ケアも頑なに受けようとしなかったの。だから自宅での治療が無理になると入院することになって……」
「そんな時に僕が悦子さんに会ったんですね」
僕がそう言った時、後ろから肩に手が乗せられた。体ごと振り返るとそれはお義父さんの手だった。
「病院に入って2ヶ月ほど経った頃に母さんは緩和ケアを受けるといった。それからは落ち着いた様子だった。真琴のことを口にしなくなったのは認知症が進んで何もわからなくなったからだと思っていた。母さんが呼んだ時には全員が最優先で病院に駆けつけた。たとえ母さんには理解できなかったとしても、死ぬ前に儂たちの気持ちを母さんに伝えたかった」
お義父さんの目からは涙が溢れ続けていた。
「ろくに話もできない内に病状が急に悪くなって、母さんは儂たち一人ひとりと手を握って『ありがとう』と言ってから死んだ。皆とは最後の最後で正気に戻ったんだと話していた」
お義父さんのいつもは太く落ち着いた声が震えていた。
「あんな死に方でいい訳がない。儂は母さんが死んでからずっとそう思っていた。もっと幸せに最後まで笑っていて、そして最後には眠るように死ぬ。母さんをそうしてやれなかったことの後悔が儂の中にはずっとあったんだ」
お義父さんはもう片方の手も僕の肩に置いた。そして涙に濡れた顔で僕の顔をじっと見ると、絞り出すような声でこう言った。
「でもそうではなかった。母さんは真琴への後悔がすっかり消えて、皆との楽しい思い出に包まれて最後の時間を過ごしていた。一人ひとりにお礼と別れの挨拶を言ってから満足して死んでいったんだ。……ありがとう、神崎君。ここにいる母さんの子どもたちはみんな君に救われた気持ちだ」
お義父さんたちが僕に深く感謝してくれているのがわかって、そのことは素直に嬉しかった。
だけど僕が悦子さんに会ったのは優香を悲しませないためで、会い続けたのは優香に関する話を聞くのが楽しかったからだ。その肝心の優香はいまどうしてるんだ?
優香を姿を目で探していると僕の体が後ろから抱きしめられた。胸の前に回された腕でそれが優香だとわかってホッとした。
「わたしだって……おばあちゃんのことが大好きだった。でもさっきは自分のことしか考えられなくなってた。……ありがとう、誠。まずこの言葉を伝えるべきだったよね」
「うん。優香には謝られるよりお礼を言われる方が何倍も嬉しい。いや、こんなことで優香に謝られても嬉しくないから無限倍だな。この気持ちを信じてくれるなら僕に優香の笑顔を見せて欲しい」
その言葉で僕に抱きついていた優香の手が緩んだ。体ごと振り返った僕に、彼女は涙がこぼれ落ちる顔で笑顔を見せてくれた。
「……誠は……おばあちゃんのためにわたしを助けてくれたの?」
「逆だよ。僕が悦子さんに出会えたのが優香のおかげなんだ。……でも、全く迷わずに君を助けようとした勇気は、悦子さんとの思い出が僕に与えてくれたと思ってる」




