28 約束#1
すっと立ち上がったお義母さんは居間の襖を勢いよく開けた。すると開けた向こうには何人かの叔母が立っていた。
「2人で話をするから、終わるまで待っててと言いましたよね?」
お義母さんは叔母たちを睨みつけた。
「だって、私たちも清香みたいに神崎くんの言葉を直接聞きたかったのよ。これまで又聞きばかりだったから」
「神崎くん。本当に優香ちゃんのことが好きなのね。おばさんたち応援してるから」
「み・な・さ・ん!」
怖い顔でそう言ったお義母さんは、僕の方を向いて笑みを見せた。
「誠くん。優香を連れてくるからちょっと待っててね」
そういうと、気まずそうな顔の叔母たちを引き連れて廊下を歩いていった。
お義母さんはすぐに優香を連れて戻ってきた。テーブルの僕が座ってる場所の向かいに優香を座らせると、お義母さんは僕たちを横から見る位置に座った。
「優香ちゃん」
「はい」
「誠くんは貴女に結婚しても何年も手を出さないと約束したそうね」
「あ、はい」
「貴女はそれでいいの?」
「え? わたしはその約束は断った……よね?」
2人が揃って僕を見た。
「誠くん?」
「いえ。断られてはなかったと思います」
「え? ……あ、でも。書いてないよね。契約書」
「優香。何なの契約書って」
「もし約束を破ったら、すぐに離婚して慰謝料も払うって。そのための契約書」
「……それも誠くんの提案なの?」
「はい。でもそれは優香に断られました」
「だよね! あんなにまでしてくれた誠に、そんなことできるわけないから」
「じゃあ、約束はなかったのよね?」
「約束はしました。取り消したつもりはありません。離婚や慰謝料などの罰則をわざわざ契約書にしなくていい。そういうことだと思ってました。違うのか、優香?」
突然、優香がテーブルに突っ伏した。
「……これって、わたしが悪いの?」
「えーと。どうなのかしら」
「つまり優香は契約書のことだけでなく、セックスをしないと言った約束自体をなかったことにしたつもりだった、ということだよね」
「そう」
「だけどそれは優香が僕に遠慮をして言ったことだろ。契約書は必要ないと言ったあの時に僕がすぐにセックスをしたいと言ってたら、優香が平気だったとは思えない」
「……」
「だから僕は、やっぱりあの約束はまだ有効なんだと思ってる」
「真面目なのねえ」
「優香と関係のないことには、もっといい加減ですよ」
「はいはい。で、今の優香がその約束をなかったことにするにはどうすればいいの?」
「何をどうしたいのか。はっきりわかるように言ってもらうのが一番いいですね」
「だって。優香ちゃん」
「わかった。じゃあ、はっきり言う」
その言葉を聞いて、僕は一字一句聞き逃さないように耳に集中した。
「……誠は何て言って約束したんだっけ?」
「あら。覚えてないの?」
「細かいところは……自信がない」
「あの時の優香の心理状態を考えたら正確に覚えてないのは仕方ないですよ。僕がはっきりと覚えてますからもう一度言いましょう」
僕は記憶の中から彼女との約束で話した言葉を引っ張り出した。
「お腹に子どもがいる間は性行為は禁止にする。このことは契約書に書いてもいい。破ったら慰謝料を払ってすぐに離婚する。子どもが生まれた後でも鈴原は僕の要求に応えなくていい。妊娠すると大学の学業に困るし就職したらしばらく子どもは避けたいだろう。その間も僕は待つことを約束する」
「……誠くん。いくら何でも譲歩し過ぎじゃないの」
「もしOKを貰えなかったら、友人としての優香まで永遠に失うかもしれないと思っていました。僕としては今でも妥当な約束だったと思っています」
ため息をついたお義母さんが、まだテーブルから顔を上げていない優香を見た。
「優香はどうしたいの? 全部無かったことにする?」
「お義母さん。それは少し難しいと思います」
「え? どうして?」
「優香が約束を無かったことにすると言うのは、つまり……これから僕に何かされてもかまわないと言ってることになりますよね。それは口には出しづらいでしょう」
「そうなの、優香ちゃん?」
「だから先に僕から優香に言っておきます」
そして僕は優香と目を合わせてこう言った。
「優香が約束を無かったことにしても僕は君の気持ちに沿わないことは絶対しない。これまでに一緒に過ごしたことで、それを信じてもらえるようになったと思ってる」
「……ゃっ……」
ぼそっとよく聞こえない声を出した後、突っ伏したまま優香はしばらく答えなかった。そしてようやく顔を上げると僕に言った。
「まだ言えない。考えさせて」
「えっ!? 優香ちゃん? どうして…」
「わかった。僕は急がないからね」
そう言ってぼくは立ち上がった。
「え? ちょ、ちょっと待って。優香ちゃんは絶対…」
「お義母さん」
「は、はい!」
「僕は今のままでも本当に幸せなんです。お義母さんにはそう見えませんか?」
「……見えるけど」
「ですから、優香が約束をこのままにしたいと言っても僕は大丈夫です。気を遣っていただいてすみません」
「……わかったわ。誠くんがそういうなら」
僕が廊下に出ると、その先で手招きしている人がいた。さっき応援してると言ってくれた三女叔母の小百合さんだった。
「ごめんなさい。貴方たちの話は聞こえていたの。私からも少し聞いていい?」
「優香に関係のあることですよね? はい」
聞いていたの間違いじゃないだろうか。そうは思ったけど別に聞かれて困る話でもない。
「神崎くんは女の子と、その、したことはあるの?」
「いえ。童貞です」
「うっわ。はっきり言うのね。……したいって気持ちはあるのよね?」
「はい。女の子ではなく優香とですが」
「優香ちゃんのことを考えて、その、お、オナニーとかしたことある?」
「中学の頃には」
「今はしてない?」
「僕が自慰を始めたのは優香の夢を見て夢精してからなんです」
「……本当に隠さないのね。それで?」
「だけど優香では興奮できるイメージが浮かばなくなって、空想の女性で自慰をするようになったんです」
「優香ちゃんに欲望を感じなくなったってこと?」
「好きでもない男子にそんな想像をされたら気持ちが悪いでしょう。そのことに気がついたんです」
「……そう。何かそうなるきっかけが何かあったの?」
「きっかけですか? ……ああ。優香には僕を恋人として見れないんだなと実感したことがあったんです。それからですね」
小百合さんは切なそうな表情で僕を見た。
「それでも優香ちゃんを好きだったの?」
「僕が優香を好きになった理由に、優香が僕を好きだというのは入ってないんです」
「ああもう。……でも今の優香ちゃんは違うよね」
「はい。僕の気持ちを優香が受け入れてくれてから、好きだという気持ちはあの頃の何倍にもなってます。……あの、大丈夫ですか?」
小百合さんは胸を押さえて苦しそうだった。
「……大丈夫。さっきも言ったけど、これからも2人のことを応援するから。頑張ってね」
そう言って小百合さんが僕の両手を強く握った時、居間の襖が開く音が聞こえた。彼女が慌てて廊下を出て行ったので、僕もその後を追ってこの場を立ち去ることにした。




