17 裸身
「あり得ない! 男っていうのはな、そんな生き物じゃないんだ!」
トイレに行こうと廊下を歩いていると、突然そんな声が聞こえた。確か高校生の従兄弟の声だ。
「子どもまで作った優香姉ちゃんと一緒のベッドに寝てたのに一晩中手を出さない? 断言してもいい。そんなことは高校生男子には不可能だ」
「お兄ちゃんみたいなエロ高校生には理解できないだけよ。そういう相手のことを大切にする愛もあるんだって」
「はあ……。これだから男女の業の深さを知らないペタンコな妹は。2年前は小学生だったやつに男の性はわからんよな」
「……誰がペタンコだって?」
「違うか? 優香姉ちゃんの前で違うと言えるのか?」
「あ、アタシだって5年経ったら……。お兄ちゃんが血迷った優香姉ちゃんぐらい大きくなるから」
「オレが何かしたみたいに言うな!」
「えー、だって前にお姉ちゃんのブラ…」
「落ちてたんだよ! すぐに返しただろ!」
「アタシが見てなかったらどうだったかな」
「マジでそんなこと言いふらすなよ。ただでさショックから立ち直れてないのに」
「自分からは何もしなかったからでしょ。当然じゃない」
「お前な。従姉に告白して振られたらどうなると思ってんだ。他人にはなれないんだぞ」
僕は足音を潜ませてその場を立ち去った。彼の受けたダメージには共感しかなかった。2ヶ月ほど前までの僕も彼女にとってその他大勢の1人だったから。
◇
「でも、そのつもりって訳でもなかったのよね? …………うーん。そうは見えなかったけど。今まではどうだったの? 例えば……」
優香の部屋から壁越しに声が聞こえてきた。式に出ていた次女叔母さんの声だ。名前は確か清香だったはず。
「えっ? 見てもらったことがないの? せっかくこんなに綺麗に手入れしてるのに。そろそろ目立つようになってくるわよ。今の状態を見てもらわないのは勿体ないわ。見せたくないわけじゃないんでしょう?」
優香が何かを大切に育てていて、それがちょうど見頃になってるらしい。この家は広い庭に色々と植えてあるからそのどれかだろう。
「そんなこと気にしてるの? 数字なんて関係ないわよ。…………そんなこと思ってるのは貴方だけだって。余計なこと考えてないで見てもらうのが一番早いから。…………ないない、我慢してるだけよ。…………そこは何とでもするから。私に任せてみない?」
優香も何か言ってるみたいだけど、聞こえるのは叔母さんの大きな声だけだ。壁に耳を当てれば聞こえそうだけど、それは優香への盗聴になるからしたくない。
隣が静かになってしばらく経ってから、僕は部屋のドアを開けて廊下に出た。階段のところに叔母さんがいて僕を見ていた。そして意味深な笑顔を見せると階段を降りていった。
それから一時間ほど経って、あの叔母さんがリビングにいた僕に話しかけてきた。
「神崎くん。ちょっと話をしてもいいかしら」
「はい。えっと、瀬田さんでしたね」
「覚えててくれたのね。瀬田清香よ。夫や子どもと紛らわしいから清香でいいわ」
「はい。それでお話というのは?」
「女の子を大切にするのはいいことだけど、大切にし過ぎると相手を不安にさせることもあるのよ」
「優香のことですね」
「鈍いわけじゃないのね。女の子には、相手にとって自分が必要だって思えることが大切なの」
「男ですが僕もその気持ちは同じですね」
僕の言葉を聞いて清香さんがにっこりと笑った。階段でも見た笑みだ。
「聞いていたんでしょう。優香の部屋で話してる私の声を?」
「あ、はい」
階段の素振りで思ったけど、やっぱりあの大きな声はわざとだったのか。
「だったらわかってるよね?」
そう言いいながら彼女は手に持ったコップをゆっくり傾けた。中の水が僕の膝にこぼれた。
「大変。早く着替えないと。大きい方の浴室は甥っ子たちが使用中よ」
手に持っていた畳んだジーンズを僕に渡しながら清香さんはそう言った。これに履き替えることに何か意味があるようだ。庭で優香の土仕事を手伝うことになるんだろうか。
「えっと。あの?」
「迷ってないで行きなさい」
その声に命じられたまま、僕は空いている小さい方の浴室に行くと鍵のかかっていないドアを開けた。
その中に裸の優香がいた。体にはバスタオルを巻いていた。まさかの事態に僕が声を出さないでいると、数秒の間を置いてバスタオルが床に落ちた。
優香の体はびっくりするほど綺麗だった。その白い肌の色には少しの濃淡の乱れもなく、その形は神話の絵画や彫像を見るようだった。
僕の中にある常識はすぐに目を背けてここから立ち去るべきだと言っている。でもこんなに綺麗なんだ。それを見てはいけないものとして振る舞うことが本当に正しいんだろう。
「綺麗だ」
その言葉が僕の口から自然に出た。すると青白く感じるほどだった優香の顔に赤味が差して、それがみるみる全身に広がっていく。奇跡のような美しさだった。
その様子を言葉もなく見つめ続けていた僕の前で、やがてその肌は予想を超えた赤さにまで達っした。その手は小さく震えている。つまりこれは優香が恥ずかしがっているということだ。
それに気づいた僕の頭はようやくまともに回り出した。どうしよう。これだけじっくりと見ておきながら今さら謝る? 白々しいだけだろう。
「これは……その、間違えて」
混乱した頭で口から出たのは、こんな言い訳にもならない意味のない言葉だった。しかもまだ僕は自分の目を優香から離せないでいた。
僕は今、どんな表情で彼女を見ているんだろうか。せめてだらしない顔は見せまいと僕は顔の筋肉を引き締めた。
「その、ドアを開ける前に声をかけるべきだったよね。……着替えに来たんだ。どうしようかな、これ?」
僕の手が掴んでいる畳んだジーンズを優香が見た。真っ赤な顔のその2つの目には涙が滲んでいて、恥ずかしさだけじゃなく悲しみがそこにはあった。それに気づいたとき、僕は頭を殴られたようなショックを受けた。
「ごめん!」
僕は自分の視線を彼女から引き剥がすと、ぎごちない動きで浴室から出てドアを閉めた。
優香を悲しませた? 僕が? 今まで僕はそんなことはあり得ないと思っていた。彼女を思っての行動が結果として悲しませることならあるだろう。でもさっきの僕の行動はただ自分の欲求に従っただけだ。
リビングに戻るとまだ叔母がいた。思考力の戻らない頭で機械的に会話をする。
「すみません。浴室は使用中だったので部屋で着替えてきます」
「え、ええ。……使用中だったのよね?」
「はい」
「閉まってたの?」
「いいえ」
「開けたら人がいたのよね?」
「優香がいました。だから使用中です」
僕は自分の部屋に戻ってジーンズに履き替えた。何をするべきなのかが全く思いつかず、僕はソファーに腰を下ろした。
それから10分以上経って、ようやく僕の頭がまともに働くようになった。冷静になって考えると、清香さんの意味ありげな言葉や行動は僕を優香のいる浴室に行かせるためだったとしか思えない。
優香にとってあの出来事が予想外だったことは間違いないだろう。恥ずかしさで彼女の肌が赤く染まったのは僕に見られてからだ。ドアを開ける前にノックさえしていれば彼女を泣かせることはなかった。
優香には謝るしかない。だけどあんなことのあったすぐ後だ。自分の裸を凝視していた僕と2人きりになるのは嫌だろう。
会うなら清香さんと一緒の方がいい。少なくとも僕の邪な気持ちであの場に行ったんじゃないことは説明してもらえるだろう。それに僕も清香さんからあんな指示をした理由を聞き正したい。