32 鈴原悦子
優香の祖母が入院したという話を聞いたのは、高校に入学して2ヶ月ほど経った頃だった。
優香は小学校の時に祖父を亡くしていて、まだ小さかった優香が酷く落ち込んでいたことを覚えている。
もしかしたらあの時のように優香が悲しむことになるかも知れない。そう思った僕は、この時に初めて探偵事務所に調査を頼んだ。優香の祖母の入院している病院を探してもらうためだ。
自分に何かができると思っていたわけじゃない。だけど僕には、優香がいずれは悲しむことになるとわかっていて何もしないという選択肢は無かった。
探偵事務所にはその病院に入院している他の患者も調べてもらった。その中に知人の家族を見つけた僕はついでだからという名目でその知人から届け物を預かった。そして見舞客として病院の窓口を通った。
◇◆◇◆
鈴原から見ればこれはストーカー事案だろう。荷物を渡し終えた僕はそう思いつつも病室の名札を確認しながら歩いていた。すると廊下の先に具合が悪そうに壁に寄りかかっているおばあさんがいた。その人が調査結果と一緒に受け取った写真と同じ顔の鈴原悦子さんだった。
「大丈夫ですか?」
「え? ……誰?」
「えっと」
ここで名前を言うと後で優香に知られるかも知れない。だけど彼女の家族に嘘の名前は言いたくない。
そこで名字を除いて言うことにした。優香にとって僕は神崎だ。マコトという名前の同級生なら過去も含めると3人いる。
「誠です」
「マコト? 違うわ! マコトは女の子なんだから!」
「あ、いえ。お知り合いのマコトさんではなく、お孫さんの同級生の誠です」
「孫?」
「優香さんです」
「優香……マコトが楽しみにしてた?」
「多分そうです」
「マコト……どこに行ったのかしら?」
「一緒にお探ししましょうか?」
「貴方は?」
「僕も誠です」
「同じ名前なのね。優香とは仲良くやってるの?」
「そうしたいんですが、あまり上手くいってません」
「そうよね。だって、あの子が生まれる前に……あ? あ、あ……ああっ! マコト! マコトが死んじゃった!」
急に悦子さんが取り乱した様子を見せた。
「え? 亡くなられたんですか?」
「あんなに楽しみにしてたのに。ワタシが悪いの。ワタシがもっと普通の体に産んでたら。ごめんなさい! ごめんなさい!」
うずくまろうとする悦子さんの肩を支えると、彼女は僕の胸にしがみついてきた。
「優しい子だったの。死んだ時だってワタシの手を握って、生まれ変わってもまた悦子さんの子どもに生まれたいって……」
悦子さんは僕の胸に額を当てて涙を流し続けた。通りがかった看護師の人がこちらに会釈をしららららて通り過ぎていった。僕を悦子さんの家族だと思ったようだ。
「最後にそう言えたのなら幸せだったんですよ、マコトさんは。僕も同じ誠ですけど、そのことは羨ましいと思います」
「マコト?」
「優香さんと同じ歳の方のマコトです。あ……7月が誕生日だったので今は1つ年上ですね」
「そうなの? 優香が生まれた年の7月?」
「そうなりますね」
「マコトが死んだ時?」
「えっ、そうなんですか? すみません」
「あの子が死んで……貴方が生まれたのね」
時系列ではそうだけど、その間にはもちろん何の関係もない。
「優香のことは好きなの?」
「大好きです」
「そう。あの子もとても楽しみにしてたのよ。服とか色々と選びに行ったりして」
「いい話ですね」
「え?」
「みんなに望まれて優香さんは生まれたんですよね。だからあんなにいい子に育ったんですね」
「貴方……もしかしてマコトなの?」
「え? そうですよ。お忘れですか?」
調査では認知症だという話だった。たった今話したことを忘れることもあるんだろう。
「忘れたりしない! そうなのね。マコトだったのね。また、ワタシに会いにきてくれたのね」
「え? あの…」
「ごめんなさい。貴方をまた産んであげられなくて。でもワタシ、もうそんな年じゃなかったから」
どうも悦子さんは混乱しているみたいだ。認知症のことは病院に来る前に勉強した。否定したら叱ったりするのは厳禁だ。
「僕がマコトさんの生まれ変わりだと思うんですね」
「そうよ。……違うの?」
「生まれる前のことは覚えてないんです」
「でも、優香のことは好きなのよね?」
「それは大好きです」
「だったらそうよ。あの子も貴方みたいに優しい目をしてたの」
僕は生まれ変わりを100%信じてないわけじゃないから、悦子さんの言葉が絶対に違うとは言えない。でも死んだ日と生まれた日が近いだけでは根拠として弱過ぎる。両親は僕の名前をマコトさんが亡くなる前に決めていたはずだ。
だけどそれを言うのは、認知症の悦子さんにとって良くないのかも知れない。
「悦子さん。マコトさんってどんな人だったんですか?」
「……悦子さん」
「あ、失礼でしたか?」
「ううん。あの子はワタシがおばあちゃんって呼ばれるのを嫌がってたの。まだ若いのにって。だから大人になってからは、ワタシを悦子さんって呼んでたの」
それから悦子さんは2時間近く真琴さん(漢字は悦子さんに聞いた)のことを僕に話し続けた。
悦子さんは真琴さんが病弱で生まれたことに酷く負い目を感じているようだった。
「待ってください! 本当に真琴さんがそんなことで恨んでいたと思うんですか? 死ぬ間際にだって悦子さんには『また子どもとして生まれたい』って言ったんですよね?」
「それは……あの子は優しい子だったから」
「最後の言葉ですよ。どうして素直に受け取れないんです」
「……」
「僕だったら、大好きなお母さんに自分との思い出を全部辛いものにされちゃったら…‥悲しいですよ」
「……ごめんなさい」
「あ、怒ったんじゃないですからね。でもちゃんと思い出しませんか? 真琴さんがどうだったのか」
僕は悦子さんの真琴さんについての思い出を、真琴さんが悦子さんを大好きだと言う前提で解釈して話をした。
話が進むにつれて、悦子さんの表情はどんどん明るくなっていった。
「ありがとう。ワタシが貴方との思い出をあんなに酷いことにしてたから、我慢できなくなって直しにきてくれたのね」
「前にも言ったけど生まれる前のことは覚えてないんです。でも僕が言ったことは僕の本心ですよ」
「うんうん。……本当にありがとう。何かお礼をできないかしら」
「それなら優香さんのことを教えてくれませんか? あ、優香さんが聞かれたら恥ずかしいだろうなと思うことはなしで」
「大好きなのよね。いいわ、ワタシも大好きだから。でもどうかしら。最近は物忘れが多いから」
「だったら、これを」
「これは?」
「優香さんに貰った受験のお守りです。持ってたら頭が良くなるんですよ。僕も合格できましたから」
優香は高校受験の前に有名な神社に合格祈願に行った。その時に幾つもお守りを買って、親しい友だちと同じ高校を受験する僕にくれたのだ。
◇◆◇◆
それから僕は、放課後や休日に何度も悦子さんに会いに行った。優香の話は聞くのも話すのも楽しかった。
悦子さんは僕の子供の頃の話も聞きたがった。僕が過ごしてきた普通の人生を悦子さんはとても喜んだ。真琴さんが前世でできなかったことを今世で叶えられたと思ったようだ。
「悦子さん。痛み止めは貰った方が良いですよ。痛みで楽しく話せないのはもったいないです」
「そうね。皆も勧めてくれてたのに、何を意地張ってたのかしら」
悦子さんが僕と話すことで精神的に安定してきたことや、僕の勧めで緩和ケアを受けたことから、彼女の主治医は僕が悦子さんに会うことを認めてくれた。病院にも悦子さんの見舞い客として入れるようになった。
悦子さんの話は次第に広がっていって、優香の両親や叔父叔母についても僕に教えてくれた。悦子さんからは楽しかった思い出がいくらでも出てきた。
日にちが経つと同じ話が何度も繰り返されることがあったけど、面白い話だから繰り返して聞いても楽しかった。質問することでそこから別の話に繋がることもあった。
◇◆◇◆
いつ会っても楽しそうに話してくれる悦子さんだったけど、少しずつ体力が減っているのが感じられるようになった。そして1ヶ月後には最初の頃の半分も話せなくなった。
「悦子さん。疲れてるみたいだから今日はこの辺にしておきましょうか」
「そうね。残念だけどまた明日ね」
「素敵な人生だったんですね。悦子さんは」
「本当にそうね。大変だったこともあったけど、子どもには恵まれたと思うわ」
「きっと悦子さんの教育が良かったんですよ」
「そんな大したことしてないわよ」
「いやいや。優香さんがあんなに良い子に育ったのは悦子さんや他の家族のお陰でしょう。そして優香さんのお父さんや叔父さん叔母さんたちを育てたのも悦子さんですからね」
「皆いい子に育ってくれたわ。ちょっとへそ曲がりもいるけど、優しい子に違いはないの。……最後には一言でいいからお礼が言いたいな」
「それなら、最後と言わずに明日にでも伝えましょうよ。ちょうど休日だし」
「そうね。そうするわ」
「また良い話を聞かせてくださいね」
「まかせて」
◇◆◇◆
悦子さんが亡くなったのは次の日の夜だった。容態が急変したものの、その前に家族を呼び集めていたから全員に最後の言葉を伝えることができたそうだ。
片付けられたベッドを見て呆然としていた僕に、担当医の先生がそう教えてくれた。




